ちょっとコツを掴めば何でもブログネタになる。新宿でキャッチ詐欺、離婚の手続き、友達との何気ない会話、家族の死去、別れ話、子どものいじめから猫がはなちょうちんしたこともコンテンツになってしまう。
行き過ぎれば、目的と手段の逆転現象が起き生活を豊かにするのではなくブログを豊かにするために人生を焼畑農業化している人も多く見かける。参照→焼畑農業をしよう、人生の。
例えば旅にいってそこで訪れる体験の全てを「ブログでネタにできるのではないか?」と考え、写真を取り、メモを取り、思考をまとめる。例えば外食にいって出された料理の写真に取り、味の品評をし、ブログで書くにはどういう構成にするか?と考える。
そんな感じに。
↓
子供にもう少し手がかからなくなったら、離婚すると彼女は言った。
何故?と聞くと、ブログが辛いらしい。
何か子供にあるとすぐブログに書く、物を買うときは私の意見よりもブログ受けするかを優先する(彼女は別のベビーカーが良かったらしい)、どこかに出かけたら旅ブログ、何かを食べに行ったら食ブログ、喧嘩してもブログ、ブログ、ブログ…。
有名人でもないのに、私生活が周りに筒抜けなのが苦痛なのだと彼女は言う。
(中略)
今では、どこかに行こう、あれ買おう、旦那からの提案が全て「ブログのため」にしか思えず、家族のための言葉に聴こえなく、愛情も薄れてきた彼女は言う。
離婚しようとしたら、弁護士への相談、届けの書き方、役場への提出方法、子供への面会、とこの辺りもブログのネタにされるんだろうね、と彼女は笑っていた。
上記記事は勝手に自分をブログネタにされている人の話だけど、ネタにしている夫だって最初のうちはなんとも思わないかもしれないが、そのうちネタを抽出することに躍起になって、ネタを見つけることに注力して、毎日が息苦しくなってしまうのではないかと思う。
人生をコンテンツ化する気構えで何事も望めば、訪れる体験全てに「ブログで使えるか/編集するにはどうすればいいか」というフィルターがかかり、楽しさや嬉しさといった気持ちは掻き消え、だんだんつまらなくなっていくんじゃないのかな。
だからこそ、ブログでは何を書くかも重要だが「何を書かないか」もまた重要なのだと考える。(できるならば開設当初でこれを決めておくといいけれど、そもそも自分にとってどれを「ネタ」にしてはいけないかを見極めるにはそれこそ書き続けなければよくわからないので適宜意識しておくとよいのかなと感じる)
私も「書かない」と決めたことは徹底的に書いていなくてそれは込み入ったことだったり、大事な思い出だったり、話してしまえば価値がなくなってしまう"事柄"だったり、些事だったりそういうのである。基本的にここでは「考えた」ことである思考集積物が殆どを占め、例え身近な話題だったとしても詳細にして書かないか、迂遠にするか、あくまでもブログカラーである物語に絡ませて書いたりすることが多い。
……これは「そう思える経験」を味わったことがないといくら文章にしても伝わらないと思うのだけれど、なんかこう、大切な事を言葉にし、誰かに話す前提で書くっていうのは「欠落」していく感覚が私にはあるんだよ。その事柄の価値がすこしづつ失い、最後にはただの石塊になるざらっとした手触りがある。
ネタ化する気構えで日々を過ごしたくないからこそ、毎日のあれやこれやはなるべく「書かない」と決めている感じだろうか。自分にとって大切なものは決して、公開しないほうがいいとも思っている。
もちろん生活ネタをブログにするのが悪いって話ではなく、「自分にとって何を書かないか決めておくのは大事」という話をしたいだけである。
それはブログに限らず、FacebookやTwitterといったSNSでも同じことだろう。
なにを書き、なにを書かないか。
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