静かな場所

ひさしぶりにQueens Arcadeに出かけていくと、ずいぶん店の顔触れが変わってしまっている。

http://www.queensarcade.co.nz/

エスカレーターに乗って二階にあがってみると、まずお目当てだった骨董店が店を閉じて、宝石店になっている。
しまった、あのばーちゃんから、びっくりするほど安い値段がついていたマイセンのフィギュアリンを買っておけばよかった、と考えるが、縁のない骨董美術品とは、そういうもので、明瞭で線が鮮やかな絵付けも、品のよい顔の表情も、素晴らしい青の発色も、ありありと思い出せるのに、なぜゼロがひとつ少ない価格に相応する値札の金額を払って、あのとき、買い取らなかったのかが、どうしても思い出せない。

「ここにあった骨董店は、どうなったのか知ってますか? どこかへ移ったのかしら?」と訊いてみると、ああ、店を閉じてしまったのです、そのことは知っているが、わたしは3ヶ月前にここに来たばかりなので、詳しいことは判りません、という要領をえない返事で、閉じてしまった店はいつもそうだが、要領のない、曖昧模糊とした記憶に放り込まれて、濃い霧のなかをさまよう幽霊船のように、ミルク色の大気のなかに姿を消してしまう。

アーケードの廻廊の丁度反対側にあった日本人夫婦が経営していたレストランが急になくなってしまったのは、10年くらい前ではなかったか。
日本人夫婦が経営する料理屋ということになれば、まず十中八九日本食レストランと決まっているのに、そのレストランは、ステーキレストランで、
おいしいパンプキンスープを出す、その店を経営する、「日本料理ではなくてニュージーランドの料理を出す」という、若い日本人夫婦の気持ちの何かが、ぼくは好きだった。
アジアの人には珍しくて、新しいことにおもえた。
だから、いきなり閉店してしまったあとの、まだサインもなにも残っている店のドアの前にたって、自分でも意外な、ひどく落胆したような、おおげさに言えば寂寥がこみあげてくるような、がっかりした気持ちを味わった。

そのあとには、たしかホットドッグの専門店が出来て、なんだかアメリカ式だという謳い文句が、おいしそうで、入っていこうと考えたら、店の前のブラックボードにチョークで「$10(830円)から!」と書いてあって、なにしろケチなぼくのことで、おそれをなして退散したのだった。
もっとも、この辺をひとりで歩いているときは、友達と会った後と決まっていて、見ためはふだんと同じ「素面」でも、内実は、樽からかぶのみしたシロクマのように酔っ払っていることが多いので、ほんとうは隣のビルかなにかで、しかも、実際には店内にはいって、妙にニコニコしながらホットドッグを注文して食べていて、注文から支払いまで、酔いがさめるのと一緒に、綺麗さっぱり忘れているだけなのかもしれません。

酔っ払うと、陽気になって、浮かれてばかりいるのは、おにいちゃんがアホである何よりの証拠である、とよく妹は述べるが、そんなことはない。
酔っ払ったときの語調を日本語に翻訳して述べると、「そんなことっわ、ありましぇええーん」。
アルコールは楽しいから飲むので、アルコールを飲んで楽しくなければ、酒を飲む合理的な理由がなにも見当たらない。

庭の芝が夏の陽光に輝きだすと、その光の反射への反射で、よく冷えた白ワインが飲みたくなる。
こういう条件反射は、アルコール依存症の第二段階だったよね、たしか、と思うが、飲みたいものは飲みたいので、モニさんと庭のテーブルに並んで、白ワインと牡蛎の天ぷらで、のんびり過ごす。
あの二軒先のひとたちは、家を売らねばならなくなったのだ、と重圧に耐えかねて、 モニとわしを訪問して、どうか苦境を理解して欲しい、デベロッパーには売らないから、と述べに来たとき、夫のほうは目が血走って、奥さんは、人間の気持ちというものは、ああいうものなのか、奇妙に興奮した様子で、わたしたちのようなカネモチは、時にこういうことがあって、「普通の」ひとたちには判らないだろうけど、あなたにはきっとわかるでしょう?
という、奇妙な理屈を早口でまくしたてる、というような光景だった。

ところで、そのときに最も異様に感じたのは、ドライブウエイまで見送りにでて、夫婦がゲートを出たあと、二軒先に消えて、自分でもゲートのところまで歩いて、通りを見渡してみると、まったく何事もないように平穏で、この近所ではバブル経済の社会には付きものの、破滅があり、新しく入ってくる成功者がいて、夫婦間の裏切りや、近所の人間同士の反目があるのに、平和そのものの光景で、なにかに似ている、と考えてみると、凪いだ海から突然、半身を食いちぎられた鯛が飛び出してきて、いかにも平穏な海面の下では、生き延びるための、凄まじい闘争が起きているのに、怯えに似た気持ちを感じた瞬間に似ている。

ニュージーランドは、たとえば住居用不動産で言えば、5年前ですでに、アメリカや欧州のアナリストの見積もりの平均で、40%、実質価値よりも高いプライスタグが付いていた。
それから5年間で、高級住宅地では、倍になっていない不動産は存在しないだろうから、実質価値とは現実的な連関がない高い価格になってしまっている。
ニュージーランド政府も中央銀行もバブルの沈静に必死だが、中国市場が不振で、たとえば巨人的な乳業会社であるフォンテラの輸出が劇的に減少して、農場主がミルクをいくら出荷しても利益がゼロの買い取り価格の水準まで落ちているので、産業も国内市場も小さい国としては、「公定利息率をさげて、通貨の流通量を増やす」しか方法がない。
中国政府に中国から大金を持ってやってくる人のアセットを報告する協定を結んだり、2年以内の転売にはキャピタルゲインタックスを設けたり、いろいろやってみても、難しくて、
通貨がさがれば、ものすごい勢いで外国人が不動産を買いあさるので、国内のニュージーランドドルにとどまっている大多数の人間からみると、常識では理解できないような不動産価格になってゆく。

「いまの英語圏の株価と不動産価格の上昇は、形態を変えたインフレーションで、インフレ指標になっている消費者物価のほうは当てにならない。真のインフレーションは、姿を変えて起きているのではないか」
という、最近の英語世界で流行している説には、信憑性がある。
株価があがれば企業価値が増えて、不動産価格が上昇すれば持ち主のアセットが増大して「裕かになる」という旧来の考えでは、どうにも説明がつかないことが起こっている。

観光客が集まってくるパーネルの坂をおりてゆくと、ここでも5分の1くらいは去年は存在しなかった店で、不定形な外貌を持って、毎年姿を変えるロンドンにとても似てきている。
「ネパール料理」の店があって、これも新しく出来た四川料理の店がある。
オークランドのアイコン料理屋だった「イグアス」があった跡地は、どういうことなのか、以前の建物を壊して、そのまま半年近く放置されている。
「ブルーエレファント」や「オー、カルカッタ」のような店は、そう思って見るからか、気息奄々として見えます。
イグアスの賃料は年23万ドル(2000万円)だった、と新聞に出ていたので、もともと外食の習慣がないニュージーランドでは、大変だったろうな、と改めて考える。
最後に行ったときは、フランスからやってきた旅行者のパートタイムの女の人が「フロアマネージャー」で、「このレストランは経営が危ないとおもう」と、にっこり笑いながら述べていた。
「とても、大変みたい」

繁栄って、こういうものだなのかもね、と思わなくもない。
社会が「繁栄」して、個人に多忙と巨大な出費との重荷だけを負わせて繁栄そのものはひとかけらもわけてやりはしないのは、日本のバブル時代だけのことではないよーです。
ロンドンでもニューヨークでも、シドニーでもメルボルンでも、「繁栄」は、若い個人から「家を買う」という考えを奪い、高い賃金よりも、さらに成長が早い出費を迫り、結局は自分の街から「普通の生活をしたい人間」を蹴り出して、個性のある店を閉店に追い込み、世界じゅうどこにでもある「ルイ・ヴィトン」「プラダ」「THE BODY SHOP」というようなサインで通りを埋めつくして、退屈な街並みをつくって街から生命力を収奪する。

能力ぎりぎりまで借金を負った若い夫婦が、突出したデザインの建物の駐車場から、高級車で現れて乗り回すが、よく見ると、どの顔も強ばってひきつっている。

ニュージーランドも他の英語国なみに「繁栄」の仲間入りをしたのだなーと、マヌケなことを考える。

ここから先の世界は「能力がある者のための世界」になるだろう。
人口の1%に満たない、なんらかの「才能」がある人間を社会が挙げて庇護して、桁違いの環境と報酬を与えて大事にしなければ、21世紀には、ひとつの社会が未来を競争に打ち勝って生き延びて行くのにどうしても必要なアスペルガー人もゲーマー族も、さっさと他の国へ行ってしまうからです。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/

新しい世界の最大の問題は99%の人間が「いてもいなくてもいい人間」「社会が必要としていない人間」になってしまったことであるのは、もうすでに、よく知られた事実であると思う。
流動的な世界では国境さえ意味をなさなくなってしまっている。

だから、よほど間の抜けた国以外は、自国の突出した才能を引き留め、他国のそれを自国へリクルートしてくることに血眼になっている。

実際、ごく少数の能力がある人間が競争の要であることを意識できない企業/社会/国家は、どんどん競争のなかで敗退して、地歩を失っている。

Queens Arcadeから出ると、雑踏のなかで、欧州からの留学生たちが、東欧言語が多い自国の言葉や、英語で、冗談を言い合って笑っている。
失業率が7%を超えて、そのすぐ傍らで、急に目立つようになったホームレスのひとたちのひとりが、顔をうつぶせて、瞑目している。

では99%の人間は、いったいどうすればいいのか?というのが、ぼくの質問なんです。
判っている。
これは、富の再分配というような古典的な問題ではなかった。
ぼくは間違っていた。
この問題の本質は、たどり直してみると、意外なことに、資源に対して人口がついに過剰になったことに原因があるよーだ。
おおげさで滑稽な響きの言葉を使うと「人類は本能的に」群のなかから選良を選び出して、効率を求め、ブレークスルーをつくるチャンスを増やしている。

それでも、質問は、こうです。
残りの役にたたない99%の人間は、どうすればいいのですか?
社会から、余計なだけの、誤差の範囲とみなされた個人は、いったいどんなふうに自分を考えれば良いのか。

答えのない議論が頭のなかをめぐって、雑踏のなかを歩きながら、いつまでも疑問が、いつのまにか出発点に帰る迷路のなかで堂々めぐりをしている。
出口が、どこにもなくて、最後には、どうやってこの迷路にはいりこんだのかも判らなくなってくる。

もう、夜が近いというのに。
ひとつの灯火も、防御もなく。

静まりかえった町。

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