【元番記者が語る北の湖理事長】(17)互いに譲らない左の相四つから生まれた名勝負

2015年12月9日11時0分  スポーツ報知

 「黄金の左」よりも強烈な輪島の「右からのおっつけ」に苦しんだ横綱・北の湖。初顔合わせから15回の対戦で3勝12敗。先行する輪島に懸命に追いつこうと精進した。その努力が大相撲の歴史に燦然と輝く「輪湖時代」を築いた。

 最盛期は、1976年と翌77年だ。この2年間12場所は、前頭4枚目の魁傑が優勝した76年秋、大関・若三杉の77年夏の2場所をのぞき、すべて優勝は、「輪湖」が独占した。

 【76年】初・北の湖。春・輪島。夏・北の湖。名古屋・輪島。九州・北の湖。

 【77年】初・輪島。春・北の湖。名古屋・輪島。秋・北の湖。九州・輪島。

 長い大相撲の歴史を振り返っても、両横綱がこれほど激しく賜杯を争った時代は、他にない。相撲内容も素晴らしかった。すべて手に汗握るまさに大相撲。北の湖が優勝した73年名古屋では水入りをはさんで3分16秒6にも及ぶ歴史的な大一番もあった。どちらが勝っても精根尽き果て、しばらく立ち上がれなくなるほどの姿は、ファンの心をつかんで放さなかった。

 毎場所のように繰り返された名勝負。ひとつの要因に、両雄が同じ左の相四つだったことが上げられる。立ち合いから常にがっぷり四つ。駆け引きなしの攻防が熱戦を生み出した。

 互いに譲らない左の相四つ。私は一度、北の湖理事長に聞いた。「同じ相四つだから、輪島さんの裏をかこうと今回は、右四つで行こうとか、立ち合いを変えようとお考えになったことはありませんでしたか」。聞いた瞬間に「イヤ、イヤ、イヤ」と首を振られた。

 「横綱ですから、そんな駆け引きや小細工を考えたことは一度もありません。どんな状況にあろうと、自分の型は崩さない。それが横綱です。ましてや同じ横綱。絶対に引くわけにはいかなかったし、自分の型で負けたらそれはそれで仕方がないと思って臨んでいました」。そして、「仮に」と付け加えた上で続けた。「例えば、右四つで輪島さんに勝ったとしても、それは結果的に勝ちであって、本当に勝ったとは言えません。恐らく、それは輪島さんも同じ思いだったと思いますよ」。

 綱の誇り、威厳…。そのすべてがつまった言葉に、拙い質問をした自分が恥ずかしくなった。同時に、感動してしびれた。現役時代、ほとんど話をしたことがなかったという「輪湖」。土俵で力の限りを出し尽くしたがっぷり四つが唯一の会話だったのだ。綱を張った2人の誇りが両雄が並び立つ黄金時代を築いた。

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