私がアップルウオッチを使うのは、主に時刻を知るためだ。
これはウエアラブル(身に付けられる)機器の新時代の到来を告げるとされたスマートウオッチに対する批判ではない。私は腕時計が好きなのだ。伝統的な機械式時計をいくつか譲り受けているし、自分でもたくさん買って持っている。それでも、私はたいていの日はアップルウオッチを身に付け、基本的な機能を使っている。活動量計のフィットビットのような身体活動計測機能(これについては後述する)を高く評価しているが、それはともかく腕時計としてアップルウオッチが気に入っている。
しかし、手首のウオッチを数回タップしてウーバーを呼び出したり、アップルウオッチを持つ仲間に自分の心拍数を送ったり、小汚い財布を出す代わりにウオッチでスニッカーズ(チョコレートバー)を買ったりすることについてはどうか。マーケティングの資料ではこれらの目を見張るような機能がかっこよくみえるが、新しさは徐々に薄れていく。また、もしあなたが公共の場で手首のウオッチから誰かに電話した後、気恥ずかしさを感じないとしたら、そのことの方が語り合う必要があるだろう。
こう考える人は少数派かもしれないが、私はスマートウオッチが少し「おばか」であり続けてほしいと思っている。
スマートウオッチに眼鏡型端末のグーグルグラスのような反発が見られないのは、スマートウオッチが比較的、上品さと控えめさを保っているからだ。しかし、サムスンは今年、第3世代(3G)ないし4Gの通信ネットワークに接続できるウオッチを発表した。つまり、携帯電話と接続しなくても、通話したり、不慣れな都市で道案内をしてもらったり、音楽をストリーミングしたりできるようになった。
技術はわれわれの手首にいつも装着されているものを、情報を送受信する第一の手段となり得るものに変えた。ここまで来たら、われわれは消費者として、「うちの芝生から出て行け(この場合、わしの手首から離れろ)」的な態度をとる頭の中の老人の言うことを聞くべきだろう。
腕時計は電話ではない。相手の話、または何かに集中していることを示すために、それをポケットにしまうことはできない。スマートウオッチがスマートフォンの画面を見る回数を減らすであろうことは確かだが、情報が常に手首の上に流れてくることにわれわれが慣れてしまったら、どうなるだろう。われわれが電話よりもウオッチを好むようになったら、どうなるだろう。話し相手よりもウオッチを好むようになったら、どうなるだろう。
腕時計を見るという行為は、1世紀以上にわたって同じメッセージを送ってきた。「そろそろ時間だ」という意味だ。その行為が、あなたの心がずっと他のところにあることを意味し始めたら、どうなるだろうか。腕時計をちらっと見る行為や、それをタップする行為は、人間の交流において破壊的だ。
ひょっとしたら、われわれは腕時計をちらっと見る行為に鈍感になっていくのかもしれない。食事中にスマートフォンを取り出すことのようにだ。
私はウオッチに対し、基本的なエチケットを脅かすのではなく、健康状態を良好に保つのに必要なだけ「スマート」になることを望む。アップルウオッチを外したときに私が最も不自由を感じるのは、活動量計がなくなることだ。活動量計は私にときどき立ち上がって体を動かすよう促す。新しい技術によって提供される無数のコンテンツがわれわれをソファに縛り付けていると思われるような時代において、この手首への通知はまさにわれわれが必要としているものだと言えよう。これこそ、ウオッチがすべき類いのことだ。座って何時間もゲームの「クロッシーロード」をしたら与えられる罰だと考えればよかろう。
言い換えれば、私は位置情報を基にして突然ウオッチに表示される煩わしくてありがたくないサンドイッチのクーポンに耐えられるかもしれない。ただし、それはクーポンを運んできたウオッチが私をより健康にできる場合に限る。立ち机にするよう私を納得させるのに本当にウオッチが必要だったかと聞かれれば、答えはイエスだ。もしウオッチからシェイク・シャックで食事する回数を減らし、寝酒をパスして、医者の診察を受ける回数を4年の大統領の任期中に1回より増やすよう言われたら、私はそれを受け入れるだろう。「寝酒をパスせよ」の通知を簡単に止められるならば、の話だが。
By KEVIN SINTUMUANG
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