2015年12月07日

日本SFコミュニティついて考えること(その6)

(その5からの続き)

【メタ道徳】

 ここまで、日本SF作家クラブやSFコミュニティでしばしば問題として議論されるようなことの多くは、集団内部の視点と外部からの視点の擦り合わせがうまくいっていないことに原因があるのではないか、と言う話をしてきた。そしてこれはもともと解決が難しい問題ではあるが、ひとりひとりの小さな努力によって改善できる可能性もある、と建設的な意見も述べてきたつもりだ。
 このような文章を書くことは、私にとっても非常にリスクがある。個々の文意にはとうぜん反論も出るだろうし、こうした文章を書くことで「瀬名はトラブルを抱えているらしい」「瀬名はめんどくさい奴だ」と思われて、結果的に作家生命を縮める可能性があるわけだ。
 それでも誰かが書いておいた方がよい文章だと思っているから、書いている。
 内部で話し合うべきことと、みんなで話し合ってよりよい社会づくりをしたほうがよいことがある。そこの区別はつけているつもりなので、繰り返すがどうか刹那的な反応はなさらず、できれば何度か読んでいただきたい。

 ここから先は、日本SF作家クラブだけの話ではなく、SFコミュニティ全般について思うことを述べてゆく。いままで他人のことだと思っていた方も、ひょっとしたらこれは自分にも当て嵌まるのかも、というところが出てくるかもしれない。動揺が大きくなる可能性がある。
 だが、私はここであなた自身を直接批判したりしているわけではなく、コミュニティ全体の構造の話をしているのだということを、どうかご理解いただきたいのだ。
 読んでうんざりする、しんどい、というご意見もあるだろうが、最終的には多くのSFファンの方々に建設的な気持ちになっていただくことを目的としている。いったんは問題を見つめないと、次の行動には移れないと思うのだ。


 SFの世界では「SF」の精神性と「おたく」の精神性を取り違えていることが多くの問題の原因ではないか、と先に記した。これは私の直感に過ぎないのだが、たぶんそんなに外れていないのではないかという気がしている。
 ここで私は、「おたく」そのものを何か批判したいわけではないのだ。たんなる「おたく」ではなく、「おたく」の精神性、という表現を採っている。
 人間の気質について語るのは非常にデリケートな問題で、もちろん断定的に何かを言うのがまずいことは充分に承知している。ただ、人間の本性に関する科学的研究というのはいろいろとおこなわれており、とくに最近は人間の道徳観と絡めて興味深い知見がいくつも出てきている。これはいま世のなかが非常に生きにくくなっていて、とくにウェブや交通機関の発達で異分野と接触する機会が増え、視点の齟齬の問題が日常的にも起こっていること、またそうして社会がグローバル化しているように見えるにもかかわらずテロや政治問題などが次々と起こって、なぜ人間同士がこんなにもわかり合えないのか、と考える機会が増えてきていることもあるように思われる。いままで内輪でやっていたことが外部と接触することで問題が表面化してしまう、という事件も目立っているようだ。
 本来SFは、こういう問題にも向き合うのにふさわしい表現形式であったと思うのだ。しかし現代のSFは、なかなかそこへずばりと切り込めていないように感じられる。伊藤計劃さんの作品が読まれていることの一部にはそうした背景もありそうな気がしている。
 まあ、あまり話を大きくしてもどうかと思うので、SFコミュニティの話を。

 かつてSF分野では、よく「相対化」「笑い」ということがいわれていた。
 見解の異なる集団があって、そこでいざこざが起こっている。それを「相対化」し、「笑い」として表現する、という作品群は、確かにSFの一時代の特徴であったように思う。
 それでいまの時代、この手法は少なくとも実社会で問題解決を図るにあたって、そろそろ限界を迎えているのではないか、という気がしているのだ。SF作品としては成立しても、SFコミュニティの問題を解決するには、この方法ではもうだめなのではないか。
 たとえば、SFコミュニティには構造的な問題がある、という話になったとき、ウェブ上で議論がどのような経緯を辿るか、よく見ているとわかる。何となくパターンがあるように感じられる。問題提起があって、最初の数日はそれなりに建設的な意見も出るが、やがて野次馬的な反応が広がって収拾がつかなくなり、一方で外部から「これだからSFは」などと短絡的にいわれるようになると、SFコミュニティの一部からわざとふざけたような発言が相次いでくる。「相対化」「笑い」で自己防衛を図るかのようだ。緊張に耐えられなくなって笑う、という状態に似ているような気がする。相対化ができているということは、《私たち》と《彼ら》の視点が異なるということは理解できているのだ。しかしそこから先、「笑い」に持ってゆくことで、問題解決へ向けての努力は放棄されてしまう。実社会ではこれが繰り返されると徒労感が募ることになる。議論しても先へ進んでいないじゃないか、という気持ちになるのではないだろうか。
 そして申し訳ないが、こういうときにSFコミュニティから出てくるギャグは、本当につまらないのだよ。笑えないのだよ。内輪の感じが滲み出てしまっているようで、なんだか私は残念な気持ちになる。「SF」の精神性と「おたく」の精神性の取り違え、ということの一例だと思う。

(その7に続く)
posted by Hideaki Sena at 14:47| 仕事