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くりぼーのブログ

考えたこと、感じたこと。

「社会学はテロリストに言い訳を与えるのか」(私訳)

なんとなく気が向いたので、

この記事(2015年12月1日)↓を私訳してみました。

www.alterecoplus.fr

語学の勉強がてらです。

ずいぶん長く仏語をさぼっていたので少しあやしいかも。読みにくかったら申し訳ありません。

 

僕の好きな感じの記事だったというだけで、

すごく勉強になるということはないと思います(一応社会学ですが)。たぶん。

 

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社会学はテロリストに言い訳を与えるのか? 」

Xavier Molénat

 11月26日(木)の国会でクリスティアン・ファビエ議員は、マニュエル・バール氏にたいして、11月13日のテロ攻撃を受けて、「すべての若者が、差別も負い目もなく、その人生の意義を再び手にして、未来に自信を取り戻し、よりよい生活への希望とともにやり直すことができるために」、いかなる公共政策を実現していくのかに関して質問した。これにたいして、首相は「過激化にたいして厳正な闘いを繰り広げていく」必要は当然あると応えた。しかし、加えて強い語調で、国会ではとうに使い古されてきた発言を繰り返した。「とはいえ、言わせてください。何が起こったかということについて、後づけ的な、あるいは社会学的な言い訳と説明を探し続けるのには、わたしはもうたくさんなんですよ」。

 

  • 15年もののレトリック

 この発言は、残念ながら、何ら独創的なものではない。それは15年以上前から、政治指導者や一部のジャーナリストの口から繰り返し持ち出される議論であって、社会学(と社会科学一般)が、もっとも許しがたい行動にたいして、社会決定論の重要性を強調し個人がその行為に責任をもつという事実を否定することで「言い訳を与えている」というものだ。「社会学的言い訳excuses sociologiques」という言葉は、フランスでは1999年、リオネル・ジョスパンのインタビューのなかにはじめて登場した。公開討論の多くを占めていた「社会的安全についての問題questions de sécurité」について質問されるなか、当時大統領であったジョスパンは、「それらの問題は、不用意な都市計画や家庭の崩壊、社会の悲惨、さらに、シテで生活する若者の一部を包摂することについての失敗とも関わっている。しかし、だからといって、これらが、個人の不法行為についての言い訳を構成するわけではない。社会学や法学の相手をする必要はない。各人はその行為に責任をもつ。社会学的言い訳を認めて個人の責任を問わない限り、それらの問題は解決されない」。

 

 このレトリックはそれ以降、右派から左派にまで何度も繰り返し持ち出されることとなった。「失業、差別、レイシズム、不正義といったものが、このような行為に言い訳を与えることは不可能だ」。2006年、マルセイユでバスに火がつけられた後、ニコラ・サルコジは憤慨して言った。「社会学的言い訳を狂信的に探し見つけたところで、レイシズムを減らすことはありません」。2015年5月、キャロリン・フーレはこう主張した。少し前には、フィリップ・バルが『欠如した文化への不満』という本を公刊し、そのなかでは、「社会学主義」と彼が呼ぶもの、すなわち「個人には責任がない。責任があるのは社会だ。」という「生温い全体主義的な思考」にたいする批判のために多くの紙幅が割かれていた。

 

  • アメリカからの外来

 しかし、この奇妙なフレーズを発明したのは、リオネル・ジョスパンではない。このフレーズは(よくあることだが)アメリカからわれわれのところまでやってきたのだ。1980年の末、ジャーナリスト兼物書きの自由主義者、ロバート・ビニディットによって、このフレーズはアメリカにて創作されたようである。彼によれば、社会科学は「言い訳製造産業」を言葉通りの意味で形成しており、自由意思をことごとく否定することで犯罪者の行動の責任を不問にしてしまうのだという。「社会学的言い訳は、犯罪とは関係のない、恵まれない環境に出自をもつ大多数の人びとにたいする不当な侮辱である」と、1989年に彼は書いている。この言葉を彼がいまだ使用していないときでも、こうした批判は1983年以降のロナルド・レーガンの言説のなかにすでに登場しており、ジョージ・H.W. ブッシュやさらに最近ではバラク・オバマにおいても繰り返し見られるものである。「社会学的言い訳」というフレーズは、保守主義的な社会思想にとっては核心的だ。そこでは、個人が強いられた環境のなかに存在していることを否定することができず、各人の運命は最終的にはその人が心のなかで行う決定にかかっていると考えられているのである。

 

  • パースペクティヴの混同

 これらの人びとがことごとく、非難されるべき行動にたいして決定論の名のもとに文字通りの言い訳を与えた、その張本人とされている社会学者を引用してみせるというのは、実際には難しいだろう。同時に、講義の前に「備えが悪いではなくて、社会が悪いのだ!」と言い放つような研究者もこれまでわれわれは見たことがない。ベルナール・ライールが1月に出した著作で論じているように、テロリストや凶悪犯に社会学が言い訳を与えているという非難は、「パースペクティヴの混同」に陥っている。「理解は学問(研究所)の領分であり、判断と制裁は規範的行為(法廷)の領分である。強いられた個人についての「無責任な」理解の言明は、法のもとで科学を不当に妨げることである」。なぜなら、「学者は「であること」を研究するのであって、それが「善い」のか「悪い」のかを判断するわけではない」からだ。

 

  • 貧困であることとは何か?

 さらに、ベルナール・ライールは、人びとに貧困という性質が「そなわっているinstallé」とする見方を問いただしている。貧困とは、ただの一属性ではなく、世の中の諸関係すべてが直面するひとつの状況である。「たとえば、もっとも悲惨な経済的状況のなかでの生きることとは、好き勝手に着け外しのできる帽子をかぶるようなことではない。欠乏、負傷、苦痛、恥辱といった一連の経験を身体をもって体験することである。貧困は、その反応を通して、これらの経験やそのなかを生きる人びとを、法や道徳が非難するような行動へと導く」。そうした状況のなか、社会決定論にたいして自由意思を持ち出す人びとというのは、「まるで万有引力の法則の存在を知って、空に飛び立ちたいという願望を消し去ってしまったと学者を責めたて、山の頂上から身を投げる者であるかのようである…」。

 

  • 因果関係への嫌悪

 ジハード参加者が、多くの場合、もっとも恵まれない境遇や差別にさらされた社会的集団に出自をもっているということを示し(マニュエル・バール氏は去年の1月にフランスを席巻する「空間的、社会的、民族的なアパルトヘイト」に警告を発してはいなかっただろうか?)、そして、それらが彼/女らを憎悪の言説から影響を受けやすくする不満と怨みをいかに生み出しているのかを説明しながらも、社会科学者たちがテロリストを許すということはない。学者は、因果関係を説明する。そして、同時に、これ以上その因果関係を再生産しないようにするための施策の手がかりを提供する(必ずしも抑圧的な施策に反対するというわけではない)。「社会学的言い訳」として因果関係を戯画化するのは、憂慮すべき「因果関係への嫌悪」の証左である。こうした嫌悪は、政界やインテリ界隈においてますます頻繁に見られるのだが、これらの人びとはもはや、不平等について何か行うことや考えることができなくなっているように思われる。

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おわり。