天満放浪記

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バルガス=リョサはネットが嫌い

2011年08月12日 | 西:バルガス=リョサ

 近年、私の文系大学教員としての教育目標は、身近な学生の “ネット環境に接続していれば何でも分かる” という妄想を打ち砕くことに特化しつつある。そのネット環境に最近では電子辞書というツールも入ってきたということは、先日もこのブログで「中断テクノロジーの生態系」と題して紹介した。

 語学の授業を学生は嫌がる。

 理由は単純、労多くして益少ないからである。

 接続法過去完了形の活用を覚えても、スペイン人とコミュニケーションできないじゃん‥くっだらねー、という感じである。若い頭脳には、決してそのような幼稚な側面だけで考えてはいけない、と1年間かけて説明することが可能である。が、若くない脳には無理であり、周知のごとく、大学村で語学屋が差別されている理由はここにある。多くのお偉い先生方は、学生時代に、やはり語学で「無駄な苦労」をした体験をもつからである。

 年寄りの語学嫌いはさておき、では、大学生が第二外語をやる意義はどこにあるのか。私はこのことは4月にいちおう説明しているつもりだし、阪大ぐらいの学生になれば、まずまず理解はしてもらっていると思う。あとは、4月に説いたことを、実際に学生に体験してもらうよりない。

 つまり、実に淡々と、文法のマッピング+暗記という、この昔となんら変わらぬ二つの作業だけをこなしていくのである。

 第二外語業界にもテクノロジー進化の波は押し寄せて来た。

 私のようなやり方は古いのだ、という声もよく聞く。

 WEBを使って楽しく‥みたいなスタイルもあるらしい。

 私の第二外語の授業はそうした声への反論も兼ねている。

 いっぽう、外国語習得が主たる作業と化している外国語学部の学生となると、どうだろう。彼らについてよく指摘されるのは、まあ、私自身もときどき思うが、要するに「暗記ばっかりしてるので頭が固い」ということだ。2年間ひたすらに辞書を引き、語学の向上にばかり取り組んでいる。大学生が読むべき本も読んでいるか怪しい(この点は文学部など他学部も同じかもしれないが)。脳のエネルギーの大半が言語野に使用されているので、抽象的思考や、展開的な議論をできないままでいる。要するに未熟である。発信能力がない、とかいう批判もよく聞く。

 外国語学部の現役学生諸君には、こうした声に抗ってほしいと思っている。

 と思って何を課しているかというと、それは原書講読、すなわち翻訳である。ある言語を異なる言語に移しかえるという作業にどれだけの知的リソースが傾けられ、そしてその作業を介して脳全体の運動がどれだけ活発になるのかを、体で(脳で?)分かってほしいと思っている。下手な卒論を書くぐらいなら、詩集を一冊翻訳で代替措置としたい、まあ無理だけど、そんなことすら考えたくなる相手が、外国語学部の諸君なのである。

 だから、外国語学部でいちばん困ると私が思っているのは、先日も指摘した「分かればいーでしょ」的な安易なコミュニケーション志向である。

 あまり言いたくはないけれど、正直、私は学生の口から「コミュニケーションが‥」とかいう話を聞くと虫唾が走る。てめーとコミュニケーションなんかしたくねーよ、とか意地悪に思ってしまう。嫌いな言葉だ。

 そもそも「分かればいい」なんて、そんなもんは当たり前。

 「分かる」こと自体は単なる条件であって、目標ではない。

 というわけで、電子辞書には困ったな〜と思っているときに読んだのが本書なのだ。すでに新聞紙上でも大いに話題になっていたから楽しみにはしていたが、予想通り、なかなかステキな本であった。暗記脳に悩んでいる外国語学部の学生諸君には、ぜひ一読をおすすめする。自分がやっている作業の意義に、一定の言葉を与えてくれる本だと思うので。

Bc30 話はHALにはじまる。

 言うまでもなく、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』の宇宙船に組み込まれたコンピュータの愛称である。ハルは、ある原因がもとで飛行士の一人を殺害、もう一人の飛行士は操縦マニュアルに従ってハルの機能を解除する。

 その場面が印象的である。

 操縦士がハルの記憶回路をひとつずつ、それこそ「マニュアルに従ってまるで機械のように」外していくあいだ、機械であるはずのハルが「こわい」と感情的な言葉を発するのである。<コンピュータに頼って世界を理解するようになれば、われわれの知能のほうこそが、人工知能になってしまうのだ。(p.309)>

 この結論に至るまでの議論には実に説得力がある。

 とりわけ私がつくずく「なるほどね」と感じたことが一点ある。

 それはネット接続を称揚する言説の存在である。

 いくつかあるが、その最大の勢力がグーグルであることは言うまでもない。グーグルが結果的に実現しようとしていることは、人間の記憶活動のアウトソーシングである。だが、カーは、機械と人間の脳の記憶のメカニズムには大きな違いがあると指摘する。

 たとえばボルヘスの有名な短編に「記憶の人フネス」というのがある。落馬がきっかけで異常な記憶力を手にした男の末路を描く。一度知覚した現象を記憶から削除できないフネスは、脳にとってもっとも重要な忘却と整理という能力を失い、まるでゴミためのような思い出とともに死んでゆく。いっぽう、同じボルヘスの短編に「バベルの図書館」がある。こちらはあらゆる書物を内蔵する無限大の記憶保管庫としての脳が鮮やかにイメージされている。コンピュータと脳の相違は、このフネスと図書館の関係に似ている。<トーケル・クリングベリは、「長期記憶を貯蔵できる脳の情報の量は、実質的に無限である」と言う。さらに、個人的記憶を形成するにつれ、われわれの精神はよりとぎすまされるのだということを示す証拠も挙げられている。臨床心理学者のシーラ・クロウウェルが『学習の神経生理学』で述べているところによると、想起という行為自体が、アイデアやスキルが将来学習しやすくなるよう、脳を調整する行為であるかのようだという。/長期記憶を貯蔵しても、精神の力を抑えることはできない。むしろ強化するのだ。メモリーが拡張されるにつれ、われわれの知性は拡大する。ウェブは、個人の記憶を補足するものとして便利かつ魅力的なものであるが、個人的記憶の代替物としてウェブを使い、脳内での固定化のプロセスを省いてしまったなら、われわれは精神の持つ富を失う危険性がある。(p.264-265)> フネスのように。

 グーグル崇拝者には反知性主義者も多い。

 たとえば古代の書き言葉は続け書きであったため、目で追い理解するには圧倒的な知的負荷が脳にかけられていた。その労をかろうじて軽減していたのは奴隷の存在で、識字能力のあるギリシア・ローマの連中はみな文字を奴隷に読みあげてもらっていたのである。知性の高い奴隷というこの近代的発想からするとあり得ない人種については、今年公開された映画『アレクサンドリア』でも見ることができる。それが、グーテンベルクとともに分かち書きが普及することで一挙解決された。情報を受ける際の知的負荷軽減というのは、近代テクノロジーのもたらした恩恵であっても害悪であるはずがない。

 が、グーテンベルク革命の時代は20世紀とともに終わった。新しい科学革命のパラダイムは文学そのものの運命をも変えつつある。

 そもそも、活字によって読書が普及した後も文学の書き手と読み手は社会のごく一部の人間に特化してきた。おかしな話である。プルーストやジョイスのどこがいいのか? いいと言っている人間だけに通じる符牒ではないのか? いまどきトルストイなんて誰が読むのか? 小説で「深い読み」などという御仕着せの教養を深めたところでいったいなんの役に立つのか? 旧来の「名作」とはアクセスが異常に狭められた文学という特殊世界の副産物であって、われわれは妙に長い複雑な自己中心的物語を書く作家を不毛に称賛してきたのではなかろうか?

 というような「ガキの開き直り(=反知性主義)」を本気で言わせる魔力というか魅力が、ネットというツールには分かちがたく潜んでいる。現に米国ではキンドル読者、日本ではケータイ小説が一定の若い読者層をつかんでおり、その読者層はおそらくプルーストの読者層とは合致しない。カーは日本の有名ケータイ作家が旧文学を批判する言葉を引用している。<「プロの作家の人たちが書いたものは、文が難しすぎるし、わざわざくどい表現を使っているし、ストーリーも読者のみんなには関係のないことだから」(p.150)>

 ハハハ。そうだよね。

 よく言ったもので、ネットユーザーの接続している世界は、実は普遍であるように見えて普遍ではなく、それは日本語の「みんな」に過ぎない。反知性主義の及ぶ範囲はせいぜい「俺と俺の友だち」程度のものであって、逆に言えば、俺流が全世界に通用するという集合的勘違いがグーグルであるというのも怖い話ではある。

 私が学生にネット離れをすすめているのは、なにも個人営業のラッダイト運動をしているのではなく、おそらく彼らにとっての主要な接続環境である「ミクシイ」などに象徴される “みんなの世界” から抜け出て、少なくとも100年前の地球の裏にいる人間の書いたものに耳をすませろ、と言いたいだけである。

 みんなを脱して、公共の知にアクセスしろと。

 その行為は、ネットを介しては、構造的に不可能である。

 ひとり部屋にこもって、あるいは図書館に座って書物を前にする「深い読み」を否定して、ネット接続者がたどりついた「新しい21世紀的な読みの方法」を、カーは “ジャグラー" と命名している。

 情報のジャグリング。

 本書の原題はThe Shallows.(浅瀬)である。

 永遠の浅瀬。

 上記のような反知性主義(往々にして反文学主義に読みかえることが可能)は、脳をコンピュータと同形的に捉えるグーグル的な「記憶のアウトソーシング」の表裏一体の関係にある。反知性主義は、人類が積み重ねて来た知の伝統を自ら疎外しようとする。記憶のアウトソーシング化は、人類の脳が司っている機能を自ら疎外しようとする。

 時間的疎外と生理的疎外。

 永遠に浅瀬でちゃぷちゃぷ情報をジャグリング。

 それが素晴らしい新世界(=ネット中心の世界)である。

 そして、その疎外の影響を被っているのは、なにも若者だけとは限らない。私たち学者も偉そうなことは言えないのである。

 そう、グーグル・スカラーである。

 現在、多くの学術誌はウェブ上でも公開されるようになり、研究者が論文を探す手間がずいぶん省けたと言われている。私もそういう話はよく耳にする。だが、カーはこう指摘する。グーグルの検索エンジンが、基本的に検索回数の多い情報に優先度を高くしている以上、論文検索を使用した場合の引用の傾向には、紙媒体で論文を探索したのと違う結果が出てくるはずだ、と。

 現に、ある論文によると、20世紀後半の論文引用傾向を調査したところ、ウェブ資料の多くなってきた90年代以降のほうが、近年の(要するにウェブ上に載っている)論文に偏る傾向が見られたという。

 一度でも論文を書けば分かることだが、図書館をぶらぶらして資料を収集していれば、目的の資料以外にも多くのノイズが知覚に侵入してくる。私もこの夏の時期は目的もなく図書館へ行くが、それはなんとなく脳にエンジンがかかる感じがするのを体が知っているからである。それが、ウェブでの検索を論文執筆のベースにしてしまったとたん、おそらくそうしたノイズは一切遮断されてしまう。次の箇所は個人的な戒めとして書き写しておこう。<検索エンジンなどの自動情報フィルタリング・ツールは人気増幅器として機能するのであって、どの情報が重要であり、どの情報がそうでないかについてのコンセンサスをただちに確定したあと、それを補強し続ける傾向にある。そのうえ、「紙媒体時代の研究者」が雑誌や書籍のページをめくりながら、当たり前のこととして拾い読みしていた「周縁的関連論文の多く」を、ハイパーリンクをたどることの容易さゆえ、オンライン時代の研究者は「飛ばしてしまう」のである。「普及している意見」をすみやかに発見できるようになったことで、学者たちは「それに追随してしまい、論文の参照をあまり行わなくなる」のではないかとエヴァンズは言う。ウェブ検索よりもはるかに効率が悪いとはいえ、昔ながらの図書館での調査はおそらく、学者たちの地平を広げることに寄与していただろう。「印刷物を拾い読みしたり熟読したりすることで、研究者は次々関連論文へと引き寄せられた。このことは幅広い比較を促進し、研究者を過去へと導いていたかもしれない」。楽な道は必ずしも最良の道ではないだろうが、コンピュータと検索エンジンがわれわれに勧めているのは楽な道なのだ。(p.299)>

 なんのことはない、私も学生の電子辞書使用に偉そうなことを言える立場にはなかったわけだ。電子辞書検索と同じである。紙媒体を使わないことで、目から遮断される情報がある。まさに中断テクノロジーである。

 とまあ、長くなったが、前置きはこの辺にしよう。実は2010年にオリジナルが出たこの本、すでにスペイン語版も売られており、かなり読まれているようだ。そして、近ごろノーベル文学賞がこの本を取り上げているので、彼の声に耳をすませてみることにしてみたい。

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      マリオ・バルガス=リョサ

      「増える情報、減る知識」

 ニコラス・カーはダートマス・カレッジとハーヴァード大で文学を学ぶなど、あらゆる点から見て、若いころはよき本の熱心な読者であったようだ。その後、彼の世代全員に共通してそうであったように、彼もまたコンピュータ、インターネット、現代の偉大な情報革命のもたらした奇跡の数々と出会い、それ以来、生活の大半を、あらゆるオンラインサーヴィスを利用し、夜昼となくネットサーフィンをして過ごすようになり、ついにはこの新情報技術の専門家、エキスパートとなって、この世界のことに関し英米で様々な優れた著書を残してきている。

 彼はある日ふと、自分がよい読者ではなくなっていること、いや、ほとんど本を読まなくなっていることを発見した。1ページか2ページめくれば集中力が分散し、とくに読んでいる本の内容が複雑で注意と熟考を要する場合、そのような知的傾注を継続することに対して無意識の拒否反応が沸き起こってくる。彼はこう述べている。「そわそわし、話の筋が分からなくなり、別のことをしようとし始める。ともすればさまよい出て行こうとする脳を、絶えずテクストへ引き戻しているような感じだ。(訳書pp.16-17)

 気になった彼は、ある思い切った決断をする。2007年の終わりごろ、妻と一緒にボストンの超近代的なマンションを引き払い、コロラド州の山間部にある、良くも悪くも携帯電話が通じずインターネットの接続もままならない山小屋に暮らし始めたのだ。そしてその山小屋で彼を有名にしたこの話題の書物を書いたのである。英語の題をThe Shallows: What the Internet is Doing to Our Brains.(浅瀬――インターネットが私たちの脳にしていること)といい、スペイン語ではSuperficiales: ¿Qué está haciendo Internet con nuestras mentes?(表層――インターネットは私たちの精神になにをしているのか?)(Taurus社刊, 2011年)という。一気に読み終えたばかりだが、感動し、驚くとともに、悲しくさせられた。

 著者のカーは情報社会を離脱したわけでもなければ、コンピュータをすべて破壊しようと目論む狂信的現代人でもない。本書のなかでも、グーグルやツイッターやスカイプといった機能が情報と伝達の世界にもたらした途方もない貢献や、それによって節約された時間、大量の人々が経験を容易に共有できるようになった事実、企業や科学的研究や国の経済発展などに役立ってきた経緯などをきちんと指摘はしている。

 だが、こうしたことにはすべて代償というものがあり、最終的にそれは、私たち人類の文化的営みと人間の脳の作用に、かつて15世紀、それまでは聖職者や知識人や貴族といったごく少数派に独占されていた読書という行為を一般化することに寄与した、あのグーテンベルグ印刷機の発見と同じぐらい重大な変化をもたらすであろう。カーの著書は、今から半世紀以上前に、メディアとは単なる情報の器ではなく内容そのものに対し巧妙に影響を及ぼすのであって、長期的には人間の思考行動様式に修正を迫る、と述べ、当時はあまりまともに相手にもされなかった、今や忘れ去られた観のあるマーシャル・マクルーハンの理論に再び注目する。マクルーハンが批判の対象としていたのは主にテレビであったが、カーの議論と、それを裏付けるために彼が引用している膨大な量の実験結果と証言からは、マクルーハンと同様の論が、今日では、インターネットの世界に関係する驚くべき現状を含むということが分かる。

 意固地なネット擁護者たちは、ソフトウェアは単なる道具に過ぎず、道具としてユーザーに仕えるのみである、そして当然ながら、そのテクノロジーの恩恵がまず疑いないものとなっている現場で少々実験を行えば、まずソフトウェア=道具説の正しさは立証できるだろう、と主張する。インターネットユーザーがマウスをクリックすれば、かつてなら専門家が図書館で数週間、数カ月かけてようやく得られた情報を、わずか数秒で獲得することができるのだ、これをほとんど奇跡的な進歩と言わずしてどうする、と。だが、いっぽうで、コンピューターで得られる無限のアーカイブがあるからとその行使を怠っているうちに、人間の記憶は、まるで使わなくなった筋肉のように、縮み、弱まるという、紛れもない実験結果もある。

 インターネットが単なる道具に過ぎないという説は正しくない。それは、いずれ私たちの身体そのもの、私たちの脳そのものの延長となる器なのであり、私たちの脳は、やがてだんだんとこの新しい情報と思考のシステムに適応してゆき、インターネットが代行してくれる(ときにはより良く代行してくれる)脳機能を私たちは少しずつ放棄してゆくだろう。いわゆる「人工知能」が最初は脳のために仕え、やがて私たちのこの思考する器官に甘言をもって擦り寄り、ついには人間の脳のほうがだんだんと道具である人工知能に依存するようになって、最終的にはその奴隷となる、などという突飛な話も詩の誇張とは言えなくなっている。あらゆる情報がいわゆる「世界最高水準かつ最大規模の図書館」と呼ばれるシステムコンピュータ内に所蔵されているのなら、人間が自らの記憶を新鮮かつ生きたものとして保っておく必要などなくなるだろう。キーをいくつか叩けば、私が必要とする記憶が、勤勉なマシンによって蘇らされ、ただちに私の手許に到着するのである。脳に注意力を喚起する必要などこれっぽっちもない。

 というわけで、たとえばフロリダ大の院生ジョー・オシェイ君のような熱狂的ウェブ信者が「じっと座って、一冊の本を最初から最後まで読みとおすなんてナンセンスだ。あまりいい時間の使い方じゃない。必要な情報は全部、もっと早くウェブで手に入れられるんだから。オンラインにおける熟練したハンターになれば、本は無用の長物になる(訳書p.21、若干加工)」と言ってしまうのも不思議なことではない。こういうのは、コンピュータ中毒のもたらす心の荒廃の一例である。そういう現状を見たデューク大文学部の教授キャスリーン・ヘイルズは、「学生たちに丸一冊本を読ませることがもうできなくなっている(訳書p.21)」と悲痛に打ち明けている。

 学生が『戦争と平和』や『ドン・キホーテ』を読めないのは彼らのせいではない。コンピュータの情報をつつくだけで、継続的な集中の努力をする必要のない環境に育った彼らは、長い読書の習慣はおろか、読書の能力までをも徐々に失ってきたのであって、彼らはウェブが無限の接続環境と付加・補足情報へのリンクをもって強いる例の認識上のザッピングで満足するようしつけられてきたに過ぎず、結果的に、あらゆる種類の注意喚起、熟考、我慢、読む対象にじっくりと身も心もささげるという、偉大な文学を楽しみながら読む唯一の方法に対するアレルギーを植え付けられてしまったに過ぎない。だが、私は、インターネットが表層的にしてしまったものは文学だけに限るとは思わない。IT利用と縁のないあらゆる無償の創造物は、ウェブのもたらす知と文化の埒外に置かれるだろう。また、ウェブはプルーストやホメロスやポパーやプラトンの著作はまず間違いなく容易にそのリストに含めるだろうが、それらの作品が、今後、読者を獲得するのは難しくなるだろう。グーグルを検索すれば、先史時代の読者がえっちらおっちら読んでいたそういう長ったらしい本が何を言わんとしているのか、簡単で、明快で、愉快な要約が見られるというのに、どうしてわざわざ読んだりせねばならない?

 情報革命が終了するにはまだ程遠い。それどころか、この分野では日に日に新たな可能性と成果が生まれており、今日の不可能が明日には過去のものとなっている。私たちは喜ぶべきだろうか? ウェブが旧文化に代わってもたらす新しい文化領域が進歩に見えるなら、もちろん喜ぶべきである。だがその進歩が、ある学者がインターネットが人間の脳と習慣に及ぼす影響に関する研究で導き出した次のような結論を意味するのであれば、私たちは不安を覚えるべきである。ファン・ニムヴェーゲンはこう指摘している。「問題解決などの認知的作業をコンピュータに「外部化」すれば、われわれは、のちに「新たな状況に適用」しうる「安定した知識構造」――言い換えれば、スキーマ――を、脳が構築する能力を減じてしまう。ソフトウェアが賢くなれば、ユーザーはバカになる。(訳書p.296、中略)

 ひょっとするとニコラス・カーの本には誇張があるのかもしれない。反主流の説を擁護する議論では往々にして誇張が増えがちだ。彼が本書で引用している証拠や科学的実験の数々がどこまで信頼できるのか、神経生理学や情報処理の知識に乏しい私には判断しかねる。が、この本は私に正確で健全な印象を与え、耳には聞こえない声――なんで私が嘘をついたりせねばならない?――を発しているように思われる。どういうことか。

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