「しばき隊」とはなんだったのか
先日、某セキュリティソフト会社の管理職の人が、ネット上の難民を揶揄したマンガに賛同する人達の情報をリストアップしネットに公開したところ、逆にその素性がバレてしまい「炎上」するということがあった。セキュリティ会社の社員が、「個人情報」をネットに公開するなどということはいかがなものか、ということらしい。
それからほどなく、今度は、この「個人情報」をネットに公開したことを批判する弁護士に対して、某地方新聞社の管理職の方が、twitter上で弁護士に対して「暴言」を書いたということで問題となり、これも「炎上」した。
この二つの「炎上」を起こした人達については様々な批判があった。社会的地位にも恵まれた50代ということが共通点として目立つことだが、それよりも、この二人が、反差別を旗印にし、これまで賛否両論・ 毀誉褒貶を受けてきた「しばき隊」であるということで注目を集めた部分が多い。
整理するために、最初に書いておいたほうが良いと思う。この二人とも実際のしばき隊のメンバーではない。
しばき隊というのは、2013年2月に結成され、同年の9月に解散した。その後にこれの後継として、包括的な運動を行う「反レイシズム行動集団C.R.A.C.」(Counter-Racist Action Collective 以下「クラック」)が立ち上がった。現在あるのは、このクラックがあるだけである。
ところが、現在では、直接行動をとる反レイシズムの立場をとる人たちをまとめて「しばき隊」と呼んでいる人が多いわけである。「しばき隊」がすでに存在しないということは、少し調べればわかることであるのにも関わらず、ネットに溢れる真偽確かならぬ情報をまとめていくだけのサイトだとこうなる。よって「しばき隊」という総称を使っているサイトやライター諸氏は、事実ではなくネットの有象無象の情報をつなぎ合わせているだけと考えてよい。注意が必要だ。
では、この「しばき隊」と総称されるものについても不確かな話かといえばそうでもない。わずか半年程度の活動で、21世紀の日本における「反レイシズム急進派」といえる流れが出来上がったのは確かなことで、そのフォロワーと直接行動をさして、今はもう存在しない「しばき隊」の名前を使って説明しているわけである。
実際に、反レイシズム急進派といえる人達のやっていることに褒められたものではないものも多数あるため、これは正義が暴走している状態に過ぎないのではないかという批判も、正直もっともなところもある。
さらには、この同じメンバーと思しき人達により、国会前の安保法制の反対デモの主催者であるSEALDsの周辺にいて、暴言ともとれる政府批判をしているという。
では、このしばき隊とはなんだったのか、そしてそれが無きあとも、いまだ「しばき隊」と総称されるこのムーブメントはどこまで続いていくのか。その展望のようなものをまとめていきたい。彼らは何を目指していたのか、または目指しているのか。そして、その行く末はどうなるのか。
ダーティー・ハリーの「自警主義(ヴィジランティズム)」
映画『ダーティー・ハリー』(1971)をご存知でない方もいるだろう。
サンフランシスコ市警の型破りな刑事の物語で、後に映画監督としても活躍したクリント・イーストウッドの代表作である。映画は大ヒットしたために、後に続編が立て続けに撮られることになったが、第一作のストーリーは次のようなものだ。
サンフランシスコでは、連続無差別殺人が起きていた。汚れ仕事専門で担当する刑事ハリー・キャラハンは、象も殺せるという44口径のスミス&ウェッソンのマグナム銃をもっている。悪に対しては断固として立ち向かうという思想と、その頑固なマッチョイズムを、このマグナム銃は象徴している。
連続殺人鬼スコルピオは女性や、カトリックの司祭(アメリカではカトリックはマイノリティの宗教である)、黒人(これまたマイノリティ)の殺害を重ねていき、今度は少女を誘拐する。すべて社会的な「弱者」である。
やがて犯人を追い詰めたハリー刑事は、少女を救うために一刻を争う事態に、この犯人を痛めつけて自白させた。「オレには権利がある。弁護士を呼べ」と連続殺人鬼スコルピオは叫ぶが、ハリーは意に介さず、銃で撃たれた足を踏みにじり、少女の居場所を聞き出す。これが自白の強要とされて不法行為となり、犯人は釈放される。少女は死体となって発見されたのにも関わらず。
ハリーを呼び出した検事は、犯人にも人権や黙秘の自由があることを説くが、ハリーは納得しない。容疑者にも権利があることをアメリカの法律は認めている。それを無視したハリーの行為は不法だというのである。
やがて自由になった犯人は、今度は少年少女のスクールバスをバスジャックする。謹慎処分になっていたハリーは無許可のまま単独でこの犯人を追い、そして最後には犯人を射殺する。ハリーは、警察バッジを死んだ犯人が浮かぶ沼に投げ捨てる。
この映画は公開当時、賛否両論となった。特に犯罪者の権利を主張するリベラル派へのあてつけは、彼らを苛立たせるのは十分だった。正義は恣意的な解釈してはならない。法の下で裁かれるべきで、そこに個人の勝手なふるまいが許されてはいけない。犯罪者なら、何をやってもいいというわけではない。正義はいともたやすく暴走する。そのほうが危険だ。それが彼らの主張だった。
この映画の底にはアメリカの「自警主義(ヴィジランティズム)」があると指摘するのは映画評論家の町山智浩だ。
法律は人間がつくったものである以上、万能ではない。警官や裁判官でもそうだ。そんなとき自警主義が浮上する。法の許しを得ずに正義を執行する個人を自警(ヴィジランテ)と呼ぶ。裁判官が不足した開拓時代の西部では(中略)自警主義が横行した。スコルピオのように法が裁けぬ悪を裁くため、西部開拓時代からタイムスリップしてきた自警がハリーなのである。
自警主義とは、個人や集団の権利の侵害などが想定される場面で、組織化された集団の実力行使によって犯罪や権利侵害から守ることである。ダーティー・ハリーの自警主義は、映画のスクリーンの中では痛快なものであるし、憎らしい殺人鬼が法を盾に逃げ延びるのを防いで、弱者の復讐を果たしたかのようなハリーの振る舞いに観客は喝采を送る。
もちろん現代は西部開拓時代ではない。むしろ高度に発達した法と政府に個々人の権利は保証されている。しかし、法の下の「自由」は奇妙な矛盾を生み出す。
それを解決するには、個人が立ち上がるしかない。泣き寝入りするのではなく立ち向かうことだ。
だが、この論理はギリギリのものである。「正義」が個人や共同体の恣意的な判断に委ねられては社会が混乱する。世界はどれだけ「正義」の名のもとに残酷で悲惨な行為を繰り返してきたことか。説明しなくてもわかる話だ。だから、アメリカのリベラルな映画評論家はこの「ダーティー・ハリー」を「ファシストのファンタジー」と断言する。
ジョン・ロックの昔から、正当な統治は合意に基づかなければならないのは民主主義の基本概念だ。それが欠けたままで「他者の政治権力に従うことは誰にもありえない」(『統治二論』ジョン・ロック) のである。国家と法はこうしてつくられたというというわけである。おそらくこれが正論であろう。
ダーティー・ハリーは、こうした法の外に出た自分のポジションを当然理解していた。だから、ラストシーンで警察バッジを捨てたのである。それは法に対する不満であるとともに、最終的なところで、自分の行為が本来であれば許されないものであることを知っていたからである。そして、観客はそのギリギリの選択を支持した。
それは彼がアウトローとしての行き方を選択し、孤独と栄光から背を向けた自己犠牲の精神をもっていたからである。彼は正義を振りかざした代償に自分自身が滅びることをも引き受けたのである。ハリー・キャラハン刑事は、だからバッジを投げ捨てたのである。
以上は、長らくマカロニ・ウエスタンの名監督であるドン・シーゲル監督の映画『ダーティー・ハリー』のことだ。
これ以降、ダーティー・ハリーはその爆発的なヒットにより、続編が次々と撮られていく。この続編については、後ほど書く。
1970年代のサンフランシスコを映したスクリーンの世界から、現実の2013年の日本にいったん戻ろう。
法に守られた「悪」
しばき隊が出来たのは、新大久保で在日韓国人・朝鮮人をターゲットにした排外主義的なデモが始まった時だ。いや、デモだけではない。新大久保の裏通りを練り歩いて聞くに堪えないような暴言を、何の罪もない人達に浴びせいたのもこの時だ。それだけではない、暴力や嫌がらせを日常社会に持ち込んで、それをネットにアップすることを繰り返していった。
「在日特権を許さない会」、通称「在特会」が仕掛けたこの「保守による行動」は波紋を呼んだ。これまでにも、授業中の朝鮮学校に押しかけてジェノサイド扇動を行ったりしていた。これらは多くのフォロワーを生みつつあった。
以下、動画を置くが、これはかなり酷い内容なので閲覧注意である。
完全にジェノサイド扇動である。
殺せ!と扇動していてもそれが特定の個人出ない限り法律には触れない。これが日本の法の現状なのである。
ところがこれは「言論の自由」だそうだ。したがってこれを止める手段は日本の法律上はない。
このような在特会をはじめとする排外主義者の行動は、すべて警察は止めることはなかった。つまり法の枠外であるからだ。
在特会については、2010年頃からネットでは「拡散」する彼らの「運動」が注目を浴び始めていた。良識あるものは、これに眉をひそめたが、それ以上にその過激な活動は、90年代からの歴史修正主義的な動きの地殻変動を背景として支持者を増やしていった。最初に注目を浴びたのは、フィリピン人の中学生の女子が通学する学校へのデモであった。不法移民の子供が学校にいるのはけしからんということだ。仮にその主張に一部の理があるとしても、自分では意思決定できない子供に対して、しかも学校にデモをするなどというのは常軌を逸している。だが、これも「言論の自由」によって日本では自由にできる。
やがて、このデモや街宣活動は、同じように授業中の在日コリアンの学校や集住地区に拡大された。だが、法はこれに全く対処することができない。
ネット上では、これらをなんとかしなければならないという機運が始まりつつあった。もともと2000年代初頭から、在日コリアンに対する差別的な言辞は拡大しつつあり、その中から「在日特権」というデマゴギーも拡大しつつあった。ナチス時代のユダヤ人排斥にそっくりな陰謀論の跋扈は、早くからありえない話とされていたが、それでもデマは広がっていった。ナチスがユダヤ人に最初に組織的な排斥運動を行った日のことを「水晶の夜」という。街々のユダヤ人の商店が、深夜に片っ端からナチス支持者に襲われた日のことだ。ユダヤ商店のショーウインドウのガラスは粉々に砕け散って深夜の路上に散乱した。この日が、本格的なホロコーストへの始まりだった。在特会の活動はこれを想起せざるをえないものだった。
ここに野間易通が登場する。
野間易通としばき隊の登場
民主主義国家にとって、法の枠外にあるから、それは放置しておくしかないというのは間違いだ。これには行政や法の力に頼らずに、しかもそれを逸脱しない限りにおいて、直接行動をするしかない。このような原理において、現状の法制下でできる限りのことをやろう・・・こう考えたのが、当時は官邸前の反原発運動の中心人物の1人であったである。
野間の狙いは最初の時点ではピンポイントだった。
彼らが行うデモは、いかに差別的で醜悪であったとしても、それを現行の法律では止めようがない。そのため、デモの範疇に入らないヘイト行為を如何にやめさせるかに絞っていた。具体的には、在特会とフォロワーが「お散歩」と呼んでいた、集住地域やデモの枠外の徘徊して差別言辞や扇動を止めることにあった。
おそらくデモやヘイトクライムすべてを止めることは出来ないにしろ、少なくとも「水晶の夜」のような事態をデモの騒乱の中で止めなければならない。
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野間氏は慎重な男だった。デモはやり過ごす(彼の言葉で。スルーするしという。古くからカウンターを続ける彼は、合法的なデモを抗議で止めることはできないことを知っていた。だから、デモ本体ではなく、その後の非合法な「お散歩」を阻止するという。そのために結成されたのが「しばき隊」であった。
『ヘイト・スピーチに抗する人びと』 神原元
後からカウンターに加わった人は、デモ隊を包囲し、中指を立てて抗議している人のことを「しばき隊」だと思っているようだが、そうではない。しばき隊は、本来、物陰から現れ、敵に痛撃を加え、さっと身を隠す「ゲリラ部隊」だったのだ。
野間の呼びかけに応じて集まってきた人は、様々だった。すでに、在特会のこれまでの所業は一部の日本のアンダーグラウンドの政治思想シーンに詳しい人達には知れ渡っていたし、その差別的な言動は多くの人に衝撃を与えていた。しかも、相手はフィリピン人の小学生であったり、朝鮮学校の小学生、対抗できないことを知っている日教組の事務所であったり、まさに弱者に対するやりたい放題だったのだ。これに義憤に駆られていた人もいた。
野間がしばき隊に受け入れたのは、左派もいたしリベラルもいたし、さらには民族派の右派がいた。反原発運動のなかで、いわゆる「ワン・イシュー」で右翼ともともに行動をしていたの経験から来たものだと思う。最初の頃には、どちらかという腕っぷしが強そうな人間のみをピックアップしていたふしもある。彼らに直接対峙して、その行為を止めるわけだから、それは懸命な選択だったと思う。だが、ここで暴力的な手段はギリギリでとられなかった。罵声は浴びせてもいいが非暴力で行くというのは、野間が最初から考えていた方法だった。これはいつもギリギリのところまで行っていた。
ここには本当に面白い人物たちが集まっていた。基本的には3.11の官邸前の反原発運動のメンバーが中核となっていた。よって、このリソースはそこから生じたものだといっていいだろう。彼らはもともとは東北大震災まではほとんど「ノンポリ」だった人達だ。そこに右派民族派やアウトローの共産党員や学者やミュージシャンや法曹の人間が入り乱れていた。特に民族派の右派の存在感は抜きんでいた。だからこの時点で、しばき隊は決して「左翼」ではない。そのような人達の魅力的な人間像を書きたいとも思うのだが、果てしなく長くなりそうなので、ここでは割愛する。これについては、チャンスがあれば別にまとめて書きたいと思う。
ただ、不思議なことに新左翼も00年代系のアウトノミア系の人達はほとんどいなかった。これは野間がもともとこれらの人達と反原発運動のなかで対立していたことから始まっていたが、それよりも、この反差別直接行動が、これらの種類の人達の方法論とずれていたからといえるだろう。この事情はかつて書いたが、こちらもまだ書ききれない。これも別稿としよう。
また、これまでこのような差別的なものに立ち向かうのは当事者であるという当たり前の考え方もとらなかった。反差別運動は民族運動とイコールで結びつけられると、それが民族主義に結びつく。野間がクレーバーだったのは、そのような民族主義の流入を慎重に断ってきた。具体的にいえば、しばき隊の多数は日本人であったことだ。もちろん中には在日韓国人・朝鮮人の出自もいたが、そこには韓国や北朝鮮サイドの立場からのいわゆる「反日」というのが持ち込まれることはなかった。
野間は逆説的に、この運動はマイノリティのための運動ではないと言い切っていた。これはあくまでも人権を守ることによって日本社会が良くなるという市民運動の延長にあるということを強調した。これはもちろん、「俺たちは弱者を守っている」という見下ろしたような「正義」(パターナリズム)に対する照れというものがあったのだろう。
この当時、このような日本社会を肯定しながら、それでも急進的かつ行動主義的に差別に対峙する政治的な思想はほぼなかったともいえるかも知れない。このような野間の反レイシズム運動の基本テーゼは、大きな反響を呼ぶことになる。
長くなってしまいそうだ。駆け足でいこう。
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