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インタビュー・一問一答(1)

 ゴルバチョフ元ソ連大統領の毎日新聞とのインタビューの一問一答は次の通り。【聞き手・杉尾直哉】

     −−ソ連でペレストロイカ(立て直し)が始まるまでは世界は米ソの二極支配でした。ソ連崩壊後、世界秩序のバランスが崩れ、今日に至っているようにも見えます。ペレストロイカはパンドラの箱を開けたのでしょうか。

     ◆ペレストロイカが開いたのはパンドラの箱ではなく、新しい世界を築く可能性だ。人々に希望を与えた。わずか6年でソ連だけでなく、世界政治をそれまでにないほど変容させた。

     外交政策の原則と目的の見直しを図ろうとしていたとき、我々は、「新政治思考」とその後に呼ばれるようになった考えに達した。「新思考」は、シンプルでわかりやすい考え方にのっとっていた。すなわち、イデオロギーやその他さまざまな偏見を拒否すること。また、身についたステレオタイプ(的思考)を見直す覚悟を持つこと。さらに、変容しつつある世界に対し、より広く、新たな視点でみつめる能力を持つことだ。具体的には、まず、軍拡競争、とりわけ核兵器の軍拡をやめること。さらに、米国や中国、その他の国々との関係正常化。また、10年続いた地域紛争の終結を意味した。対話を必要とし、対話の結果として国際政治において信頼を醸成する目的があった。

     その結果、ソ連軍は(1989年に)アフガニスタンから撤収し、東欧諸国で(自由な)選挙が行われ、ベルリンの壁が崩壊して(90年に)東西ドイツが統一された。(米ソ)超大国が続けていた軍拡競争による我慢比べを、真の軍縮へと方向転換し、数百の米ソのミサイルと数千の核弾頭を廃棄した。この年月(ペレストロイカ期)の結果、約50年続いた冷戦は終結した。国際的な協力が生まれ、アフリカと南米の武力紛争を終結することができ、中東問題の正常化へ向けた取り組みを始めることができた。欧州統合へ向けた道が開かれ、(90年に「欧州の対立と分断の時代の終わり」をうたった)パリ憲章が採択された。

     これら全てが実現した成果だ。だから私は、ペレストロイカ、また我々が世界に提案した新思考によって今日の世界で起きている混乱がもたらされたとの指摘には同意できない。危険な今日の世界の状況は、ペレストロイカを挫折させ、ソ連を崩壊させた結果だ。新思考の原則から離れた新世代の指導者たちが、安全保障と協力のシステムを築けず、グローバルで相互に依存する世界の現実に対応する能力がなかったことの結果だ。

     冷戦終結の結果、生まれたチャンスは失われ、むだになった。主な原因は、冷戦終結についての(歴史の)歪曲(わいきょく)からきている。

     ソ連崩壊は、内的要因で起こった。これに対し、西側は有頂天で喜んだ。冷戦終結では(東西両陣営)双方と全世界が勝利したのだが、西側そして米国は自分たちの勝利だと宣言したのだ。勝者の気分にうかれ、「ただ一つ生き残った超大国」(米国)は世界政治において一極支配を要求するだけでなく、「米帝国」建設まで主張した。

     その結果、世界は安全でなくなった。「世界秩序」の代わりに、我々が手にしたのは「グローバルな動乱」だった。紛争が起こったのは「第三世界」だけでなく、欧州もそうだ。そして今日、武力紛争は文字通り我々の玄関(ウクライナ)にまできている。

     ウクライナ紛争については詳しくここで論じない。だが、その原因の底にあるのはペレストロイカの挫折だ。(91年12月8日、ベラルーシの)「ベロベージの森」で(当時のエリツィン・ロシア共和国大統領ら)ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3首脳が(ソ連解体という)無責任な取り決めをした。ウクライナが国家分裂の実験場となったのはそれからだ。西側諸国は、ロシアの利益を無視し、ウクライナを「欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)の社会」へと引っ張り込もうとした。

     このような争いの勝者はいない。誰もが敗者となった。新たな冷戦、それだけでなく「熱い戦争」が現実に起きる危険性も出てきた。ただ、この紛争で軍事的な解決はありえない。だから、正常化へ向けた合意を支持することが重要だ。(昨年2月に独仏露ウクライナの4カ国がまとめた)ミンスク合意を厳密に実行するしかない。

     ペレストロイカや新思考外交の経験が、今日の問題の解決にそのまま適用できる処方箋になるとは、もちろん言うことはできない。世界は変わったのだ。(国際)政治には(テロ組織という)新たな「登場人物」がおり、新たな脅威となっている。だが、人類が直面する諸課題のいずれもただ一つの国や、または数カ国のグループであっても解決できない。また、これらの問題のどれをとっても軍事的な解決はありえない。今の世代の世界の指導者たちはこれを今こそ理解し、責任を持って行動せねばならない。

     −−ウクライナ危機以降、ロシアと欧米諸国の関係が悪化しています。何をなすべきですか。

     ◆私個人は、(ウクライナ危機など)欧州と世界で今日起きている出来事に非常に危機感を持っている。国際関係は信頼がなければ築けないが、その信頼が崩れている。そのため、主要国間での対立が深まり、冷戦期の最も悪い時代を思い起こさせるほどだ。

     信頼が崩壊したのは(ウクライナ危機が深刻となった)過去2年間の出来事だけではない。その根は深い。すでに話したように、冷戦終結後、国際社会は当時開かれた可能性を追求しなかった。欧州とグローバル規模の安全保障のメカニズムはみなが協力することによってのみ構築可能だったが、それを成し遂げようという取り組みはなかった。

     90年のNATOのロンドン宣言(「ソ連など東側諸国を敵視しない」との宣言)で、(NATO)主要国の指導者たちは、国際社会における武装解除を約束したが、実施されなかった。軍事力が再び(国際政治)舞台の前方に出てきて、外交が引っ込んだ。旧ユーゴスラビア、イラク、アフガニスタン、リビア、シリアでの流血はその直接の結果だ。

     このような状況で、平和維持に責任を持つ機関として、国連安全保障理事会が国連憲章に想定された役割を果たしていないということを再認識せざるを得ない。グローバルな課題については事実上、対話が凍結されている。対話を今すぐ再開せねばならない。問題の緊急性、そしてほかのメカニズムの解決能力が低いことからもそう言える。

     グローバルな課題は大きくなるだけでなく、その性格も変化している。国際テロは、すでに「アルカイダ」のような個別のグループの問題ではなく、より大きな運動となっている。(かつての国際労働者同盟「インターナショナル」のような)「テロリストインターナショナル」としてイスラム圏を含む全世界への脅威となっている。紛争と貧困が合わさり、欧州大陸に数十万の難民の「爆発的」な移住が起こっているようにみえる。

     国際社会の雰囲気が全般的に悪化したことにより、核兵器の問題が再び持ち上がっている。こうした兵器の開発が進んでいる。その使用についても取りざたされるようになった。(現在の米ソの軍事ドクトリンは)例外的な場合だけ(核を先制)使用できるというただし書きがあるが、その根拠はない。85年に米ソ首脳が「核戦争には勝者はなく、決して行ってはならない」と、明確に宣言したときと比べて後退している。

     グローバルな安保や貧困、環境問題への関心の薄れは、国際政治の問題の優先順位のつけ方を誤っている証拠だ。こうした状況を直ちにやめ、今日の世界政治の課題に取り組まねばならない。それはグローバルな問題についてだけでなく、問題解決の組織や機関の設置についての「大きな対話」もしなければならない。

     この対話では第一に国連、とりわけ安保理の効率性の問題について話し合わねばならない。閣僚レベル、首脳レベルの安保理協議を年1回以上、定期的に開くべきだ。国家間の対話が個別に行われている今、こうした協議(安保理の首脳・閣僚級定期会合)を国連事務総長が招集することが特に重要だ。

     並行して、ウクライナと中東の危機の早急な正常化へ向けた「大きな対話」も行わねばならない。対話によって主要国間の信頼を回復すること自体、こうした危機の解決の支えとなる。

     かつて冷戦終結と核軍拡競争を終わらせたときの原則を利用することができる。そうした原則は古びておらず、普遍的だ。それは武力行使の否定であり、常に対話を行うことだ。緊張が高まったときですらも対話を中断させず、交渉では相手の言い分を聞いて考慮する姿勢、全ての分野で協力する姿勢を持ち、信頼を回復することだ。

     特にテロの問題について触れたい。

     今日、反テロの方向性を最優先課題として打ち出さねばならない。軍や情報機関の間での調整を強化すべきだ。過激派組織「イスラム国」(IS)に対する具体策に合意しなければならない。それもみなで協力してだ。

     これが当面の課題だ。その上で、反テロ協定のような合意を至急、準備すべきだ。その合意に何を盛り込むべきか。まず第一に非合法の武装勢力に絶対に武器を渡してはならないという点だ。第二に資金だけでなく、精神的な支援すら禁ずるべきだ。いかなる国家や政府に対して武装闘争を行うあらゆる勢力や運動のプロパガンダも許してはならない。

     この合意には、テロとの戦いにおける具体的な協力事項を盛り込まねばならない。情報交換やテロ防止策などの責務だ。こうした具体策は専門家が決めることだが、遅滞なく決めることが非常に大事だ。反テロの合意に全ての国が同意することを求める国連安保理決議の採択が必要だ。テロの脅威には全ての国家が対策を講じなければならない。

     −−ペレストロイカについてはさまざまな評価があります。西側ではあなたは高い評価を受けていますが、30年がたとうとする今、ロシアでは、あなただけでなく、新生ロシアの初代大統領となったエリツィン氏(2007年死去)に対する評価は非常に複雑です。

     ◆30年前、ソ連で変革が始まり、ソ連と世界の形を変えた。歴史はペレストロイカに長い期間を与えなかった。7年もなかったのだ。しかし、ペレストロイカに対する論争はやむことがない。この時期に起きたことを理解し、ペレストロイカを理解することが今、非常に重要だと思っている。

     ペレストロイカはまずなによりも、20世紀末にソ連が直面した歴史の要請に対する答えだった。根本的に改革をしなければならないとの自覚が当時、誰にもあった。指導層にも一般社会にもだ。80年代の半ばのソ連は経済発展において困難な時期を経験した。それまでの何十年もの間に問題が積み重なり、緊急な解決が必要とされたのだ。

     実際は、長年の間、国の指導層はそれまでにでき上がったシステムの改革を拒絶してきた。中央集権システムは人々から自発性を奪い、経済については、まるで拘束服を着せるように硬直化させた。それでも行動しようとするものに対しては、非常に厳しく罰した。

     80年代の初めには、我々の労働生産性は(西側)主要国の3分の1、農業生産は4分の1となり、大きく引き離された。経済は軍事産業に重点が置かれたが、軍拡競争時代にかえってひどくなった。経済構造の重点は資源産業と重工業に移された。世界の資源の最大40%を保有し、才能があり教育を受けた国民を持ちながら、人々の基本的な消費の多くを賄えず、人々は「品切れ」商品の配給を求めて列を作った。比類なき文化と発展した教育・科学を持つ豊かな大国が国民の満足な生活を保障することができなかった。

     人々は「このような生き方は続けられない」と信じるようになった。その言葉は全ての世代の標語のようになった。(ソ連末期に若者に人気だったロック歌手)ビクトル・ツォイは「ぼくらは変革がほしい」と歌った。

     変革を求める声はどこにでも聞かれた。それに答えず、リスクを取らないのは逆に危険ですらあった。

     私はこう言うことができる。我々が変革に着手したのは名誉と栄光のためではなく、人間はよりよい人生と大きな自由を手にするのに値する、と理解したからだ。人々には、自分の全ての問題を自分で解決することができ、自分の将来だけでなく、国の将来も決定していく権利があると理解したからだ。

     ペレストロイカにはいくつかの段階があった。ペレストロイカを実行した者たちについては「計画性も概念もなかった」との批判がある。しかし、あらかじめ処方箋があるわけはなかった。ペレストロイカの概念は次第にでき上がった。人々が解放されるにしたがってできてきた概念だ。しかし、政治にモラルや道徳を持たせ、国家と経済を人々に仕えるものにする、という我々が目指す方針が変わることはなかった。

     ペレストロイカで最も重要な道具となったのは「グラスノスチ」(情報公開)だ。もちろん言論の自由のことだ。人々は心の中の不満を公然と語ることができるようになり、自分の考えを検閲や弾圧を恐れずに表明することができるようになった。しかし、グラスノスチは、国家が取る行動について公開性を持たせることでもあった。指導層は自分の決定について説明し、人々の思いを考慮しなければならないということだ。

     グラスノスチが社会を目覚めさせ、国の指導層の目を一定程度開かせた。我々は、人々がさらに速い動きを求めていることを知った。我々は、そのためには社会生活の全ての分野で民主化をしなければならないと理解した。それは政治システムの民主化も含まれていた。88年に共産党の会議(中央委総会)で国家権力の最高機関(最高会議)の選挙を複数候補で行うことを決定した。これが民主化への最も重要な一歩となった。

     この一歩は当時、広い支持を受け、社会も興奮をもって受け入れた。だが、今日かなり厳しい批判の対象になっている。まずは経済に取り組むべきであり、政治(改革)は時期が熟したときに行うべきだった、との批判だ。しかし、我々は知っていた。それまでに国の問題を解決しようと恐る恐る行おうとした決定は、政治システムの変革に触れずに行ったため失敗していたと。

     私は今日でも正しい道を選んだと信じている。もちろん当時取られた決定の全てが正しく、適切であったと言うつもりはない。我々がいつも適宜行動してきたとは言わない。そうではなくて、遅かったときもあれば、急ぎすぎたときもある。我々は反ペレストロイカ派の抵抗をきちんと把握していなかった。

     最初は文字通りみなが変革に賛成した。だがその後、段階を踏みながらも断固たる変革を行うことに対し、誰もが賛成しているとはとても言えなくなった。一般の人々の間でもそうだったし、指導層、いわゆる「エリート層」と呼ばれる人々の間でもそうだった。

     過激派たちは、ソ連の分裂を望むグループとつるみ、特にインテリ層の不満を嗅ぎ取り、「(国家の)土台から全てを破壊せよ」と要求するようになった。人々に無責任で実現不可能な約束をした。2、3年後に国は地上の楽園になるなどと言って。

     一方、過去に生きる保守派は真の改革を恐れ、自由選挙を承認しなかった。自由選挙でそれまでの特権を失うのを望んでいなかったからだ。公開の政治闘争に敗れ、(ゴルバチョフ氏が軟禁された)91年8月のクーデターに参加したのはまさしく彼らだ。(クーデターは)大統領としての私の地位を弱めた。その結果、過激派勢力に道を開き、その数カ月後にソ連が崩壊した。

     私は(ソ連という)連邦国家を政治的手段を尽くして保持しようと努めた。「政治的」というのを強調したい。私にとって武力行使はありえなかった。国を内戦に陥れる可能性があったからだ。その条件の下で、ロシア(共和国)の指導層(エリツィン氏ら)がどのような立場を取るかが大きく事態に影響した。結局、ロシアの指導層は国家解体の道を選んだのだ。

     ロシア大統領のボリス・エリツィン氏はクーデター当時は(ゴルバチョフ氏支持を打ち出し)肯定的な役割を果たしたが、(異なる)二つの立場を取った。「ベロベージの森」での(スラブ系3共和国首脳の)会議を秘密に準備し、そこでロシア、ウクライナ、ベラルーシの指導者たちが連邦解体を宣言したのだ。

     私は(当時)、最大限の経済的分権と各共和国への最大限の自治権付与に同意する用意があった。しかし、ロシア共和国人民会議は拍手とともにそれとは全く異なる決定(連邦離脱の決定)をした。その結果、(共和国間の)全ての結びつきが断ち切られた。ソ連の最も重要な資産であった統一軍すら解体された。その後遺症を我々は今日も目にしている。こうした状況を私は認めるわけにはいかなかった。だから(ロシアが連邦離脱を決めた91年12月12日に)ソ連大統領を辞任する意向を表明した。

     ペレストロイカがソ連崩壊を招いたと多くの人がいう。それは事情をよく知らないか、または本当はわかっているのに悪意を持ってそう言うかだ。だが本当にそうなのだろうか。そうではない。長年の重荷と困窮、特に90年代の苦難に耐え抜いてきたソ連が崩壊した本当の原因はペレストロイカの挫折だ。だからといってペレストロイカの意義は変わらない。ペレストロイカは我々の人生に二度と過去へ戻れないほどの深い変革をもたらしたのだ。

     その意義は第一に政治的自由、人権だ。今日、当たり前のこととして受け止められている権利と自由だ。選挙で投票し、自分の指導者を選ぶ自由。自分の考えを公に話す自由。信仰、宗教の自由。国外に行く自由。自分で商売し、裕福になる自由だ。

     その全てが現実となった。(ロシアで)この数年間、(こうした自由の)挫折や後退を我々は目にしてきた。懸念を呼び起こし、今でも危機感はある。だが、私は信じている。ペレストロイカがもたらした大切な成果を人々から奪いとることはもはやできないと。

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