「感情部分や傷ついたことなんか知りはしないから、さっさと今やれることをやれ!」
という昭和型教育を受け続けて、気づいた時には鬱を抱え込むようになった。人生が閑話休題に差し掛かった時と言ってもいいかもしれない。
ともかく急ぎ足で走らせた蒸気機関車の石炭が切れた頃に私は鬱になった。
石炭を焚いて必死に動いている時人は私に対して、ほら、鍛えられてよかっただろう、などと無責任に言ってのけた。
私はそれに苦笑いで微笑みながら、効果はあったのだと思いこむようにしていた。そうしなければ人生が否定されるような気がしたからだ。
一方でこうした昭和型の気持ちをないがしろにして行動を優先する、言ってしまえば軍隊的な教育方針で鍛えられる人もいる。
そうした人たちは大人になってワタミの渡辺よろしく、甘ったれんな、俺の時はもっと厳しかったんだ、などと言い始めたりする。
まあそのことは今は良しとしよう。問題はそうやって成長した結果、軍隊式でうまくゆく人もいれば、私のように心を殺されてしまう人もいるということだ。
私はそのことに関して今だって間違ってるとも正しいとも言うことはできないでいる。
自分が病んでしまったにも関わらず、それらは合うか合わないか、という効能でしかないからだ。
つまりは渡辺にとっては正解で、渡辺以外の人にとっては不正解という問題でしかない。
かつての大阪都知事橋本の学生に対する厳しい措置とセリフだって橋本にとっては当然の試練だったし、橋本は試練に耐えられたというだけにすぎない。
人は大抵の場合、自分にできたのだから他人にもできるはずだという無茶を心の片隅に安置している。
私は常々、人の心的な修練はキャパシティーを引き出すだけで、付加するものではないと考えている。
つまり内在するキャパシティーを発掘し終えたらその人の限界はそれ以上引き伸ばされない。いわゆるこれが器というものだ。
努力と根性と集団の圧迫によって鍛えられたと考える感性と潰されると考える感性は、もともと受け取り方も器の方向性も許容値も全く違う。
軍隊式のメリットはその個人に合っていれば最大限効能を発揮し、集団のために役立つ。
しかしセミナーを必要としたベトナム帰還兵を見て分かる通り、殆どの人間にとって過酷な状況を一律に要求される出来事は試練ではなく虐待でしかない。
たった数人の器を見つけ出すために映画『パッション』のような無理強いを続けることは普通とは言えない。
パッションやフルメタルジャケットの世界観は心を殺す世界だ。体よりも心が先に死ぬ。
なぜなら彼らが音を立てることは直ちに意義を申したてることであり、一定の正義を振りかざす社会に間違った倫理観を呈することにほかならないからである。
それが間違った世界であっても、そこに正しい倫理観を持ち込むこと自体が間違ったことであると考えてしまう。
とはいえそもそも上項の前提であればどちらが正しいかもわからない。