編集委員・大久保真紀
2015年12月8日03時32分
74年前の12月8日、アジア・太平洋戦争の開戦の日に、旧日本軍のマレー半島上陸作戦に参加し、戦後に現地住民虐殺の罪で処刑された叔父の過去に向き合う人がいる。現地も訪れて重い事実をたどった結果、「加害事実を伝えることが自分の責任」と考えるようになったという。
広島県廿日市市の橋本和正さん(64)。父の弟の叔父、忠さんは広島を拠点とした旧陸軍歩兵第11連隊に所属し、1941年12月8日にマレー作戦に参加した。翌42年に小隊長として、マレーシアのスンガイルイ村で中国系住民368人の虐殺を指揮したとされ、復員後にマレーシアに連行されて48年1月に処刑された。28歳だった。
橋本さんは幼い頃から、叔父が戦犯になったとは聞いていた。正月に親族が集まり、仏壇に手を合わせていたのも覚えている。だが、詳細は知らなかった。
■本に名前「衝撃」
調べ始めたきっかけは2004年、戦犯裁判に関する本を偶然読んだことだ。その中に叔父の名があり、虐殺に関与したとの記述があった。広島市職員だった橋本さんは、原爆被害の悲惨さを伝える運動にも関わってきた。叔父が虐殺の加害者側にいたことを知り、「どう受け止めたらいいのか。ショックだった」。
事実を知りたいと、本の著者に連絡をとって裁判記録を入手し、関連資料も読みあさった。叔父がいた第11連隊は華僑を「抗日的」とみなし、粛清を繰り返していたことを知った。
■長老らから詳細
自分で確かめたくて、定年退職後の12年夏、スンガイルイ村を訪れた。石を投げられるのではと身が縮む思いだったが、日本軍に親族が殺されたという元村長は「よく来てくれた」。事件を目撃した長老も丁寧に話をしてくれた。日本軍は住民の男性を林の中で銃剣などで殺害し、女性や子どもは住居に閉じ込め、機関銃で撃って火を放ったという。事件は事実だったと確信した。
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