2015,11,03
投稿者: Hyoue 37歳

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「レイシャル・ハラスメントとしての捉えなおし」

 新しい現象が起こると、新しい呼び名が作られることがあります。「レイシズム(Racism)」という語の登場も、その一つの例でしょう。Racismという語自体は新しくないですが、それを「人種差別(主義)」とは訳さずに、そのカタカナ表記を用いるのは新しい事象です。

 ここでの「レイシズム」とは、具体的には「ヘイトスピーチ(憎悪発言)」という行動と結び付けて理解されるものです。「在日韓国・朝鮮人」(以下、「在日」)と呼ばれる人々に対する排他的発言、それを叫ぶ行動がヘイトスピーチでありレイシズム。マスメディアの報道を通して抱くイメージは、そのようなものでしょう。

 もっとも、いま「レイシズム」として語られるものは、どちらかというと「ゼノフォビア(Xenophobia:排外主義)」と呼ぶのがふさわしいものです。「在日」と呼ばれる人々への非難は、実際は、朝鮮民主主義人民共和国(通称、北朝鮮)と、大韓民国(通称、韓国)への非難であることが多い。「在日」と呼ばれる人々を「祖国」と結び付けて排外する行為は、レイシズムというよりはゼノフォビアと表現した方が適切です。

 Racismの翻訳語となっている「人種差別(主義)」という語は、高校の『世界史』などを通して学ぶ場合が多く、それはナチスドイツ(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei:NSDAP、国民社会主義ドイツ労働者党)政権が行なったユダヤの人々への「ホロコースト」、アメリカ合衆国で生じているアフリカ系やヒスパニック系の人々への差別、南アフリカ共和国の「アパルトヘイト」などの出来事を具体例として学ばれます。「日本に人種差別は存在しない」というのが日本政府の基本的な見解となっています。それは、おそらく、教科書に登場する出来事を「人種差別」という語の指示対象と考えているからでしょう。そのため、人種差別ではなく「レイシズム」という語が導入され、「在日」の人々に対するヘイトスピーチなど、マスメディアが取り上げる「大きな事件」を指すときに使われるようになっています。

 ヘイトスピーチのような排外意識を露わにした行動がレイシズムという語の指示内容だということが定着すると、日常的に生じている、一見些細と思われる事柄の問題性は忘れ去られることになる可能性があります。ヘイトスピーチの行為者は、目立つけれども、一過性の脅威に過ぎないと考えます。本当に脅威なのは、大きな行動を起こさない人々が抱く排外意識です。

 ここ数年、ヘイトスピーチを問題にし、書籍にして発表する人々がいます。しかし、その人々は日本のことを、日本社会に住む多数派の人々のことを何も知らなかったのでしょうか。著者の多くが「真正な(authentic)」(もしくは皮肉を込めて「神聖な」)「日本人」であるからか、日本社会が見えていなかったのかもしれません。ヘイトスピーチという語が流行する以前から、様々な場所、たとえば学校の教室内ででもヘイトスピーチは行われていました。

 マスメディアが取り上げるヘイトスピーチ行為者よりも、日常的に表明される排外的な発言こそ問題にされるべきです。それらは「無意識の人種差別(Unconscious Racism)」と表現することが出来るもの。そのような無意識な人種差別意識を顕在化するために、「レイシャル・ハラスメント(Racial Harassment)」という語で、個々の事象を再定義して行くことが必要と考えます。

 その際に間違えてはいけないのは、「レイシャル・ハラスメント」としての意識化は、言動や行為を問題にするものであって、その人物の属性(男性・女性、日本人・外国人など)を問題としないことです。「人種差別主義者」として特定の人物を糾弾するのではなく、属性に関わらず、行為を問題にすることが必要です。

 ここで具体的な例として「在日」の人々へのものでなく、外見的に目立つ「外国人」と呼ばれる人々などに向けられる発言を挙げます。たとえば罵倒する形で用いられる「ガイジン」や「国に帰れ」、「外国人お断り」の各種張り紙。居住制限や公衆浴場への入浴拒否はもちろんのこと、「多文化共生フェスタ」の名のもとに、エスニック・フードの「真正な」提供者(本場の味の提供者)として、「エスニックなもの」を差し出すことを求める行為、「外国人」や外国にルーツの一部があるからという理由で言語能力にしか期待しない雇用現場。初対面で両親の出会いを根掘り葉掘り聞くことや、両親の一方が英米語圏出身ということで、英語能力を期待すること(親の一方の出身地が英米語圏でなくとも、英語力を求める場合もある)。

 思春期の男子なら、たとえば性器の形状・大きさ、陰毛の色など性的なことを聞くこと。女性なら性的に奔放であるというような思い込み、それを言葉で表明すること(これはセクシャル・ハラスメントだとも言える)。そのような日々の出来事を「レイシャル・ハラスメント」として捉え直し、差別意識を顕在化することから、問題を解決に導き、対話を促すことができると考えます。

 もっとも、両親の出会いを尋ねるのは好意の表明だという反論もあるでしょう。たしかに、人によっては好意的に好奇心を表明する人もいます。しかし、両親の出会いしか聞かない人間もいる。両親の出会いを聞くのは、初対面の人と会話するときの当たり前のことなのでしょうか。自分が好意的な質問だと思っていることも、ハラスメントとして認定されることもあります。

 ちょっとしたからかいを 「いじり」と表現することもあるでしょう。しかし、その中には「レイシャル・ハラスメント」にあたるものもあります。肌の色、髪の毛の色、目の色(虹彩)をネタにすること。マスメディア(とくにテレビ)に出ている人を例にした、からかいや、テレビに出ている人の名前で呼ぶこと、ジョン、マイケルなど英語の教科書に出てくる名前で呼ぶこと、など。

 重要なのは、加害者・被害者は固定していると考えないことです。「ハーフ」や「外国人」というカテゴリーのなかで生きている人でも、自分のルーツと異なる相手の場合、レイシャル・ハラスメントをしてしまいます。「在日」の人々のなかにもレイシャル・ハラスメントの行為者がいます。「日本人は差別的だ」という声を聞くこともありますが、その発言をした本人が別の個人に対してレイシャル・ハラスメントを行なうこともあります。

 昨今、様々なハラスメントが登場しているため、何もかもハラスメントと認定すればいいのではない、という批判もあるでしょう。ハラスメントの設定を行なうと「息苦しい社会になる」という声もあります。しかし、多くの場合、そのような声はハラスメントの行為者側の意見です。ハラスメントを受ける側の我慢によって、これまでの「息苦しくない社会」が作られて来たのなら、ハラスメントの行為者が少しくらい息苦しく感じることで、ようやく公平な社会になると考えます。

 これまで「いじり」として軽く扱われて来たこと、「いじめ」として問題の所在を曖昧にされている出来事、「レイシズム」や「人種差別」という語に適合しない様々な行為を、レイシャル・ハラスメントという語で分類、命名してみることをここに提案します。何がハラスメントで、何がそうではないか認定するのは簡単なことではありません。しかし、その作業を行なうなかで、対話が生まれ、相互理解につながり、ハラスメント自体が減少して行くと考えます。ハラスメントを減らすための一歩として、レイシャル・ハラスメントという語を用いて出来事を再定義してみるのはいかがでしょうか。


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