芹沢 鴨 芹沢・近藤・新見が局長となり、芹沢は筆頭局長となりました。

芹沢 鴨は水戸藩上席郷士である芹沢家当主・貞幹の三男として生まれた。 出自、出生年には諸説あります。のちに松井村(現茨城県北茨城市中郷松井)の神官・下村祐斎の婿養子となり、名を嗣司と称しました。神道無念流剣術を戸賀崎熊太郎から学び(諸説あり)、免許皆伝を受け師範代を務めました。万延元年(1860年) 天狗党の前身である玉造組に入ります。玉造村(現茨城県行方市玉造)を拠点とし、攘夷のための資金集めを行いました。

しかし、文久元年(1861年)2月、幕府により、水戸藩の攘夷論者の活動が抑圧されます。

4月には 嗣司は、献金強要の罪により入獄しました。文久2年(1862年)12月、安政の大獄による大赦令のため、出獄し名を芹沢鴨に改名しました。

文久3年(1863年)2月5日、同郷の平間重助とともに江戸で募集していた浪士組に参加しました。浪士組では、六番組小頭に任命されました。芹沢は、近藤勇ら13人と京都に残りました。芹沢らは、会津藩御預かりとなり八木邸を屯所として壬生浪士組を結成しました。 内部抗争により、 3月26日未明に殿内義雄が暗殺され、根岸友山 、遠藤丈庵、清水五一らが離脱すると、壬生浪士組は 芹沢派、新見錦の水戸派、近藤勇、土方歳三ら試衛館出身者の近藤派に大別されました。

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その後、 芹沢・近藤・新見が局長となり、芹沢は筆頭局長となりました。

9月芹沢鴨が懇意にしていた吉田屋の芸妓小寅が芹沢の相手をせずに帰ってしまいました。これに芹沢は立腹し、吉田屋の主人に店を壊すと脅し、小寅は髪を切られてしまいました。同月13日、近藤らは新見錦に乱暴狼藉という罪のためを切腹させました。翌日、 粗暴な振る舞いにより会津藩が芹沢の捕縛命令が出され、近藤と土方は謹慎措置をとりました。しかし、 会津藩から暗殺命令が出されました。

9月16日(または18日)新選組は島原の角屋で宴会を催していました。芹沢は平山五郎、平間重助らと角屋をから壬生の八木家へ戻り、再び宴会を催しました。深夜、泥酔し寝ていた芹沢を複数人が斬りつけました。芹沢は驚き、飛び起きて刀を取ろうとしましたが間に合わず、斬りつけられ、亡くなりました。 同じ八木家にいた平山五郎、 愛妾・梅も斬りつけられ、生涯を終えました。平間重助は逃げましたが12月に切腹し、芹沢派は、一人残らずいなくなりました。

『新選組遺聞』では、沖田総司と原田、山南敬助らが暗殺したのではないかと記しています。永倉新八の『浪士文久報国記事』には、土方歳三・沖田総司・藤堂平助・御倉伊勢武らが暗殺を実行したと記されています。西村兼文の『新撰組始末記』では土方・沖田・山南・原田が暗殺したと記されています。芹沢の墓所は京都市中京区の壬生寺にあります。

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コメント

  1. カブトガニⅡ より:

     「新見錦」に関する書き込みの承認ありがとうございました。小生「芹澤鴨」の研究もしております。近年明らかになったこともありますので、少し(?)コメントさせて頂きます。小生は、『常総の歴史』や『霊山歴史館紀要』において、芹澤鴨が、「芹沢村の芹澤本家貞幹(さだもと)の3男幼名玄太で、文政9年出生」ではなく、「水戸藩士芹澤又衛門以幹(しげもと)の子(或いは又衛門義幹の弟)である可能性がある」と論じました。後者は、本家説よりは可能性がありますが、今のところ仮説です。このため、新選組研究家や歴史学者や多くの地元民からは、未だに認知されておりません。ですが、芹澤鴨が芹沢村出身でないことは確実だと思います。
     過去帳に芹澤鴨の幼名として記されているという「玄太」が、「兵太(ひょうた)」の読み間違いであったことを、『紀要』で明らかにしました。『平氏芹澤家譜写』(貞幹記)や『芹澤家譜』(ホ本・美幹記)には記されていませんが、芹澤貞幹には少なくとも4人の男子がいた事が判明しました。次男成幹(兵部)の没後芹澤家を継いだ「兵太」は、3男である可能性が高く、長谷川家に養子に出された「庄七(しょうしち)」は、内務省の調書に書かれているように4男です。庄七は、調書によれば文政9年、墓碑文によれば文政7年の生まれです。貞幹3男に、文政9年生まれの幼名「玄太」という人物は存在しません。文政9年生まれなら、5男のはずです。
     また、小生も下村嗣次が芹澤鴨である可能性はあると思いますが、今のところ、下村嗣次が「元神官」で「常親が子」という点は証明できません。水戸藩に残る神官名簿等に、下村嗣次の名は見当たりません。通説では、「元神官の下村嗣次が、名を芹澤鴨光幹に改めた」と言われています。ですが、永倉新八の『浪士文久報国記事』には「木村継次」、『新撰組顛末記』には「下村継次」、近藤勇の書簡にも「下村嗣司」とありますが、何れにも「元神官」とは書かれていなかったと思います。常親が子だというのも、神官を継いだというのも、信憑性のある史料はありません。しかも養父祐斎の位牌には、常親が祐斎の子と書かれていたそうです。『水戸藩史料』や『水戸藩尊王志士略伝』などには、下村嗣次が「松井村神官」や「手綱村元神職」と書かれています。しかしこれは、水戸藩庁が目付町奉行に捕縛を命じた手配書に書いた肩書きを引用したものです。下村嗣次自身は、『常野集Ⅰ』にあるように、文武館党結成当時、「水戸在名主 川又佐市郎」の隣に、「同 下村嗣治」と署名しました。
     様々な伝承や逸話、不確実な情報を取り除けば、下村嗣次や芹澤鴨の真の姿が明らかになると思います。小生は、幕末維新史の専門家ではありませんので、間違いもあるかと思いますが、芹澤鴨が芹沢村出身である可能性は、非常に少ないと思います。
     でも、下村嗣次(芹澤鴨か)や新家粂太郎(=新見錦)のいた、玉造郷校跡のある行方市は、「新選組ゆかりの地」であることに変わりはありません。もしよければ、『霊山歴史館紀要』の拙稿をお読みください。

  2. カブトガニⅡ より:

     匿名で書けるネットのコメント記事なので、信じなくても結構ですが、芹澤鴨の出生について、余りにも不可解な通説が常識化しておりますので、2度目の書き込みをさせて頂きます。
     ある冊子によれば、芹澤鴨の幼名は「玄太(げんた)」で、文政9(1826)年生まれの、芹澤本家貞幹(さだもと)3男だそうです。本家菩提寺の過去帳には、ある女性の立派な戒名の下に「芹澤玄太妻」と書かれ、その「玄太」が芹澤鴨の幼名だと言うのです。また、玄太は元服すると、下村祐斎の長女の婿養子となり、名を「下村継次」と改めたそうです。そして、別の雑誌によれば、弘化元(1844)年に長男「常親(つねちか)」が生まれたそうです。更に、出牢後芹沢村の実家に戻り、妻を迎えたそうです。全て一人の某研究者が主張しています。その後、同じ研究者が書いた、某ホームページの解説では、鴨は天保元(1830)年の生まれになっていました。
     しかし、立派な戒名の女性は「兵太(ひょうた)」の妻です。3男ではあっても、仮に芹澤家本家当主の妻です。鴨(玄太)の妻などではありません。玄太は実在した証拠が全くありませんが、兵太は信頼できる史料によって、その存在が証明されています。過去帳に書かれた妻の戒名の下に、わざわざ夫の「幼名」を書くなど、そんな話聞いた事もありません。よく考えれば誰でも分かる創作です。
     また、下村常親は弘化元(1844)年の生まれなので、鴨天保元(1830)年出生説だと、鴨が「数え」で15歳の時に、常親が生まれた事になります。満13歳で結婚した事になります。普通に考えても、創作としか思えません。「数え」で計算すると、不思議に思わない人もいるかもし知れません。しかし、例えば極端な例ですが、天保元年大晦日に生まれた鴨が、弘化元年元日に子を作ったと仮定します。新暦に直すと、鴨が13歳と6日目の時に常親が生まれた計算になります。この出生説ですと、鴨が満12歳で結婚した可能性も含んでいます。この芹澤鴨出生説は、小生の常識の限界を遙かに超えてしまいます。創作としては、実に面白いと思います。
     芹澤鴨の出生に関しては、他の新選組関連の書籍の多くもこの説を採用していますが、本気でそんな事信じているとしたら、がっかりですね。歴史研究家の唱える主張だから問題なのです。『紀要』を読むと、少しは考えが変わると思います。常識ある方々が、少しでも考えを変えてくださる事を祈ります。
     

  3. カブトガニⅡ より:

     芹澤鴨の命日に朗報ですので、コメントでお知らせします。通説を唱える研究家が、後に論文で「キチンと」証明されるそうです。小生の疑問の幾つかも、その時解決します。芹澤鴨も、草葉の陰できっと喜んでいると思います。その時は、以下の疑問点について、明らかにして欲しいです(本当は、疑問点がまだまだあるのですが…)。

    ①芹澤鴨が文政9年生まれと確定できるものは何か。『公余禄』だけでは史料不足だが。
    ②芹澤家本家に「玄太」などという子はいないと思うが、いると証明できるものがあるのか。
    ③芹澤貞幹(さだもと)の3男なら、文久3年には、数えで40歳以上になるため、鴨が30歳代にはならないはずだが(「ガガジン」の記事参照)。
    ④芹澤鴨が神官下村祐斎の婿養子だった事を証明するものは何か。墓誌は平成になって碑文の内容が変わってしまったので、証拠にはならないが。
    ⑤下村継(嗣)次(しもむらつぐじ)が、「元神官」であることを証明できるものは何か。
    ⑥下村常親(つねちか)が下村継次の子だと証明できるものは何か。
    ⑦芹澤鴨が文政9年生まれなら、数えで18歳(満17歳、満16歳の可能性を含む)までに婿養子になり、19歳(満18歳)で常親が生まれた事になる。それを証明するものはあるのか。
    ⑧芹澤家本家に鴨の妻がいたというが、妻の墓はない。証明するものは何か。過去帳は問題外である。
    ⑨芹澤家本家が、慶応2年に、諸生党に家を焼かれたというが、証明するものはあるの
    か。しかも、なぜ焼いたのが諸生党だと分かるのか。
    ⑩芹澤家本家の家紋(丸に九曜紋)が、八木家の言う鴨の家紋(人並み以上に大きく開いた扇の紋どころ)と全く違うのはどうしてか。

     これらは当然、通説を唱えた始めたころから、証明できるものがあったのだろうと思う。小生にはよく分からないので、できれば論文の中で、ご教示いただきたい。

  4. カブトガニⅡ より:

     芹澤鴨の命日(16或いは18日)に免じて、もう少しコメントさせて下さい。
     最近、ブログで、小生の事を「ジャイアニズム論者」などと言って、面白がっている歴史研究家がいます。この研究家は、これまでにご自分がなさってきた事の重大さが、まだお分かりにならないようです。ご自分がしてきた事を、全く反省しておりません。小生を皮肉っている場合ではないと思います。
     今回のブログの「追悼」の解説では、「3男」と「玄太」の文字がいつの間にか消えていました。これからも、何もなかったように、いつの間にか消えてしまう言葉や文章がある事でしょう。あと、「兵太」に関する史料がいつ公開されたかは、余り結論に影響しないと思います。証明できるものがなければ、結論は持ち越せばいいだけです。結論を出そうとするから、結果的に創作になってしまうのだと思います。しかも、慶応4年に「兵太」が実在したことが分かる史料の翻刻は、1988年にはすでに刊行されています。過去帳の「兵太」を「玄太」などと読み間違えた上に、郷校で医学や尊王攘夷の思想を学んだなどと、もっともらしい話を創作したために、発見できなかったのでしょう。藩校でなく郷校で学んだという根拠もありません。郷校生徒の名簿に名前が書いてあるなら、是非見せて頂きたいです。
     小生は、某研究家が「芹澤鴨芹沢村本家貞幹3男幼名玄太説」を唱えた時から、信じておりません。芹沢村出身を証明できるものなど何もないのに、それを主張し続け、多くの人を信用させて築いた今日の地位は、「創作」という行為の上に作られたものです。
     残念ですが、多くの行方市民が、某研究家の創作を今なお信じ切っています。今や、間違いだと言って許せるレベルの問題ではありません。小生は、芹澤鴨に関しては、多くの行方市民から今なお信じてもらえず、村八分状態です。行方市や商工会や観光協会や茨城新聞までも、「芹沢村出身」或いは「行方市出身」を、今でも主張しています。今日の茨城新聞の「県北鹿行版」にも掲載されています。「なめがた新選組まつり」に大なり小なり関わる方には、何を言っても駄目ですので、行方市以外の方に信じて頂くしかありません。外堀を埋めるしかありません。最後は、本丸の研究家の「誠の心」次第です。
     芹沢村出身を証明するものなど何もないのに、某研究家に「芹沢村出身だ」と言われてしまってからは、そうでないことを証明するために、史料を探し続けました。気付けば、10年以上かかってしまいました。矛盾点は沢山あるのに、はっきりした証拠が見つかるまではと、口をつぐんで我慢してきました。村八分状態を改善しようとする小生の行為が、なぜ「ジャイアニズム」なのでしょう。創作によって、10年以上も日のあたる場所を歩んできた研究家には、こんな苦しみお分かりにならないでしょうが。
     小生は、某研究家と違って創作などはしておりませんので、ご安心ください。史料も確かなものばかりですので、小生の論文で使用した史料などの確認作業の結果を、一々ブログで報告なさらなくても結構です。
     拙いコメントにお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。最後に、幕末志士のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

  5. カブトガニⅡ より:

     謎がまた謎を呼んでいます。芹澤鴨とも関係する事なので、また書かせて頂きます。
     小生にはよく分かりませんが、新選組副長助勤「平間重助」は、芹沢村で生まれ、芹沢村で明治7年10月2日に亡くなられたそうです。ご冥福をお祈りします。
     「平間重助」はマイナーなので、研究する人も少ないため、某歴史研究家が一人気を吐いています。多くの人がそれを信じています。小生は、史料等を見た事がないため、何も分かりませんので、以下の点について、某研究家の今度の論文で是非明らかにして欲しいと思います(まだ他にもあるのですが)。

    ①平間重助が芹沢村出身であることを示すものは何か。過去帳には「平間」とは書いていないと思う。どこの「重助」さんでしょうか。戸籍謄本を見たなら、重助の生まれた日が分かるはずなので、知りたいと思う。
    ②芹澤鴨と平間重助が「旧知の間柄」を証明するものは何か。芹澤家本家と平間家が関係があるのは分かるが、「旧知の間柄」という根拠は何か。そもそも芹澤鴨が芹沢村出身だという事自体、証明するものはない。
    ③芹澤家が平間重助を「お守役」として随従させたという根拠は何か。重助宛の手紙でもあるのか。あるなら見たい。
    ④平間重助が芹澤鴨から剣術を習った事を、証明するものは何か。目録が残っているのか。
    ⑤平間重助が本名であったと証明できるものがあるのか。別人でないと言い切れるのか。芹澤も新見も変名である。同じ水戸派なので、変名の可能性はないのか。
    ⑥重助の墓所が判明とあるが、何処にあるのか知りたい。まさか、「平間重助之墓」とも彫られず、戒名も没年も享年も刻されていないものが墓だと言うのではないだろう。

     小生には、「平間重助」のことが本当によく分からないので、是非とも論文でご教示願いたい。 

  6. カブトガニⅡ より:

     件の研究家によると、今度は小生が、「詐欺師と同類」だそうです。全く反省してませんね。仕方ありません。疑問点を追加します(まだまだあるのですが)。

    ①歴史群像シリーズ72『新選組隊士伝』では、娘一人を残し、諸生党に全員惨殺されたはずの芹澤家分家の人々が、『○○史林』では、生きているんですね。何事もなくて、よかったですね。
    ②『○○○を探る』では、8月18日の政変前に亡くなったはずの新見錦が、『○○史林』では、それ以後も生きていたんですね。復活したんですか。ゲームみたいですね。
    ③ブログの「追悼」では、下村継(or嗣)次が出牢して芹沢村に戻ると、幼名の「玄太」を名乗るんですね。幼名のまま結婚するんですか。だから過去帳でも幼名なんですね。下村家に息子がいるいい大人が、幼名に戻るんですね。
    ④お梅は、長圓寺の総墓に埋葬されたので、間違いないんですか。行方市では通説になっていますが、本当ですか。
    ⑤お梅が、山名町の菱屋太兵衛の縁者で間違いないんですね。証明できるんですね。
    ⑥平間重助の父親は、「忠衛門」ですか。それとも「忠右衛門」ですか。論文やブログで時々変わるみたいですね。
    ⑦『有栖川宮日記』には、芹澤鴨が、「配下となる希望を伝えた」「宮に仕えたいと申し出た」という事が、どこかに書いてあるんですね。「名簿」を提出したんですね。「名簿(みょうぶ?)」という漢字も、どこかに書いてあるんですね。
    ⑧『有栖川宮日記』には、「帥宮(そつのみや)が勅使として下向したいと朝廷に申し出た」という事が、どこかに書いてあるんですね。自分から希望したんですね。

     芹澤鴨の問題だけでは、済まなくなってきましたね。でも今の所、まだ色々な意味で、行方市に関係するものばかりです。谷や川崎は論じません。「ご安心下さい。」

  7. カブトガニⅡ より:

     芹澤鴨に関する疑問点がたくさんあって、書ききれませんので、いずれ論文で発表します。時期が来たらお知らせします。今回は、そのうちの幾つかをご紹介します。

    ①『○○○を探る』の286頁で、『中山忠能日記』によると、芹澤鴨と今泉与一太郎が、「公家の中山忠能に監察使のことを談じている」そうです。また、『○○研究』第627号の13頁では、『中山忠能日記』には、鴨が「今泉与一太郎とともに訪れたという記述がある」そうです。しかし、『中山忠能日記』には、二人が中山邸を訪れたという記述もなければ、監察使について話したという記述も見当たらない。
    ②文久3年9月13日有栖川宮(ありすがわのみや)邸に行った中には、土方や沖田もいた。鴨は、「松平肥後守預り壬生村寓居 浪士 芹澤鴨」ときちんと名乗っている。日記からは、鴨独断の行動とは読み取れない。「ご用の義ござ候はば、何ごとに限らず仰せ付け下されたく願い奉り候」が、どうして「配下となる希望を伝えた」「宮に仕えたいと申し出た」となるのか。永倉の『浪士文久報国記事』に間違って「六月頃の事」と書かれている。9月、会津藩や新選組には、勅使有栖川宮の副使大原重徳に随従する話が持ち上がっていた。後にこれは中止される。永倉も知っていた事で、特に問題にしていない。しかも、『○○○を探る』の『有栖川宮日記』の翻字が3字間違っている。
    ③『○○史林』第39号の62頁に記した、芹澤又衛門の名が書いてあるという『滞京姓名録』なるものは、本来の名称は『慶応元年11月在京者人名』である。しかも、「元治元年(文久4年)正月11日の在京藩士」が書いてあると言うが、これは題名からも分かる通り、慶応元年11月の在京藩士の名簿である。題名を変えなきゃ良かったのに…。
    ④『○○史林』第39号の59頁の「又衛門を生むことは不可能ではないが、(中略)又衛門は清光の実子扱いではなかった」と記されている。『水府系纂』の、「小澤多仲永昌女ヲ娶テ四男ヲ生ム長ハ又衛門孝幹」という文章を、いとも簡単に否定するんですね。会津藩の史料は、水戸藩の『水府系纂』の内容を否定できる程、信憑性があるんですね。しかも、後に清光は、実子扱いでないはずの孝幹に入籍するんですね。
    ⑤『○○○を探る』の59頁によると、「芹澤鴨の行為として最大の悪業として知られる「大和屋事件」が間違いなく捏造だった」と記されている。しかし小生は、現時点では、鴨や壬生浪士がやったと証明できる一級史料もない代わりに、それを否定できる一級史料も無いと思う。それまでの多くの研究家の実績を批判してまで、芹澤鴨の復権を叫ぶのは如何なものか。同様の主張をする歴史学者の威を借るとしても、歴史学者の主張だから必ずしも正しいとは限らないと思う。

     今回は、某研究家が、芹澤鴨に関わる古文書を、自分の説に都合が良いように解釈している点を指摘しました。日本では、表現の自由がある程度保障されていますが、だからといって、歴史研究家の曲解や根拠のない創作は、度が過ぎると、○○造になる危険があります。

  8. カブトガニⅡ より:

     月日の経つのは早いものです。芹澤鴨の「本家出生説」を否定する論文が出てから、半年になりました。でも、「本家出生説」支持者は、まだ意見を変えないようです。そこで今回は、某研究家による芹澤鴨に関わる古文書翻刻の疑問点について紹介します。

    ①『○○○を探る』に掲載された『世話集聞記』ですが、「留守故ニ開封致候得志如何之儀共有之候ニ付」(284頁)と翻刻され、「これを開封する志は如何かということだ」(282頁)と解説している。何の事やらさっぱり分かりませんね。「志」などとは書いてありません。当然これは、「者(は)」ですね。意味も「こじつけ」に近いですね。
    ②『○○○を探る』に連載された『有栖川宮日記』ですが、「御偲被下候」(295頁)と翻刻せれている。「偲(しの)び」と読んだということは、鴨が「人知れぬ様に行動した・隠れて行動した」とでも言いたかったのでしょう。15人も連れて行ったのに、「御偲び」でもないでしょう。小生なら「御認め」と読みますが…。
    ③『○○史林』に掲載された『明治19年武官扶助料』ですが、「二男馨戸主替ヲ為シタルニ相違無之具戸籍面ニ馨二男トアルハ」(65頁下段6行目)と翻刻されているが、「具」とは何でしょう。意味が分かりませんね。これは、実は2字(漢字+カタカナ)です。合体しては、意味が通じません。しかも、『武官扶助料』の翻刻は、全部で9箇所間違えていますね。
    ④『○○史林』に掲載された『殉難死節之者履歴』ですが、芹澤介次郎の辞世の漢詩が、「方長夜夢忽奄暁風」(63頁上段11行目)と翻刻されています。「長い夜の夢を見ていた丁度その時、明け方の風に目が覚めた」とすれば、「奄」ではなく「覚」でしょう。何でそんな漢字になったのでしょうか。辞世の句を間違えては、故人に申し訳ないですね。

     いつも文章が長くなってしまうので、今回はこれ位にします。

  9. カブトガニⅡ より:

     小生は、古文書翻刻の専門家ではありませんので、間違いもあるかと思いますが、前回取り上げた「具」は、「且(かつ)ハ」の間違いだと思います。「取りあえず」や「一応」といった意味です。「つぶさに」と読ませたいなら、「具」の後ろに「ニ」が付くはずですし、原文には、「目」の一番下の横棒がありません。
     一寸難しいかも知れませんので、簡単な字で説明します。『○○○を探る』に掲載された『世話集聞記』や『有栖川宮日記』の、某研究家の翻刻に登場する「候て」(284・293頁)とは、どんな意味でしょう。意味がよく分かりませんが、小生なら、「候(そうら)ハヽ(はば)」と読みます。
     最後に、このブログをご覧の方だけに、マニアックな情報をお伝えします。ある史料によると、下村嗣次を召し取ったのは、「谷川喜三郎」だそうです。

  10. カブトガニⅡ より:

     『有栖川宮日記』における、芹澤鴨に関する記述の解釈について記します。詳しくは、後日論文で書きますが…。

     某研究家の『○○○を探る』に掲載された『有栖川宮日記』には、芹澤鴨が奉公を申し出たという事も、宮に仕えたいと申し出たという事も、無断の申し出だという事も、事前連絡無しに訪れたという事も、二人の家扶が適当にその場を繕ったという事も、書いてありません。何という史料の、どこに書いてあるのでしょうか。推測尽くめの情報でも、一旦「○○通信」から配信されると、通説になってしまいます。
     これを覆すためには、「芹澤鴨が帥宮に合いに行ったのは、宮に仕える(奉公する)ためではない」という事を、証明しなければなりません。とても面倒です。芹澤鴨芹沢村(本家)出身説と同じですね。小生も、「本家出生説を批判するより、分家出生説を証明するほうが先だ」などと言われて、芹澤鴨は芹沢村出身ではないという事を、今なお信じてもらえません。
     もっとすごいのは、『○○○を探る』に、「九月三日、突如帥宮(そつのみや)は勅使として下向する旨を朝廷に差し出した」(79頁)と書いてある点です。これは、帥宮が、自分から攘夷の勅使として東下したいと申し出たという意味です。そんな事、どこにも書いてありません。別な史料には、朝廷に東下を命じられたと、明確に書かれています。『有栖川宮日記』に書かれてもいない事を主張されては、歴史が変わってしまいます。これはもはや、「○○造」かも知れません。

  11. カブトガニⅡ より:

     某研究家の説には、いつも驚かされます。今回は、某研究家が芹澤鴨の兄だという、成幹(なりもと)・別名兵部(ひょうぶ)について記します。
     某研究家は、一度は亡くなったはずの芹澤家分家の人々も新見錦(にいのみにしき)も、『茨○○林』第39号では、何の訂正もせずに復活させました。すごい事です。でも、実はもっとすごい事があります。芹澤成幹は、瞬間移動ができるらしいのです。
     歴史群像シリーズ72『新選組隊士伝』には、「元治元年(1864)、兵部は禁門の変の際に上京し、軍医として活躍するが、…」と書かれている(107頁)。一方で、『茨○○林』第39号には、「芹澤兵部は(中略)元治元年七月晦日に伝えられた風聞によれば、府中宿(茨城県石岡市)に止宿していた激派のうち二十名の治療を行ったという。」と書かれている(63頁)。禁門の変は、7月19日のことです。7月は大の月ですので、30日が晦日になります。京都にいた成幹は、なぜか11日後には、常陸国府中宿にいたのです。禁門の変のけが人の手当てが、たった一日で終わるとも思えませんし…。どんな手(足?)を使ったのでしょう。
     忍者ならできない事もないでしょうが…。飛行機や新幹線もない時代です。某研究家の説では、成幹がテレポートしたとしか、考えられません。

  12. カブトガニⅡ より:

     『新選組日誌』を編集したK氏の、『莠草(ゆうそう)年録』における翻刻(ほんこく)の中略部分(105頁)について、某研究家が『新選組を○る』の中で批判した点について記します。
     以下は、『莠草年録』における大和屋事件の記述の一部を、小生が現代語訳したものです。
    「見物の者に、誰が壊したのかと聞いてみた所、(誰も知らなかったが、おそらくは西陣の者達だとのこと。この者達は、昨年春頃糸を買い占められて高値になったため、織物ができなくて〔中略〕その時この大和屋を打ち壊そうとした。その時は大和屋が金を出して事が済んだけれど、この事件に便乗して事を起こしたとのこと。)夕方…」
     ( )内は伝聞(でんぶん)で、しかも「多分(たぶん)」というから推測で、過去の事です。某研究家は、K氏がこの部分を「中略」としたことを、大変激怒しています。しかし小生は、この部分を「中略」にしても、差し支えないと思う。この程度の「中略」なら、小生もよくやる。現に、上の現代語訳でもやってみたが、さほど影響はない。目くじら立てる程の事では、ないと思う。
     小生はこれを、「暴挙」だとも、「捏造」だとも、「万死に値する罪」(『新選組を○る』57頁)だとも思いません。某研究家のした事に比べたら…。

  13. カブトガニⅡ より:

     某研究家が、芹澤鴨の関与は「捏造だった」と言い切る、大和(やまと)屋焼き打ち事件の素朴な疑問について記します。
     某研究家や某歴史学者によれば、大和屋事件が芹澤鴨や壬生浪士と無関係だと主張する主な理由は、
    ①永倉新八の著書に書いてない②西村兼文の論拠に信憑性がない③「芹澤鴨」と書いた同時代史料がない④「壬生浪士」と書いてない史料がある⑤会津藩の公用方の文書に、壬生浪士の仕業(しわざ)と書いてない…からだそうです。
     「~ない」「~ない史料がある」などという、この程度の理由で十分なんでしょうか。某歴史学者が論争に参加したため、「芹澤鴨は、大和屋事件と無関係だ」という説が、今や通説になりつつあります。それなら、某研究家と某歴史学者は、大和屋事件の主犯が誰であるか、明確に立証できたのでしょうか。『莠草(ゆうそう)年録』によると、西陣の人たちは便乗したのであって(前回の現代語訳参照)、主犯は別にいるようですが…。
     例えば、「大和屋事件を鴨がやったと書いた同時代史料が皆無だ」(『歴史読本』2004年3月号189頁)と言うなら、芹澤鴨が芹沢村出身だと書いた同時代史料も皆無です。永倉の著書は、いずれも後年の回顧(かいこ)録です。某歴史学者のように、「芹澤鴨が誰なのか立証できないなら、通説を信じる。」と言われるなら、大和屋事件も誰がやったのか、立証して欲しいと思う。自分で立証せずに、相手に立証しろというのは矛盾していると思う。
     某研究家ご本人は、まさか気付いておられると思いますが、老婆心ながら記します。『新選組を○る』に掲載された『莠草年録』の翻刻だけで、ざっと見て、10箇所間違えています(41・42頁)。「其頃何方へは(か)立除き」「蔵を焼払(打)致候間」「相伝(触)候様申渡候」「町内へ碍(触)候内」「夜明と(候)ても」「瓦を剝(落)し候」「面を被見候無(故)之事哉」「見物人の願(影)にて」「申(中)より浪士拾人出候得共」「誠に目を(も)当られさる」

  14. カブトガニⅡ より:

     幕末関係についての、色々な発見があるようですね。良い事です。ただ、よく検証なされてから発表された方がよいかと思います。「共同○○」から配信された『有栖川宮(ありすがわのみや)日記』の解釈の、二の舞にならないように…。いろいろ散らかされると、後のお掃除が大変です。
     古文書を翻刻(ほんこく)される際、すでに翻刻された方がいる場合は、それを参考にすると、間違いが少ないと思うのですが…。
     某研究家の『新選組を○る』に掲載された、『浪士文久報国記事』の翻刻(27・28頁)でも、ざっと見て、10箇所間違っています。前回と同じく、写真版とも照合済みです。
     「淀川ヘ小舟ニテ涼ニ(ミ)出テ」「介抱致居ルト何者儀(成)や」「小舟ニ乗テ淀川ヘ涼ニ(ミ)出ル」「皆々道(違)行姿ニテ」「橋ニテ相撲(ニ)出会イ」「其侭許(評)シス」「此方モ間中ヲ渡リ参リ(ル)」「此大坂相撲ノ人々(此大坂相撲は)、」「茶屋か(の)前ヘト」「併月夜、右故ニ(併月夜故、殊ニ)」

  15. カブトガニⅡ より:

     11月9日のコメントで、「且(かつ)ハ」の意味を間違えました。正確には、「もうひとつには」や「他方では」という意味でした。訂正します。ついでに、もうお分かりでしょうが、『新選組を○る』は『新選組を探る』、『茨○○林』は『茨城史林』、「共同○○」は「共同通信」の事です。○が、ひらがなの場合もあります。

  16. カブトガニⅡ より:

     くずし字の翻刻は、なかなか難しいです。だから間違いもあると思います。「者」と「志」は、くずし字が似ています。「具」と「且ハ」も、縦書きだと似ています。しかし、どちらも、現代語訳してみれば、間違いに気付くはずです。「何か変だな…」と。それを、「志は如何か」などと、わざわざ無理な解釈をしなくてもいいと思います。そこで今回は、某研究家の楷書の翻刻について記します。
     某研究家が『茨城史林』第39号で引用した『水府系纂』は、楷書で書かれています。『茨城史林』では、芹澤又衛門を「又右衛門」(約28回)と、芹澤五衛門を「五右衛門」と、小澤平衛門を「平右衛門」(2回)と、阿部七兵衛を「七郎兵衛」と書きました。『水府系纂』では、彼らの名前に、「右」や「郎」はありません。『水府系纂』からの引用を強調されるのであれば、名前も正確に書いて頂きたいです。
     11月9日のコメントに書いた「谷川喜三郎」は、「介川喜三郎」でした。よく見ると「下村召捕候者ハ介川…」と読めます。「介」の縦棒が丸まっていたので、「ハ」と組み合わせて、この前は「谷」と読んでしまいました。文久元年4月下旬の史料で、嗣次の入牢日の3月28日に近いですが、他に証明する史料はありません。「下村」と書いてありますが、「嗣次」や「継次」とは書いてありませんので、確定はできません。あくまでも一つの説とご理解下さい。
     あと、あくまでも推測ですが、嗣次は玉造勢の頃、「平八」とも名乗っていたのかも知れません。「弟介三郎ヲ村島ニ遣ハシ(中略)下村平八ヲ召捕候節…」と書かれた同時代史料があります。まさか、分家の芹澤以幹(しげもと)には、政太郎や義幹の他に、平八(嗣次か?)や介三郎という子がいたのではと、つい思ってしまいました。或いは、介三郎は書いた人の弟かも知れません。あくまでも推測です。

  17. カブトガニⅡ より:

     介三郎は、その古文書を記した人物の弟である事が判明しました。分家の芹澤以幹(しげもと)の子では、ありませんでした。
     さて、某研究家は、証明されていない事を元に結論を出しています。それが逸話や伝承の場合は、つい信じて間違う事もありますが、「創作」となると話は別です。芹澤鴨説の疑問点は、まだ沢山ありますが、気分転換にちょっと寄り道して、芹澤鴨の愛した「お梅」について記したいと思います。
     菊地明氏は、お梅について、『「幕末」に殺された女たち』の中で、「埋葬された寺院については何も伝わっていない」(124頁)と記しました。一方某研究家は、お梅の顕彰碑の撰文で、「お梅は実家の菩提寺である京都長圓寺の総墓に埋葬されたと思われます」と記しました。なぜこうも、結論が違うのでしょう。そうです。某研究家は、芹澤鴨出生(しゅっしょう)説と同じく、お梅についても、証明されていない事を元に結論を導いています。お梅に関しては、菊地氏の見解のほうが正しいと思います。
     お梅の顕彰碑には、「郷里行方の有志によって、総墓の土を持ち帰り、(中略)その土を埋葬することで、(中略)未来永劫の愛を育むことを祈念したい」と刻されています。
     「総墓の土を持ち帰って埋葬する」というのは、一体誰の発案なのでしょう。本当にそんなこと行方市民にさせたのでしょうか。訳も分からないのに、土を持ち帰らざるを得ない情況にしたのは誰でしょう。させられた、本人達の身にもなってなってください。証明されていないことを元に結論を出し、行方市民に仕事を押し付けるのは止めて欲しい。
     そう言えば、『有栖川宮日記』も『お梅の顕彰碑』も、同じ新聞に発表されましたね。某研究家は、推測(或いは創作か、○○造か)でも新聞に載せてもらえるんですね。詳細は次回から記します。

  18. カブトガニⅡ より:

     お梅が長圓寺の総墓に埋葬されたという説は、根拠がない。その理由を、以下に記します。
    ①菱屋の名が「太兵衛」であることを証明する物がないのに、某研究家は、「太兵衛」と決めつけている。
    …「菱屋太兵衛」の名を早くから記したのは、中里介山の『大菩薩峠』です。それを、子母沢寛が引用したのでしょう。『浪士文久報国記事』や『新撰組顛末記』には、「太兵衛」の名がない。
    ②某研究家は、「四条堀川に菱屋はない」と言うが、「太兵衛」という名にこだわらなければ、「菱屋」は実在する。
    …某研究家が「四条堀川」を「山名町」にした理由は、「四条堀川通りに菱屋という店はない」(『新選組を探る』84頁)からだそうです。しかも、「これは(中略)山名町の菱屋を指す」(同書同頁)と言う。その後の文章は、山名町の菱屋の話にすり替わっている。
    ③某研究家の言う、お梅が「山名町の菱屋の身内」は、まだ証明されていない。
    …「四条堀川西へ入処菱屋ト申内ノ妾お梅」(『浪士文久報国記事』)や、「四条堀川の商家菱屋の妻お梅」(『新撰組顛末記』)や、「四条堀川の太物問屋菱屋」(『新選組遺聞』)と書かれており、某研究家のいう「山名町の菱屋」と書いた文献は、小生が知る限り、赤間倭子氏の『新選組残照』だけである(68頁)。しかもこれは、四代目前川武氏の夫人光子氏の語った「面白い話」の一部です。つまり伝承であって、証明できない。
    ④川西氏によれば、前川荘司の妻勝子の実家は西陣山名町の菱屋太兵衛だというが、まだ、勝子の存在を証明した研究家がいない。
    ⑤某研究家は、「お梅が山名町の菱屋の身内」と言うが、顕彰碑の撰文は意味が通じない。
    …例えば、「菱屋太兵衛が(中略)新選組屯所が置かれた前川家の縁戚であることが判明し、お梅は(中略)菱屋の身内ということが分かりました。」と刻されている。「AがBの縁戚である事が判明し、CがAの身内ということが分かった。」となる。B(前川家)とC(お梅)が親戚なら有り得るが、それは証明されていない。

     菱屋が山名町の菱屋太兵衛であるというのも、顕彰碑撰文の「長圓寺の総墓に埋葬されたと思われます」というのも、某研究家の推測です。証明されていない事を元に結論を導き出しています。

     芹澤鴨が帥宮に会いに行ったという事は、何も『有栖川宮日記』で初めて分かった事ではない。新選組を研究する人なら、『熾仁親王行実』(巻六・宮内省)において、既に知っていた事です。なのに、「配下となる希望を伝えた」「宮に仕えたいと申し出た」などと言った研究家は一人もいない。そんなこと書いてなかったからです。勿論『有栖川宮日記』にも書いてありません。共同通信は、訂正しないんでしょうか…。既にお気づきの方もおられるでしょうが、「別紙壱通持来」(『新選組を探る』293頁)は「持参」の翻刻ミスです。
       

  19. カブトガニⅡ より:

     芹澤家本家の故芹澤雄二氏に関する、とても興味深い話があります。
     実は、某研究家が、「芹澤鴨は、芹沢村芹澤貞幹3男の幼名玄太である」と言い出す前、芹澤家本家当主芹澤雄二(外記・道幹)氏は、以下のように思っていた(赤間倭子著『新選組残照』63頁、1994年)。

     当家の系図によると、芹澤貞幹には三人の男子があり、第一子に興幹(おきもと)、第二子は成幹(なりもと)とあり、肝心の第三子のところには名が書き込まれていない。「果たしてこれが鴨であるのかどうか」と、道幹氏は疑問に思っているそうである。

     芹澤雄二氏は、この時すでに『芹澤家の歴史』(1965年)を上梓し、その中で、貞幹3男の竜寿(たつとし)が芹澤鴨であると記していた。しかし雄二氏は、その後も系図を見ながら、「この3男が鴨なのか?」と思い悩んでいた。これを確信に変えさせてしまったのが、どこからともなく突然登場した、某研究家の「貞幹3男幼名玄太説」である(2002年末頃)。
     故人芹澤雄二氏、さらには芹澤家本家の名誉のためにも言いたい。雄二氏は、初めからご自身が芹澤鴨の子孫であると、確信を持って主張していたわけではない。しかも、某研究家は、「分家出生説」を初めて唱えた古賀茂作氏を、雄二氏が怒っているかのようにネット上に記したが、雄二氏は、その程度の事で怒る方ではない。むしろ、真実を知りたいと望んでいたと思う。もし万が一怒るとすれば、歴史を創作(或いは○○造)した、某研究家に対してであると思う。
     某研究家が、訪問したり主張したりすると、色々な事実が変わり、場合によっては史料を見せて頂けなくなってしまう事がある。つまり、検証がができなくなってしまう。とても厄介である。次回は下村家の事に触れたい。

  20. カブトガニⅡ より:

     某研究家が関わると検証がしにくくなる事を、下村家を例に述べます。

     ①芹澤家本家貞幹の3男が下村家に養子に行ったと証明するものはない。②神官の下村家で行方不明になった(或いは、姿を消した)人物は、名前が分からなかったはずでは…(墓誌は史料にならない。以下で説明)。③芹澤鴨が下村嗣次を名乗ったという事は証明できない。④下村嗣次が元神官だとは証明できない。⑤下村嗣次に常親という子がいたと証明できない。にもかかわらず、某研究家は、それらを当然の事のように論じている。以下、その内の幾つかを検証したい。④⑤は、以前に記したので省略します。

     第一に、2004年1月発行の歴史群像シリーズ72「新選組隊士伝」(A)によると、下村家の墓誌には、「可阜勇比賣〔ひめ〕下村氏(神官下村嗣次) 文久元年六月十四日」と刻まれていた。しかし、同年5月発行の『玉造史叢』第45集(B)には、「神官下村嗣次 文久三年九月十八日 三十四歳/可阜勇比賣下村氏 文久元年六月十四日」(/は改行の意)と刻されていた。Bでは、まるで嗣次と比賣が別人であるかのようだ。墓誌は作り替えられていた。誰かが嗣次と鴨が同一人物だと伝えない限り、こんな事は起きないと思う。
     第二に、某研究家は、Aの中で、「養子であった嗣次を悼み、墓誌には姿を消した文久元年を没年として名を刻み、記録にとどめた」と、コメントしている。嗣次が6月13日までに下村家にいたなら、玉造郷校(ごうこう)にいた嗣次や、3月28日に入牢した嗣次は、一体何者だろう。
     第三に、Aの「比賣」という名称は、一般的に女性に使用する。
     第四に、長久保片雲氏は、『耕人』2005年5月号の中で、祐斎の位牌の裏面に、祐斎の子として常親の名が記されていたと述べている。某研究家は、常親を嗣次の子にしてしまった。墓誌には、祐斎が祖父と彫られているが、某研究家は、位牌と異なる墓誌を信用しろと言うのか。
     第五に、別冊歴史読本「新選組組長列伝」(2002年8月)によれば、古賀茂作氏は、1997年10月の時点で、下村氏から、行方不明になった人物については、名前が伝わっていないと聞いている。また古賀氏は、この人物が嗣次だと証明する史料もない(200頁)と述べている。なのに、2004年の某研究家のコメントでは、行方不明者が嗣次である事になっている。従ってAの墓誌は、1997年10月以降に造られた可能性が高い。今ではもう、最初の墓誌に何が刻まれていたのかも分からなくなってしまった。

  21. カブトガニⅡ より:

     散らかされると、後片付けが大変です。某研究家は、伝承や推論を、史実のようにしてしまいます。

    ①伝承が史実になってしまう例
     歴史群像シリーズ『新選組隊士伝』(2004年1月)で、某研究家は、「芹澤家の伝承では、家も焼かれて、」(107頁)と書いたが、いつ、誰に焼かれたか書いていない。しかし、『新選組を創った男』(2004年6月)では、「慶応2年に、芹澤家は諸生党により、家を焼かれ、」(27頁)と明確に述べている。もはや伝承では無くなっている。おやおや、伝承だったはずですが…。証明する物は示していないが、見つかったのかな?
     某研究家によると、伝承は5か月後に史実になる。芹澤家分家の人々や新見錦が生き返ったのに比べたら、大したことはありませんが…。
    ②推論が推論を生み、史実のようになる例
     某研究家は、『茨城史林』39号で、芹澤家分家の「弟二名は同(三)月二十五日に帰府する藩主に列外扈従、帰国した可能性が考えられる。なので、実際に在京していたのは又右衛門一人だったと思われる。」と述べた。推論から推論を導いています。何の根拠も示さずに、二人とも帰国させちゃうんですね。誰も不思議に思わないのでしょうか。本圀寺組の活動は、藩主名代(みょうだい)の昭訓(あきくに)が残っていますので、まだ続いています。一部は帰国したかも知れませんが…。
     芹澤鴨に会いに行ったのは、成幹だと言いたいんでしょうか。成幹は、某研究家によると、翌年の禁門の変でも京都にいたんですよね。もしそうなら、一家の当主が毎年(1863、1864年)京都に行っていた事になりますが、本家は大丈夫なんですか。介次郎や亀三郎が帰国した根拠を示してから、論じて欲しいですね。
     
     傷が浅い内に、もう創作(あるいは○○造)は、止めた方がよいと思う。創作すると、色々辻褄(つじつま)が合わなくなる。それを隠そうとして、また創作する。この繰り返しです。共同通信は、今までは検証しないで載せてくれたかも知れませんが、このコメントを読んだら、少しは考えると思います。創作は、いつか気付かれます。

  22. カブトガニⅡ より:

     某研究家は、『茨城史林』39号の中で、「純然たる郷士芹澤家」と述べている。郷士(ごうし)を強調されているようなので、芹澤家がいつ郷士になったかを考えたい。

     某研究家は、『新選組水戸派・新選組を創った男』(2004年)の中で、芹澤家が享保18(1733)年郷士として許され、明和2(1766)年上席として扱われたと書かれている。根拠は何か。確かに、芹澤雄二(道幹)氏は『芹澤家の歴史』(1974年)の本文の中で、享保18年5代藩主宗翰(むねもと)の時、芹澤珍幹(うずもと)が郷士に取り立てられ(『芹澤家の歴史』86頁)、明和2年郷士上席になった(同書86頁)と述べている。ただ、根拠や出典がよく分からない。『芹澤家譜』の珍幹(1691~1748)の略歴には、郷士について書かれていない(『芹澤家の歴史』史料の部88、115、146頁)が、本当だろうか。
     美幹(よしもと)の記した『芹澤家譜』(ホ本)によれば、貞幹が郷士上席となったのは、文化3(1806)年である。第7代藩主治紀(はるとし)の時である(『芹澤家の歴史』史料の部153頁)。雄二氏の本文と食い違う。
     瀬谷義彦氏の『水戸藩郷士の研究』によれば、弘化3年(1846)の『郷士連名帳』に、水戸藩玉造郷付近からは、玉造村の成井節之助、白井伝之助、大場惣助と共に、芹沢村の芹澤外記(貞幹)の名が記されている。更に加藤寛斎の『常陸国北郡里程間数之記』には、「粛公様御代取立ハ」として芹澤外記の名が記されている。粛公は第3代藩主綱條(つなえだ)のことで、在位が享保3(1718)年までであり、芹澤雄二氏や某研究家の享保18年説と食い違う。

     某研究家は、『芹澤家の歴史』の本文をよく利用されるが、史料と照らし合わせて裏付けをきちんと取っているのか。雄二氏の『芹澤家の歴史』の本文は、多くの逸話や伝承を含んでいる。細かな事と言うかもしれないが、その細かな「瑕疵」の積み重ねが、今日の「芹澤鴨の誤った通説」という事態を招いている。証明できない事を、当然のように断定して書いては、最早「創作」でしょう。「創作」の上塗りを、いつまで続けるのか。
     

  23. カブトガニⅡ より:

     玉造町観光協会から、2004年6月に出された、『新選組を創った男』の中で、逸話や伝承・創作、または証明されていない文章を記します。
    【第1章 幼少時代より】
    ①文政九年の出生 ②芹澤貞幹の三男 ③玄太という定説が成り立っている〔誰の定説?〕 ④父である芹澤家当主、外記(貞幹)は… ⑤平間重助は、文政七年(1824)、父忠衛門の子として生まれた〔証拠があるの?〕
    【第2章 下村継次~北茨城時代】
    ①玄太は…下村祐斎の長女の婿養子となり ②名を下村継次と改めた ③継次はそこで一子、常親を設け ④神官を継ぎ ⑤継次も近在であり、この正安(野口哲太郎)と歳も近い事から二人は親交を重ねた ⑥戸賀崎熊太郎に師事し ⑦師範免許を受け ⑧安政六年(1859)…、家族にも何も言わず継次が出て行ったのはたぶん、この頃であろう〔あれあれ、墓誌によると、文久元年じゃなかったの?〕
    【第3章 下村継次~天狗党時代】
    ①下村継次もおり、彼は玉造郷校には宿泊せず、郷里芹沢家で居宿していたという。 ②平間重助は妻帯し、〔子孫の方の協力次第〕 ③(重助が)継次の話に感銘を受けた ④継次から剣の手ほどきを受け ⑤目録をいただく ⑥継次は、書類関係をすでに焼却しており、残念だったと「玉造勢進退始末」に書かれている〔よく探したんですが、下村平八と書かれ、継次とは書いてない。同一人物という証明もまだ。〕 ⑦牢獄の…、継次に対しては、士分の扱いにはほど遠いものだった ⑧継次は獄中で噛み切った小指から滴る血で書いて詠んだ詩を牢外に貼り付けたと伝わる〔証明されていない。獄中での記録などあるのか?〕 ⑨釈放された継次はその足で故郷、芹澤家に向かった ⑩芹沢に戻ると、名を「芹澤鴨光幹」と改めた〔ブログの「追悼」では、玄太と名乗ったはずでは…〕 ⑪芹澤家では鴨に縁談を組み、妻帯させたが、 ⑫芹澤家から頼まれて平間重助も同行することになった ⑬鴨の監視役として、随従してほしいという親の思いだった ⑭一緒に江戸に向かった〔一緒だったという証拠は?〕

     今回は、浪士組に入る前までにしました。歴史研究家なのに、推測や証明されていない事ばかりですね。でも某研究家は、推測や創作でも、「お梅顕彰碑」や「有栖川宮日記」のように、I新聞に掲載されるんですね。小生は、「鴨が誰だか判明していないじゃないか」と言われて、昨年掲載を断られました。幸い、T新聞が載せてくれました。

  24. カブトガニⅡ より:

     2011年発行、星亮一+戊辰戦争研究会編の『新選組を歩く』における、某研究家の芹澤鴨に関する論述の内、創作や証明されていない事について記します。

    ①「(殺害日は、)一説に十八日とされるが、当時の史料ではいずれも十六日とされる」〔「いずれも」と言い切れるのか〕 ②「たとえば大和屋砲撃などは完全な創作で…」〔砲撃はそうかも知れないが、芹澤の関与を否定するなら、真犯人は誰か?〕(『新選組局長 芹澤鴨』72頁) ③「実際の子孫寺井敬一氏に聞くも(大和屋事件の砲撃?)伝承はない」(寺井氏が知らず、伝承がなければ、無かった事なのか。根拠としては変。) ④「相撲取りの意地悪な態度は…」〔新選組側の書き残した言い分が中心〕 ⑤「本庄宿で宿泊したのが十一日…、…近藤勇の先番宿割の辞令は十四日だ。この時点で根本的に誤りと言える」〔篝火をやってないという根拠にはならない。〕  ⑥「小説やTV等で問題とされる行動は、ほとんど否定できる有様だ」(「ほとんど」とは、大げさな…。歴史研究家の論述とは思えない。) ⑦「前川家の親類書から菱屋太兵衛が上京区山名町であるため…」〔前川家とお梅が親戚とは証明できないのに、なぜ山名町の菱屋なの?〕 ⑧「文久三年時点で菱屋太兵衛は独身だった」〔それは、山名町の話でしょ。尤も小生は、今までの事もあり、山名町であっても検証していないので、独身かどうかは信じられないが…。〕 ⑨「お梅は菱屋の妾ではなく縁故だったことが解る」〔証明できない〕 ⑩「芹沢又右衛門は…、実際に十一月会津藩の手により捕縛されている」〔本当なの?すごい情報ですね。何事もなく釈放されたのかな?〕⑪「水戸藩「酒泉彦太郎在京日誌」には翌年一月には諸生党と協働しているのだ」〔主語は何かな。「には」が繰り返されていて、読点を付けないと…。作文の練習が必要かな。同じ題名の本も無いけど、似た名前の本があるのでそれかな。正しい文章に訂正して、どこに書いてあるかも、今度の論文でご教示ください。〕
     たった3頁なのに、たくさんありますね。某研究家は、本当に歴史研究家ですか。尚、社会通念上不適切な表現もありますが、史実解明のため、原文をそのまま引用しています。ご了承ください。

  25. カブトガニⅡ より:

     某研究家が、自分の都合に合わせて主張を変える、苦し紛れの裏技を幾つか検証します。辻褄(つじつま)の合わない例です。〔 〕内には、想像ですが某研究家の心の声を。

    ①下村家を出て行方不明になった人物は、名前が分からなかった。しかし、某研究家はその人物が下村嗣次(某研究家は継次)であったことにしたいため、墓誌に合わせて文久元年にいなくなったと言ったかと思えば、安政六年にいなくなったと言った。もっとも墓誌自体、某研究家の主張を取り入れて作り替えられた可能性も否定できない。某研究家の、その時の都合で、嗣次の行方不明になった年が変わっている。〔もう、何時でも良いじゃないか。どうせみんな分かんないから。気付く人なんていないだろうし…。〕
    ②某研究家は、芹澤鴨の兄だと言う成幹が、文久三年に芹澤鴨に会いに行った二人の内の一人にしたいため、京都に何度か行っているようにしたかった。芹澤雄二氏の『芹澤家の歴史』に、成幹が元治元年、禁門の変で負傷した人々の治療にあたって、会津藩から賞賛されたと書いてある。これは、丁度よいという具合に、確証もないのに引用した。ところが、『茨城史林』の原稿を書いている時、麻生(あそう)藩三好(みよし)家文書により、成幹が当時(7月)常陸にいた事が判明した。〔このまま常陸にいた事にしよう。禁門の変の事なんて、みんな忘れてるさ。〕
    ③某研究家によると、釈放された下村嗣次は、芹沢村に戻ったという。下村家は行方不明なので、芹澤家に行った事にした。芹澤家では「鴨光幹」を名乗ったと言ったかと思うと、ブログ等では幼名の「玄太」を名乗ったとも述べた。過去帳に「玄太」と書いてあると言った手前、そうしないとまずくなった。過去帳の女性の戒名の下に書いてあると言ってしまったため、その女性を確証もないのに結婚相手にしてしまった。結婚をさせるには、出牢した後の短いこの時期しかない。出牢の36日後には江戸にいなければならない。水戸の牢獄から芹澤家に戻る日数と、江戸まで行く日数を差し引くと、結婚してる場合じゃない。体力の回復に努めるのが先決だが、某研究家は、この時期に鴨が結婚した事にした。〔だって「玄太」って言っちゃったもん。戒名の女性も「妻」と言っちゃったし…。結婚させるなら、この時期しかないじゃん。日数計算する人なんていないだろうし…。〕

     これらはほんの一部ですが、某研究家が自分の説の都合に合わせて主張を変える、良い例です。こうだった事にしたいため、こういう事にしようというふうに、結論が先にあって、それに合わせようとするから、辻褄が合わなくなるんだと思います。段々深みにはまりますね。訂正しないから余計たちが悪い。もう止めませんか、こんなね○造。

  26. カブトガニⅡ より:

     『新選組を歩く』(星亮一編・光人社)における、某研究家の、文久3年11月に芹澤又衛門(孝幹・たかもと)が会津藩の手に捕縛されたという記述(49頁下段6行目)ですが、やはり会津藩関係記録のどこにも見当たりません。会津藩の『公武御達幷見聞集』に、芹澤又衛門(正しくは右が無い)について書かれていましたので、以下で検証します。分かり易く現代語訳します。縦書きだと思って読んでください。

    十月四日左の書付は公用人が差し出したもの
     左の野間久左衛門、水崎清太郎、勘左衛門は、紀伊殿が何人かで召し捕りました。関その他の者達は、日頃の行状等報告するようにとの御沙汰がありましたので、それぞれ探索した所、左の通りでございました。
    (捕縛状況等略) 野間久左衛門  水崎清太郎  勘左衛門
    (個別の行状報告略) 関 某  兜左右助 (中略) 村田 某  芹澤又右衛門

    (前文略)芹澤又右衛門ほか十一人は、先月六日頃から前に書きました野間久左衛門、水崎清太郎と一緒に、萬屋甚兵衛方へ泊っていた所、十四日明け方、久左衛門、清太郎が、紀伊殿の何人かに召し捕られました。それからは、兜左右助、…引っ越したとのことです。(以下略)

     三人は確かに捕縛されたようですが…。捕縛したのは会津藩でもなく、捕縛されたのも芹澤又衛門孝幹ではなく、時期も11月ではない。他にそれらしい記述はありませんので、某研究家は、これを自分の説に都合の良いように解釈したものと思われます。芹澤又衛門孝幹が捕縛されたので、芹澤鴨が動揺して、異常な行動に出たと思わせたかったのでしょうが…。小生は、そのような状況においても、鴨は普通に行動したと思います。覚悟はしていたと思います。推測ですが。
     結果的に、某研究家の各書物における論述は、ご自分が主張する、芹澤鴨の「芹沢村出生(しゅっしょう)説」や「殺害理由説」をでっち上げるための伏線になっています。もう止めませんか。こんなばかばかしい「ねつ造」。小生は、たとえ行方市の他の人々や地元新聞が信じてくれなくても、滅茶苦茶にされた行方市の歴史を必ず取り戻します。ネタは、まだまだあります。ご覚悟召されよ。

  27. カブトガニⅡ より:

     自称歴史研究家のあさ○○氏は、『新選組を歩く』の中で、会津藩が水戸藩の諸生党と手を組むためには、「天狗党の芹沢は障壁となる」(50頁上段14行目)と述べている。しかもそれを裏付ける事実として、「水戸藩『酒泉彦太郎在京日誌』には翌年一月には諸生党と協働しているのだ」(同頁下段6行目)と述べている。
     「芹沢暗殺の直近における新選組の行動が面白い」という前書きのあと、「翌年一月」と述べられているので、当然これは元治元年の事と考えられる。似た名前の『酒泉直滞京日記』という史料が『維新日乗纂輯(巻3)』の中に納められている。これには、慶応3年正月27日条に、諸生党30名と出会ったが、お互いに見知った顔の者がいなかったので、茶店で仲間と暫く談話して後、虎口(ここう・危険な場所)から逃れたと書かれている(268頁10行目)。従って、元治元年正月に新選組が水戸藩諸生党と協働した形跡は、見当たらなかった。
     あさ○○氏は、有りもしない事実が元治元年にあったことにして、人々に、天狗党の芹澤が会津藩にとって政治的障壁であったかのように思わせた(拙著『新選組局長 芹澤鴨』77頁)。
     結果的に、「芹澤鴨が会津藩にとって障壁」という摺り込みは、芹澤鴨の帥宮(そつのみや)訪問が会津藩を怒らせたという、根拠のない鴨殺害理由説を導くための、伏線の役割を果たした。単なる間違いなどではない。計算され尽くした悪質な創作(或いは、ねつ造)であった。「谷右京壬生浪士頭説」にも匹敵する。
     知らぬふりしないで、そろそろ反論しないとまずいんじゃないかな。できればだけど…。

  28. カブトガニⅡ より:

     あさ○○氏は、『新選組を探る』の中で、「どうやら芹澤鴨も水戸藩の今泉與一太郎とともに公家の中山忠能に監察使のことを談じているが、…」と述べている(286頁)。読点がなく読みづらい文章であるが、簡単に読み過ごすわけにはいかない。同様に、『歴史研究』第627号においても、「『中山忠能日記』には(、鴨が)今泉与一太郎とともに訪れた記述もある」(括弧内小生補)と述べている(13頁)。
     『霊山歴史館紀要』22号でも書いたが、『中山忠能日記』に上記のような事は、全く書かれていない(『紀要』29頁、『新選組局長 芹澤鴨』140頁)。『紀要』を読んでおられない方もいるかと思うので、改めて記したい。
     『中山忠能日記』(4)「正心誠意下」には、以下のように記されている。縦書きの文章をイメージして読んで頂けたらと思う。/は改行の意味で、( )内は二行で書かれている。

    (原文)廿四日  巳  小雨陰晴不定
      一 公董朝臣入來大樹滞帰未決今日必有治定由ニ
        水浪(芹沢カモ/今泉与一太郎)有志士ノ事桃花ヘ申事頼後剋遺状
    (現代文)公董(きんただ)朝臣がおいでになる。将軍様が京都に留まるか江戸に帰られるかは、未だお決まりにならないが、今日中には必ず決めるとの事に。水戸浪士(芹澤鴨や今泉与一太郎)ら志有る者の事について。桃花ヘ伝えたい事を頼んでから、渡す書状を書かれた(刻された)。

     専門家ではないので、少し間違いがあってもお許し頂きたい。決して悪意はありませんので…。大切な事は、芹澤鴨も今泉与一太郎も中山邸に行っていないという事です。従って、監察使について話したとも書かれていない。桃花というのが誰を指しているのかは不明だが、人に読まれて迷惑がかかることをおそれて、実名や通称を書かなかったのかも知れない。
     会津藩の近藤の目を盗んで、芹澤鴨が独断の行動をしているかの如き、錯覚を起こすような「ねつ造」は、歴史研究家のすることではない。小生は、あさ○○氏がこれを、意図的に行っていたのではないかと思う。さらにこれは、『有栖川宮日記』の曲解を、人々に信じさせるのに役だった。

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