先日発見されて話題となった旧日本海軍の戦艦武蔵。
こちらは同じく海軍の主力戦闘機ゼロ戦です。
そして今日取り上げるのはこちら。
あの戦艦大和。
…ではなくてその向こうに見える小さな船。
分かりますか?こちらです。
そう。
この船が今日の主人公。
名前は間宮といいます。
実はこの間宮海軍の将兵に大人気でした。
こうやって見たら…誰もが待ち焦がれていたという間宮。
その理由は…。
数々のお菓子を作っていた船だったのです。
中でも絶大な人気を誇ったのが…「ヨ」でしょ。
「ウ」「カ」「ン」「ヲ」「ク」「レ」。
厳しい戦いが続く戦地で兵士たちにひとときの幸せをもたらした間宮。
今日はそんなお菓子を届けた船のお話です。
「マル秘」の印が押されたこちらの資料。
広島県の大和ミュージアムに残されている間宮の設計図です。
ここには普通の軍艦にはない一風変わった船内の様子が記されています。
大きな机が置かれているのは菓子生産室。
その横にはあんこを作る製餡所。
はたまたこちらはラムネ製造機室。
この部屋にはアイスクリームフリーザーも。
間宮はまさに海に浮かぶお菓子工場とも言える船でした。
前年の関東大震災をきっかけに東京が大きく近代都市へと姿を変えている頃の事。
当時としては最新の設備を搭載した日本海軍初の「給糧艦」として誕生しました。
給糧艦とは他の軍艦などに食糧を補給するための船。
今で言う「補給艦」です。
つまり間宮はもともとお菓子作りのための船ではありませんでした。
給糧艦の特徴とは何なのか。
今回海上自衛隊の補給艦「おうみ」を特別に取材させてもらう事ができました。
それがどうしてお菓子を作る事になったのでしょうか?ヒントとなるのがそのころ日本が模範としていたイギリス海軍での習慣です。
そこで大切にしていたのは…。
なんとティータイム。
食事以外にも紅茶とチョコレートでリフレッシュして将兵のやる気を引き出していたのです。
昭和3年。
間宮の艦長が海軍大臣にこんな報告書を提出します。
甘いものなど嗜好品も必要だと主張しました。
海軍上層部もこの報告を支持します。
「ラムネ菓子といった嗜好品を作り将兵に与える事は極めて有益である」。
まずはラムネ製造機械。
ラムネは炭酸ガス水そしてシロップを加えれば出来上がり。
簡単に作れ喉越しも抜群とあってまさに一石二鳥。
更に設置されたのが饅頭などを作る機械一式。
この結果生まれたのが羊羹などあんこを使った和菓子です。
設計図には製餡所の中に炊飯釜と並んで大きな釜が2つ記されています。
これらはあんを練るための釜だと考えられています。
こうした蒸気釜は調理の上でも大きな利点があるといいます。
船という限られた空間の中で設備をうまく使い間宮は単に食糧を運ぶ船からいわば洋上のお菓子工場へと変貌を遂げていきました。
設備はそろった間宮。
次なるステップアップは人材の確保です。
間宮では味のレベルも上げようと本職の菓子職人を募集します。
給料も民間よりいいとあって応募は殺到したそうです。
俺を雇ってくれ!いやわしや!俺だって!
(取材者)今日はよろしくお願いします。
兄が間宮に乗っていました。
松恵さんの兄山口定男さんです。
定男さんは小学校を卒業後菓子職人として修業を積みその後間宮に採用されました。
松恵さんは定男さんが休暇で帰ってくるのを楽しみにしていたといいます。
なぜなら…。
海軍の将兵だけでなく一般の人たちにも大好評だった間宮の羊羹。
そこには間宮の職人たちの高い技術があったといいます。
優れた設備豊富な食材加えて一流の菓子職人。
こうして給糧艦間宮は日本海軍の誰もが待ち焦がれる憧れの船になったのです。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
今夜の主役は日本海軍の給糧艦間宮です。
間宮のお菓子がいかに人気だったかを示すこんなエピソードが残されています。
ある時間宮は海外で任務に就いている海軍の部隊に食糧を届けるよう命令を受けます。
大量の野菜や魚などを積んで意気揚々と乗り込んだところ…。
間宮のお菓子は遠く祖国を離れた将兵が日本の味を楽しめる貴重な品だったのです。
兵士たちが待ち焦がれていたという間宮。
太平洋戦争が始まるとその期待は更に増していきます。
真珠湾攻撃により始まった太平洋戦争。
開戦後の間宮の主な任務は日本から3,000km余り離れたミクロネシア連邦チューク諸島当時のトラック諸島への補給でした。
戦艦大和や武蔵など連合艦隊の艦艇が集結。
およそ2万の将兵が暮らしていました。
原付きバイク並みのスピードで…かつてトラック諸島まで間宮に乗せてもらった事がある元海軍兵西谷廣正さん。
当時から間宮の遅さは兵士の間でも有名でした。
これは古い艦ですんでですね。
石油でエンジンを動かす船が主流だった中…それでも西谷さんは間宮に便乗すると決まった時周りの人たちに羨ましがられたといいます。
米塩砂糖しょうゆなどの…食べる事さえ事欠く中でお菓子など楽しむ余裕は到底なくなっていきます。
開戦から半年後日本はミッドウェー海戦で4隻もの空母を失い大敗を喫します。
太平洋戦争は大きな転換点を迎えていました。
廣さんはトラック諸島にいた戦艦大和の信号兵でした。
そこでの日々は大変過酷だったと言います。
廣さんたちは来るべき決戦に備えて…更に訓練以外のあらゆる場面でも厳しい規律が課せられ息つく暇もありません。
そんな中廣さんたちが楽しみにしていたのが間宮のお菓子でした。
これは手旗信号。
間宮がトラック諸島にやって来たと分かると将兵は大騒ぎ。
お〜間宮だ!停泊している船それぞれの食糧調達係が我先にと小舟で押し寄せます。
数に限りがあるため争奪戦となったそうです。
あえなく品切れとなり手に入れられなかった調達係は船に戻ると冷たい視線を浴びせられたとか…。
信号兵の廣さんにとって間宮をいち早く見つけるのも大事な仕事でした。
ん?あの船…。
間宮だ。
間宮が来たんだ!旗の種類は船の数だけあります。
連合艦隊となると主な艦艇だけでもおよそ300隻。
その中から廣さんは間宮の旗を素早く認識できたといいます。
間宮が来ました!よしよく見つけた。
これで俺たちが間宮に一番乗りだ。
そして…。
おい廣。
よくやった!心の声やった!甘ぇ〜!楽しみですよねそれが。
いらっしゃい。
間宮で食材が収められた倉庫の番を務めていました。
菓子作りが忙しい時には度々手伝いをしたと言います。
間宮で働く職人たちの1日は朝早くから始まります。
おい起きろ!時間?仕込みの時間だ。
いつまで寝てる。
小豆を運ぶから手伝え!はい!小豆持ってきましたけえ。
お〜そこ置いといてくれや。
ええ匂いがしますのう。
朝までにはあんこが出来るわい。
ほじゃけどこんな夜中からせんといけんのですか?トラックには連合艦隊の軍艦がようけ集まっとるんじゃけいくら作っても足らんわい。
こうした職人たちの頑張りが海軍の士気を支えていました。
しかし戦争が進むにつれ間宮を取り巻く状況は刻一刻と悪化していくのです。
間宮が戦地に届けたのはお菓子だけではありません。
時にはちょっと変わったものも…。
間宮が日本から出港する直前女性たちが訪ねてきました。
そこで女性たちが差し出したのは1本の枝。
この枝を戦地に届けてほしいと言うのです。
やがて間宮はトラック諸島に無事到着します。
そこで早速枝を取り出してみると…。
なんと目の前でつぼみが開き現れたのは美しい桜の花。
まさかこんな南の島で桜が見られるとは!それもオーバーだったかもしれないけれども…さて兵士たちにひとときの安らぎを届けていた間宮ですが戦況の悪化とともに最後の指令が下されます。
トラック諸島に向かう途中間宮は台風に遭遇し一緒に行動していた他の船とはぐれてしまいます。
船団を元に戻さないと!仲間の船が無電で集合地点を間宮に知らせました。
ところが…そうとは知らず集合地点にやって来た間宮。
その時…。
(被弾音)アメリカ軍の潜水艦が発射した魚雷が間宮に命中。
司令部は近くにいる艦艇に間宮の救出を命じます。
するとこの時間宮から遠く数千キロ離れた一隻の軍艦にも大きな動きがありました。
艦長どうやら間宮が米潜の雷撃を受けとるようです。
何?間宮が危ないだと!?はっ!間宮は今どこだ?よし!到底間に合うとは思えません。
その後日本まで曳航され事なきを得ました。
間宮が補給に向かっていたトラック諸島はアメリカ軍の大空襲を受けます。
多くの輸送船が失われる中これまで戦いの真っただ中に行く事はなかった間宮に新たな命が下ります。
はぁ…今度はどこ行くんでしょうかね?どうやらフィリピンのマニラらしいわ。
いよいよフィリピンで米軍と決戦するって話だ。
その前に我が軍には腹いっぱいになってもらわんとのう。
昭和19年12月間宮が受けた命令。
それは…これは非常に危険な任務でした。
この時日本は既にグアムサイパンフィリピン・レイテ島もアメリカ軍に占領され南シナ海における制海権も制空権も失っていたのです。
そのような場所に船足が遅くろくな武器も持たない間宮が出ていくなど通常では考えられない事です。
この時間宮を指揮していた加瀬三郎艦長は4か月前に着任したばかりでした。
間宮への米の積み込み完了しました。
ご苦労。
艦長私が言うべきではない事は重々承知ですが今や米軍の飛行機や潜水艦がウヨウヨしている南シナ海を間宮のみで航行するというのは無謀すぎや…。
間宮は給糧艦だ。
兵に兵糧を届けるために造られた船だ。
それを果たせぬなら間宮が海軍にある意味はない。
心の声多くの兵が間宮を待っている。
何としてもフィリピンまで行ってみせる。
心の声艦長…。
しかし全速力で向かったものの…いつ敵に襲われてもおかしくない状況でした。
そして…
(被弾音)やられた。
機雷か魚雷だ。
上甲板へ急げ!
(炎上音)「ガーンガーンと猛烈な衝撃。
腹の底にまでこたえるその大音響」。
(衝撃音)うわっ!うわああ!「これは駄目だな。
いよいよと思う」。
「総員退去用意」。
翌21日未明。
数回にわたって魚雷攻撃を受けた間宮はついに沈没します。
間宮に乗っていた乗松金一さん。
寒風吹きすさぶ海の中へ必死の思いで飛び込みました。
一人また一人と仲間が力尽きる中乗松さんは朝を迎えました。
もう駄目かと思ったその時。
乗松さんに救いの手が差し伸べられます。
無事引き上げられた乗松さん。
胸をなで下ろしたのもつかの間救われた船の上で信じられない光景を目にします。
間宮とともに全てを失った乗松さん。
手元に残ったのは仲間と撮った一枚の写真だけ。
今も写真を見る度に当時の事を思い出すと言います。
そういう事になっとるのよ。
兄が間宮の菓子職人だった山本松恵さん。
それはあの時に聞きました。
その8か月後日本は降伏し太平洋戦争は終結しました。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は…そんなお話でお別れです。
乗松さんが今も大事にしている間宮の仲間たちと撮った写真。
これと同じ写真を持つ人が今回の取材で見つかりました。
間宮の菓子職人だった兄を持つ山本松恵さんです。
写真には松恵さんの兄定男さんも写っています。
写真の裏には撮影された日付も記されていました。
「昭和十九年十月一日」。
間宮が撃沈される2か月余り前に撮ったものでした。
71年前松恵さんたち家族のもとに届いたのは定男さんの戦死を知らせる一枚の紙と空の骨壺だけ。
ほいでまたお骨どころやない。
どこかで生きとるんやなかろうか。
兄の写真と同じものを持っている人がいると初めて知った松恵さん。
兄の最期を知る人に会いたいと乗松さんを訪ねる事にしました。
失礼します。
いらっしゃい。
乗松さんですか?はいはい。
山本でございます。
当時の間宮に乗っとりました山口定男の妹でございます。
ああ…そうですか。
(松恵)今日は突然お邪魔に参りました。
間宮に乗っていた人に初めて会った松恵さんはこれまでずっと心の中に抱えていた疑問をぶつけました。
30〜40分かかりましたか…。
度重なる魚雷攻撃沈没。
そして寒い海の中でのいつ助かるとも分からない漂流。
松恵さんはついに間宮の最期兄の最期を知る事ができました。
よかったと思います。
乗松さんに会えて。
町を見下ろす高台に太平洋戦争で沈没した船と乗組員のための慰霊碑が建てられています。
ここに間宮の慰霊碑もあります。
慰霊碑が建てられたのは戦後40年近くたった昭和58年。
人々の間で間宮の記憶が薄れゆく中生き残った人々や関係者が資金を出し合い建てたものです。
それからまた30年。
間宮を直接知る人も少なくなりここを訪れる人はほとんどいません。
明日をも知れぬ戦いのさなかお菓子を届ける事でひとときの幸せをもたらした間宮。
戦後70年の今当たり前のようにある日常の尊さを教えてくれているのかもしれません。
2015/12/02(水) 22:00〜22:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア▽お菓子が戦地にやってきた〜海軍のアイドル給糧艦“間宮”[解][字]
太平洋戦争中、将兵に絶大な人気を誇った給糧艦「間宮」。艦内でケーキや羊かんなど菓子を作っていた“洋上のお菓子工場”だ。戦地にひとときの幸せを届けた船の秘話。
詳細情報
番組内容
太平洋戦争中、将兵にこよなく愛された船があった。給糧艦「間宮」だ。艦内で羊かん、もなか、洋菓子、果てはアイスクリームまで製造していた“洋上のお菓子工場”だ。間宮が来ると兵たちは我先にと近づき、お菓子を求めたという。厳しい戦争の中、間宮はひとときの日常を与えてくれるオアシスだった。間宮の誕生から、戦地での“活躍”、そして悲劇的な最期まで、数奇な運命をたどった船の真実に関係者の証言などを元に迫る。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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日本語
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