講談速記本研究家 山下 泰平
2015年12月15日
鳥の背に乗って空を飛ぶ佐助。「奇々怪々猿飛佐助薩摩落」(凝香園、博多成象堂 大正四[1915]年)
真田一族が歴史上の武将から明治大正期の読み物のヒーローとなっていった過程を前編でご紹介した。真田一族の物語に欠かせない存在と言えば、忍術や武術の達人など多才な面々をそろえた真田の家臣たち「真田十勇士」だ。架空の存在だが、ヒーロー戦隊ものの元祖とみなす人もいる、人気のキャラクターである。
その真田十勇士の中で、最も有名なのは猿飛佐助だろう。現代では小さく素早く猿っぽい、それでいて最強の忍者といったイメージが流通している。しかし人気があるにもかかわらず「猿飛佐助」というキャラクターを誰が成立させたのかということすら、詳しいことは分かっていない。
これは分からないのが当然で、現代知られている猿飛佐助像が確立するまでの過程に限っても、後述するように講談速記本や初期の大衆小説、千里眼や怪力嬢まで登場するくらいに交錯している。明治大正時代というのは近世と近代がドロドロと混ざった時代で、当然ながら娯楽物語の世界もやはり混沌(こんとん)としている。そんな文化を一人の人間が全て把握するのは、まず不可能じゃないかと私は思っている。
現代の創作物の中で猿飛佐助は空を飛ぶが、明治の猿飛佐助は空を飛ぶことはない。前編でも書いたように、明治人は合理性を求めた代償に、フィクションを楽しむ技術を失ってしまっていた。いきなり猿飛佐助が空を飛べば、クレームをつけかねない読者が数多くいた。
江戸時代の十勇士像も現実的で、諜報(ちょうほう)活動に従事する忍びでしかなかった。物語のクライマックスでは幸村の影武者となり、5人の幸村が徳川方を追い回し、危なくなると煙とともに消えてしまう役どころだった。江戸の十勇士はあくまでも幸村の郎党で、単独行動で目覚ましい活躍をするわけではない。
猿飛佐助や忍者たちがオオワシを呼んで背中に乗り、空中から墓石を投げ付けて徳川家康を半殺しの目に遭わせ始めるのは、大正時代に入ってからのことである。一般に猿飛佐助は、講談本を小型化した立川(たつかわ)文庫でヒーローになったと認識されているが、そこに至るまでには数知れぬ名もなき創作者たちの苦労があった。ここではその奮闘の一部と、明治大正の娯楽物語はすごいのだということを改めて紹介していきたい。
元々猿飛佐助は大兵肥満の武士であった。佐助と出くわした武士は
イヨー武士だ武士だ。大きな武士に坊主だぞ。
(「真田郎党忍術名人 猿飛佐助」雪花山人、立川文明堂 大正八[1919]年)
と見た目の感想を述べている。講談速記本の設定では佐助の身長は180cm、昔の人間としてはかなりデカい。
なぜ佐助は小さくなったのか。これを解説するため欠かすことができないのが、真田一族の高齢化問題である。
真田幸村は明治大正時代の物語の中では、史実と異なってかなり長い間生きている。大坂の陣が終わった後は薩摩の島津家へ落ち延び、豊臣方の勇士たちを引き連れて琉球を統治したり、世をはかなんで山奥で仙人となったりしている。基本的に年をとればとるほど強くなる。前編で紹介したケースでは、幸村は天狗(てんぐ)となって姿を消し、目で動物を殺す。多少ならば空をも飛ぶ。ほぼ無敵状態だ。
鉄の棒を振り回す三好清海入道。まだこの頃は中年である
「真田家豪傑三好清海入道」(野花散人、立川文明堂 大正三[1914]年)
大坂の陣直前の三好清海入道。若者化している
「忍術名人猿飛佐助」(野原潮風編、榎本書店 大正六[1917]年)
ただし真田幸村は歴史上の人物である。物語の世界であっても年月が過ぎれば年を取ってしまう。いかに天狗の幸村が無敵であろうとも、そろそろ70という年齢で江戸城に殴り込みをかけて徳川家光の首をたたき切ろうというのは、元気すぎるというものだ。
真田十勇士の一人、僧形で18貫(約67kg)のこん棒を振り回す豪傑・三好清海入道も人気のあるキャラクターだが、江戸の物語「真田三代記」では、大坂の陣の時点で80歳を超えている。明治大正時代の物語世界における清海入道の趣味は、日本全国を漫遊して徳川侍を鉄の棒でベッキベキに殴りつけることである。80前後の老人にそんなことをさせるのは、あまりにむちゃだ。
それでも真田十勇士たちはヒーローである。夏の陣が終わった後も活躍させたいというのが人情だ。創作者たちは苦悩の末、彼らを若返らせるという荒業に出てしまう。
三好清海入道が若返ったことの説明は特にない。十勇士は年齢はもちろん、実在したかどうかすら曖昧(あいまい)な人々である。少しくらい若くなっても問題ないといったところなのだろう。しかし幸村の年齢ははっきりしているから、若返るわけにはいかない。それではどうするのかというと、息子や孫を出してしまうのだ。
明治から大正の物語中で真田一族最強の人物は、恐らく真田大助の息子「鳥さし胆助」だろう。現在、猿飛佐助と比べると知名度は皆無に等しい。しかし「鳥さし胆助」は、猿飛佐助の造形に大きな影響を与えている。
鳥さし胆助は本名真田金助、真田幸村の孫である。幸村の息子・真田大助は幸村とともに琉球を統治した後、現地の娘さんと結婚し金助という子を作っていた。その金助が並外れた能力で三代将軍家光の命を狙う、という物語だ。この金助がとにかく強い。
琉球を攻め落とした後、真田大助は天草四郎の軍師・森宗意軒として島原の乱に参加し、残念ながら討ち死にしてしまう。初っぱなから作者の妄想全開ではあるが、当時は「真田大助ならこれくらいのことはしかねない」ぐらいに思われていた。この時代のフィクション世界では、真田大助は幸村以上の能力を持つという設定がある。
大助の死後、妻は子の金助を連れて、田舎へ落ち延びる。金助はすくすく成長し、8歳になると鳥刺で母親を養う。鳥刺というのは鳥モチを付けた竹竿(たけざお)で小鳥を取るという遊びで、これを職業にしていた人もいた。8歳の時点で十分に強く、本職の相撲取りに勝利し、刀を持った侍に竹竿で勝利している。それで肝っ玉が太いから、鳥さし胆助というニックネームが付く。
幼い日の金助。あまり強そうではない
「慶安豪傑鞍馬大助」(蒼川生、岡本偉業館 大正三[1914]年)
真田幸村の孫だから、鳥さしの腕前も超一流である。金助が鳥を取り過ぎた結果、近場の山から鳥がいなくなってしまう。金助は鳥を追い求め山奥にまで入り込み、偶然にも仙人と出会うと、そこで修行をすることになる。仙人の名は鞍馬僧正坊、牛若丸に極意を譲った僧正鬼一法眼の孫である。
金助は修行の結果、36mの範囲内なら縦横自在に飛ぶことができるようになる。猿飛佐助が使える忍術ならば、全て使える。予知もできれば夜も目が見え、にらめば人を気絶させることができるし、岩すら目で壊せる。
これだけで十分に無敵だが、さらに「梅干しの術」も使えてしまう。金助が人を梅干しの種だと思ってにらむと、その人物は梅干しの種のように無力になるという特殊能力だ。なんでもできるのが真田金助で、もはや神の領域に近づいている。
修行を終えた金助は、江戸へと出掛ける。目的は三代将軍家光を殺し、江戸城を燃やしてしまうことである。いくら家光が武芸を好んだとはいえ、こんな化け物がやってきたら命が危ない。
江戸に到着した金助は、知名度と人望を上げるため、かの由井正雪に武芸十八般の勝負を挑む。しかし十八般どころか二般で正雪は全身打撲となり、土下座して許しを請う。フィクションの世界において、由井正雪は剣豪として名高い柳生宗矩より強い。その由井正雪が土下座するくらいなのだから、金助は文句なしに強い。
そんなこんなで金助の評判は高くなる。才気に富み「知恵伊豆」の異名をとった老中・松平伊豆守信綱は、金助のたくらみを薄々知っている。暗殺してしまいたいのだが、強すぎて手が出せない。自宅に招待し鉄砲隊で撃ち殺そうとすれば、金助は屋根に飛び上がり一瞬で瓦の城を作り上げてしまう。これでは鉄砲すら通用しない。金助が暴れると危なくて仕方ないため、伊豆守の家臣たちは懐柔策に出て酒肴(しゅこう)でもてなすと、金助は牛飲馬食しながら大声で伊豆守に聞こえるように罵倒する。
主人の伊豆殿はなぜあのような馬鹿なのぢゃ。どのようなことをしたとて捕らえることの出来ぬ某(それがし)を捕らえようとして、駕籠(かご)を潰されたり瓦を壊されたり屋根を破られたり、ハッハッハッ、大分損せられたな。愚図愚図(ぐずぐず)していると、この屋敷も黒土になるところであった。イヤ、馬鹿というものはとかく後手に回ってせずともすむ難儀をする、ハッハッハッ。
(「豪傑小説 続鳥さし胆助」三宅青軒、大学館 明治三九[1906]年)
怒りが収まらない伊豆守が中国拳法の達人を送り込むと、金助はハッハッハッと笑いながらボッコボコにして弟子にしてしまう。切り札として射撃と忍術の達人を使い真夜中に暗殺をしようとするも、金助は寝ながら弾丸をよけてしまう。流石の知恵伊豆もお手上げである。
このまま金助が豊臣再興のため旗揚げしてしまったら、確実に歴史が変わってしまう。そんなわけで、家光は病死する。将軍家光が死んでしまったのでは謀反を起こす意味もないと、金助は豊臣再興をあっさり諦め、その後は平和を守るため一転徳川家の御目付役として余生を送る。めでたしめでたし、といった物語である。
「鳥さし胆助」は明治のヒーローではあるが、今でも古臭い感じはしない。現在のゲームなどに登場したとしても、チートキャラとして活躍できるだろう。
前編の復習になってしまうが、いま一度講談速記本について確認しておこう。
明治の中頃まで、現代の人が親しんでいるような小説は日本にはほぼ存在しなかった。まず主人公の日常が描かれ、ある目的を達成するため冒険に巻き込まれ、目的を果たした主人公は成長した姿で日常に戻っていく……たとえばこういったストーリーを楽しむのが現代の物語である。ところが大正時代あたりまでは、ストーリー全体の展開よりも、歌舞伎の一幕見を楽しむように場面ごとの面白さを重視する人々が多かった。彼らはクライマックスなどなくても、あまり気にしなかった。
江戸時代末期、日本で初めてドン・キホーテを読んだ人が、なんとか勧善懲悪の説話として理解しようと苦心惨憺(さんたん)したという話がある。これは当たり前のことで、人間は知らないものをすぐ理解することはできない。知っているものに当てはめながら、少しずつ理解していくより仕方ない。
日本に存在する物語の中で、一番今の小説に似ていたのが実録や講談だ。だから講談を速記した講談速記本が、明治時代には人気を博していた。講談速記本の上で活躍していたのが、真田一族たちである。
現在、講談速記本の功績はほとんど無視されているが、それに輪をかけて無視されているのが最初期の大衆小説である。先ほど紹介した「鳥さし胆助 豪傑小説」(三宅青軒、大学館 明治三九[1906]年)はそこで活躍したヒーローだ。それゆえに、現代ではあまり知られていない。知られていないのだが、現代の物語は「鳥さし胆助」の影響を受けている可能性がかなりある。
ここから話は明治大正時代の混沌にぬかるんでいく。「鳥さし胆助」は当時それなりに売れたため、講談速記本の作者たちは「鳥さし胆助」を講談速記本化してしまう。なぜそんな面倒くさいことをするのかといえば、売れるからである。実はこれ以前に書き講談というのが存在した。これは講談の口演をスッ飛ばし、新聞記者や文章がうまい学生が自分で考えたストーリーを適当に書くというものだ。講談速記本という名称自体が嘘(うそ)だという適当さ加減である。そこからさらに発展し、ストーリーを考えるのもダルいし小説を書き直してゴマかすか……という粗雑で乱暴な手法が登場したというわけだ。
弁明しておくと初期の大衆小説は、講談速記本のストーリーや文体などを参考にしまくっていた。だからお互い様だといえなくもない。さらに講談というのは、面白おかしく本を読む話芸である。だから本を講談速記本の文体に書き直すというのは、理屈として通らないわけではないのだが、どちらにしろめちゃくちゃな話で、現代なら裁判沙汰だが明治だから問題ない。
善悪は別にして、明治三九年に出版された「鳥さし胆助」は、講談速記本「慶安豪傑鞍馬大助」として明治四一年に発売される。面白いから、もちろんそこそこ売れてしまう。さらに「慶安豪傑鞍馬大助」のダイジェスト版、「史談文庫 第五十編 慶安豪傑鞍馬大助」が大正三(1914)年に出版される。史談文庫というのは、いわゆる立川文庫の類似書で、こちらは子供向けの物語である。
これも立川文庫の類似書「天正豪傑 桂市兵衛」(凝香園、博多成象堂 大正一二[1923]年)
明治四〇年あたりだと、大衆小説はほんの少しだけ高級なものだった。その大衆小説を講談速記本にしてしまうことで、また異なる読者層に物語が広がっていく。さらに子供向けの物語にすることで違う年齢層にまで物語が浸透していく。より多くの人が「鳥さし胆助」を知ることとなるわけだが、これで終わらないのが明治大正時代の面白さで、「鳥さし胆助」をテンプレートに別の物語をも製造してしまうのだ。
「真田三郎丸」(法令館編輯部編、榎本書店)では幸村には大助の他にもう一人息子がいたことになっている。その名も真田三郎丸。3歳の頃に大阪の陣のどさくさで崖に落ちて生死不明となる。
死んだと思われた三郎丸だが、山奥で熊に育てられていた。動物と遊び暮らしていたため自然に野獣の力を持つようになる。5歳の頃には杉の大木を根本からヘシ折り、山の野獣を殴り歩く日々を送っている。その行動に理由や目的は特になく、ただの暇潰しだ。住まいの近所に忍術使いを頭領とした山賊たちがいると知ると、目障りだからと壊滅させてしまう。山賊たちが飼っていた虎も、370kgの石で圧殺する。この時、真田三郎丸はわずか8歳だが、すでに徳川天下を狙える実力を持っている。
幸村の子供だから、ただでさえ強い。その上、山奥で仙人となった上泉伊勢守から剣術を習う。上泉伊勢守は室町末期の剣術家で、フィクションの世界では上泉に剣で勝てる人間は存在しない。剣の神様である。三郎丸の時代に生きていたとすると年齢は百を超えているのだが、仙人だから全く問題ない。
修行をしすぎた上泉は眼力で800kgの石を90m浮遊させることができる。もちろん目で鳥も落とせるし、たいていのことはできる。そんな上泉伊勢守の元で修行をしたのだから、三郎丸も同じことができる。剣の腕前も上泉伊勢守と同等だ。
それのみならず真田三郎丸は、猿飛佐助から忍術の極意まで伝えられる。猿飛佐助の忍術はもちろんすごい。上泉、猿飛の力を併せ持つ上に、生まれつき強い。その能力は、鳥さし胆助とほぼ同じである。
真田三郎丸と仲間の曲渕勇三。何をしているのかは不明だが武器を振り回しているらしい
「真田三郎丸」(法令館編輯部編、榎本書店 大正六[1917]年)
三郎丸は漫遊しながら12名の勇士を集める。メンバーには猿飛佐助や霧隠才蔵もいる。彼らの最終目的は二代将軍・徳川秀忠をたたき切り、江戸城を燃やして世直しをすることである。ただし、三郎丸は幸村の息子であるにもかかわらず細かいことは気にしない性格なので、具体的な計画などは立てない。江戸の町で暇潰しに徳川侍を殴り歩くだけである。
当たり前だが、真田の残党12人が江戸にいていきなり殴りかかってくる、といううわさが流れ、徳川方は戦争の準備を始める。諸国大名へ通知が届き、精兵たちが江戸に集いはじめる。三郎丸たちは秀忠の命ぐらいいつでも奪えると思っているから、別に焦りもしない。だが、いかに三郎丸が強くとも徳川幕府を潰してしまうと歴史が変わってしまう。だから真田丸たちの隠れ家に知恵者の片倉小十郎がやってきて説得、和睦して物語は収束する。
ネームバリューのある武将の息子が仙人から不思議な術を習い、徳川将軍の命を狙うも将軍は死去、知恵者の説得に応じる……鳥さし胆助とよく似たストーリーである。本来ならば明治の大衆小説として消費されて終わるはずの鳥さし胆助が、異なるジャンルで再利用されることによって長く愛されることになる。
ちなみに歴史上に存在した人気キャラクターを活用するため、その息子を出すという手法は数知れぬほど使われている。
福島正則を軽くいなす秀若丸
「豊臣秀若丸:忠孝美談」(凝香園、博多成象堂 大正七[1918]年)
豊臣秀頼の息子、豊臣秀若丸もそんな息子たちの一員だ。怪力の持ち主で剣術の達人、軍学にもたけている。ストーリーは単純で、猿飛佐助の息子東馬、霧隠才蔵の息子小源太を引き連れて、日本全国の徳川方の殿様を秀若丸が懲らしめながら世直しをする。漫遊に出た年は13歳、早めの旅立ちの理由は、徳川秀忠が寿命で死んでしまう前に復讐(ふくしゅう)するためである。
猿飛小太郎(上)と和田平助。どこからどう見ても子供である
「和田平助正勝:甲賀流忍術名人」(凝香園、博多成象堂 大正四[1915]年)
猿飛佐助の息子は東馬の他にもまだまだいる。実の息子・猿飛小太郎幸時と、再婚した妻の連れ子和田平助正勝である。なんといっても子供であるから、猿飛佐助より少々忍術は劣り、時にピンチに陥るが、徳川侍などに負けはしない。
13、14歳の子供が大人の侍をボッコボコにするのはいくらなんでもやりすぎの感があるが、これにはちゃんと理由がある。実は大正時代に入り、講談速記本は子供向けの読み物になっていた。明治三〇年から四〇年にかけて講談速記本を読んでいた人々の知的レベルが向上していたのである。大人たちは講談速記本ではなく、さらに高度な物語を楽しむようになっていた。
本格的な推理小説は、すでに明治時代には何作か登場している。ところがこれがあまりウケない。ストーリーが複雑すぎて、理解できない人々がたくさんいたからだ。大正時代になると、日本全体の読者たちのレベルが向上し、ようやく推理小説ブームが発生する。作品だけあってもダメで、お客さんの準備が整わなければ娯楽分野は成立しないということがよく分かる。
レベルの上がった読者にとって、講談速記本は幼稚である。そんなわけで人気が落ちる。しかし講談速記本は、大正時代の子供向け読み物として復活する。子供が読む作品だから幼稚でも大丈夫だろう、といった雑で浅はかな販売戦略ではあるが、これが大ウケしたのだ。子供向けの作品なので主人公たちも若返ってとうとう子供になってしまう。当時の子供たちは、ほぼ同年齢の少年忍者たちが徳川侍を薙(な)ぎ倒していくのを愉快がって読んでいたのではなかろうか。
この話が猿飛佐助に何の関係があるのか、と思われるかもしれないが、ここでもう一度、和田平助正勝や豊臣秀若丸の挿絵を確認しよう。どう見ても子供で大兵肥満ではない。大正時代に至り、ようやく小さな子供も特殊能力を使えば大兵肥満の武士を倒せるというイメージが確立される。これが小さな猿飛佐助の原点だ。
現代の映画などで海外の主人公たちはおおむね筋骨隆々で巨大である。それに対して日本の物語では痩せた少年が強大な敵と互角に戦ったりする。これは不合理だと批判されることもあるが、歴史的には以上のような経緯があった。現代日本のヒーロー像が明治大正の娯楽から強い影響を受けている、ひとつの表れと言えよう。
猿飛佐助が超人的な活躍をし始めるために、明治大正期の創作者たちはオカルトブームを待たなくてはならなかった。オカルトと佐助になんの関係があるのか、と不思議に思うかもしれないが、これもこの時代の混沌ゆえの出来事だった。まずはこの朝日新聞の記事を見ていただきたい。
超能力新実験の記事(朝日新聞 1910年12月24日付)
明治時代、千里眼や透視、そして念写能力を持つ長尾いく子さんという女性が有名だった。その長尾さんの不思議な能力に京大の科学者が挑んだという記事である。現代では大学が超能力に関する実験を実施し新聞が記事にするという状況はあまり考えられないが、明治は不思議を不思議のまま放置せず、理屈と科学で解釈しようという機運が強かった。
これはオカルトに限ったことではなかった。小説の世界でも、嘘の物語はかなり長く嫌われていた。明治の中頃まで猿飛佐助が空を飛べなかったのもこれが理由で、忍術も科学的に解明できなければ読者は納得してくれない。明治期に嫌われたものの一つに迷信がある。西洋に追い付くため、当時の人々は合理的になろうとしていた。猿飛佐助が説明不可能の忍術で飛ぶというのは、全く受け入れがたい話であった。
ところがオカルトブームが起きることで、不思議な現象も解説できるのであれば納得しようという機運が発生する。明治三六(1903)年には
忍術一に隠身術とも云う。これまた術者の魔力と思えども、然らずして対者の主観的作用に他ならず。(「催眠術実験の成蹟」佐々木九平、誠進堂)
という解釈がなされている。簡単に翻訳すると「忍術とは催眠術である」という内容だ。催眠術は科学であるから、不合理さはない。そこに現れたのが三宅青軒だった。
三宅青軒は初期の大衆小説家で、恐らく日本で最初に合理的な忍者、つまり今も活躍する忍者キャラを創作した人物である。この人がいなければ、現在世界的に親しまれている「忍者」の登場は、少なくともかなり遅れていたはずだ。
1899年ごろのニュージーランドの新聞に掲載されたアニー・アボットのポートレート
Tony Wolf / The Bartitsu Society
三宅青軒に影響を与えたのが通称「アニー・アボット」という怪力で名をはせた女性である。男数人を持ち上げ、手のひらで押さえつけた椅子が何人がかりでもびくともしないという怪力術の見せ物で知られたアニー・アボットは、明治二八(1895)年に来日。日本での興行中、講道館を設立した柔術家・嘉納治五郎と弟子の富田常次郎、そして医学博士の丸尾文良が彼女のトリックを見破った、ということになっていた。彼らは嬢の怪力を合気の術と催眠術だと解釈している。この結論が正解なのかどうかは、今となっては分からない。
当時は世界中の人々が、アボット嬢の怪力の秘密を見破ろうしていた。動物電気(シビレエイやデンキウナギなどが発する電気)や催眠術、磁気の力など、様々な議論があったようだ。かのトーマス・エジソンも「これは電力ではないか」と推測したりしているのが面白い。信じられないかもしれないが、学術雑誌でも議論になっていた。
三宅青軒の快挙
「名士の笑譚」(吉井庵千暦、大学堂 明治三三[1900]年)
忍術は催眠術である
「桔梗丸:豪傑小説」(三宅青軒、大学館 明治四二[1909]年)
そんなわけで当時の日本人は、西洋人にも分からないことが日本人に分かったのだと喜び、アボット嬢の怪力解明は一つの事件になっていた。講道館の人々と医学博士がアボット嬢のトリックを暴いたのと同じ時期かほんの少し前、実は三宅青軒自身が力比べで彼女に勝利している。青軒はアボット嬢の怪力を「柔術でいうところの合気の術、いわゆる動物電気の作用である」と主張していた。
この事件の後、三宅青軒は催眠術や千里眼、丹田呼吸(下腹部の筋肉を利用した呼吸による健康法)などを当時としては科学的に研究し始める。自身の小説でもその知識を応用し、動物電気柔術の使い手や、火を自在に使う由井正雪の娘など様々なキャラクターを生み出した。先ほど紹介した「鳥さし胆助」の作者も実は青軒で、あの超人的能力は丹田呼吸を高度にしたものだ、と解説されている。いくらなんでも丹田呼吸が万能すぎるが、明治の人はそれなりに納得していたのだろう。もちろん忍術についても、相応に合理的な解説をしている。
三宅青軒が不思議な術に魅せられ研究した理由のひとつとして、「俺が最初にアニー・アボットの怪力のトリックを見破ったのだ」という自負があったことは間違いない。「菊水正吉」(大学館 明治四一[1908]年)という作品の主人公もアボット嬢と同じく力技の見せ物興行でお金を稼ぎ、青軒が登場して怪力を出す秘法を解説までしている。
一般的には立川文庫の創作者たちが「猿飛佐助」を考案したとされている。ただし佐助が登場した当初、使える忍術は闇や人混みに紛れて消えることと高速移動くらいのもので、現在の忍者キャラクターと比べるとかなり能力的に劣る。彼らは派手な忍術を科学で説明する術がなく、地味な技しか使わせることができなかった。
そんな時、立川文庫の創作者たちは三宅青軒の「桔梗丸」を講談速記本化した「豪傑明智光若丸」という作品を書き上げる。
雑になっているが三宅青軒とほぼ同内容の解説
「豪傑明智光若丸」(玉田玉秀斎・講演[他]、此村欽英堂 明治四二[1909]年)
「豪傑明智光若丸」の後、彼らはさらに「鬼丸花太郎」という物語をつくる。花太郎は忍術使いであり、火や水の幻覚を見せ大軍を食い止め、姿を消し城に忍び込んでは人を眠らせる。オーソドックスながらも、現在の忍者像と比べても見劣りしない能力を持っている。さらには暗い過去を持ち、単独でスパイ活動をしたあげく悲劇的最期を迎えるという、現代の忍者物に欠かせない非情な運命も設定している。あまりに出来が良いため、この物語も原作があるのではないかと疑ったが、今のところ発見できていない。
立川文庫の創作者たちの特徴として、とにかく仕事が丁寧という点が挙げられる。盗作するにしろ、新しい要素を付け加え物語を水増しすることを怠らない。結果、オリジナルの物語より面白くなることがある。もちろん品質が下がることもあるのだが、とにかく努力を忘れない。この作業によって彼らは小説の技術を自然と習得し、物語のバリエーションを増やした。その成果が後の真田十勇士らの活躍につながるわけだが、ここで最も重要なのは立川文庫の創作者たちが、忍術を科学で説明する術を身に着けたという点である。
江戸の古臭い忍者や妖術ではなく、現代にも通用する忍者キャラを初めて作ったのが三宅青軒、それを洗練させて応用し活用しまくったのが立川文庫。こういった流れの末、ようやく猿飛佐助や霧隠才蔵たちは物語の中で自由に飛行できるようになったのだ。
以上見てきたように猿飛佐助というキャラクターは、明治大正時代の流行から色濃く影響を受けている。忍術は催眠術だという解釈も、それ以前に催眠術のブームがあったからこそ生まれたものだ。立川文庫やその類書で忍術使いが活躍したのも、映画による忍術ブームがきっかけだった。大正時代になると、明治時代にあった忍術の詳しい解説は影を潜めてしまう。忍術映画を見た子供たちは、スクリーンで人間がパッと消え空を飛ぶ姿をすでに見ている。本の中で忍術使いが同じことをしていても、もはや不思議に感じることはなかったのだろう。
今回は主に明治大正時代の娯楽物語に登場する真田の一党を紹介してきたが、いずれも過小評価されている作品ばかりである。実際読むと本当に価値のない作品も多いが、こうして並べて眺めてみるとなかなか捨てたものではない。
私がこういった作品ばかり読んでいるため、かなりひいき目があるのだろうが、現在漫画やゲームで活躍しているキャラクターたちの原型の多くは、明治大正時代の物語に登場しているように思える。真田一族についてはすでに紹介した通りである。ついでにいうと、女性キャラクターも当然存在している。
忍術を使う雪姫様
「忍術漫遊戸沢雪姫」(春江堂編輯部編、春江堂 大正三[1914]年)
図は戸澤雪姫という女性の忍術使いである。姿を変えて日本全国を漫遊し、徳川侍を殴ったり山賊たちを皆殺しにしたり、大坂の陣では徳川の軍勢を翻弄(ほんろう)したりもしている。
柔術で男を手玉に取る雪姫様
「忍術漫遊戸沢雪姫」
やっていることは猿飛佐助とほぼ同じで、つまり忍術使いというキャラクターを女体化させたのが戸沢雪姫だ。戸沢雪姫は戸沢山城守の娘、つまりお姫様であり、身分を隠し不思議な力で悪人を懲らしめ人々を救う。魔法少女シリーズの原型のようなキャラクターともいえる。
こういうことを書いていると、時折「そんなものは江戸時代にもあった」と批判されることがあるが、そう言う人はそもそも明治大正と江戸時代の娯楽物語を読み比べてみたことがあるのだろうか、と疑問を持ってしまう。
例えば江戸時代の娯楽物語「伊賀越乗掛合羽」に「不死身の武助」という人物が登場する。不死身の武助は、不死身だから刀が身体に通らない。ところが星の光で照らした正宗の名刀だと不死身の肉体であっても斬れる、という設定だった。江戸の人なら納得してくれようが、明治以降の読者に「星の光で照らした名刀だけが斬れる」といった寝言は通用しにくかった。ただ、不死身というのはなかなか面白い能力だ。だから講談速記本では「異常に傷の治りが早いキャラ」と解釈する。それだけでなく、不死身だけどやっぱり刀で斬られるとケガをして痛い、といったギャグまで挟んでくる。
講談速記本は、このように過去の不合理な物語を語り直し、近代人が了解可能な物語に改良した。文明開化で近代化を急いでいた明治時代、ともすれば打ち捨てられようとしていた古い昔の物語たちを、一時的に保管したのが講談速記本だと捉えることもできるだろう。両者は対立するものでもなければ同質の存在でもない。
残念ながら「すでに存在するものを語る」という講談の性質からして講談速記本は新しいものを生み出すのはあまり得意ではなかった。そこで登場したのが初期の大衆小説である。講談速記本と大衆小説は、互いに弱い点を補完しながら人々を楽しませる物語を生産していった。
レベルが低いということで一度は消えそうになった講談速記本は、大正時代に子供向け作品としてよみがえる。それらの作品群は、昭和に入っても貸本屋で流通し続けた。これまで見てきたように、子供向け作品群には講談速記本はもちろん初期の大衆小説が磨き上げてきた物語の要素が埋め込まれている。最初期の貸本漫画家たちが、これらの作品群から影響を受けていないわけがない。「鳥さし胆助」を知らないままその要素を漫画の中に織り込んだ作者たちがいても、全く不思議な話ではない。そして、それらはさらに次の世代の表現の種を蒔(ま)いた。
アニメの世界では、スタジオジブリの宮﨑駿監督が、少年時代に戦後復刻された講談速記本を読みまくっていた、とかつて聞いたことがある。講談速記本の定番の必殺技として、助走を付けずに2mほど飛び上がる天狗昇飛切(てんぐしょうとびきり)という術がある。天狗昇飛切の術は忍術として扱われていることが多いが、忍者だけでなく剣豪塚原卜伝、槍術(そうじゅつ)の名人亀井新十郎、そして剣聖宮本武蔵など有名な豪傑は皆この技を使いこなすことができた。
必殺技の定番、天狗昇飛切の術
「天狗の術を使ふ木鼠小法師」(玉英子、樋口隆文館 大正三[1914]年)
創作の中で彼らのジャンプ力はどんどん向上し、大正時代には連続して飛び上がることによって空をも飛んでしまう。重力をものともせず軽やかに飛び回る宮﨑アニメのキャラクターに、講談速記本の空飛ぶヒーローたちの影を見ることは、決して的外れではないと思う。
もちろん小説の世界への影響は絶大で、幼少時に講談速記本の世界に出会い、長じて真田十勇士らの活躍する小説を手がけた作家は吉川英治・柴田錬三郎・司馬遼太郎……と枚挙に暇がない。影響の受け方は表現者によってそれぞれ異なる。たとえば少年時代にチャンバラ映画や子供向け物語に親しんだ池波正太郎は、荒唐無稽さ、痛快さで読ませる忍者小説の系譜と距離を置いた。
代表作「真田太平記」などは、講談速記本に欠けていたものを全て取り込んでいる点で際立っている。江戸や明治大正の真田物語では、幸村の兄信之はあまり活躍しない。登場人物は「強い」「弱い」、「悪」「善」ぐらいの区別しかなく、こまやかな感情のひだが描かれることもない。ついでにお色気シーンも存在しない。想像だが、池波は古い物語を深く読み込んだ上で、その欠落を補おうとした結果「真田太平記」のような名作を書くことができたのではなかろうか。
ゲーム「戦国BASARA」の真田幸村
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また、「サスケ」など忍者漫画の第一人者である白土三平の作品では、忍術のからくりが合理的・科学的に種明かしされている。これも明治時代に三宅青軒が、雑で荒っぽくはあるものの、すでに試みていたことではある。
1960年代に書かれた「真田剣流」の主人公の少女の名前は「桔梗」だが、三宅青軒の作品には明智光秀の小姓が活躍する「桔梗丸」がある。もしかすると白土もどこかで青軒の小説に触れていた可能性が……などという妄想をはじめてしまうとキリがないので、ここらで止めておこう。
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ともあれ、明治大正時代の娯楽物語から現代の我々が受け取った恩恵は計り知れない。講談速記本にはそのまま現代の作品に登場しても十分に活躍できそうな魅力的なキャラクターたちが息づいている。講談速記本は我々の物語の故郷ともいうべき存在で、同時に講談速記本や初期の大衆小説によって、江戸と現代の物語の間を埋める偉大な仕事が成し遂げられたことも事実である。
もはや作者が誰なのかすら分からない作品も多いが、明治大正時代に無名でありながらも十分すぎる才能を持った人々がいて、彼らの残した仕事は私たちがいま享受している物語につながっている。現代によみがえった真田一族の活躍を楽しむ時にそのことを思い起こしていただければ、一愛好者としてこれにまさる喜びはない。
やました・たいへい 1977年、宮崎県出身。立命館大学政策科学部卒。京都で古本屋を巡り、明治大正の娯楽物語などの研究にいそしむ。2011~13年、スタジオジブリの月刊誌「熱風」に「忘れられた物語――講談速記本の発見」を連載。
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