122−0。高校野球の公式戦史上、最大の得点差試合だ。スポーツ紙の1面で扱われ、テレビのワイドショーでも大々的に紹介。後には何冊もの単行本が出版された。
1998(平成10)年7月18日。青森県営球場で行われた夏の青森大会の2回戦だった。勝った東奥義塾はその時点で、58(昭和33)年の初出場以降、4度も甲子園大会に出場した県下の強豪。負けた深浦は部員10人の県立高だったが、ここまでの大差がつくとは誰も想像していなかった。
東奥義塾の得点経過は1回から39、10、11、17、16、12、17。1回表の攻撃が終わるまで約1時間を要した。7本塁打を含む86安打で盗塁78。深浦は得点どころか安打さえなかった。7回コールドで試合は終わった。
現在、高校野球の点差によるコールドゲームは5回終了時で10点差、6回以降は7点差となっている。だが当時の青森大会の規定では、7回が終了するまではコールドゲームは成立しなかった。
試合開始から2時間以上が経過、選手の疲労もピークに達していた5回終了時。深浦の監督は放棄試合にするか選手に尋ねた。10人中9人が「監督さんに任せます」と答えたが、1人だけが「試合を続けたい」と答えた。ナインを応援するスタンドの声が聞こえていたからだった。
ナインは最後までグラウンドに立った。アウトを1つ取るたびに、スタンドからは歓声と拍手が湧き上がった。この歴史的敗戦を興味本位に報じ、“美談”として扱ったマスコミに、監督やナインは不信感を抱いたという話が伝わっている。
深浦は2004(平成16)年、創部以来の夏の青森大会初勝利をコールドゲームで飾った。07(同19)年には、近くの同じ県立校である木造の分校となり「木造高深浦校舎」と名を変えた。
木造もファンには忘れられないチームだ。ただ1度、甲子園大会に出場した1982(昭和57)年夏の1回戦。佐賀商エース・新谷博(元西武、日本ハム)に9回2死までパーフェクトに封じられた。死球で完全試合は免れたが、結局はノーヒットノーランを許した。
地方大会と甲子園大会で高校球史に残る惨敗を喫した両校が統合されたのも、何かの因縁か。 (敬称略)