当時のゆるやかな制度、また学園紛争に揺れる一橋大学の中で、大橋先生は「政治経済」と「数学」2つの教員免許を取得する課程を履修することができ(現在ではできないそうです)、銀行の内定が決まっていたのに、教育実習先の高校から「ぜひ来てほしい」と求められて、初めは「政治経済」を2年間、お教えになられたとのこと。
そこから転任されて、今度は私立武蔵高等学校中学校で数学を担当されるようになられ、40年が経過したというわけです。
それは松坂先生のご縁とお聞きしました。武蔵高等学校中学校の数学の教員に人事が発生し、それに応じられた大橋先生もすばらしいと思いますが、そこで採用を決定した学校も本当に大切な決定をされたと思うのです。
「経済学部出身の数学の先生」という方を、私はほかに知りません。大変稀有なケースだと思います。私立武蔵高等学校は社会には「受験校」として知られる(多分に誤った)横顔がありますが、1970年代前半、文系出身の数学の専任教諭を採用していた、そうした人事を推し進めたのが大坪秀二教頭―校長にほかなりませんでした。
中学1年生の私は「古いもの」が好きでした。クラブ活動では地学部というものに入って化石を探すのと平行して、歴史のクラブである「民族文化部」というものの旅行で関西の寺社を回ったりしたのです。
この「民文」顧問として随行される先生が古文の秋本吉徳さん、通称あきもっちゃんと、数学の大橋義房さんというお2人、いずれも当時はまだ20代、揃ってスリムで眼鏡が特徴的、かつ笑顔が印象的な先生方で、私はこの方々の影響を相当強く受けました。
関西弁で堅固な論理を展開するあきもっちゃんは、のちのち駿台予備校の名物講師にもなられました。
講義と名のつくもので「数分に1回学生を笑わせられなければ講義にあらず」という現在に至る私のスタイルはあきもっちゃんからの直輸入と思います。
また、「経済学部を出て政経も教えていた、実は神社の跡取りで神官の免許も持っている数学教師」という大橋先生の存在そのものから、かなり決定的な影響を受けました。
こんな方はほかにいません。音楽を仕事と定め、大学では物理学科に進んだ私が、教育実習(のちに結局、教員免許は取得しませんでしたが)は大橋先生の下、数学で取ろうと早くから固く心に決めていました。
前回記した市古夏生さんも典型的だったと思いますが、こういう魅力的な20代の先生たちをどんどん採用し、好きなように授業させ、子供たちに知の愉悦を、言葉を超えて直接体験させる、いわば「知の楽園作り」に全身全霊で取り組まれたのが、40代、50代の大坪秀二校長であったと、改めて50代の一教員として再認識しています。
生徒を育てるには、まず先生から、環境から、現場からという鉄則を大坪先生はお持ちでいらしたのだと思います。