マツダ元社長、山崎芳樹さんの「お別れの会」に900人
■マツダ元社長でサンフレッチェ広島の"生みの親"
この日ばかりはマツダ(MAZDA)よりも「東洋工業」と呼んだほうが、馴染み深かったようだ。元マツダ社長で今年3月10日に99歳で天寿を全うした山崎芳樹さんの「お別れの会」が5月12日、広島市のリーガロイヤルホテル広島で開かれ、自動車メーカー首脳をはじめ、地元の広島商工会議所や取引先の関係者、マツダ元社長の和田淑弘氏ら同社OBなど約900人が参列し、故人と別れを惜しんだ。
自動車メーカーではスズキの鈴木修会長兼社長をはじめ、トヨタ自動車前社長の渡辺捷昭相談役、日本自動車会議所会頭で日産自動車相談役名誉会長の小枝至氏、5月15日に日本自動車工業会の会長に就任する池史彦・ホンダ会長、曙ブレーキ工業の信元久隆社長らも出席し、白ユリや菊などのたくさんの花に囲まれた山崎さんの遺影の前で、献花を行った。
会食会場の入り口では、マツダの山内孝会長,小飼雅道社長、喪主の山崎久枝夫人らが参列者を出迎えた。会場の一角には生前の山崎さんをしのぶ思い出の写真や遺品を展示するコーナーが設けられた。
スズキの鈴木会長は「私は歳こそ15歳も離れた年下ですが、山崎さんが昭和52年12月、私が翌年の6月に社長になり、自工会での会合などでもよくご一緒する機会が多かった。とっても温厚な人柄でした」と、社長就任当時を振り返りながらしみじみと話した。
■安くて良い大衆車「ファミリア」の大ヒット
山崎さんは、1938年(昭和13年)に広島高等工業学校の機械工学科を卒業後、オイルショック後の77年、故・松田耕平社長(当時)からバトンを受けて創業家以外で初めて生え抜き社長として就任し、経営の再建に奔走した。80年には「安くて良い大衆車」といわれた歴史に残る5代目の『ファミリア』が大ヒット、記念すべき第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。この日、祭壇の横にはその赤いファミリアも展示され、当時を懐かしむ参列者も多かったようだ。
また、社長時代にはメインバンクの旧住友銀行が仲介役で米フォード・モーターと資本提携を結び、社名も現在のマツダに変更。84年に社長を退任するまでの7年間はマツダにとっても大きな転換期となり、そのかじ取り役を担った。
また、山崎さんのもう一つの顔は、幼いころから“サッカー少年”だったこともあり、現在Jリーグのサンフレッチェ広島の前身である東洋工業サッカー部を創設、選手として、また初代監督としても大活躍した。
この日「お別れの会」が終了した直後には、1カ月後に開幕するサッカー・ワールドカップのブラジル大会に出場する日本代表23選手の名前がザッケローニ監督から発表された。代表の中には、山崎さんがいわば事実上の“生みの親”でもあるサンフレッチェ広島所属のミッドフィルダー、青山敏弘選手も選ばれた。サッカー好きの山崎さんがブラジル大会を観戦できないのは無念だろうが、きっと天国で後輩の選手たちの活躍を祈っていることだろう。
(経済ジャーナリスト 福田俊之=文)