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「だ」についてkillhiguchiさんへのおこたえ

 すごく間が空いてしまってもうしわけないです。
 本当はついったーか、「だ」に関する論文を書きました - 思索の海の続きで向こうで書いた方がいいのかもしれませんが、けっこう込み入った話なのでこちらで。僕の返答自体は非常にシンプルなのでついったーでやってもよかったかな…
 下記は連続の発言なのですが、ついったーの発言埋め込みだと見にくかったので僕の方で整形してつなげています。

丁寧なお返事ありがとうございます。論文で挙げられた形式とダロウとジャナイカには、ダに下接しない、TP節に下接する、形容詞に下接する、という共通点があります。後ろ二つの特徴は、従来、IP節を補部に取る述語であるとか文末外接形式だとか言われて、説明されてきました。問題は最初の特徴で、IP節を補部に取るのであれば、名詞述語文すなわち名詞+ダも補部にあらわれそうなのに、そうならない、というところが問題でした。そこで私はかつて、名詞に下接する場合と文末外接形式の場合は同音異義であると考え、名詞に下接する場合はダの活用であると考えようとしましたが、あまりに無理が大きく、投げ出していました。そこで貴論文を拝読し、すばらしいと思った次第です。ですので、できればダロウとジャナイカも一緒に扱えた方がいいのではないか、と思っています。ただ、ダの活用にモダリティ形式を含めるのはやめにしましたが、デ・ノ・ナ・ニを含めた格助詞もダの活用として扱えないかと考えています。この点で村木新次郎の格助詞を名詞の活用とする説とは対立します。推量をどのように考えるかはある種の断定と取るか断定回避と取るかの2潮流がありますが、三宅先生のは前者で、確認要求などを説明しようとするなどの動機付けが私は断定回避派ですので、問題なく+assertionのダと共起しません。ジャナイカはサと同じく断定っぽいのですが、ダロウの確認要求と同じく、何らかの対人的な機能が+assertionとの共起を阻んでいると考えなければならないと思います。どっちにせよ、[+assertive]が何なのかがはっきりしないと、上手くは言えないのですが。貴論文のすばらしいところであり、少し困るところは、ベキダ・ヨウダ・ソウダなどのダを含むモダリティ形式の振る舞いも説明できるのですが、そのためにはこれらの形式の部分に[+assertive]を認めなければならないというところではないかと思います。ヨウダのうちTP節の[+assertive]と衝突するモダリティをヨウが表し更にその外に[+assertive]のダが現れる。としてよいのかどうか。もう一つの良い点であり悩ましい点は、ノが現れるモダリティ形式において、ノは述語内の名詞と名詞ヨウなどを結びつけるために現れているということを明示している点です。しかしモダリティ形式自体は名詞述語全体の外についているわけで、カッコ入れの逆理あるいは青木博史の句の包摂が起きていることになります。これはDMでどのように処理されるのでしょうか。[+assertive]ですが、私はCP領域も含んだものとしていいと思っています。そっちのほうが、終助詞との関係や、モダリテい形式自体にダが現れることと折り合いがつくのではないかと。
https://twitter.com/killhiguchi/status/666574394236342272
https://twitter.com/killhiguchi/status/666574978859405312
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https://twitter.com/killhiguchi/status/666579887956750336
https://twitter.com/killhiguchi/status/666580767359635456

ダロウ、ジャナイカ

 この2形式も、もちろん取り扱える方がよいです。というか、避けては通れないですよね。このやりとりの前に少し触れたように、実はもともとはダロウの節内にダが出られるかという問題を考えるために取り組んだ研究だったのですが、そのもともとの目的はまた達成されず、というところでひとまずまとめてしまったという形です。先行研究ではダ-ダロウの同音衝突から一つ削除、という処理が提案されているのですが、ジャナイカはそれでは処理できないので、やはりコピュラとはなんぞやというところに踏み込まざるをえません。

デ・ナ・ノ・ニ

 基本的には、僕もこれらの形式をダのパラダイムとして考える立場です(ベースになっているNishiyamaの研究もそう)。デやニが全てそうかというと自信はないのですが…格助詞を名詞の活用とするのは活用/語形変化の定義にもよりますが、少なくとも印欧語のような格の形態変化のように考えるのはちょっと無理があるかなあと。

モダリティ形式にもダが付いちゃう問題

 これはご指摘の通りで、今のところ、埋め込みとして処理するという案が一つの可能性としてあります。つまり、雑に書きますが、
[[[明日は雨が降る]よう]だ]
のようにして、ダの「判断」はモダリティまでを含めて全体のかかっているものとする、という感じです。埋め込みなので、内部の命題部分の階層と外側(主節)の階層は切れていて、カートグラフィー的な問題の対象にはならないというか。

 ノの出現には名詞性が絡みそう、という点は当然として、その名詞性をどう設定するのかという点についてはまだあまり詰められていません。ただ名詞性はたぶんノの出現の必要条件なので名詞性を満たしてもノが出ないことも可能性としては考えられますし(ホントにあるのかな…)、名詞性の条件を満たしていても、他の素性・条件が掛けているためにノが出ないということがあってもいいかもしれません。ただまだアイディア段階です。ややうろ覚えですが、奥津などのように、ダとノを連体かどうかという条件のみで分けるのではなく、もう少し分布にずれがあってもいいかとは思っています。
 句の包摂問題については、形態の具現はどういう素性がどの節点にあるかどうかだけで決定するというDMの趣旨からいけば、たとえばですが、構造的には節を埋め込んでいるけれども、ノの具現は隣接した名詞同士ぐらいの範囲で(localに)決まる、ということも理論的には可能です。ただこれもまだイメージしているだけで、実際にうまくいくかどうかはやってみないと、というところですね。

[+assertive]って何

 やっぱりこれが一番悩ましいところで、なんとなくこういうもの、という話まではいくのですが、詳しく定式化しようとすると難敵です。もしかしたら、さらに素性を分ける必要があるのかもしれませんが、そうするとDMではゼロ形態の問題が出てくるので、そういう意味でも悩ましいですね。CP領域に関わる特徴を含んでいるのでは、というのは賛成です。ただカートグラフィーの議論の中でもassertionをどう取り扱うかというのはあまり議論も盛んでもないし、話も進んでいないのではないかなあ。これは僕の勉強が足りてないだけの可能性もじゅうぶんありますけど