kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブコメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブコメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブコメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年12月12日

Banksyの新作は、「後にAppleという会社を創業したシリア移民の子供」だ。

ペーパーバック版 スティーブ・ジョブズ 1 - シリア中部の都市ホムス。腕一本でのし上がった富豪の息子として、1931年に生まれたアブドゥルファタ・「ジョン」・ジャンダリは、この街で育ち、長じて、隣国レバノンのベイルートにあるアメリカン大学に通った。学生活動家だった彼は政治的な活動で投獄も経験した。経済と政治学を専攻した彼はやがて、渡米し、ウィスコンシン大学の大学院博士課程に籍を置いた。ここで出会ったのがジョアン・キャロル・シーブル。ウィスコンシン育ちのカトリックの彼女と、ホムス出身のムスリムの彼は、恋に落ちた。彼女の親はいい顔をしなかったらしい。

1954年の夏、アブドゥルファタがジョアンをつれてホムスに里帰りしているときに、ジョアンが妊娠した。アブドゥルファタは大変な喜びようだったが、ジョアンの父親が娘がシリア人と結婚することを許してくれない。ジョアンは、生まれた子供は養子に出すよりないと彼に告げた。1950年代のことだ。婚外子やシングルマザーへの風当たりの強さは今とは比較にならない。それに、妊娠中絶はまだアメリカでは違法だった。

こうして生まれた男の子が、紆余曲折あって、サンフランシスコのブルーカラー(労働者階級)の夫婦に引き取られた。成長した彼が何を成し遂げたかは、説明は必要あるまい。

(以上、ウィキペディアを参照した。)

その「シリアからの移民の息子」を、バンクシーは、フランスのカレーの劣悪な環境の難民キャンプ、「ジャングル」に描いた。

バンクシーが「シリア移民の子、スティーヴ・ジョブズ」を描いた英仏海峡の街で、何が起きているのか。
http://matome.naver.jp/odai/2143833336178143801


全部こちら↑↑に。この夏のBanksyの企画、Dismalandのその後のことも。

シリア系アメリカ人、在米シリア人はけっこういろいろな人がいるようだ。




トミー・ボーリンがシリア系だなんて知らなかった。(トミー・ボーリン自体、よく知らないのだけど……昔、デュラン・デュランとかが目当てで読んでた音楽雑誌に記事などがあったので、認識はできる。)

DianaやMy Wayのポール・アンカがシリア系アメリカ人というのは、けっこう前から知ってた。何かの都合で調べもの(校閲的な)をしたんだったと思う。両親がシリア人とレバノン人だ。



ちょうど、フランク・シナトラの生誕100年とかでにぎやかなので、ポール・アンカとフランク・シナトラの録音された声のデュエット。




※この記事は

2015年12月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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なお、ここに貼ってあったZenbackは2015年2月19日にコードを外しました。今後は検討中です。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼