京都のサッカー界で、1960年代から90年代にかけて「京都招待サッカー」という大会が毎年1回開かれた。京都出身の名選手が「京都選抜」チームを組み、その年の日本リーグ優勝チームを京都に招待、対戦した。第9回大会と、第15回だけは、日本ユース代表、日本代表の試合となった。
日本のサッカーが、アマチュアの日本リーグからプロのJリーグになったため、京都招待サッカーは第26回大会を最後に、その四半世紀におよぶ歴史を閉じた。
サッカーの日本リーグは、1964(昭和39)年の東京五輪のサッカー日本代表を指導したドイツ人コーチのデットマール・クラマー氏が強化のために提唱し、65年に始まった。それまでの日本のスポーツ界に、日本リーグの大会形式はなかった。サッカーが取り入れて成功を収め、バレーボール、バスケットボールなど、他の競技にも広まった。
京都招待大会の京都選抜チームには、日本代表選手も多く、一地方の選抜チームとはいえ、日本リーグ覇者と互角の内容で対戦した。京都のレベルの高さが証明され、選手は、年一回、選抜チームに入ることが「故郷に錦」という思いもあった。また、前座試合は、京都と広島の高校選抜チームの対戦が、第4回大会から第17回大会まで続いた。当時は、京都と広島が、全国の高校サッカーの強豪府県であり、見応えのある試合だった。
1968(昭和43)年に、メキシコ五輪が開かれた。日本代表は銅メダルを獲得、国内のサッカー人気が急上昇した。この五輪の得点王が釜本邦茂(山城高―早稲田大―ヤンマー。現日本サッカー協会副会長)だ。京都招待大会で、「釜本が見られる」というのも、大きな楽しみだった。
試合会場は、初期のころは西京極球技場。現在の西京極の補助競技場の場所で、小さなスタンドがついていた。毎年、5000―7000人の観衆で、満員の盛況。第1回大会は、日本リーグ初代チャンピオンの東洋工業(現サンフレッチェ広島)に0―2。第2回大会では、同じく東洋工業と対戦、1―1で引き分けた。この年の大会では、京都らしくピッチで蹴鞠(けまり)が披露された。メキシコ五輪後の第5回、第6回大会では、岡野俊一郎・メキシコ五輪コーチ(後に日本サッカー協会会長)も観戦している。
第9回大会では、メキシコ五輪代表の杉山が、京都のサリドマイド児チームにサインボールをプレゼント。第10回大会では、対戦相手のヤンマーで釜本が3得点(2点はPK)。京都は、二村監督兼選手のアシストで高間が得点した。第13回で対戦したフジタには、外国人選手として初めて日本リーグ得点王になったカルバリオがおり、この京都招待でも1点を取った。
第14回で、京都選抜は、日本リーグ優勝チームから初めて白星をもぎ取った。相手は三菱重工、京都選抜は釜本が初監督となり、選手に日本代表の前田、今井もいた。第17回大会は、京都国体(1988年)を前に、宇治市内に完成した京都府立山城総合運動公園(太陽が丘)の開園試合として行われた。第22回大会は、西京極陸上競技場で行い、アジア・チャンピオンズ・カップで優勝した古河電工と1―1で引き分ける善戦だった。京都選抜監督は、二村昭雄だった。GKは松井(日本鋼管)、MFとFWに柱谷幸一(日産)、哲二(日産)の兄弟、MFに松山吉之(早稲田大)、FWに草木克洋(ヤンマー)。いずれも、日本代表になる逸材がそろっていた。
第26回大会の京都選抜監督は釜本。すでに、日本のサッカーのプロ化がはっきりしており、結果的に、この大会が最後となった。対戦した読売クラブには、加藤久、都並、戸塚、藤吉らの顔が見える。(敬称略)
森 貞男・元京都サッカー協会会長
山城高校元監督
(山城高を出た)釜本や二村が早稲田大学に進学して、京都の選手がどれぐらいのレベルにあるのか試してみたい、という話が出てきた。そのために、日本リーグ優勝チームと試合をしようと。対戦してみて、京都出身の選手が日本のトップチームに入れたら、京都のサッカーのレベル向上につながる、と考えた。やがて、京都招待は、全国に知られる大会になった。京都出身の選手が所属チームを離れて、京都選抜の一員として戦った。京都招待に呼んでもらえなかったら一流にはなっていない、という雰囲気もあって、いわゆる「登竜門」だった。選手は、所属チームでのポジションと違う役割を京都選抜でしなければならないこともあった。これが大いに役立ったといえる。サッカーは、広いグラウンドで何をやっても怒られないというスポーツ。野球なら、打てば必ず一塁に走る。テニスなら、決まったエリアにサービスを入れなければならない。サッカーにももちろん一定のルールはあるが、キックオフはどっちへ蹴ってもいいし、ゴール前でダンゴ状態になってもいい。なにをしてもいいだけに、選手はサッカー(の局面局面での判断、プレーのやり方)をいっぱい知っていないといけない。上手な選手と試合をしてこそいろいろな知識が身に付く。そういう大切なことを、京都選抜で自由にプレーすることで勉強できた。そして、学んだことを、それぞれの所属チームに帰ってこなし、良い選手に成長できた。一つのチームで「鋳型」にはめられたのではいろいろなプレーはできない。京都招待で、「鋳型」をはずして、(サッカーの)本質を知ることができた。日本リーグがプロのJリーグになったとき、優勝チームを招待しようとしたら、こちらで用意できる費用が、選手1人のギャラにも足らない状況だった。残念ながら、京都招待サッカーの歴史は終わることになった。
二村昭雄・元日本代表
京都招待、懐かしいですね。当時は京都招待に呼んでもらうことが、選手として大変、光栄であり、楽しみでした。私は幸運にも、京都選抜チームで日本サッカーリーグ優勝チームと戦い、逆に、日本サッカーリーグ優勝チーム(東洋工業)の選手として、京都選抜チームと対戦する両方の立場を経験しました。
当時の京都選抜は日本代表と代表クラスが多くて、大変手ごわい相手でした。また、弟(日立)との兄弟対決、あるいは、2人とも京都選抜チームに入って戦った思い出もあります。試合終了後は、チーム宿舎である島原の「みよし旅館」で、みんなですき焼きを囲みました。その日の試合の反省等サッカー談義を肴に、夜遅くまで飲んだものです。
そして自分のチームでの活躍と来年の京都招待での再会を約束して分かれました。京都のサッカーのレベルを上げ、子供に夢を与え、サッカーフアンを増やすためにも、どんな形でも良いですから是非、京都招待の復活を望んでいます。
松山吉之・元日本代表選手
山城高校と早稲田大学の先輩である釜本さんと一緒に京都招待に出場したことがある(第20回大会)。早稲田の学生だった私が、コーナーキックを蹴るときに、釜本さんがニアサイドにいて、「ボールをここへ出せ」という雰囲気を感じた。大選手からのサインに緊張して、蹴ったボールは(相手の)ゴールキックになってしまった。苦い思い出ですね。それでも、大学生と日本リーグの社会人選手が京都選抜という一つのチームでプレーできたのは、良い勉強になった。京都のサッカーの歴史の中でも画期的な大会だった。いまでは、Jリーグの優勝チームと試合をするのは難しいが、それでも京都招待が復活できればいいな、と思うほどだ。
元日産自動車・高間武さん
大阪体育大学1年の時に、京都選抜に選ばれました。京都招待に出る、ということは「大人のサッカーの仲間入り」という感覚があって、感動したことを覚えています。若い選手にとっては、まさに登竜門という感じでした。
京都招待では、結構、たくさん点を取っています。最初の得点は、二村さんのアシストでした。はっきり覚えています。とにかくうれしかった。大会に出るときは、試合の前の日から京都の旅館に泊まり込んで、釜本さんや二村さんと話もできて、刺激を受けました。試合で良いプレーがあると、直接ほめてもらえたりして、励みになりましたね。
京都招待は、やはり京都のサッカー界にとって、最大のイベントだったと思います。前座の試合で、高校の広島選抜と京都選抜の試合をよくしましたが、それに出た選手から、京都招待の思い出を聞いたこともありました。
ただ、私としては、日産自動車で天皇杯(全日本選手権)は優勝しましたが、日本リーグを制していないので、京都招待に呼ばれることはありませんでした。京都選抜の一員で試合をしただけで、京都選抜と対戦する機会がなかったことが少し残念でした。
(現京都サンガ・強化部テクニカルディレクター)
試合結果 | ||
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試合日 | メーン試合 | 京都選抜の得点者 |
(1)1966・3・20 | ●京都選抜 0―2 東洋工業 | |
【京都の先発メンバー】 | ||
GK 岡本(紫光クラブ) | HB 長岡(早稲田大) | FW 古川(紫光クラブ) |
FB 寺崎(ヤンマー) | HB 大西(京教大) | FW 米沢(紫光クラブ) |
FB 嶋谷(紫光クラブ) | HB 木村(大経大) | FW 釜本(早稲田大) |
FW 辻 (ヤンマー) | ||
FW 吉川(関西大) | ||
(FB=フルバック=は、現在のDF、HB=ハーフバック=は、現在のMF) | ||
(2)1967・2・11 | △京都選抜 1―1 東洋工業 | 釜本 |
(3)1968・2・11 | ●京都選抜 0―3 東洋工業 | |
(4)1969・2・11 | △京都選抜 1―1 全広島 | 釜本 |
(5)1970・3・29 | △京都選抜 1―1 三菱重工 | 吉川 |
【京都選抜の先発メンバー】 | ||
GK 山本(東洋ベアリング) | HB 上田稔(日本鋼管) | FW 二村昭(東洋工業) |
FB 今井(同志社大) | HB 大西(三菱重工) | FW 釜本(ヤンマー) |
FB 浜頭(ヤンマー) | HB 上田忠(新日鉄) | FW 吉川(ヤンマー) |
FB 木村(ヤンマー) | ||
FB 米沢(紫光クラブ) | ||
(6)1971・2・14 | ●京都選抜 0―3 全広島 | |
(7)1972・2・13 | ●京都選抜 2―4 ヤンマー | 田中2 |
(8)1973・2・11 | ●京都選抜 2―3 日立 | 釜本2 |
(9)1974・3・17 | 日本ユース 2―0 三菱重工 | |
(10)1975・3・16 | ●京都選抜 1―3 ヤンマー | 高間 |
【京都選抜の先発メンバー】 | ||
GK 中野(京都産大) | HB 前田(法政大) | FW 高間(大体大) |
FB 横谷(法政大) | HB 久保田(同志社大) | FW 亀田(早稲田大) |
FB 安田(早稲田大) | HB 村山(東京教育大) | FW 富部(住友金属) |
FB 川北(早稲田大) | ||
FB 今井(藤和) | ||
(11)1976・2・29 | △京都選抜 2―2 ヤンマー | 上田 (もう1点はオウンゴール) |
(12)1977・4・17 | △京都選抜 1―1 古河電工 | 釜本 |
(13)1978・3・12 | ●京都選抜 1―3 フジタ工業 | 釜本 |
(14)1979・3・18 | ○京都選抜 3―1 三菱重工 | 亀田、前田、豊島 |
(15)1980・2・11 | 日本代表 1―1 ドージャ(ハンガリー) | |
(16)1981・3・15 | ○京都選抜 2―1 ヤンマー | 横田、高間 |
【京都選抜の先発メンバー】 | ||
GK 前田(国士舘大) | MF 川勝(法政大) | FW 高間(日産自動車) |
DF 西川(トヨタ自動車) | MF 横田(法政大) | FW 柱谷(国士舘大) |
DF 今井(自営) | MF 山本(日本鋼管) | FW 草木(洛南高) |
DF 横谷(日立) | ||
DF 中久保(大商大) | ||
(17)1982・3・14 | △京都選抜 1―1 フジタ工業 | 高間 |
(18)1983・3・20 | ●京都選抜 0―1 三菱重工 | |
(19)1984・3・18 | ●京都選抜 1―3 読売クラブ | 山本 |
(20)1985・3・17 | ●京都選抜 1―2 読売クラブ | 柱谷哲 |
【京都選抜の先発メンバー】 | ||
GK 小島(同志社大) | MF 山本(日本鋼管) | FW 高間(日産) |
DF 横谷(横浜) | MF 前田(古河電工) | FW 田村(日本鋼管) |
安田(ヤンマー) | MF 草木(ヤンマー) | FW 柱谷哲(国士舘大) |
岸田(横浜) | ||
平井(紫光クラブ) | ||
(21)1986・8・22 | ●京都選抜 0―3 古河電工 | |
(22)1987・8・20 | △京都選抜 1―1 古河電工 | 田村 |
(23)1988・8・21 | ●京都選抜 1―3 ヤマハ | 田村 |
(24)1989・7・6 | ●京都選抜 1―3 日産 | 田村 |
(25)1990・7・28 | ●京都選抜 1―2 日産 | ジバ |
(26)91・7・20 | ●京都選抜 0―1 読売クラブ | |
【京都選抜の先発メンバー】 | ||
GK 前田隆 | MF 松山博(フジタ) | FW 草木(ヤンマー) |
DF 前田秀(古川電工) | MF アレシャンドレ(紫光クラブ) | FW 長谷川(ホンダ) |
DF 今西(紫光クラブ) | MF 松山吉(古河電工) | |
DF サンドロ(紫光クラブ) | ||
DF 今井 | ||
DF 平井(紫光クラブ) |