『iRONNA』特別編集長「異論に耳塞ぐSEALDsに危うさ感じる」
国会前で安保法制反対デモを繰り広げ、一躍有名になった学生団体「SEALDs(シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)」。彼らの言動を同世代の若者はどう見ているのか。オピニオンサイト『iRONNA』特別編集長の山本みずき氏に聞いた。山本氏は1995年生まれ。現在慶應義塾大学法学部政治学科の3年生だ。
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ヘルメットにサングラス、マスク姿といった旧来の学生運動のスタイルとは異なり、ラップ調のコールで安保法制反対を訴えるシールズのパフォーマンスは、リベラル層の知識人や既存メディアに「新しいムーブメント」と持てはやされました。
ヘルメットにサングラス、マスク姿といった旧来の学生運動のスタイルとは異なり、ラップ調のコールで安保法制反対を訴えるシールズのパフォーマンスは、リベラル層の知識人や既存メディアに「新しいムーブメント」と持てはやされました。
しかし、運動のスタイルは斬新でも、安倍首相をヒトラーにたとえたり、「アベ死ね」などと聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせたりする表現手段には、残念ながら知性の欠片も感じられませんでした。
国家の安全保障に関するシールズの認識と主張も、とうてい看過できるものではありません。シールズは、安保法制とは“戦争法案”であり、「この法案が通れば徴兵制が始まる」と主張してきました。しかし、安保法制は、抑止力を高めることで他国から攻撃される可能性を低くするのが狙いであることは言うまでもありません。
もちろん、相手が攻撃してくる可能性がゼロになるわけではありませんが、「戦争法案」とレッテル貼りし、「日本がまた戦争をする国になる」と断じるのはナンセンスです。さらに「安保法制で徴兵制が始まる」との論に至ってはその道筋を明らかにせず、妄想の域を出ません。
私は現在、慶應義塾大学の法学部政治学科で学ぶ大学3年生ですが、国際政治や安全保障に関する素養がある周囲の学生の多くは、シールズの主張を冷ややかに見ています。
同じ学科のある友人は、「政権に異議を唱えることは、日本国憲法が保障した表現の自由の行使なので運動自体には肯定的」としながら、「自分たちの意見のみが正しいという視点に基づくシールズの言説(戦争法案というワンセンテンスポリティックス)は許容できない」と言います。
この意見には私もまったく同感で、シールズに対する違和感の源泉がここにあります。自分たちの主張こそが民意であると疑わず、異論や反論から耳をふさぐという排他性に危うさを感じるのです。
◆「安倍は辞めろ」の一辺倒
私は産経新聞グループの『iRONNA』というオピニオンサイトで特別編集長を務めており、記事にするためシールズに対談を申し込みましたが、多忙を理由に断られました。
しかし、その直後のシールズ公式ツイッターには、「取材依頼、イベント等の依頼等も是非是非ご連絡いただければと思います」との投稿がありました。自分たちと異なる価値観を一切受け入れない姿勢の表われに思えてなりません。
iRONNAは保守系のメディアで、シールズに否定的な読者も多くいます。自分たちの主張が正しいと思うなら、その主張の正当性を保守派に伝える絶好のチャンスだったはずで、実に残念です。
デモやツイッターでは、「憲法を守れ」「安倍は辞めろ」の一辺倒。自分たちに都合の良い学者を取り込むばかりで、多様性を重視しているようには見受けられません。
また、デモでは「憲法解釈勝手に変えるな!」などと命令口調で安保法制賛成派を批判する場面も多々ありましたが、意見をきちんと聞いてもらいたいなら命令口調はやめたほうが良いでしょう。礼節を欠く行為は見ていて不愉快ですし、許されるものではありません。
こうした言動の端々から、シールズは本当に安保法制の反対を望んでいるのか、あるいは自己満足の世界に浸っているのかわからなくなります。
「戦争をするような国には住みたくない」という気持ちはわかりますが、それを叫んだところで中国の横暴が止まるわけではありません。彼らの論に倣えば警察も自衛隊も暴力装置ということになりますが、それらに守られながら、「暴力はいけない」と叫ぶことにも大きな矛盾を感じます。
政治に無関心とされてきた学生がデモを主催し、今、この時代に国会前に3万人余り(警察発表)もの人々を動員したのは、シールズの一つの成果と言えるかもしれません。しかし、このまま対話を拒否し続け、独善的な主張を叫ぶだけであれば、いずれ運動はしぼみ、かつての学生運動と同じ道を歩んでしまうのではないでしょうか。
私自身、戦争を回避したいという思いは、人一倍もっていると自負し、そのために今、大学で安全保障を勉強しています。平和を希求する気持ちが同じであれば、価値観が異なっても、いや、価値観が異なるからこそ、互いに学べることは多いはずです。
互いに聞く耳をもつことで議論を深め、国民を巻き込んだ議論へと発展させられるはずです。
※SAPIO2016年1月号