ワンダ・ジャブロンスキーは「OPECの生みの親」と言われています。
石油産業は、一般に「男の世界」であると思われてきました。しかしワンダは女性です。
下の写真の真ん中に写っているのがワンダです。その左はサウジの伝説的な石油相、ヤマニです。

OPECの産油国の多くは回教です。しかし彼女はキリスト教徒です。それにもかかわらずワンダは回教国の王様や石油大臣と頻繁に会見、意見交換し、自由にそれらの国々を行き来しました。
彼女は政府のお役人でもなければ、石油会社の役員ですらありません。ワンダはジャーナリストです。
つまりOPECの「言いだしっぺ」は、女性で、しかも異教徒で、さらに政治や石油業界のアウトサイダーという、普通ならありえないシナリオだったということです。
可憐な女性記者時代
世界にジャーナリストは星の数ほどいるけれど、ワンダほど隠然たる影響力を持ち、カッコイイ記者は、ちょっと思い浮かびません。キャリアウーマンを目指す全ての女性にとって、ワンダほど憧れのロールモデルは居ないのではないでしょうか?
ワンダはチェコスロバキアで生まれました。父が地質学者で、石油の探索の仕事をしていた関係で、幼少時代を西テキサスの荒野で過ごしました。
その後、コーネル大学、そしてコロンビア大学のジャーナリズム・スクールに進学します。
大学院時代に、当時、ウォールストリート・ジャーナルと並ぶ経済専門誌だったジャーナル・オブ・コマースにアルバイトとして入社します。最初の仕事はペーパー・ボーイでした。1943年のことです。
ペーパー・ボーイというのは、記者がタイプライターで原稿を打つそばから、出来上がった原稿をエディターのところへ運ぶメッセンジャーを指します。
ある日、記者が出払っている時に、ジャーナル・オブ・コマースの地元であるニューヨーク地域のローカルなニュースを代筆しなければいけなくなり、その時の記事が上司の目にとまって、記者に抜擢されます。
彼女は父の仕事の関係で、油田地帯のキャンプで育ったので、石油会社に勤務した経験は無いけれど、石油探索の仕事がどういうもので、石油技師たちが使う業界用語とか、そういうことは全て知っていました。
それで石油専門の記者に指名されたというわけです。
当時は、そもそも女性の経済記者という存在自体が稀であり、一例としてニューヨーク・タイムズは女性だという理由だけで採用をしませんでした。その中で、ジャーナル・オブ・コマースだけが積極的に女性記者をプロモートしていたのです。
彼女が28歳のとき、政情不安に揺れるベネズエラに行き、石油大臣とのインタビューに成功します。当時、ベネズエラは世界最大の石油輸出国でした。そしてベネズエラは石油の国有化の先鞭をつけた国でもあります。
それで彼女のベネズエラに関する記事を読んだスタンダード石油ニュー・ジャージーの社長は「うちの取締役会で最近のベネズエラの様子を説明して欲しい」と要請します。
つまり28歳の小娘が世界最大の石油会社の重役会でプレゼンしたわけです。
このときの彼女の知見はスタンダード石油の経営陣を驚かせ、それ以降、ワンダは産油国に関するインテリジェンスの重要な情報ソースとしてオイルメジャーのトップとホットラインを維持するようになります。
その一方でベネズエラ石油相とのインタビュー記事を見た中東産油国はワンダから「他の産油国は、どうしているか?」という情報を得るためにワンダにコンタクトします。
産油国のブレーンとなる
ワンダはベネズエラの石油コンセッションの契約内容を克明に把握しており、のちにイランに取材旅行した際、石油の国有化をめざすイラン政府に「ベネズエラではこうやっています」ということを細かく説明しました。
もともと中東産油国はベドウィンという遊牧民などの国だったので、石油をどう探し、それをどう地中から汲み上げ、世界へマーケティングするか? というノウハウは、一切、ありませんでした。
だから欧米の石油会社がやってくると、少しの手付金を貰っただけで、採掘権をあっさり売り渡してしまったわけです。
しかし後になってオイルメジャーが莫大な利益を上げているにもかかわらず、産油国には殆ど利益を還元していないことに腹を立てたそれらの国々では石油ナショナリズムの考え方が頭をもたげてきます。
ワンダは石油会社の経営トップとも大変良好な関係を維持していましたが、その一方で収奪されている産油国に対しても同情的でした。
一例として、ワンダはサウジアラビアの国王に謁見を許された唯一のジャーナリストです。
長い目で見れば、奪う一方のやり方は、反感を買い、ストライキや、果ては革命になりかねないという問題意識から、オイルメジャーと産油国の両方に働きかけ、折り合いをつけるための仲介者の役目を進んで買って出たわけです。
ワンダは「ジャーナリストは石油を巡る国家間の利害の衝突を暴き、国民に説明する責務がある」と考えました。だから彼女の書く記事は、時としてオイルメジャーを厳しく筆誅するものでした。
ワンダは、のちにマグロウヒルの後ろ盾を得て、ペトロリアム・インテリジェンス・ウイークリー(PIW)という業界専門週刊紙を1961年に創刊しました。
PIWは聖書を印刷するペラペラに薄い紙に印刷されていました。当初PIWは週末に印刷されると航空便で世界に配達されたので、国際郵便料金を節約する必要があったのです。
これは世界の石油関係者にとって必読の業界紙になりました。
OPEC設立の密談
1959年4月13日にワンダはニューヨーク発カイロ行アラムコ社用機に便乗し、アラブ石油相会談に参加します。
アラブ石油相会談は新築されて間もないナイル・ヒルトンで開かれました。

そのナイル・ヒルトンで彼女が泊まっている部屋に、ベネズエラの石油大臣ペレス・アルフォンソとサウジアラビアの石油大臣アブドラ・タリキを招待し、この二人を引き合わせたわけです。
オイルメジャーから搾取されている同士の産油国が協働することで、産油国の利害を守ってゆこう……そういう試みが、この密談から始まり、それがのちにOPECというカタチで結実するわけです。
石油産業は、一般に「男の世界」であると思われてきました。しかしワンダは女性です。
下の写真の真ん中に写っているのがワンダです。その左はサウジの伝説的な石油相、ヤマニです。
OPECの産油国の多くは回教です。しかし彼女はキリスト教徒です。それにもかかわらずワンダは回教国の王様や石油大臣と頻繁に会見、意見交換し、自由にそれらの国々を行き来しました。
彼女は政府のお役人でもなければ、石油会社の役員ですらありません。ワンダはジャーナリストです。
つまりOPECの「言いだしっぺ」は、女性で、しかも異教徒で、さらに政治や石油業界のアウトサイダーという、普通ならありえないシナリオだったということです。
可憐な女性記者時代
世界にジャーナリストは星の数ほどいるけれど、ワンダほど隠然たる影響力を持ち、カッコイイ記者は、ちょっと思い浮かびません。キャリアウーマンを目指す全ての女性にとって、ワンダほど憧れのロールモデルは居ないのではないでしょうか?
ワンダはチェコスロバキアで生まれました。父が地質学者で、石油の探索の仕事をしていた関係で、幼少時代を西テキサスの荒野で過ごしました。
その後、コーネル大学、そしてコロンビア大学のジャーナリズム・スクールに進学します。
大学院時代に、当時、ウォールストリート・ジャーナルと並ぶ経済専門誌だったジャーナル・オブ・コマースにアルバイトとして入社します。最初の仕事はペーパー・ボーイでした。1943年のことです。
ペーパー・ボーイというのは、記者がタイプライターで原稿を打つそばから、出来上がった原稿をエディターのところへ運ぶメッセンジャーを指します。
ある日、記者が出払っている時に、ジャーナル・オブ・コマースの地元であるニューヨーク地域のローカルなニュースを代筆しなければいけなくなり、その時の記事が上司の目にとまって、記者に抜擢されます。
彼女は父の仕事の関係で、油田地帯のキャンプで育ったので、石油会社に勤務した経験は無いけれど、石油探索の仕事がどういうもので、石油技師たちが使う業界用語とか、そういうことは全て知っていました。
それで石油専門の記者に指名されたというわけです。
当時は、そもそも女性の経済記者という存在自体が稀であり、一例としてニューヨーク・タイムズは女性だという理由だけで採用をしませんでした。その中で、ジャーナル・オブ・コマースだけが積極的に女性記者をプロモートしていたのです。
彼女が28歳のとき、政情不安に揺れるベネズエラに行き、石油大臣とのインタビューに成功します。当時、ベネズエラは世界最大の石油輸出国でした。そしてベネズエラは石油の国有化の先鞭をつけた国でもあります。
それで彼女のベネズエラに関する記事を読んだスタンダード石油ニュー・ジャージーの社長は「うちの取締役会で最近のベネズエラの様子を説明して欲しい」と要請します。
つまり28歳の小娘が世界最大の石油会社の重役会でプレゼンしたわけです。
このときの彼女の知見はスタンダード石油の経営陣を驚かせ、それ以降、ワンダは産油国に関するインテリジェンスの重要な情報ソースとしてオイルメジャーのトップとホットラインを維持するようになります。
その一方でベネズエラ石油相とのインタビュー記事を見た中東産油国はワンダから「他の産油国は、どうしているか?」という情報を得るためにワンダにコンタクトします。
産油国のブレーンとなる
ワンダはベネズエラの石油コンセッションの契約内容を克明に把握しており、のちにイランに取材旅行した際、石油の国有化をめざすイラン政府に「ベネズエラではこうやっています」ということを細かく説明しました。
もともと中東産油国はベドウィンという遊牧民などの国だったので、石油をどう探し、それをどう地中から汲み上げ、世界へマーケティングするか? というノウハウは、一切、ありませんでした。
だから欧米の石油会社がやってくると、少しの手付金を貰っただけで、採掘権をあっさり売り渡してしまったわけです。
しかし後になってオイルメジャーが莫大な利益を上げているにもかかわらず、産油国には殆ど利益を還元していないことに腹を立てたそれらの国々では石油ナショナリズムの考え方が頭をもたげてきます。
ワンダは石油会社の経営トップとも大変良好な関係を維持していましたが、その一方で収奪されている産油国に対しても同情的でした。
一例として、ワンダはサウジアラビアの国王に謁見を許された唯一のジャーナリストです。
長い目で見れば、奪う一方のやり方は、反感を買い、ストライキや、果ては革命になりかねないという問題意識から、オイルメジャーと産油国の両方に働きかけ、折り合いをつけるための仲介者の役目を進んで買って出たわけです。
ワンダは「ジャーナリストは石油を巡る国家間の利害の衝突を暴き、国民に説明する責務がある」と考えました。だから彼女の書く記事は、時としてオイルメジャーを厳しく筆誅するものでした。
ワンダは、のちにマグロウヒルの後ろ盾を得て、ペトロリアム・インテリジェンス・ウイークリー(PIW)という業界専門週刊紙を1961年に創刊しました。
PIWは聖書を印刷するペラペラに薄い紙に印刷されていました。当初PIWは週末に印刷されると航空便で世界に配達されたので、国際郵便料金を節約する必要があったのです。
これは世界の石油関係者にとって必読の業界紙になりました。
OPEC設立の密談
1959年4月13日にワンダはニューヨーク発カイロ行アラムコ社用機に便乗し、アラブ石油相会談に参加します。
アラブ石油相会談は新築されて間もないナイル・ヒルトンで開かれました。
そのナイル・ヒルトンで彼女が泊まっている部屋に、ベネズエラの石油大臣ペレス・アルフォンソとサウジアラビアの石油大臣アブドラ・タリキを招待し、この二人を引き合わせたわけです。
オイルメジャーから搾取されている同士の産油国が協働することで、産油国の利害を守ってゆこう……そういう試みが、この密談から始まり、それがのちにOPECというカタチで結実するわけです。