3.11後・空気の正体

昭和の預言者(故山本七平氏)の視点をかりながら3.11後の日本社会のおかしな空気の正体を解明したいと考えております。特に菅元首相に対する魔女裁判のごとき我々の異常な憎悪を詳しく検証するつもりです。

安倍総理は反知性主義者と決別せよ!

ここへきて安倍70年談話をめぐる各界の動きが風雲急を告げている。すでに安倍総理は8月14日に談話を出すと発表している。しかも閣議決定をしたうえで出す予定であることも半ば公約した。ところが談話の中身については今のこの時点(8月9日)においても、定まっておらずまるでヨッパライの談話のようにふらふらした状態になっている。というのはかねてから安倍総理は「談話は村山談話と小泉談話を全体として引き継ぐ」としながらも、特定のキーワードの使用を「こまごまとした議論」であるとして切り捨てていた。ところが公明党が反対してそれでは閣議決定もできないという話になっていた。そこで総理個人の談話になる予定だという発表がなされていたが、やっぱりそれではまずいということに気付いたのか閣議決定の方向で調整するという話になった。

そうこうするうちに一昨日(8月6日)ようやく70年談話有識者懇談会の最終結論がまとめられた。この結論では明確に「侵略」という言葉の使用を総理談話に求めた内容になっている。但し、16人の有識者の中で「侵略」という言葉の使用に反対した有識者が一人いて、他の一人もその意見に同調したという。おそらくその反対意見を述べたのは中西輝政氏であり同調者は元外務官僚の宮家邦彦氏であろう。

元々、この懇談会のメンバーは安倍総理が選んだ人々であり、ほとんど全員が政権寄りではないかとみなされていた人々である。にもかかわらず安倍総理の持論を完全に否定するような内容になっているので、安倍総理としてはかなり衝撃ではあっただろう。しかし、4か月も5カ月もかけて議論をした末の結論を安倍総理としてもさすがに無視するわけにはいかないだろうと思っていたが、昨日の新聞を読むと、安倍総理は依然として「侵略」という言葉は使用しない方向で調整する予定だというニュースが流れていた。

ところがここへきて読売新聞が7日の紙面で「侵略」という言葉を明記すべきだという主張を中曽根元総理の寄稿なども含め社説で断固とした調子で訴えている。これによってもはや安倍総理は孤立無援となり追い詰められる形になった。今日のニュースを見ても公明党との調整が依然として難航しているようであるが大勢は決したと言ってもよいのではないだろうか。安倍総理はもはや持論の談話をだすことはできないはずだ。安倍総理は不本意ながらも「侵略」という文言を明確に記した談話をださざるをえないだろう。それをあえて別の言葉で曖昧に表現しようとしても無理な話である。自らの最大の支援者である読売にここまで書かれれば安倍総理も降参するしかないだろう。
yomiuri807.jpg

しかし談話をだすためになぜかくも難産しなければならないのか?これは安倍総理一人の問題ではなく、われわれ日本人全体の問題ではなかろうか?そもそも「侵略」という言葉の使用がなぜ問題になるのか?これは他国から見ると笑止千万な話である。日本人は先の戦争をいまだに「侵略」だったと認めていないのか?そう問われれば、われわれはどう答えればよいのか?問題は日本人がこのような問いを自ら真剣に考えたことがなく国民的に共有された反省意識もないことだ。新聞広告をみるとほぼ連日のように「あの戦争は自衛戦争であった」とか「アジアを解放した戦争であった」とか、そういった自己正当化論が溢れているので、そうなのかなと思う人もいるだろう。このような現象が異常であるということに気づかない日本人はやはりおかしいのではないか。

今回の安倍70年談話有識者懇の副座長北岡伸一氏によると、先の戦争が侵略戦争であるというのは99%の歴史学者が認めるところであるとしている。しかしその有識者の中に中西輝政氏のような異端学者が存在しているように、残り1%の人々の影響力も無視できないのである。毎日のように新聞広告にその種の本や雑誌の広告がでるのは、そのようなごく一部の人々によって扇動され、またその扇動に影響されている人々が意外に多いということを意味している。その種の本や雑誌がよく新聞広告にでるのは、そのような類のものが実際に売れるからである。つまり読者の需要があるから本や雑誌が作られ、それによってますます読者も増える。

いわゆるネットウヨクと言われる人々がここ数年で激増しているのはその種の相乗効果もあるだろう。安倍政権になってからそのような広告が氾濫するようになり、同時にネットウヨクが激増した。ネットウヨクというのは、ネットの情報しか知らない無学な人という意味ではなく、むしろその種の本を多読し、しっかりと勉強している人々である。つまり理論武装をしているのである種の確信犯だといってもよいだろう。彼らがネットウヨクなどといわれるのは、その種の本で仕入れた知識をネットで広めて同調者を作ることに熱心だからである。ツイッターなどをみていてもよく分かるが、これらの人々の数は膨大である。少なくとも百万とか二百万という数は想像できる。

もちろん全体の中では一部にすぎないが、この種の人々の行動が世論を動かす大きな力になっていることは無視できない。安倍政権になってから、これらの人々が政権を支える基盤になっているといっても過言ではないだろう。

このようなネットウヨクの理論的指導者と言ってもよいのが、中西輝政や渡部昇一、櫻井よし子、西尾幹二、田母神俊雄、、青山繁晴、竹田恒泰、黄文雄、石平太郎などといった人々である。もちろん他にも書き手はいくらでもいるが、共通しているのはこれらの人々はほとんどが歴史素人だということである。素人だから好きなことが書けるのである。今流行りの「反知性主義」というカテゴリーにあてはまるのがこれらの人々である。

佐藤優氏によると、反知性主義とは「客観性や実証性を軽視し、自分が欲するように世界を理解する態度を指す」としている。また「反知性主義には、知識をエリートが独占していることに対する異議申し立てという民主主義的側面もある」としている。つまり知の素人が自分の欲するように世界を理解しようとする態度を全般的に意味しているといえる。専門家には何かのテーマを論じるときにさまざまな資料を集めることが最低限求められる。その資料の中には自説を否定するような資料もあるかもしれない。しかし、それに対しては自説をあらためるか又は資料の重要性を高く評価しなければならない。専門家がなんらかの学位を与えられるような仕事を残そうとする限り、そういった客観的研究姿勢は不可欠になる。

しかし素人研究者に多い反知性主義者は自説にあわないような資料は必ず無視し自説を曲げることは決してしない。そもそも彼らは自説に反するような資料を調べようともしないし、その種の資料があることさえ知らない場合が多い。実際、南京大虐殺は捏造だという人々は、その事実を物語る資料や証言が無数にあることを知らずにそういっている場合がほとんどである。

張作霖事件をソ連のコミンテルンの陰謀だったという説にこだわる中西輝政、田母神俊雄、櫻井よしこらは、その根拠とされた資料が実際は他人の根拠なき断定にすぎないという事実を知らなかった。これについて渡部昇一や西尾幹二がいっていることは、まさに反知性主義の見本であろう。

田母神論文は、秦氏や日本の文科省検定の教科書よりははるかに正しい」(渡部昇一氏)
私は現代史に専門家が存在することを認めていません」(西尾幹二氏)

先の戦争は侵略戦争であったという事実は歴史専門家の99%が認めるところである。それを認めようとしない安倍総理はまさに反知性主義者の一人だという他にないのである。彼自身が信奉してきたこれまでの歴史観が反知性主義者の書物などに影響を受けたものにすぎないのであろう。その方が日本人としての誇りを維持できるためなのだろうが、本物の専門家の研究を無視しているようでは、誤った道に国民を導く危険な指導者だと評価されても仕方がないであろう。安倍総理にはこれを機会に反知性主義者と決別せよと言いたい。

参考:8月7日読売本紙社説
◆過去への反省と謝罪が欠かせぬ◆
戦後日本が過去の誤った戦争への反省に立って再出発したことを、明確なメッセージとして打ち出さねばならない。来週発表される戦後70年談話を巡って議論を重ねてきた21世紀構想懇談会が、安倍首相に報告書を提出した。報告書は、戦前の失敗に学んだ戦後日本の国際協調の歩みを評価し、積極的平和主義を一層具現化していく必要性を指摘した。その中で、日本が1931年の満州事変以後、大陸への「侵略」を拡大したと認定した。的を射た歴史認識と言える。

◆「満州事変」が分岐点だ
一方で報告書は、「侵略」に脚注を付し、一部委員から異議が出たことも示した。国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、歴史的にも満州事変以後を「侵略」と断定するには異論があることなどが理由に挙げられた。だが、歴史学者の間では、軍隊を送り込んで他国の領土や主権を侵害することが「侵略」だと定義されてきた。その意味で、満州事変以後の行為は明らかに侵略である。自衛のためという抗弁は通らない。自衛以外の戦争を禁止した28年の不戦条約にも違反していた。他の欧米諸国も侵略をしたという開き直りは通用しない。日本はアジア解放のために戦争をしたという主張も誤りと言えよう。報告書はまた、日本が「民族自決の大勢に逆行し、特に30年代後半から、植民地支配が過酷化した」との見解を示した。戦後日本の歩みは「30年代から40年代前半の行動に対する全面的な反省の上に成り立っている」と記した。中国や韓国との和解に向けた努力が必要なことにも言及した。いずれも重要な指摘だ。報告書は、謝罪に関しては提言していない。座長代理の北岡伸一国際大学長は記者会見で、「お詫(わ)びするかどうかは首相の判断だ」と述べたが、お詫びの仕方を検討してもよかったのではないか。

◆誤解招けば国益を害す
報告書前文には「戦後70年を機に出される談話の参考となることを期待する」と記されている。安倍首相談話で注目されているのは、戦後50年の村山首相談話と60年の小泉首相談話に盛り込まれたキーワードの扱いだ。これら二つの談話には「植民地支配と侵略」への「痛切な反省」と「心からのお詫び」が明記されていた。過去の首相談話のキーワードの有無だけで、今回の談話の政治的意味を機械的に判断すべきではないだろう。とはいえ、日本の首相がどのような歴史認識を示すのか、国際社会は注視している。安倍首相は「侵略の定義は国際的にも定まっていない」と語り、物議を醸したことがある。中曽根元首相は、本紙への寄稿の中で「現地の人からすれば日本軍が土足で入り込んできたわけで、まぎれもない侵略行為だった」と明言している。

◆心に響くお詫びの意を
談話に「侵略」と書かなければ、首相は侵略の事実を認めたくないと見られても仕方がない。それにより、日本の行動に疑念が持たれたり、対日信頼感が揺らいだりすれば、国益を損なう。日本の戦前の行為により多大な苦痛と犠牲を強いられた人々に対し、何の意思表示もしないことは、「反省なき日本」という誤解を与える恐れが強い。子々孫々の代まで謝罪を続けることに、国民の多くが違和感を抱くのは理解できる。今回限りということで、けじめをつけてはどうか。安倍談話は、村山談話の引用など歴代内閣の見解を踏まえる間接的な表現であっても、「侵略」と「植民地支配」に対する心からのお詫びの気持ちが伝わる言葉を盛り込むべきである。あるいは、戦争で被害を受けた人々の心に響く、首相自身のお詫びの言葉を示すことだ。ナチス時代を率直に反省したドイツの指導者たちは、お詫びを示す直接の言葉でなくても、思いのこもった表現で、フランスなど周辺諸国の信頼を得てきた。そうした例も参考になろう。首相は未来志向の談話を目指したい、と述べている。しかし、過去をきちんと総括した上でこそ、国際貢献も、積極的平和主義も評価されることを銘記すべきだ。

政府・与党内では、70年談話を閣議決定すべきか否かで意見が分かれている。内閣として責任を持つべき談話である以上、やはり閣議決定する必要がある。戦後70年の日本の歩みを堂々と世界に発信すべきだ。


本項未定 8月9日
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する