大阪は薄い曇り
大阪府知事、大阪市長のダブル選挙で、府知事は松井氏(大阪維新)、市長は吉村氏(同)が大差で当選。自民候補を斥けた。自民の対抗馬は、府は格下を擁しており、戦う気がなかったよう。大阪市長候補は若手でまだ有能で、勝ちにいってないものの、認知度アップかハプニングの補欠狙いのよう。転んでもただでは起きない作戦か。
大阪人は政治に興味がない。選挙では、話題性がある人物を選ぶ。単なる人気投票である。政治家としての実力ではなく、知名度である。維新のほうが何か世間を騒がすことをやってくれそうだ。あとは、実利をとる。老人のパスの有料化、地下鉄の料金などで候補者を比べた。そんなところだろう。
府庁舎が、南港にある不便さは、役所で勝手に適切にすることで、市民がどうのこうの言うことではない。本当は役所の手続きで南港まで足を運ぶのはアホらしく、移転が必須である。どの候補でも移転すると思っている節はある。よほど気が利かない限り。あんな所に、いつまでも庁舎を置くのは論外であるが、さりとてそれは役所がすること。大阪人は政治に、口出しはしない。それで、争点になりにくい。
大阪の人間は政治家が何をやっても、市民とは関係ないと考える。統治者もそれほど下手でないとつとまらなくて、そこそこは来る。それで特段、市政が悪化しないかぎり、政治家に何かを託すということは、考えない。公約そのものが、意味をなさない伝統が強い。なにしろ、政府に頼らずに自ら商人が集まって、打開することをずっと続けてきた土地柄。政府は奥のほうで、適切にやればよい。誰がやっても同じなのである。
だから、投票率も低く、盛り上がらなかった。よほどの失政と危機感がないと、大塩平八郎は現れないのである。
テロに対する感情
まずテロで大勢が死ぬと悲しむ。次に、それで肉親などが失われるとつらく感じる。自分を不幸にした原因がテロリストだと気づくと、テロリストを恨む。その恨みが強くなると、憎しみにかわる。そして、テロリストの壊滅へと行動する。
フランスはまだテロ直後だ。悲しさに包まれている。やがて、つらくなる。恨みも起きる。しだいに、フランスをこうも不幸のどん底に落としたテロリストを憎む。だいたい2週間から4週間かかるのではないだろうか。
現時点、まだ悲しみが大きい。まだテロリストへの憎しみは生じていない。そういう今回の打撃の大きさ、喪失感の大きさをよく飲み込めていない被害者の親族が、『テロリストに憎しみを贈らない(もたない)』と言ったとしても、真に受けるべきではない。きれいごとを言う人間ほど、激情に走りやすい。
テロリストを許さない限り、彼らに憎しみをもたないと言っても嘘だからだ。被害者の多くはテロリストをけっして許さないと叫ぶだろう。まだ憎しみを自覚してない人は、テロリストがどんなに生活や人間関係や喜びをぶち壊してくれたかをわかっていないのである。やがて、テロリストが彼ら被害者にとって、どんなに悪いことをしたかを気づくと、それら気持ちは憎しみにかわる。
フランスは首都が攻撃された。パリのメディアはこぞって、テロリスト打倒を掻き立てるだろう。それは、被災した福島県民の哀れな姿を見て、近くの東京メディアが、復興と過剰に言い立てるのと同じ心情である。テロがフランスの田舎だったなら、パリのメディアも、東京メディアの神戸地震の時のように強く感情移入しない。だが、事はパリで起きたのである。他所事ではすまされさない。
フランス人は比較的、個人主義だ。地方のテロだったなら、テロリストの撲滅をそう強く願わないだろう。が、パリメディアは今回の件でそんな傍観者でいられなくなった。数週間でテロリストを壊滅する意志は固まる。それに向かって、フランスは突き進む。
共産党の矛盾 孤立路線の放棄と民主党などとの共闘
2015年9-10月に、党として大きな方針転換を怒った。長年の孤立路線をやめ、突然、野党の連合構想をイケシャーシャーとぶちあげた。共産党は、孤立をいつやめるといったのか? なぜ民主党との連立与党をめざすのか? これら党の戦略の転向にまっとうな説明がない。新しい方向は、共産党のこれまでの路線(孤立と共闘)とは矛盾する。まったく筋が通らないと思った方はここ↓↓をクリック

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最近、共産党の矛盾、筋が通らないことを追求するが、誰も関心を示さない。共産党が党の理念を変えても、矛盾をさらけ出しても、筋が通らないことをしても、世間はそれを気にもとめない。共産党みたいな怪しい政党は、めちゃくちゃなことをしても、世間はそれが当たり前と思っていたことが、わかった。そのくせ、『筋を通す』とかいう嘘はすぐにころっと信じて、騙される。無知も甚だしきなり。
哲学の話 分権がゆきすぎると官僚制に
統治とは何だろうか? 脳は体を支配する。暑いと感じたら、汗をかく、着物を脱ぐ。寒いと感じたら、震える、服を着こむ。お腹が減ったら、食べ物を食う。喉が乾いたら、飲む。体の統治とは、生物個体の生命維持である。
社会においても同じで、政治とは大勢が生きる環境を整えることだ。快適な温度を保つように促す。食料は過度でも、不足もなく与える。衣服もだ。家もだ。知識もだ。そのようにして、人間の体、社会を維持・成長させる。
理性では、頭の中のことだけ考えていたらよかった。が、これからは体全体、人類全体の面倒をみなくてはならない。とはいえ、主にテーマは人間関係で社会の充実ある。
大きな組織は、トップの人が末端のことまで指令する。それでは、組織が動かなくなる。それで、権限(自由裁量)を下に与えることで、危機は乗り切った。分権で社会は発展する。
しかし、組織は、トップと末端の二階層だったものが、権限の移譲で、中間の決定者をたくさんつくる。すると、中間管理層がどんどんたくさんできる。最初は、トップが強すぎることが問題になった。今度は、末端やち中間の連中が、力を持ちすぎるようになる。上部の命令に末端や中間がしだいに従わなくなる。
哲学は、多分に精神的に語ることになる。これらを哲学的に語ると、分権した組織は、構造がどうのこうのという話になる。そこでの中間管理者の苦悩を語ることになるが、些細なテーマで、哲学たりえない。面倒だから省く。
簡単には、分権化しすぎると、どうなるか。中間管理職が強くなる。トップの命令をきかなくなる。勝手に何かはじめる。組織はばらばらになりやすい。そこで、組織は統制をかける。専門分野ごとに、チームを立ち上げて、判断する体制を作る。経理、事務、人事部などなど。国家では、土木交通、財務、文化・教育、経済などの省庁が強まる。
分権化して、ばらばらになったグループは、専門ごとに横断的な組織を作り、管理する。官僚組織が誕生する。
これのどこが哲学? 哲学用語でこれらを論じると極めて難解になる。それで、今回はそれはしないことにした。哲学では、20世紀の社会を語れないのである。哲学風の考察の限界である。
本日の被害
朝から目が痛む。目の内側に、赤い腫れがある。今日もある。しつこくやってくる。この人権侵害はいつになったら終わる?
以上