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図書館発、キュレーション行き

元図書館職員(司書)の怠惰な日常

「図書館は格差解消に役立っているのか?」という問いは正しいか?

図書館の自由に関する宣言 文化資本

ツタヤ図書館以外で、珍しく図書館関連でホッテントリ入りがでました。

synodos.jp

ブコメでかなり突っ込まれてますが、データ分析として有意義な研究と思います。

ただ、文化資本といったときに「定量的にとらえすぎる」ことで、本質を見失って、換骨奪胎される恐れなしとしないと、危惧します。

 

それはつまりこういうことです。

文化資本は社会階層を再生産する。…これはいいでしょう。
②図書館は文化資本を維持するための施設(装置)である。…これもいいでしょう。
③図書館は格差解消に役立つべきである。 ←ここがおかしい。

 

②と③の間に飛躍がある。しかし、それは、著者らが図書館(あるいは書物・テクスト)の定性的性質を見誤ってるからであって、前回のエントリでも指摘したように、何事も数値で把握され、功利的にとらえることを欲する現代社会では、しばしば陥りがちな誤りなのではないか?と思います。

 

エントリの導入部のロジックがおかしいです。

 

日本の図書館は、戦後、GHQの影響を強く受け、アメリカ式の無料原則が徹底されることとなった。(注)そのため、国民の教育を受ける権利を保障するため無料で利用できることが図書館法第十七条によって規定されている。博物館等は入館料を徴収することが許可されているが、図書館は無料でなければならない。

また、図書館員としての基本姿勢を示す指針として「図書館の自由に関する宣言」がある。ベストセラー『図書館戦争』によって広く知られる存在となったこの宣言には、「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有」し「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関」が公立図書館であると明示されている。
これらの特性から、図書館は生涯学習の場の代表格として度々取り上げられる。
以上より、少なくとも、制度上、あるいは理念上、日本の図書館においても階層の流動化あるいは格差是正の機能が期待されているといえる。人々に意欲さえあれば、無料で学ぶことのできる場は開けているのだ。 

 

図書館の無料原則も、図書館の自由に関する宣言も、情報への自由なアクセスを述べているだけであり、それをもって格差を解消するとは述べてはいません。

 

はてな文化資本というとcyberglassさんですが、以下のエントリから重引します。

cyberglass.hatenablog.com

文化が資本であることを理解するためには次のようなことを想起すればよい。劇場やコンサートは入場料自体はほとんどの人々がアクセスできる範囲にある。にもかかわらず現実にこれらを享受するのは特定の人々に限られている。クラシック音楽や古典劇を理解可能にするコードがなければ楽しくないし、意味不明である。したがって文化財を理解可能にするコード所有者には富めるものがますます富むという文化資本の拡大が生じる。資本の拡大は貨幣や財産に限らない。しかもこのような文化資本は教育達成(学力、学歴)に有利なコードとなる。上層階級の家庭には「正統」文化が蓄積されているからである。正統文化とは高級で価値が高いと見なされる文化である。クラシック音楽や古典文学は正統文化であり、演歌や大衆小説は正統文化から距離がある。学校で教育されるのは文化一般で はなくこうした正統文化である。 “(竹内洋京都大学教授『日本のメリトクラシー東京大学出版会)”

 

クラシック音楽や古典劇を理解するように育つ環境とは、特定の一方面について、文化力が高い環境ではないでしょう。当人の周囲がそれらの文学や芸術の価値を当たり前として受け入れている環境(例えば、海外留学の経験者が身の回りに複数いたり、音楽や芸術の分野で何かしらの賞の受賞経験がある人が身の回りに何人もいたりといった)でなければならないはずです。

 

anond.hatelabo.jp

ですから、そういう文化資本に恵まれない家庭環境にある人に、ただ図書館だけをあてがっても、必ずしも文化資本力を底上げすることにはつながらないと考えます。図書館は文化資本のパーツにすぎません。

 

 

だから、図書館が文化資本を底上げするための実績を示すべきだという考え方には、まったく賛同しません。

 

著者らが、図書館のための図書館評価という弊に陥っているのは、文化資本を構成する他の要素に同じことを当てはめて妥当かどうかを見てみればわかります。例えば、クラシック音楽や古典劇を「格差の再生産につながっているから」という理由で、明日から中止にしますか?

図書館(書物・テクスト)はそれ自体が人類の文化・芸術の精華であり、のちの世代に引き継ぐべきものです。

そこに何かの過不足があるでしょうか。
何事も、功利的に・定量的にとらえたい、という欲望にとらわれすぎないようにしないといけないと自戒します。

 

…というところで、本を読むというのは本来どういう行為か、ということを再掲して締めくくりとします。

 

例えばソクラテスは、以下のように述べて、「書かれた言葉」が影(偽物)であるとします。書物がなかった時代に遡ることで、テクストの力が何を背景として生まれたかがおぼろげながらわかります。

 

ソクラテス「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々と巡り歩く。自分だけの力では、身を守ることも自分を助けることもできないのだから。(一方「父親の正嫡であるもうひとつの種類の言葉」とは)それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉、自分を守るだけの力を持ち、他方、語るべき人には語り、黙すべき人々には口をつむぐすべを知っているような言葉だ」

パイドロス「あなたの言われるのは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょうか」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫) 

 

例えばルターは、聖書のテクストに書かれていることと、現実世界の事象がかけ離れていること、たったそれだけをよすがにして、戦争をしかけ、結果世界を変革しました。

彼は気づいてしまったのです。この世界には、この世界の秩序には何の根拠もない、ということに。聖書には教皇が偉いなんて書いてない。枢機卿を、大司教座を、司教座を設けろとも書いていない。皇帝が偉いとも書いていない。教会法を守れとも書いていない。「十戒を守れ」と書いてあるだけです。修道院を作れとも書いていない。公会議を開けともその決定に従えとも書いていない。聖職者は結婚してはいけないとも書いていない。贖宥状どころの話ではない。何度読んでも書いていない訳です。むしろ逆のことが書いてある。(中略)彼は読んだ。そして不意に気づいた。この世界は、この世界の根拠であり準拠であるべきテクストに則していないのではないか、と。この世界の成り立ちの根拠を探して、何度聖書を読んでもそこには何も書いていない。恐ろしいことです。本は読めないものなのですから、自分が間違っているかもしれない。周囲の人はみんなこの世界には準拠があると思っている。自分だけが発狂しているかもしれないのです。--グリューンヴェーデルのように。私はこれを「準拠の恐怖」と呼んだことがあります。何度読んでも本当にそれがその本に書いてあったのか、完全には確信が持てないのですよ。本とはそういうものなのです。本にそう書いてあった、そう思う、ちゃんと根拠が示せる、そう思う、でもそれは完全に自分の妄想かもしれない。本という鏡に映し出された、自らの無意識が作り出した妄想に過ぎないのかもしれない。こうした準拠の恐怖に取りつかれながら、それでも、自分が間違っているとは思えないなら、問い詰めなくてはならない--本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか、と。繰り返します。本を読む、テクストを読むとはそこまでのことです。…(『切りとれ、あの祈る手を』)

 

「本を読む」とはそれだけの営みなわけです。
そのことの巨大さ、深刻さを知っていれば、文化資本を構成することは当たり前と考えられるでしょうし、また、こういった定性的な性質を、功利的に・定量的にとらえようとは思わないのではないでしょうか?

 

じゃあ、格差は放っておいていいのか?という問いには、所得格差ではなく、文化資本の格差という意味では、日本社会はそれを無くすべく志向している社会であり、その性質そのものが、日本文化であるというエントリを書きましたので、ご一読ください。

yuki-chika.hatenadiary.jp

 

最後に蛇足的に言うなら、図書館の自由に関する宣言って定量的な考え方から来ているんですよね。

「(検閲の苦い歴史の教訓から)情報が多ければ多いほど、正しい民主主義が導かれるはず」という。

だから、1冊より10冊、1メガバイトより1ギガバイトの方が尊いと考える。

しかし、これは、実は上記の書物の性質と根本で矛盾します。

戦後の図書館はそれに向き合わないままに来てしまっているので、こうやって定量的な指標で把握されるべき、という信憑が生まれてしまうのかなあと思います。