2015年12月13日

「根は己にあり」と「課題の分離」

こんばんはm(__)m

さて、「根は己にあり」という言葉、皆さんはご存知ですか?

これは、

「自分の身に起こる全ての出来事の責任はすべて自分にある」

という意味の言葉です。

私はこれを幼い頃からずっと父に言い聞かされてきました。

つまり、自分に何か悪い事が起こっても、それは全て
自分の責任であると。

これが今でもずっと私の中に強く残っており、
何か悪い事が起こっても、それは自分が悪いんだ、と
考えてきました。

しかし、先日記事で書いたアドラーの本には、課題の分離という
考え方があり、この考え方の中では、他人の課題と
自分の課題を分け、他人の課題に入り込まないようにする事という
趣旨の事が書かれていました。

私はこの事を知ったとき、アドラーの事も根は己にありという言葉も、
父から教えられたので、相反する考え方で矛盾していると思いました。

かつて、父からはよく例えでこんな事を言われました。

「例えばお前が会社に入って、その会社の仕事がとてもつらくて、
辞めたいと思ったとする。
部署移動したくてもさせてもらえない、やりたい仕事もさせてもらえない。
おまけに先輩にはからかわれて嫌な思いもする。
それで辞めたとして、その責任は誰にあると思うか?」

私はその例に対して、それは誰に責任があるかは難しいが、
自分にはそんなに責任はないと思う。といいました。

すると父は、「それは誰でもなくお前の責任だ」といいました。

つまり、

「お前はその会社には当初入りたくて入ったはずだ。
しかし入ってみたら思っていた会社と違ったり想像と違った。
でも、そもそもその会社に入りたいと思って選んだのは誰か?
それはお前が選んだんだろ。
だから、その責任はお前にある。」

こういう話でした。

もっと単純な例だと、

「好きな人が出来て付き合ったけど別れた。
この場合も、その責任はお前にある。

なぜなら、最初は好きでその人と付き合ったはずで、
全て自分に責任があるという視点に立つなら、
少なくとも自分からは別れないはずだ。

なぜなら、その人を選んだのは自分だから、
嫌な事があっても、そういう人を選んだ自分の責任だから」

ともいわれました。

でも実際生きていると、この考え方をすべてに適用すると、
ものすごく生きづらいです。

なぜなら、何についても、誰かほかの人に原因があったとしても、
全て自分が悪い、という結論に至りますから。

ほかの人に原因があって、自分が嫌な目に遭ったとき、
この考え方で行くと、

「その原因となった人と付き合いを持った自分が悪い」

という結論に必ずなります。

でも、確かに「他人のせいにしない」という意味ではこの考え方は
素晴らしいものと言えると思います。
しかしそれはあくまでも、世の中のすべての人が、
この考え方を知っていて、同じような思考をする場合にのみ
成立するものと思っています。

ところがアドラーも言う様に、そもそも人間というのは自分勝手な生き物。

そういう世界では、「根は己にあり」という考え方は、
適用する範囲を限定しないと、自分が単に生きづらくなる要因にしか
ならないのではないか、と感じています。

アドラーの課題の分離という考え方の方が、
人間社会で生きていく上では、より自然に思えるし、
より自分を追い込まずに生きていける考え方ではないか、
そういう風に思えるわけです。

私はアドラーを知るまでは、この「根は己にあり」を
割と中心に据えてきました。

おかげで騙されても、騙された自分が悪い、ありもしない事で
因縁吹っ掛けられても、吹っ掛けられた自分が悪い、
誰かにぶつかられても、ぶつかられた自分がそこにいたから悪い、
などなど、枚挙に暇がないほど色々な面で、自分が悪いと考えました。

これを私は、「根は己にありの呪縛」と呼んでます。

しかし今は、アドラーの存在を知り、そのことで少しずつ、
「根は己にあり」の呪縛から抜け出しつつあります。

そうすることで、何でもかんでも人のせいにしない、という意味での
「根は己にあり」とアドラーの提唱する「課題の分離」を組み合わせて、
バランスを徐々に取れるようになってきています。

まだまだ呪縛から抜け切れてはいないですが。

皆さんは、幼い頃に教えられた考え方や言葉で、呪縛のように
抜け出せないものってありますか?

posted by taka74 at 00:37| 東京 ☁| Comment(0) | メンタルコントロール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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