別冊正論23号「総復習『日韓併合』」 (日工ムック) より
村山康文(フォトジャーナリスト)

派兵は「豊かな国」になる好機


 「あのころは、韓国社会自体が混乱していたんだ。ベトナム戦争に参戦したから経済は発展し、今の韓国がある。ベトナムには感謝しているよ」

 2011年10月、韓国の慶尚北道(キョンサンブクド)亀尾(クミ)市にある朴正煕(パク・チョンヒ)体育館で開催された「大韓民国越南戦参戦者会第47回記念式典(ベトナム戦争に参戦した韓国退役軍人の集会)」に参加した元韓国軍猛虎部隊のキム・ジェソンさん(61)=当時=は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 1960年代の韓国は、50年に始まった朝鮮戦争で壊滅的な被害を受けたために、休戦の53年にはアジアの最貧国グループの一つになっていた。

 貧国を脱却したい韓国。1961年5月のクーデターで権力を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長は、クーデター直後に「民衆苦を至急解決し、自立経済基盤の確立を目標として、総力を尽くす」と発表した。

 朴氏は後に第5~9代大統領を務め、第18代の現・朴槿惠(パク・クネ)大統領の父である。

 強権的な政治を行いながら経済開発政策を推し進め、国内資金の調達によっての経済建設を試みたが、政府が期待したほどの資金を調達することができず、外貨導入による経済建設に頼るしかなかった。しかし、当時の韓国は国際信用度が低いうえに、国際市場では国内企業の知名度がまったくなかったため、外貨導入は厳しい局面に立たされる。

 そんな折の1964年8月、ベトナム北部のトンキン湾で、北ベトナム軍の哨戒艇が米軍の駆逐艦に魚雷を発射したとされる「トンキン湾事件」が起きる。米国はベトナムに軍事介入をはじめ、翌65年2月に北爆を開始した。

 朴正煕政権は日本が朝鮮戦争で高度経済成長のきっかけをつかんだことをよく知っていた。ベトナム戦争を経済成長の絶好の機会と捉え、韓国を豊かな国に変えるべく、韓国軍戦闘部隊のベトナム派兵を決定する。
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キム・ジェソンさん (C)村山康文
 派兵は、64年9月の医療班やベトナムにテコンドーを普及させるための教官など非戦闘先遣部隊から始まった。戦況が悪化していくにつれ、65年10月には1万8500人余の戦闘部隊を本格的に投入。その数は韓国軍が撤退する73年3月までに、延べ32万5517人になり、米国に次ぐ大量派兵となった。

 朴正煕政権は、派兵と引き換えるように「経済援助」というカードを日米両国から引き出していく。1963(昭和38)年12月、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)」の締結に向けて当時のジョンソン米大統領に働きかける。そして、李東元(イ・ドンウォン)外務部長官とブラウン駐韓米大使との間で66年3月に交わされた「ブラウン覚書」に基づき、開発借款供与の約束を取り付けた。

 日米両国からの支援による経済建設にこぎつけた韓国。ノンフィクション作家の野村進氏は「コリアン世界の旅」(平成九年)に、韓国軍元上等兵の次のような発言を書き綴っている。

 「韓国がベトナム戦争に参戦したのは、世界の自由主義を守るためだとか言ってましたけど、本当はカネのためなんですよ。カネ目当てなんだから、早い話がアメリカの“傭兵”ということですよね」

 米国は、ベトナムに派兵されたすべての韓国兵に戦闘手当を払い、その大半が韓国本土に送金されたという。

 韓国から南ベトナムに向かったのは、兵士だけではなかった。「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」を合言葉として、国内よりも高い賃金目当てに韓国人労働者も現地へ赴いた。商社、建設、サービス業を主力として、技術者や労務者らも1965年から相次いで海を渡る。

 また、韓進(ハンジン)、現代(ヒュンダイ)、大宇(デーウ)、三星(サムスン)などの韓国「大財閥」もいわゆる「ベトナム特需」により、基礎が形成された。韓国軍のベトナム参戦がもたらした経済への影響を研究している静岡大学、朴根好(パク・クノ)教授の「韓国の経済発展とベトナム戦争」(平成5年)によると、1965年から72年までの米国が韓国に与えた「ベトナム特需」の総額は10億2200万㌦で、実質的には日本が「朝鮮特需」で得た利益をはるかに上回っている。

GNP14倍、輸出29倍に


 ベトナム戦争期の韓国への援助は、米国からの「ベトナム特需」以外に、日本からの支援も大きな位置を占めている。

 65(昭和40)年6月22日、日韓の間で国交正常化を目的として締結された日韓基本条約。第一条において「三億㌦を十年の期間にわたり、無償で供与する」「二億㌦を額に達するまで低金利の貸し付けを行う」としている。韓国はベトナム戦争時代、この大部分の資金を国内の高速道路やダム、地下鉄建設などのインフラ整備に使用した。

 ベトナム研究者の吉沢南氏は、歴史学研究会編「日本同時代史④高度成長の時代」(平成2年)の中で「もっとも注目すべきは、14年間も難航しつづけた日本と韓国の交渉がここにきて急転直下妥結にいたったことである。日韓両国『国交正常化』が急がれた背後には米国の事情があった」と述べている。

 ベトナム戦争に介入した米国にとって、戦争拡大のために膨張した戦費はドル防衛策と矛盾するため、対韓援助の「肩代わり」を日本に求めた。当時の佐藤栄作首相は当初、日韓基本条約に乗り気ではなかった。しかし、内閣発足後まもなくの65年1月に訪米し、ジョンソン大統領と会談してからは一転、条約締結に 向け積極的に動き始める。

 同2月17日、椎名悦三郎外相を韓国に派遣し、慌ただしく条約の仮調印をすると、それに合わせたかのように翌月、韓国政府は戦闘部隊の第一陣をベトナムに送り込んだ。

 「ベトナム戦争への韓国軍派兵と韓日条約(日韓基本条約)はリンクされていたに違いない」(朴根好「韓国の経済発展とベトナム戦争」)=年表。
 「ベトナム戦争がなければ我々は今ここにいることはできない。京釜(キョンブ)高速道路やソウルメトロはもちろん、我々個人の生活水準の向上などに貢献してくださった朴正煕大統領の功労は知るべきだ。同時に、ベトナムの国民らと亡き同士に感謝しなければならない」と、大韓民国越南戦参戦者会中央部のオ・ヨンラク会長(65)は第47回記念式典の壇上で語った。
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オ・ヨンラク韓国越南戦参戦者会中央部会長 (C)村山康文
 韓国は日米両国からの資金援助により、65年からベトナム戦争終結までの十年間で、国民総生産(GNP)が14倍に、保有する外貨や外国為替が24倍、輸出総額が29倍に跳ね上がり、いわゆる「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げた。

 韓国国内は右肩上がりの経済発展に潤う一方、韓国兵らはベトナムの地で一体何をしたのか。