神田雑学大学 2006-03-24 講座No304 


1. はじめに
マッチラベルコレクターの加藤です。本日は「燐寸と燐票」の題でスライドを中心にお話しを進めていきます。スライド上にマッチとマッチラベルと書いてありますのでお分かりになると思いますが、今の若い人ですとこの燐寸と書いてマッチと読ませることが難しくなってきています。まして燐票なんていうのは聞いたことがないという人が多くて、これは実は私のようなマッチラベルコレクター達が趣味的な意味あいで燐寸の「燐」とラベルの「票」を組み合わせた造語で,昔はマッチ箱にラベルを貼っていましたので、燐票(りんぴょう)と呼んでいたのです。このことから私の肩書きも「燐票家」となっています。これも初めて聞いた方が多いと思いますが、又は「愛燐家」ともいいます。
マッチは知名度としては皆さんよくご存知かと思いますが、ところがあまりにも日常的ですのでマッチは火がつく道具ということ以外にうんちく的なことはご存じないと思うのです。そこでマッチの歴史、明治大正期に流行ったコレクターの話、更に産業としてマッチはどうあったのかということ、それで今どうなっているのか、また、マッチに貼られたラベルはどのくらいあるのか、そういう事柄を「トリビアの泉」風にして楽しんでいただこうと思っています。今回の講演のために91枚のスライドを作ってみました。

2. 何で燐票家になったのか。
私はグラフィックデザイナーです。つまり印刷物を扱う商業デザインの仕事をやっています。美大に入りまして商業デザインを学ぶなかで、商標登録されたマッチつまり販売用のマッチ(昔は煙草屋さんでマッチが買えました)を1968年から集め始めまして、もう38年にもなります。ただ38年それ一途というわけではなくて、実際は大学を卒業し、大日本印刷の製版課に入りデザイナーになるための修行を始めたのですが、それが大変な労働時間という環境であったために趣味どころではなかったという十数年のブランクがあるので、それを引いての収集歴ということになります。収集の結果2000年からはコレクションだけでなく、展覧会をやったり、本を出版したり、あとはメーカーと組んでグッズを作ったりと商業デザインの延長として仕事なのか趣味なのか分からない状態で活動を進めてきております。

1960年代、アメリカから多くの刺激的な物事がやってきました。たとえば三種の神器、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が普及しはじめた夢のような60年代はグラフィックデザインに関してもアメリカの横文字文化、グッドデザインがどんどん日本に入ってきた時期でした。それは私自身学生としての教育の場でも浸透してき出して、それまでの日本の図案という印象だった時代からオリンピックがあり、アメリカ文化が入ってきたことですごいカルチャーショックを受けました。それは大変洗練されたデザインでもあり、あこがれも持ちました。
ですがこの流れを私なりに考えてみますと、ここは日本で、私は日本人で、デザイナーとしても日本人に発信することが基本であり、そうした状況下であまりにも横文字羅列の文化が本当にいいのかということを学生なりに疑問を持っていました。でも学生という立場だったのでそのデザイン教育には抵抗できずに、疑問を持ちながらも学んでいたのです。しかし、18歳の時、たまたま横尾忠則さんの作品に出合い、すごい衝撃を受けました。現在は画家として有名ですがもともとはデザイナーでありイラストレーターだった方ですが、この横尾さんが日本特有の土着的なキッチュな文化を堂々と作品にして受け入れられているのを見てからは、私の好きな浮世絵とか江戸時代の文化などを照らし合わせてデザインをやってもいいんだなと、そういうところで力づけられたわけです。その当時の横尾さんの作品のひとつで例えばこれがあります。
 (P02)は唐十郎の状況劇場のポスターのひとつなのですが、これを見ると桃がありますね。この桃は現在も売られている桃印のマッチをデザインの一部に取り入れているわけなのですよね、これは一例なのですがこういうのがずいぶんありまして、デザイン志望だった私にとってはそのことにすぐ気がつき、これはすごい!マッチは面白い、それに集めるにも安上がりだし、ということが収集のひとつのきっかけとなりました。

さらにもう一人赤瀬川原平さん(P.03)、このかたは「老人力」で作家としても有名になりましたが、この方も元はイラストレーターだったのです。当時、学生運動が盛んだったころ、赤瀬川さんは左翼系に人気の方だったのです。虎がかぶっているヘルメットには「核漫同」と書いてあるんですね。
革命的漫画同盟の略なのですが、全学連、全共闘をちょっとパロったイラストを描いています。これも元を正せば、鎖の上を渡っている虎のマッチラベルにヒントを得て描かれているのです。これは、赤瀬川さんと何度かお会いして確かめることができました。
これらを見るだけでもアメリカからやってきたグッドデザインとはちょっとかけ離れたイメージがお分かりになると思いますが、この辺のテイストですね。これに私は惚れ込んでしまったことでマッチ収集を始めたというのが大きなきっかけです。

冒頭の写真は私のコレクションルームです。壁全体がマッチで覆われています。これは去年、週刊朝日がグラビアの一ページをマッチで飾りたいということで取材を受け、撮ってもらったもので、こういう雰囲気の中で日常私はデザイン活動をやっています。

3. マッチの呼び名の語源はラテン語から
マッチは日本の発明でなく1827年イギリスの薬剤師のジョン・ウォーカーという人が摩擦マッチを発明したことに始まります。これは今の安全マッチとは違ってこすれば火がつくというもので、マッチ棒さえあれば火がつけられる利点があるのですが、大きな欠点もありました。このことは後で詳しく説明します。
さて、新しく発明されたマッチの語源MYXA、発音はミクサと発音するのかな、「ロウソクの芯」を意味するラテン語からきているようです。それが英語ではMATCHという言葉になりました。日本語では最初は「摺附木」といいました。附け木というのは日本に昔からあって、火種から火を取り出すときに使う先端に硫黄を塗ってある木片です。それをこすって火をつけるという摩擦の意味を加えて摺附木という名前になっています。それが外来語のマッチとなり漢字では「燐寸」と書くようになります。中国では火柴(ホーサイ)、洋火(ヤンホー)と書きます。
スウェーデンはマッチに関しては重要な国で、スウェーデン語でTANDSTICKOR(タンドスティッカー)といいます。フランス語ではALLUMETTS(アリュメッツ)。ドイツ語ではZUNDHOLTER(ズンダホルツァー)です。

4.マッチ以前
マッチが作られる前には何を使っていたかといいますと火打石、難しい漢字で書くと燧石と書きます。いま実際に火打石で火を起こしてみると昔の人はたいしたもんだなと思うほどなかなか火がつかないですけれど。道具としては火打石,火打金、それに火口(ほくち)といってもぐさ系のちりちりしたものを一束にしたもの、そこから火を取る附け木、この附け木は先に硫黄が塗ってあります。実際火打石をどうやって使うかというと火打石と火打金をぶつけると火花が出ます。それが指で挟んであった火口に移り火がチリチリッとつくわけです。そこに間髪をいれず附け木を近づけて火をつける。ここで初めてマッチに火が付いたというような状態になるわけです。これを毎回やっていたわけですから、マッチの発明は画期的なことだと思います。

5. 江戸時代のマッチ
明治以前にも日本でマッチが作られたことがあります。日本の化学の歴史では有名な宇田川榕菴、久米栄左衛門通賢、川本幸民ですね。当時は鎖国でしたからオランダ船から黄りんマッチがやってくると、マッチの現物をたよりに研究して、それぞれがマッチを別々に作り上げます。美濃大垣藩、讃岐高松藩、摂津三田藩と昔は藩体制でしたのでその藩の中で試作としてマッチはそれなりに作られたのですが、残念ながらそのノウハウが藩外に広がるということはなく、藩のなかでしぼんで終わりになってしまいました。そしてマッチが商品化されるというところまではいかなく、やっと試作品が出来たというところで終わったというのが残念な事実です。久米通賢はその後鉄砲を開発するということにマッチの試作を生かした経緯があります。川本幸民はこのほかビール、写真機を日本で始めて作ったということでも有名です。そのころは鎖国ですからオランダからしか海外の情報は来なく、明治になるまでマッチの発達はいったん途切れてしまうわけです。

6.マッチは明治の大発明、黄りんマッチから安全マッチへ
黄りんマッチと安全マッチの違いは、簡単に言うと黄りんマッチは摩擦マッチ、安全マッチは分離型の赤りんマッチと言えますが、安全マッチは今我々が日常目にするものです。
安全マッチはマッチ棒の軸の端に頭薬が付いています。マッチ外箱の側面に塗られているのが側薬です。引き出しの中箱と外箱は昭和30年代まではマツ材の経木製で出来ていました。その上にラベルが糊で貼られていたわけです。台所などで使う大函の徳用箱に詰めたマッチもあり、小箱で800本から1000本くらい、それの1.5倍から2倍くらい入っていたのが大箱です。さて、火を起こすためには発火剤が必要です。さらに火がつくためには大量の酸素が必要ですので酸化剤、それを燃え続けさせるためには燃焼剤が必要です。他にはにかわなどの接着剤やクロム酸カリウムのような耐湿剤、調節剤としてガラス粉、顔料、染料などの着色剤などが使われていました。主剤としては発火剤、酸化剤、燃焼剤の三つですがその発火剤に赤りんが使われたわけです。さらに軸木、これも単なる木ではなく創意工夫がされてまして、延焼剤としてパラフィンをしみこませてあります。それからインプル剤、これはリン酸アンモニウムを使っていますが、燃えかすが炭化して硬くなってしまう効果があり、昔の日本家屋で燃えかすが畳にポトリと落ちて火事になるのを防ぐための工夫です。頭薬のなかに酸化剤の塩素酸カリウム、側薬のなかに発火剤の赤りんが入っており、これがこすりあわされることで火がつく構造だったので安全マッチと言うのです。
それに対して黄りんマッチの構造はいたって簡単で、発火剤と酸化剤とも頭薬の部分に練って塗りこんであり、マッチ棒さえあれば箱がなくても、どこにでもこすれば火がつくというのが黄りんマッチです。すごく便利でいいのですが、怖いことが二つあり、35度くらいの温度でも自然発火してしまうこともあり、又、少しの摩擦でも発火してしまうこともあります。もうひとつが黄りんの毒性です。この2つのことで大正11年に全世界中で黄りん製造禁止となりました。ヨーロッパではもっと前に製造禁止になったのですが、日本では黄りんマッチが売れていたものですから、ギリギリまで作っていて、世界的な製造禁止命令が出てやっと作らなくなりました。
西部劇の映画でカウボーイがブーツにこすってマッチの火をつけるというシーンが出てきますが、これは硫化りんマッチという別物です。黄りんマッチは問題があるがやはり便利だということで研究開発がなされ、ヨーロッパでは1898年、黄りんを発火温度の高い硫化りんに代えたマッチが発明されました。それに酸化剤の塩素酸カリウムを混ぜたもので、これを頭薬に塗りマッチ箱の側薬なしでも火がつくというものです。摂氏100度まで発火しないし、毒性はないということなのでアメリカでは今でも使われています。

7. 国産マッチの製造は東京から マッチの創始者、清水誠 
2005年が国産マッチ生誕130周年に当たります。記念の年ということで展覧会を催し、記念行事もおこない盛り上がりました。
国産マッチ製造のスタートは東京からで、初めてマッチを製品として国産化したのが清水誠という人物です。(p.20)
清水誠が最初に作ったマッチ会社、新燧社(しんすいしゃ)の名前は“新しい燧石”つまりマッチという意味です。新燧社は明治8年にマッチの試作に成功し、明治9年に会社を興します。
彼が何でマッチを作れるようになったかというと、明治2年に金沢藩士として藩費を使って造船学を学ぶためフランスに留学し、同時に化学の方も勉強していました。たまたま明治6年、日本の宮内次官の吉井友実という偉い方がフランスに行ったおりに偶然清水誠と会い、そういう理工系に強いのだったらマッチを是非作ってくれないかと、そうでないとマッチが庶民にまでいき渡らない、そのころはマッチに高いお金を出して輸入していたのですが、お金持ちや偉い人は輸入品を使って満足していても庶民までは至らないと清水に国産化の夢を託すわけです。清水は造船学を勉強しているのに急にマッチを作れと言われても困ると悩んだかとも思いますが、お国のためということで、一生をマッチにかけることとなります。フランスで身につけた知識が役に立ち明治8年にマッチの試作に成功、明治9年に国の援助金も得て東京の本所柳原町、現在の都立両国高校の場所にあたりますがそこにマッチ製造会社新燧社を立ち上げました。新燧社のマッチの商標は枝桜の意匠でした。
この商標は日本の象徴である桜ですが、桜の周りに配した図柄は初めてのマッチに対してどんなパッケージデザインをしていいのか分からなかったのでしょう、それまで輸入していた外国製のマッチのデザインをそのまま真似て作ったものと思われます。ですからここにSAKERHETS TANDSTICKOR、スウェーデン語で安全マッチと書かれていますが、ところがこの時作ったのは黄りんマッチなんですよね。全然読めていなかった。要は文字も図形、デザインとして、モデルになった輸入品のマッチラベルを見よう見真似でいたことがわかります。
明治10年に第1回内国勧業博覧会が開催された時に品質優秀ということで賞をとります。それを記念して作られたマッチのラベル、これが素晴らしい銅版刷りのラベルで他のラベルと比較すると精度差の違いが分かると思います。
こちらの刷りが民間で刷ったラベル、墨刷りのものが現在の国立印刷局、当時の紙幣局というお札を作る国の機関に頼んでマッチのラベルを作ってもらったという記念票です。左側がフランスのコインの絵柄、右側が内国勧業博覧会で賞をとった賞牌ですね。これは「銅版枝桜」として有名な燐票ですが、明治10年にこんな素晴らしい印刷が出来たというのにも仰天しますが、これは国の施設だったから可能だったのでその頃の民間の印刷屋さんではまだまだ稚拙な1色刷りしか出来なかった時代でした。
清水誠の業績を知るには、都立両国高校の一角に東京都が作った「国産マッチ発祥の地」という記念碑があります。また、両国の近くの亀戸天神の本堂に向かって左脇に立派な清水誠の記念碑が2本立っています。ひとつが紀功碑でもうひとつが顕彰碑です。紀功碑は明治32年に建てられたのですが震災、空襲で割れたり欠落したりして1975年に復活したものです。そのときに顕彰碑も作られています。

8. マッチ生産の中心地は神戸・姫路へ マッチ王瀧川辯三・儀作
東京での新燧社の成功によってマッチは商売になるということが分かり、全国でマッチの製造がはじまります。東京から名古屋、大阪とだんだん関西のほうにも広がっていきます。最終的には神戸・姫路がマッチ製造の中心地となります。初期のマッチ会社は沢山ありますが、この中で一番有名なのは明治13年に設立した神戸の清燧社、瀧川辯三によるこの会社はその後、東洋一のマッチ会社に成長します。
東京、名古屋、大阪、神戸というところで何をそれぞれ主流として作っていたかと言いますと、東京は一番にスタートしましたが輸出ということを考えた時には太平洋側はちょっと不便なわけで、東京、名古屋は内国向けを狙います。大阪、神戸は勿論内国向けも作っていたのですがそれ以上に輸出向けに力を入れました。阪神地方は華僑の力が絶大でこの力をもって海外輸出が成り立っていました。大阪は黄りんマッチを主体に、神戸は安全マッチに重点をおいて輸出をしていきました。姫路も神戸から近く、初期のころはマッチを作るための色々な資材、箱作りの内職などで神戸と組んでいました。
神戸がメインになった理由は、神戸港が近いこと、華僑の力が絶大だったこと、製造工程で天日乾しがあり、雨が少ない瀬戸内海気候が適していたこと、播州人のベンチャー的気質、安価な労働力があったことなどがあげられます。
先ほど述べた清燧社という会社はその後吸収合併を繰り返し、大正6年から昭和2年までの間東洋燐寸株式会社という東洋一の会社に成長します。
(p.25)は当時の写真ですが、右側が元清燧社社長瀧川辯三、左側が瀧川儀作。儀作は辯三の長女と結婚した養子で2代目社長を継ぎ2人そろって日本のマッチ王といわれています。
(p.44)は東洋燐寸株式会社の当時の写真です。神戸港に接し、本社と工場が隣接し、工場は耐火を考えてレンガ造りになっています。

9.マッチ製造の工程
マッチが出来るまでの工程は30くらいあるので詳しく説明するわけにいかないので8工程くらいを説明します。
まず原木、マッチ棒の木にはポプラ系の白楊樹、さわぐるみとかアスペンという、しなりの良い木が適切な木材であるということが分かって使うようになりました。まずかつら剥きしてからそのあと千切りにしてマッチ棒の細い軸状態に仕立て上げます。出来たものは天日乾しするわけです。
マッチ箱の方は、人間がコツコツ手作りで小箱を作る。これが商標、マッチラベルを貼っているところです。それが出来ると次にマッチ軸を箱の中に詰めていきます。当然、今は全部オートメーション化されていますが、明治大正では手作業です。出来たものは湿気を防ぐ函に積めて神戸港へ出荷し船に乗せ海外へ、簡単にいうとこれが当時の製造工程です。

10. 日本のマッチはかつては輸出産業の花形商品だった。
マッチが輸出産業として特に元気な期間は15年間くらいですが、当時の生産高を並型の小箱に換算した個数で年度別に出してみました。
例えば明治22年は15億個作ってそのうち8億個は輸出していた。そのパーセンテージで行くと明治20年は半分ちょっと輸出していた。それがどんどん輸出量が増えて明治40年では82億個作ってそのうち8割くらいが華僑の力で輸出していたと言うことになります。主な輸出先は、中国、朝鮮、東南アジア、インドですがそれ以外の全世界にも日本のマッチは安価で火つきが良くてラベルもきれいだと好評でした。
生糸、お茶、石炭が当時の外貨獲得のベスト3と言われていますが、マッチも外貨獲得の重要な商品で、明治24年には全ての輸出品の第8位と記録されています。
次に、日本から輸出していたマッチの商標を見てみますと、これは中国向け、漢字の世界で吉祥の図案、これらみな日本人が作っていますがディレクションしていたのは、今でいうとアートディレクターは中国人の華僑です。こういうものを作ってくれると中国では売れるんだよという指示にしたがって、日本人が描いて彫って作っていました。
また明治45年あたりになると政治色をもったマッチラベルも出てきて、これは孫文ですが、中華民国の建国精神高揚を目的に作られていたものです。
五色旗などもあり、見た目でもかなりカラフル感があります。このころには多色刷りも出来るようになりました。
同じようにインドも大のお得意先であったわけで、象も神のお使いですし、インドの神様は何千何万とありラベルも多彩、インドを支配していた英国の貿易商がアートディレクターになって参考資料を日本人の画工に渡してこのように描けばいいと指示し、訳も分からず描いたこともあると思います。ちょっと他の絵柄とは異質なカラフル感をもった燐票が沢山あります。
またこれの場合は欧米向、サムライなども英字で描かれてあります。ここに描かれているSUZUKIというのは当時の有名な商社であった鈴木商店マッチ部のことです。

11.世界一のマッチ大国はスウェーデン
世界一のマッチ大国というとスウェーデンがダントツの第一位です。燐を使ったマッチを発明したヨーロッパでビジネスとしてマッチは成り立つと最初に気がつき頭薬と側薬ふたつ合わせて火がつくという安全マッチを発明したのはスウェーデン人なのです。さらに北欧には豊富な木材資源があり、更に安全マッチの特許を取得したことにより、一番手になって大工場を作ります。それは長い間続き、一時は日本にも進出し、今は国営となりましたが世界一です。
1855年、スウェーデンのルンドストレームが安全マッチを発明し特許を取得します。そしてマッチ製造大工場を建て、先々日本も取り込み世界20数カ国を支配下におき、世界制覇を目指します。ところが世界制覇の寸前に世界大恐慌が起きるのです。それまでは東洋燐寸なども日本独自で築きあげた会社なのに買収されて、大同燐寸という名前になって変貌していましたが、1929年から大恐慌が始まりスウェーデンのマッチ会社は倒産します。当然スウェーデンは日本から撤退することになり、傘下のマッチ会社はどうしたらいいのかというときに日産コンツェルンの鮎川義介がこれを肩代わりするわけです。今も兼松日産農林というブレーン会社としてマッチは作られております。
現在もスウェーデンは世界一のマッチ大国です。ちなみにこれがスウェーデンのイェンシェピング社の工場です。イェシェピングというのは地名です。ストックホルムから南に下ったスモーランド地方の町です。そこに世界でひとつだけマッチ博物館があります。古い貴重なマッチやラベル、マッチ製造機などが展示されています。

12.日本はスウェーデン、アメリカと並ぶマッチ大国だった。
明治後期から大正前期までは国内総生産の80%が輸出され日本の黄金期でした。この時期は、第一次世界大戦が始まりヨーロッパが戦火にあい、スウェーデンはそれまでアジアに進出していたのですが、戦争でそれどころではなくなり物流も滞り、そういう状況下に日本は逆に行け行けでスウェーデンの販路を勢力圏にしてしまったことで黄金期を迎えます。ところが戦争が終わってヨーロッパが安定するとスウェーデンが再び販路挽回で攻めてきたわけです。それによって日本は徐々に海外からの撤退を余儀なくされる状況になって、更に太平洋戦争で負けた後は海外の市場は諦めざるをえないということになって輸出産業から国内向けの広告マッチに方向転換を余儀なくされたのでした。現在は年間3億個、うち20%が輸出という状況です。単に3億個と考えますと多いようですが、今まで述べたように明治時代には最高80億個も作っていたのですから何十分の一になってしまったわけです。
現在、マッチはあまり使われなくなりましたが、お墓参りとかロウソク、お線香にマッチで火をつける日本独自の作法のなかで、まだまだ需要もあります。
スウェーデンは世界恐慌の時期がありましたが、持ち直して世界第一位の地位を築いております。アメリカは広い大陸ですがマッチ販売会社1社に合同合併して製造は外注に出す方針でいます。
この写真は日本が全盛期であった時の東洋一の東洋燐寸の全景です。ここで作られた内地向けの主要な商標を集めてみたのですが、燕印、桃印、馬蹄馬印、筍印は現在も売られておりますし、過去にも見られたことがあると思います。デザインは小さなところがどんどん変わってはおりますが、見た目のレトロ感は変わっていないのは私が好きなところです。

13.戦後のマッチ
戦後は海外に販路拡大が出来ないことでマッチ会社は困り、産業としては国内に目を向けるしかない、そこで広告マッチの市場開拓に方向転換しました。戦後復興期5年を過ぎ、昭和30年から第二次黄金期として昭和40年代までがマッチ業界が元気だった頃です。その時の最高は昭和48年の58億個、ですから戦前の80億個から比べると少ないのですが、先ほど話した現在の3億個から比べると20倍ですよね。つまり今はこの時代の20分の一になってしまったと言うことです。
店頭で販売されるマッチは「有標マッチ」と呼びます。つまり商標登録が成り立っているという意味で有標と言う字を使います。
他にも東海道五十三次シリーズのような、たばこの景品としてもらったり買ったりする「たばこマッチ」があります。
戦前の広告マッチから特に有名なところで資生堂、風月堂、丸善、朝日新聞、三越などがあります。
(p.48)の中で今でもマッチを作っているのは風月堂ですね。それ以外はもう作っていません。広告マッチも時代を反映するデザインとして懐かしい印象を感じます。

現在の広告マッチはずいぶん洗練されてきて、和紙を使った蕎麦屋や飲み屋、しゃれたホテル等のマッチがまだ探せばみつけることができます。

14.マッチの形
マッチの形態には17種類くらいの規格があるのですが、標準の並型マッチから見ると変形なものではコロ型とか正方形の形とか、マッチ棒が木ではなくてボール紙で作られているブックマッチというものもあります。いわゆる連軸マッチ、ボール紙にスリットをつけて簡単に製造できるもので、アメリカは殆どこのブックマッチです。
他に葉巻、パイプ党の人にとってマッチは必須道具で、要はライターの火では葉っぱが焼けすぎ、マッチの火の温度がちょうど良い焼け方をするということのようです。
天皇陛下がお使いの皇室専用マッチも持参してみました。

15.使い捨てライターの出現
昭和50年に発売された「チルチルミチル」によって百円ライターが売れ出したのですが、実は以前の昭和45年、ライターメーカーのクラウン社から「マチュラー」という百円ライターが出ていました。ですが品質が不安定で悪評だった。そこで改良して売りだした東海精機のチルチルミチルが名前の印象とともに悲しいかな大ヒットしてしまったのです。
マッチにとって困った問題は、郵便法ではマッチは危険物扱いなので郵便で送ってはいけないのです。これを定めている郵便法第14条は品質の悪くマッチ自体がまだまだ危なかった明治の時代に作られた法律が基になっているのです。
宅配便は目をつぶるということになっています。

16.マッチは地球環境に優しい商品。
マッチは土に還りますが、百円ライターは年間億単位の燃えない危険なゴミとして大問題になりつつあります。エコロジーという意味でマッチの小箱は古紙で作られていますし、軸木は白楊樹系にアスペンという木で、そのまま放っておくと枯れてしまい雑木になってしまうので伐採したほうがいいという軸木をつかっています。
また薬品についても子供が舐めても今は無害、工場廃水も無害ということで昔と違い危険な薬品は排除されたなかでマッチは作られています。

17.現在も発売されているもの
ほど申しましたようにマッチは物流が難しいので、全国どこにでも販路を延ばし売れると言うものではないようで、地方色というか、流通のルートが決まってしまっているようです。それでも全国ではまだ60種類ほどのマッチ柄は生き残っています。
その図柄一つ一つは明治時代の商標をそのまま引き継いでデザイン化されているものが多く、オフセット印刷となって生きています。
(p.61)画面の一番下の列の4つが日産系ですね。桃、燕、象、馬、それ以外は社団法人日本燐寸工業会所属のもの、つまり兼松日産農林ほど大きくない中小企業が集まって一つの組合を作っているわけなんですね。そこで同業同士連携してマッチ会社を存続させていこうとしています。
現在よく見かけるマッチは全国展開が成り立っている兼松日産農林製のマッチです。他のマッチメーカーも販路が広がるよう、もう少し頑張って欲しいと思いますが。

18.マッチラベルの商標登録
私が集めているものはこの商標として登録されている販売用マッチです。つまり会社のブランドと同じように他の会社が真似てはいけないというマッチを集めています。
宣伝用に配る広告マッチは商標登録されていません。
マッチ会社がうちの顔だよという図案に関しては、特許局に申請してお金を払ってむかしは20年、現在の法律では10年が独占使用の有効期間、それでもっと継続したい場合は更新登録するという法制となっています。
西洋からの法制システムを学び明治17年に施行されて、マッチ商標の第一号の登録は明治18年の6月20日にされています。(p.64)
これが先ほど説明しました瀧川辯三の清燧社によって商標登録された「寝獅子」という意匠です。私は当時発行の『商標公報』から何類の何号と言うのも調べて、何万枚というラベルを照合しています。商標マッチの登録件数は大正8年になると2万件、更に色々なバリエーションを加えると数十万種、これ一枚ずつ一生かけて燐票履歴を調べていくつもりです。
この寝獅子商標は国が認めた第一号のものではあるのですが、実はスウェーデンのマッチラベルのデザインをそのまま真似てあります。誰が見てもそっくりですよね。オリジナルとは到底思えない。文字だけ差し替えて堂々と作ったものなのに、お上も承認というわけだったのです。

19.マッチラベルコレクターの歴史
戦争前のまだ平和だった時期、昭和初期まではマッチラベルというのは切手、古銭とならんで庶民がたやすく集められる三大趣味でした。さらにもうひとつ絵葉書があります。日露戦争をきっかけに絵葉書ブームが起こりました。こんな状況下の明治36年、産業としてのマッチが栄えて色々な商標が増えるなか、燐票収集の同好会、日本燐枝錦集会という好事家の集りが東京で発足します。
これは日本で一番の発信元になるすごい組織になるのですが、この同好会を作ったのが福山碧翠という人で、またこの会の重鎮会員に古屋蘭渓という方がいました。この方の遺品は私も持っていますし、その多くがマッチ業界に残っており私が今それを分析しております。そういう遺品を分析して分かったことを紹介するウェブサイトを去年の12月に130周年の記念事業として作りました。インターネットをおやりになっている方はhttp://www.match.or.jp/で覗いていただければかなり奥深いサイトが楽しめると思います。
その当時は人が沢山集まる場所、例えば東京銀座、名古屋、大阪の松坂屋等で燐票の大展覧会などをやっていました。
時代は飛んで平成のことになりますが世界一のマッチラベルコレクターは日本人で吉沢貞一さんという方で残念ながらお亡くなりになりましたが、この方はギネスブックに世界一で載っています。吉沢さんは、日本の商標マッチのラベルを集めている私と違い、世界126カ国の知人と文通しあったりして外国のマッチも集めていたので、その数は膨大となり、74万3512枚、2006年の今年のギネスブックにも故人ではありますが第一位で載っています。しかし悲しいことに亡くなった後、収集品はちりちりばらばらになってしまいました。そのいくつかは私も持っています。悲しいことですが吉沢さんが一生かけて集めたものが、元の木阿弥で、私を含めコレクター連中が改めて探しだし回収しているという無駄なような話でもありますが、本当はそういう貴重な収集物は散在しないでほしいと思います。
次にお見せするのは趣味の目録ですが、今でいう通販カタログもちゃんと作られていました。切手と同じ考えで、甲乙丙とランク分けした値段もあり、これに注文すればマッチラベル収集を始める人は、まとめ買いが出来るわけです。このようなことからも当時はかなり皆さん集めやすい環境になっていたことが分かります。マッチラベルが商売にもなっていたわけです。
燐票大家の福山碧翠の写真の右上には国産マッチの創始者、清水誠の写真が掲げられています。右側の写真が重鎮である古屋蘭渓で、脇に積んである燐票帳が神戸にある日本燐寸工業会に保管されています。
日本全国のマッチコレクターの番付表も作られていました。福山碧翠は別格で理事に、古屋蘭渓も年寄役の別格扱いとして載っています。
聞くところによるとラベルを沢山持っているだけでは番付上位にランクされない、品性も大事だということで、ただ金を使って汚い集め方をしている人は載せないみたいな基準もあったそうです。日本燐枝錦集会の会員は多いときで3000人が入会していたと言われていましたが戦争で総てが駄目になりました。
福山碧翠の記念碑は清水誠の碑の脇に建っています。昭和9年に亡くなり同好会の方々がじゃー、清水誠さんの脇に作ってあげようということで作られたものです。
これは大正7年の展示会の写真です。壁一面への額装展示でまるで学芸会です。こういう展覧会が多数開かれました。大正15年には名古屋の松坂屋で催されました。実は去年80年ぶりに松坂屋で展覧会をしてきました。松坂屋さんにもとても喜ばれました。
昭和4年には新橋演舞場、ここでは新国劇「燐寸」という演目を開催中で、会場ロビーを使って大展覧会をやりました。そのときに先ほどの番付表に載っていたような重鎮が家族ともども集まり記念写真に写っています。
ここに福山碧翠、この四角ばった顔をした人が古屋蘭渓です。ここにも清水誠の肖像写真がありますね。
p.72が時代を経て平成14年私の燐票展覧会の写真。飯田橋のモリサワさんの会場でやりました。スッキリしているでしょう。もう少しごちゃごちゃしたほうがこだわりとしてはいいのかもしれませんが。

20.マッチラベルに描かれた日本語横書きは実は一行一字の縦書きだった。
燐票の例でご説明しますと、この日本語文字は戦前では右から左へと読む、戦後は左から右へ読むようになるのですが、横書きに見えて実は縦書きなのです。一文字だけ打って行替えして、次の文字を一字打って又、行替えしていくと結果、横書きのようになるのです。これはどうしてこういうことをしたかというと、商標の場合、欧文字、日本語、絵柄を小さなスペースに集約してまとめ上げなくてはならない。そこで日本語は庶民の人でも読め、なおかつ横文字とも一体になるように右から左へ一文字ずつ改行して並べていった。こういう風にすると全然問題がなく縦組みとして素直に読める。「東京新燧社製造」と当時の人もなんにも教えなくても読めたといいます。これはなるほど妙案だなと感心しますね。

21.ラベルの絵はだれが書いたか
マッチラベルの図柄は浮世絵師が描きました。明治になって西洋文化が取り入れられ浮世絵師たちは排他的に扱われた部分がありました。江戸時代の木版画と比較してみると、版元は燐寸会社、華僑や商社がなり、絵師は画工として浮世絵で鍛えた技術を生かし拡大縮小も出来ない原寸の世界で細かい図柄を作り出しました。彼らが次第に図案家、そしてデザイナーになるわけです。
彫りは最初の頃は浮世絵と同じ木版だったのですが、次第に西洋からやってきた木口木版となり、その後、多面付けして一気に刷るというような技術も発達し、最終的にはカメラを使った写真製版の時代になっていきました。印刷版式は木版、木口木版を活版印刷で刷っていました。それから銅版、石版、オフセットと大量に正確なものを刷るということで変貌をとげています。
作品例を見ていきましょう。
p.77
こういう富士山にしても虎の絵にしても見ていくと、やっぱり浮世絵調だなというのが分かると思います。
p.78
これは役者絵、ここら辺の刷りあがったイメージは日本ならではのムードがでているような気がします。
p.79
これは和風柄、これは日本にしか通用しない内国向けです。この福助さんは外国人には通用しませんね。相撲もそうですね。
p.80
これは和洋混交、鹿の表情などは浮世絵的に彫ってあるのですが、そこに関わるものは明治時代にやってきた新しい道具類、システムがマッチラベルにどんどん取り入れられています。
・p.81
これも同じ和洋混交なのですが、カンガルーが描かれているのはオーストラリア向けのラベルです。そこに富士山、桜という日本的イメージを配しています。日本的ではあるが外国のものも取り込んであり、遊びごころもある柄もみな商標登録されています。

22.マッチラベル意匠は森羅万象なんでもあり。
燐票はこのようにいろいろなものを意匠として取り込んだことにより、結果として森羅万象になっていきます。
マッチの品質が良いものか悪いものかは同じマッチ棒ですから外見では分らないのです。そうしたとき当社のマッチは品質が良いという認知が非常に重要なのです。そこでラベルの意匠が品質の目安になっていたわけです。
重要なポイントとしては目立つ柄、流行色の赤、これは明治になって化学顔料のインキが出来たので、自然の顔料を使うよりも十分の一くらい安くなり、われ先に何でも赤を使いだした結果、明治の流行色にもなった、そしてマッチも目立つことが重要ということで赤が沢山使われるようになりました。
そして分りやすい絵柄、これは子供にお駄賃あげて煙草やマッチを買いに行かせるということで、子供にも分る動物柄とかが多いのです。
それから吉祥柄は特に大事な要素で中国向けは殆ど吉祥絡みの絵文字となっています。ともかく日常々いつも使うものですから、縁起が良いものをそばに置きたいという心理だろうと思います。
それと輸出先の嗜好にあわせた絵柄、日本人しか分らない福助や招き猫じゃ駄目なのです。輸出先の嗜好にあわせ、いわいるアートディレクターである貿易商の意見に合わせて作っていくことによって売れる商品となったわけです。
それから戦意高揚、これは特に日清、日露戦争、これに対する戦意高揚ということでかなり出回りました。
これら森羅万象を具体的にお見せします。
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この「あ印」というのは要するに一番という意味です。これは相撲ですね。また「朝おき」なんていうのもあります。これは「神佛燈火用」、こういうレトロチックなマッチが今でも仏壇の脇にあると神妙になっていいのではないかと思います。
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これは吉祥、七福神など日本のもので国内向けです。
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これは明治に入ってきたいろいろな新しい道具。これはどうしてこんなものをと思いますが明治のその時で考えると目立つ絵柄だったわけです。
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これは戦意高揚。よく見るときわどい絵柄で、明治27年に発行された日清戦争の戦闘で清国人を懲らしめている図です。
これについては戦争が終わって講和条約が結ばれると、あってはまずいということで発禁になりました。発禁ということは価値が上がるわけです。こちらが日露戦争での乃木大将、大山元帥、東郷元帥です。
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これは中国への輸出用で中国人が喜ぶ絵柄です。全部吉祥で、金魚、猪八戒、蝙蝠などですね。
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これはインド、神の使者の象やクリシュナとかインドの神々がずいぶんカラフルに描かれています。
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これは欧米向です。ナポレオンですがよく見ると顔の中にいるナポレオンの軍隊で顔ができている。これは江戸時代の寄せ絵の技法を使っています。
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今回、マッチラベルについていろいろお見せしましたが、デザイナーの立場でものを考えた時に、なんらかのかたちで文化の一面として残っていってほしいと思っいます。
駆け足での2時間でしたが今日は、清聴をありがとうございました。

文責 臼井良雄 会場写真 橋本曜 総合編集 山本啓一