ETV特集「移民の国に咲いた花〜日本ブラジル120年〜」 2015.12.05


今年2月ブラジル全土を駆け巡った一人の日系人の訃報。
大竹富江は戦前日本からブラジルに渡った移民。
ブラジル最高の文化勲章を受賞した国民的芸術家です。
その死にブラジルの大統領までもが追悼文を発表しました。
大竹富江のように戦前日本からブラジルへ渡った移民は19万人。
移民たちはブラジル奥地に広がる未開のジャングルに活路を見いだし開墾に挑みました。
大規模な土壌改良やブラジルにもともとなかった数多くの野菜の栽培。
ブラジルの食文化に革命をもたらした日系移民は「農業の神様」とまでたたえられるようになります。
戦後日系人は政界や経済界にも進出。
ブラジルの名だたる企業の中枢にその姿がありました。
多民族国家ブラジル。
その中で日系人は大きな存在感を放っています。
日本とブラジルが外交関係を結んで今年で120年。
ブラジルで高い信頼を勝ち得ていった日系移民たちの軌跡をたどります。
日本からはるか2万キロに位置する南半球のブラジル。
そのブラジルを代表するリオデジャネイロの写真アーカイブスです。
近年ここに日系移民の歴史に新たな光を当てる多数の写真が寄贈されました。
今2万点に及ぶ写真の保管と研究が進められています。
ブラジルの農業に大きく貢献した日系移民。
写真の多くが農場での暮らしを切り取ったものでした。
過酷な労働環境や苦難の生活ばかりが語られてきた日系移民の歴史。
ところが写真には日系移民たちがブラジルの大地で見いだした喜びや感動が表現されていました。
撮影者の名は大原治雄。
戦前日本の山村からブラジルへ渡った移民でした。
大原治雄は農民でありながら写真を撮り続けその作品で世界的地位を得たと思います。
国際的な観点からもっと評価されてもいいでしょう。
大原の写真は歴史の真実を伝える記録として非常に価値があります。
高知県中部の山あい。
写真を残した大原治雄はこの山村で生まれました。
急しゅんな山々に囲まれたこの集落は耕作面積が狭く努力と工夫を重ねても生活を成り立たせるには限界がありました。
谷筋の集落はとにかく土地が少ないのでこういうふうに石積みを作って家の敷地を確保したり田んぼを作ったり畑を作ったりと。
活路を見いだすならばいっそ海外の新天地に賭けてみたい。
1927年大原治雄は17歳でブラジルへ渡ります。
恐らく戦前の日本というのはもっとやはり貧しい所もあっただろうし暮らしがなかなか厳しい所だったろうと思うんですね。
だからそういう中で自分の故郷を出て海外に行って暮らすという冒険的な選択をすると。
ブラジルに移民するという選択を積極的にしたんだろうなというふうには思います。
多くの日本人がブラジルを目指すきっかけとなったのは今から120年前のフランス・パリ。
実は当時のブラジルは奴隷制廃止に伴いそれに代わる労働力を求めていました。
それに応えたのが日本でした。
1895年両国はパリで修好条約に調印。
日本からブラジルへの移民はこの条約を元に始まりました。
1908年日本からの最初の移民を運んだ笠戸丸です。
これを皮切りに戦前19万人がブラジルへと渡りました。
移民たちは契約労働者となり各地の農場へ向かいます。
賃金は歩合制で日本の労働者の5倍は稼げると聞かされていました。
特にブラジルの主要産業だったコーヒーは「金のなる木」と呼ばれ移民たちは期待に胸を膨らませます。
ところが奥地で待っていたのは奴隷同然の労働でした。
素手でコーヒーを収穫しこぼれた豆も手作業で集める。
延々と続く過酷な労働にもかかわらず賃金は聞かされていた10分の1以下という移民もいました。
大原治雄もまた契約労働者として過酷な肉体労働の日々を送っていました。
「これで儲かり否当然以下の報酬がないとは残念だ」。
このままではいけない。
治雄たち移民は起死回生の大きな賭けに出ます。
借金をして未開のジャングルを購入し自立した農民になる事を目指したのです。
見た事もない巨大な木を切り倒し土地を開墾。
伐採作業では大けがや死亡事故が続出しマラリアで全滅した家族もありました。
大原治雄が開墾に挑んだのはブラジル南部。
海岸線から500キロ内陸に入ったロンドリーナでした。
治雄が入植した当時ここには人跡未踏のジャングルが広がっていました。
今年74歳になる治雄の次男スナオさんです。
治雄はこの一帯50ヘクタールのジャングルを切り開きました。
現在その場所は2,000人が暮らす市街地となっています。
父の農場はこの辺りからでした。
ここに荷車がやっと通れる細い土の道がありました。
雨が降るとぬかるんで歩けなくなるような道です。
大木を一本一本切り倒し大地に深く張った根を何日もかけて取り除く日々。
こうして大原治雄は密林を何年もかけて少しずつ農地へと作り替えていきました。
こんなに大きな木も2人がかりでノコギリを使って倒したそうです。
でも両親はその苦労を私たちには一切語らなかったんです。
だから私は両親がどんな事に悩んでいたのか知りません。
本当は大変だったはずです。
でも顔に出さず乗り越えてきたんだと思います。
過酷な開墾の日々。
ところが大原治雄が日記に記したのはブラジルの大地に自分の土地を手に入れたその感動でした。
この感動を後世に残していきたい。
入植の5年後治雄はカメラを購入します。
治雄が撮ったファーストカット。
農作業の手を止めはにかむ妻の姿でした。
その後治雄は9人の子供を授かります。
大原治雄の一家は家族で力を合わせブラジルの大自然に挑んでいきました。
治雄の長女トモコさんです。
苦労や不満を一切漏らす事なくブラジルの大地に魅せられていた父親の姿をよく記憶しています。
父は開拓に挑んだ当時の事を「すばらしい経験」と語ってくれました。
鳥のさえずり日の輝き珍しい草花。
全てがすばらしかったと。
そのころ家はまだとても粗末なものでしたが父はとにかく全てに感動していたんです。
私は幼心にすごい父親だなと思って聞いていました。
ジャングルの開墾に挑んだ大原治雄たち日系移民は農作物の品種改良や土壌の整備を積極的に進めていきます。
やがてブラジルになかった野菜や果物の栽培を次々と軌道に乗せ「農業の神様」とたたえられるようになりました。
ブラジル全土で見ると九州の面積にも匹敵するおよそ460万ヘクタール。
未開のジャングルが日系移民の手で次々と農地に変わっていきました。
サンパウロ人文科学研究所で移民史を研究している宮尾進さんです。
日系移民の農業にかける熱意はブラジル人たちの尊敬を集めたといいます。
その他果物なんかもね作っちゃって。
大原治雄たち日系移民。
過酷な契約労働や開墾の時代を乗り越えブラジル社会の信頼を勝ち得ていったのです。
多くの日系移民が船から降り立った港町サントスです。
ここに日系移民たちの成功を物語る大きなモニュメントがあります。
トミエ・オオタケの作品よ。
とても美しくて大好きです。
彼女のテレビ番組をいくつも見ました。
彼女の作品は国際的に知られています。
この作品を制作したのも実は戦前の日系移民。
後に国民的芸術家となる大竹富江です。
彼女は戦前20代で日本を飛び出し戦後ブラジルで次々と絵画や巨大モニュメントを発表。
ブラジルの美術賞を次々と獲得し2013年にはブラジル文化人の最高の栄誉である文化勲章も受章しました。
大竹富江は1913年京都で3代続く材木商の家に生まれました。
幼少期に富江と同居していました。
富江は型にはまる事を嫌う勝ち気な女性だったといいます。
富江が京都で青春時代を過ごしたのは昭和の初め。
選挙権が認められないなど女性の社会的地位は低いものでした。
23歳の時富江は思い切った行動に出ます。
親の反対を振り切ってブラジル行きの移民船に乗り込んだのです。
富江が来た頃のブラジルは既に20か国以上からの移民を受け入れほとんどの国民が移民やその子孫でした。
ブラジル憲法には国籍を問わず居住する者に対して平等を保証する条項があります。
生まれや性別そして人種による差別はあってはならないと明確に規定されています。
自由を求めて渡ったブラジルで富江は結婚と出産を経験。
ところが程なく富江たち日系人に予想もしなかった事態がわき起こります。
1941年日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発します。
日系人たちはラジオを通じて祖国の開戦を知りました。
開戦から1か月アメリカと歩調を合わせるブラジル政府は連合国への支持を表明。
日本との国交は断絶しました。
大竹富江の長男で建築家のルイ・オオタケさんです。
当時一家はサンパウロの市街地で暮らしていました。
戦時中日系人たちにはいくつかの規制があったもののそれほど不自由は感じなかったといいます。
サンパウロの日本人ドイツ人イタリア人に規制があったのは知っています。
ただ私は幼かったので差別的だと感じた事はありません。
当然ですが母は戦争に否定的でした。
戦争は非人道的なものですからとても嘆いていました。
(玉音放送)3年8か月に及ぶ太平洋戦争が終結。
ところが日本の敗戦をきっかけにブラジルの日系社会は大きな危機を迎える事になります。
その発端は多くの日系人たちがブラジルで報じられた日本の敗戦を信じる事ができずデマだと考えた事でした。
日本の敗戦を信じない日系人たちの中でも特に先鋭化したのが「勝ち組」と呼ばれる人たちでした。
彼らは自分たちも日本の勝利に貢献しようと戦時中から愛国団体を結成していました。
戦時中勝ち組はひそかに短波ラジオで日本の勝利を伝える大本営発表を聴き続けます。
そこへある日突然流れてきた日本敗戦の情報。
彼らは玉音放送すらアメリカのねつ造だと思い込んでいきました。
不思議な事にその日のうちにどこかからともなく「あれはアメリカのデマ放送で負けたのはアメリカで勝ったのは日本だ」というニュースが流れてきてですね。
「日本の陸軍は今カリフォルニアに上陸してワシントンに向けて進撃中である」とかね。
それを皆喜んで見てたらしいんですよね。
必ず最後には日本が勝つんだというそういう信念に燃えてた連中がほとんどですね。
日系人の中には日本敗戦の確かな情報を得ていた人もいました。
大竹富江もその一人でした。
私たちはサンパウロの都会に住んでいましたしブラジルの新聞も2紙購読していました。
ですから日本の敗戦に全く疑問はありませんでした。
戦争が終わっていないなど話にもなりません。
こうした日本の敗戦を信じる日系人に対し勝ち組は真っ向から反発。
敗戦を口にする者は国賊だと糾弾していきました。
そして敗戦の7か月後。
(銃声)勝ち組は敗戦の事実を広めようとした日系人を次々と殺害。
1年足らずで23人もの命が奪われました。
この事態にブラジル社会は驚がくし日系人への信頼が一気に揺らいでいきます。
ブラジル連邦議会で「日系移民の入国全面禁止」を憲法に盛り込む案が提出され議論が始まります。
それに対し反対の声も上がります。
議論は膠着し多数決による投票が行われました。
結果は賛成99票反対99票。
決着は連邦議会議長の持つ最後の一票に委ねられました。
日系移民の命運がかかった最後の一票。
議長が投票したのは憲法修正案を退ける「反対」の票でした。
いかなる人種にも法の下の平等を保証するブラジル憲法の精神は守られたのです。
ブラジル社会からの排斥は免れたものの深く傷ついた日系人への信頼。
戦後その信頼回復が大きな課題となりました。
これは1958年に日系人たちがサンパウロで行ったパレードです。
日系人たちはブラジル社会との融和を目指し戦後さまざまな活動を展開していきます。
そんな中いち早くブラジル社会に飛び込み日系人の評価を高めたのが大竹富江でした。
戦前戦中とブラジルで主婦として暮らしていた富江は戦後芸術家としての道を歩み始めます。
これです。
これがね。
富江は39歳で初めて絵画の基礎を習い風景画などを描いていました。
ところが僅か3年で富江は芸術家としての頭角を現し始めます。
その急成長の裏にあったのはブラジル人芸術家たちとの交流。
そこで当時流行していた抽象画に出会いました。
決まった形やルールのない自由な抽象画の世界に富江は没頭していきます。
当時芸術家を志す日系人たちは独自のグループを結成し活動に励んでいました。
しかし富江はその枠を飛び越えていきます。
母自身ブラジルでの日本人とのつきあいはごく限られたものでした。
この抽象画は富江がブラジル社会で注目される事になった一枚です。
富江は目をつぶりながら筆を走らせ描きました。
このころ富江が熱心に学んでいた日本の禅の思想や書の技法の影響を受けた作品と言われています。
大竹富江は書や禅の思想に対する深い造詣を持っていました。
彼女は瞑想する事で第六感という独特の知覚力を引き出し作品を練り上げていくのです。
こうして彼女はブラジルの芸術家として認められるようになっていきました。
1960年こうした一連の抽象画が高く評価され富江はブラジル現代美術の名誉ある賞を受賞。
ブラジルは日本からの移民大竹富江の登場を歓迎したのです。
そして1980年代大竹富江は更にブラジル社会に深く飛び込む事で国民的芸術家にまで上り詰めていきます。
富江が新たに挑んだのは全長20メートル重さ17トンの巨大モニュメントでした。
富江は誰の目にも留まる巨大なモニュメントを作る事でより深くブラジルの人々と向き合おうとしていました。
巨大な作品は多くのリオデジャネイロ市民の憩いの場となっている湖の上に設置される事になりました。
ところがこの巨大モニュメントに一部の市民や芸術家たちから批判の声が上がります。
「まるでクモのようだ」。
「この悪趣味な作品を撤去するべきだ」。
更に富江に追い打ちをかける事態が起こります。
モニュメントは人にいたずらされ曲がって傷ついてしまいました。
その修理のために造船所へ送り返されたんです。
ところがその造船所が倒産した事もあってなんと作品はそのままスクラップとなり廃棄されてしまったのです。
しかし富江は作品がスクラップにされても制作を諦めませんでした。
巨大な芸術作品を通してブラジルの人々と深く向き合いたい。
ともかく前に前にというそういう信念の方だから。
人がいろんな事を言っても馬耳東風だと思いますよ。
いろんな事が耳に入ってくるはずだと思いますけどね。
ただ我が道を行くというそういう気持ちがやっぱりすごいなと。
大竹富江は批判や無理解を恐れる事なく粘り強く巨大作品の制作に挑んでいきます。
サンパウロを貫く幹線道路に作られた全長40メートルの作品。
サンパウロの空の玄関国際空港の入り口に置かれた重さ20トンの作品。
富江はブラジル全土におよそ40もの巨大モニュメントを作り続けていきました。
私が母から学んだのは時代の先端を行きたければ突き抜ける力を持たなければならないという事です。
しかし一般的な範囲を突き抜けると必ず論争が起きます。
それは変革をもたらしたからです。
論争を恐れる人は最先端になれません。
アバンギャルドはその論争を超えた先にあるのです。
大竹富江が粘り強く作り続けた巨大モニュメント。
多様な文化が交錯するブラジル社会に次第に受け入れられていきました。
巨大な作品を通してブラジルの人々と深く向き合う事を目指した富江は全てのモニュメントに題名を付けませんでした。
波に見えます。
上下する波だと思います。
平穏さのようなものを感じます。
竜をモチーフにしていると思います。
とにかく美しい。
ええ美しいわね。
大竹富江を受け入れたブラジル社会。
戦後日系人たちはブラジルの隅々で社会を支える存在となっていきます。
連邦議員や閣僚大手石油会社の総裁からテレビタレントまで。
こうした人々を輩出する裏には日系人独特の精神がありました。
多くの日系移民の開墾によってつくられた街ロンドリーナです。
この街で開墾に挑み農場を経営していた大原治雄。
戦後治雄はその暮らし方を大きく変えていきます。
1951年開墾した農場を手放し街の中心部に引っ越ししたのです。
目的は子供たちへの教育でした。
その家には今治雄の次男スナオさんが暮らしています。
引っ越し当時10歳の小学生でした。
ブラジルの大地で生きる感動を写真で表現した大原治雄。
次の世代がブラジル社会の発展に役立つ事を治雄は強く願っていました。

(バイオリン)治雄は家計に余裕がなくても生活費を教育に投じていきました。
誰かバイオリンを…バイオリンかピアノか何か勉強したいかって。
その時に僕がバイオリンを勉強したいなと。

(「荒城の月」)大原治雄が大好きだった「荒城の月」。
スナオさんたち日系2世は親の思いに応えようと学問に励んでいきました。
そして4人の息子と5人の娘はなんと9人全員が大学への進学を果たします。
その裏で治雄は持っていた土地の多くを売り払い時には借金を重ねて膨大な学費を捻出していました。
(マリア・オオハラ)学生の頃父の歯が欠けているのが気になって母に「歯が欠けているなんて恥ずかしい」と言いました。
そうしたら母が「父さんは歯を治すお金までお前たちの学費や仕送りに回しているのよ」と言ったんです。
父は私たちがブラジル社会にチャレンジする事を望んでいたんです。
父はいつも言っていました。
「子供に財産を残す事はできない。
しかし教育を与える事はできる」と。
「知識を身につけブラジル社会に羽ばたいてほしい」。
それが父の教えだったんです。
日系移民1世たちが熱心に取り組んだ2世たちへの教育。
その痕跡はブラジル最難関のサンパウロ大学でも見る事ができます。
1970年代ブラジルの全人口に占める日系人の割合は0.8%。
それに対してこの大学の日系人の割合は15%にも達します。
その傾向は今なお続いています。
他の受験生から「日系の受験生は必ず合格してしまう」と恐れられるほどでした。
それほど日系は勉強家でした。
日系人は子供の成功のために教育に力を注ぎます。
それは日系社会の他にはない特徴と言えるでしょう。
日曜日大原治雄の子供や孫が続々と集まってきました。
1999年治雄が亡くなって以降も毎週続いている恒例の昼食会です。
9人の子供に恵まれた治雄には孫が21人ひ孫が24人生まれました。
その7割がさまざまな国から来た移民たちとのハーフやクオーターです。
大原治雄から写真の手ほどきを受けカメラマンとなった孫のサウロさんです。
サウロさんは婚約者を連れてきていました。
ポルトガル系ブラジル人のダイエネさんです。
日系人同士の結婚が望まれた時代はもはや過去のものになりました。
ええうれしいですね。
ブラジルでは現在日系6世が誕生。
日系人たちは多民族国家ブラジルの中でさまざまな人種と混ざり合い新しい社会を作り出していくと研究者の宮尾さんは考えています。
(取材者)この後120年たった時にこの日系社会というのはどうなるでしょう?僕は簡単に消えていくと思いますよ。
日系という言葉も無くなるだろうし。
サラダ文化っていうのはそういう事でしょう?よくアメリカだとサラダ文化と。
サラダというのはいろんな野菜が集まってレタスはレタスの味それからトマトはトマトの味を持ちながらそれをそこの中でみんなが一緒に生活して新しいそれぞれの持ってきた味を伝えて一つの味として出すべきだというね。
いろんな人種が集まりいろいろな文化を出し合って新しい統合されたブラジルという社会を作るのが理想的だというふうになってる。
ブラジルの大地に生きる家族を写し取ってきた大原治雄。
そのバトンはカメラマンとなった孫のサウロさんが引き継いでいます。
治雄から始まった一族は今年70人となりました。
移民によって深く結び付いてきた2つの国日本とブラジル。
その関係が始まって120年。
また新たな時代が始まろうとしています。
2015/12/05(土) 00:00〜00:57
NHKEテレ1大阪
ETV特集「移民の国に咲いた花〜日本ブラジル120年〜」[字][再]

120年前に外交関係を樹立した日本とブラジル。以来日本から多くの移民が海を渡り、国民的芸術家や農業の神様と呼ばれる存在となった。知られざる日系移民の歴史を探る。

詳細情報
番組内容
120年前、日本は地球の反対側にあるブラジルと初めて外交関係を結んだ。以来海を渡った日本人移民たちは、人種的偏見や差別に向き合いながらも、ブラジル社会に深く根ざし名を残していく。その裏にはどんな歴史があったのか?ブラジル文化人最高の勲章を受けた日本人移民の芸術家・大竹富江。従来の移民のイメージを覆す2万枚の写真を残した、農民で写真家の大原治雄。2人の移民の人生から120年の歴史と今を描く。
出演者
【語り】黒木華

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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