<第8回>「革命」という言葉を警戒する反知性
かつて、帝政ロシアのロマノフ王朝の専制を倒して民主国家ソビエトを建設したレーニンは「革命」家と呼ばれている。また、英国ハノーバー王朝の暴政をはねのけたアメリカの独立も原語ではアメリカ「革命」と呼ばれている。そして、それに触発されてブルボン王朝の専制を倒して国民主権を確立したフランス「革命」もある。
これらは皆、国民大衆を人間扱いしていなかった王政から民衆を解放した歴史の進歩のひとコマであり、むしろ「良い事」であった。
もちろん、それぞれの革命の際には、ある種の暴力(軍事力)が用いられた。しかし、それは、国民大衆に暴力を向けた体制を倒すためで、むしろ正しい力の行使であったと言えよう。
今、差別と搾取のない社会の実現を目指している共産党が仮に「革命」を目指すとしても、それは、護憲派として、現行憲法が認める手続き、つまり「投票箱」を用いて行う他ない。
それにより各人の尊厳がもっと大切にされる社会を目指すものであるならば、そこにはレッテルを貼って警戒すべき理由はない。安倍独裁と対峙すべき現実を直視してほしい。