中米エルサルバドルの首都サンサルバドルでコンピューターの画面を見つめる生徒たち〔 AFPBB News 〕
「天の配剤」という言葉を感じることが時折ありますが、今日ほどそれを感じることはなかった。そんな気持ちでこの原稿を書いています。
11月25日まで私が主催する「国際時空間設計学会」の第七回大会を東京で開いており、お世話になった方々に差し上げるべく今月久しぶりに出した新書「聴能力」を買うべく書店に向かい、勘定を済ませて帰ろうとしたときでした。
ふと見覚えのある面差しをお見かけし、思わず声をおかけしてしまいました。
「大橋先生・・・?」
「あ・・・伊東君?」
応じてくださったのは中学1年から母校でご指導頂いた恩師、大橋義房先生でした。前回このコラムの6ページに記した26年前、母校で教育実習させていただいて以来のご無沙汰でした。
もう大坪先生に何も相談できなくなってしまった・・・と心の中にぽっかり穴が開いたような気持ちになっていたところで、26年ぶりに、何の脈絡もなく新宿の書店店頭でお会いしたのです。
大坪さん同様、中学1年生の時からご指導いただき、卒業後も教育実習で好きなようにさせてくださった恩師に再会できるるとは・・・。
この原稿を書く予定でもあったので、いくつかお話をお聞きし、やはりそうだったか、と膝を打つようなことがたくさんありました。オカルトを言うつもりはないのですが、大坪先生のお導きとしか思えない偶然です。
生徒を育てるには、まず教師から
大坪秀二先生は長年、私立武蔵高等学校中学校の教頭、校長を務められ、現在の同校の校風を確立された、間違いなく最大の貢献をされた方と思います。
やはり武蔵で教頭を務められた大橋義房先生によれば、無役の時代より教頭・校長在任の方が長かったのではないか、とのこと。42歳で教頭に就任され8年、その後校長が12年とのことです。
1966年、学園紛争華やかなりし時代に40代の教頭として学校運営に責任を持ち、1974年、50歳から12年間校長として責任を持たれた。その「申し子」と言っても(失礼ながら)外れないように思うのが大橋先生の人事そのものだったように思うのです。
一橋大学で松坂和夫教授に数学を学ばれた大橋義房先生の元来のご専門は経済学で、つまらない分類で言うなら「文系」のご出身ということになります。
当時のゆるやかな制度、また学園紛争に揺れる一橋大学の中で、大橋先生は「政治経済」と「数学」2つの教員免許を取得する課程を履修することができ(現在ではできないそうです)、銀行の内定が決まっていたのに、教育実習先の高校から「ぜひ来てほしい」と求められて、初めは「政治経済」を2年間、お教えになられたとのこと。
そこから転任されて、今度は私立武蔵高等学校中学校で数学を担当されるようになられ、40年が経過したというわけです。
それは松坂先生のご縁とお聞きしました。武蔵高等学校中学校の数学の教員に人事が発生し、それに応じられた大橋先生もすばらしいと思いますが、そこで採用を決定した学校も本当に大切な決定をされたと思うのです。
「経済学部出身の数学の先生」という方を、私はほかに知りません。大変稀有なケースだと思います。私立武蔵高等学校は社会には「受験校」として知られる(多分に誤った)横顔がありますが、1970年代前半、文系出身の数学の専任教諭を採用していた、そうした人事を推し進めたのが大坪秀二教頭―校長にほかなりませんでした。
中学1年生の私は「古いもの」が好きでした。クラブ活動では地学部というものに入って化石を探すのと平行して、歴史のクラブである「民族文化部」というものの旅行で関西の寺社を回ったりしたのです。
この「民文」顧問として随行される先生が古文の秋本吉徳さん、通称あきもっちゃんと、数学の大橋義房さんというお2人、いずれも当時はまだ20代、揃ってスリムで眼鏡が特徴的、かつ笑顔が印象的な先生方で、私はこの方々の影響を相当強く受けました。
関西弁で堅固な論理を展開するあきもっちゃんは、のちのち駿台予備校の名物講師にもなられました。
講義と名のつくもので「数分に1回学生を笑わせられなければ講義にあらず」という現在に至る私のスタイルはあきもっちゃんからの直輸入と思います。
また、「経済学部を出て政経も教えていた、実は神社の跡取りで神官の免許も持っている数学教師」という大橋先生の存在そのものから、かなり決定的な影響を受けました。
こんな方はほかにいません。音楽を仕事と定め、大学では物理学科に進んだ私が、教育実習(のちに結局、教員免許は取得しませんでしたが)は大橋先生の下、数学で取ろうと早くから固く心に決めていました。
前回記した市古夏生さんも典型的だったと思いますが、こういう魅力的な20代の先生たちをどんどん採用し、好きなように授業させ、子供たちに知の愉悦を、言葉を超えて直接体験させる、いわば「知の楽園作り」に全身全霊で取り組まれたのが、40代、50代の大坪秀二校長であったと、改めて50代の一教員として再認識しています。
生徒を育てるには、まず先生から、環境から、現場からという鉄則を大坪先生はお持ちでいらしたのだと思います。
「知を愉しむサロン」を作る
新宿で恩師と立ち話するまで40年ほど全く気がつかなかったのですが、武蔵高等学校というところには「職員室」がありません。
専任教師はおのおの、自分の担当する科目の「研究室」に自分の机を持っています。しかしそれ以外に「教師控室」という空間があり、そこに各クラスの出席簿が下げてあるので、先生たちは必ずその空間を通過しないわけには行かないのです。
授業時間の合間、すべての科目の先生たちは、コンパクトな空間であるその「教師控室」で過ごし、昼ごはんなどもそこで食べている人が大半でした。将棋や囲碁盤が常置されており、1時間あいた時間などに数学と地理の教師が対戦しているような風景を、12歳の時から当たり前のように見ていました。
「そういう教師が自由に歓談できるサロンそのものが、非常に珍しい」
と大橋先生に伺って、はたと膝を打ちました。そう、こういう「どうでもいい空間」「特定の目的を持たずに分野を超えた専門家たちが(あえて言うなら「だらだら」)集う空間、創造的な環境を作るには、これが一番大切、必須不可欠であることを、今も大学で私は痛感しています。
しばらく前、私が在籍する東京大学大学院情報学環の「流動教官」を外れた物理の池上高志さんが、退任に際して教授会で挨拶された際に、
「文理融合とか分野越境とか旗印が上がっている情報学環に期待して来たけれど、何も新しいことはできなかった。残念だ。その理由は、教師が目的なくだらだら一緒にいられる場所、サロンがないことにあると思う」
と言っておられ、その通りだと思いました。パブリック・アートなどの活動もある池上さんは芸術系も標榜している「情報学環」に期待して来られたそうです。
私自身は長らくこの部局の中枢から完全に外されてきたので、何があったのかは知りませんが、アートなどという看板と無関係に高額の予算を取ってくるとか、そんな話ばかりで辟易されたらしく、おやおやと思うしかありませんでした。
この「だらだらと無駄」に見えるような場所で分野を超えた先生たちが知の愉悦を語り合う「サロン」が創造に直結するのは間違いありません。
池上さんが本来所属する東京大学駒場キャンパス、基礎科学科には(少なくともかつては)「教師控室」に相当する空間がありました。秘書さんが詰めている部屋でコピーなどが置いてある。
置いてあるソファになぜかいつも意味なく(よい意味で)理論物理学者の和達三樹さんが陣取っていて、秘書さん相手にだべっており「ガハハ」と笑っている。そこにスーパーストリング理論で世界的に知られる素粒子理論物理学者、米谷民明先生が書き上げたばかりの論文のコピーをとりに来る。
「米谷さん、何やってんの」「かくかくしかじか」「1枚コピーちょうだいよ」「どうぞ」なんてやり取りがあり、次の物理学会では和達さん座長でその分野の分科会がちゃっかりできていたりする。
物理学会長も務められた和達さんは急逝され、大変残念でしたが、まさに創造的な知の愉悦に満ちた人柄でした。
中学高校の同級生で和達研助手から御茶ノ水女子大学教授として「むすびめトポロジー」の理論を楊振寧教授(1924- 1957年「パリティ非保存」の発見でノーベル物理学賞受賞)らと推進している出口哲生君など多くの逸材を輩出し、まさに創造性が服を着て歩いているようなサイエンティストでした。
そんな和達さんの仕事もまた、「だらだら」した無目的な空間、教員同士の「知の愉悦のサロン」から生まれたと言って間違いない。
同じ東京大学理学部物理学科で、この和達さんより16年ほど先輩に当たられる大坪秀二先生は、あるべき武蔵高等学校を作っていくうえで「自身の研究テーマを持った」「理系であればできれば修士号を取得した」若く快活な知性を教員に迎え、知の創造そのものを、教師の日常レベルから創出する学園を構想、本当に実現しておられたわけです。
武蔵高等学校中学校の教師には、週1日「研究日」という授業のない日が設けられていました。この制度を活用して、在職中に博士号を取得した先生が多数いらっしゃいます。
修士課程を修了され、様々な理由(例えば家族を養うといった経済的理由を含め)から博士課程に進学できなかった若い才能を、多感なティーンエイジャーの教育を通じて食いつながせ、そののち内外の専門をリードする人材に教師自身も育てていく・・・。
武蔵の場合、これは体育教師まで徹底していました。
私たちも指導してもらった「伍郎ちゃん」こと高橋伍郎さんは、元来水泳選手で真っ黒に日焼けした武蔵の体育教師でしたが、のちに筑波大学教授、日本体育学会会長などを歴任し、オリンピックで日本に水泳のメダルを多数もたらす絶大な貢献をされました。
これも「ウイークデーに毎週1日ある研究日」を活用し、自ら調べ自ら学んでライフワークを推進された「伍郎ちゃん」の努力の賜物であるとともに、そういう人事と雇用環境を整えられた大坪秀二校長以下、学園指導部の決然たる経営方針の賜物以外の何者でもなかっただろうと思います。
実質的な議論のある職員会議
これも学生生徒の間には想像もしなかったことですが、武蔵高等学校中学校の「職員会議」では実質的な議論が戦わされていた。それは稀有なことなのだと改めて認識し、大いに首肯せざるをえませんでした。
私たちが高校時代、日本史を教えていただいた城谷稔という先生がいます。
城谷さんはしばしば痛飲され、そのまま翌日の授業も珍しくない破天荒な先生で、組主任としてもご指導いただきましたが、授業の端々で「昨日の会議では上原さんがナニナニとか言って、そんなことはあり得ないわけでありまして・・・」とか、反論の様子に余談として言及されるんですね。
なるほど職員会議もいろいろあるのだろうな――、と在学中から認識していましたが、そういう職員会議というもの自体が、日本の高等学校の教員会議では稀有なものであるらしい。
単なる上意下達の場、もっと言えば、命令伝達の冷たい場でしかないことが、決して珍しくないらしい。読者の中で中学高校にご勤務の先生方がおられましたら、ぜひコメントをお寄せいただきたいと思います。皆さんの学校ではどんな職員会議を開いていますか?
大坪秀二教頭・校長が推進された職員環境は「上意下達」とまさに正反対のものであったようです。しばしば実質的な議論があった。しかもそれは、変な党派的な利害対立によるものでなく、実のある、本当に深い内容を人間としてしっかり議論し合うものだった。
武蔵高等学校中学校は旧制以来の広いキャンパスで、実は学内を川が流れています。本流は暗渠になってしまった千川の支流で「ススキ川」といいますが、この沿岸で鶏を飼ったり自然農法を試みたり、教える科目の垣根を越えて教師たち自身が相当好き勝手なことをしていた、奔放な学校でありました。
12歳から18歳という多感な時期に、こういうアホな(最大級の賛辞にほかなりません)教師の生態に直面し、一緒にあれこれ手を動かしたりもすれば、子供の人生に甚大な影響(親がそれを望んでくれればよいのですが)を避けることができません。
自身が博士の学位取得を目指して熱心に研究する勤労学生のような聡明な講師たちに「かぶれ」、ああ俺もこんなクリエイティブなことがしてみたいな、などと思い、課外の時間、正課と無関係な実験をしてみたい、などと頼めば教師はまず120%「いいよ」と言い、子供の興味に本気で付き合ってくれつつ、大事なところは「放し飼い」で子供の好き勝手にさせてくれる。
そういう学校を「教師の人格、資質、能力」から深く考え、実際にそういう学園を作り上げたのが大坪秀二教頭・校長の「武蔵」にほかなりませんでした。
この話を日本全国に向けて記す必要があると思うのは、こうした教育方針の「半分」が日本全国で現在も実施され、その問題が様々に指摘されているからです。
「ゆとり教育」これを最も推進したのは20数年前の文部大臣、有馬朗人氏と文科省の寺脇研氏にほかなりませんが、有馬さんの念頭にあったのは、彼の母校でもある、この「武蔵高校」の「放し飼い」でした。
私は2004年から5年にかけ、有馬さんをトップに「国連世界物理年日本委員会」というものの幹事を務めましたが、正直、官製イベントのあまりのくだらなさに嫌気が差しました。
それで「半日だけ自由な時間をください」と内閣府担当者を口説き落とし、ノーベル賞選考委員などの海外ゲストの「身柄を拘束」して、練馬の武蔵講堂で開いたのが「山川健次郎記念シンポジウム」です。
このとき50年以上ぶりに母校と接点ができたという有馬氏がちゃっかり翌年、武蔵の理事長に納まっている時は「またしてもの狸ぶり」と感心するやら呆れるやらでしたが、有馬氏が文部大臣として一切顧慮せず、大坪先生が心身を削って尽力されたのが、この「教師の育成」だったと思うのです。
「ゆとり」で導入された「自由な時間」を、教師も生徒も、また親たちも、どのように使っていいか分からなかった。
本当はここで、制度を導入した側がイニシアティブを取るべきだった、必要不可欠の指導を、
「こういうのは自由にやらせた方がいいんです」
とほったらかしにした結果、大半の先生が何をどうしていいか分からない数年の間に、親は子供を「がっちり(偽者でしばしば致命的に2流の)教育してくれる」塾に通わせることを覚え、それで下手に進学率などが上がったりもしたものだから、ゆとり世代の二重苦が病状を損ねてしまった。
ほったらかしにする、というのは本当は大変なことなのです。というのは、学生が何をやってきても、予想を超えたそれらにしっかり答えられるだけ、教師の側に強力な知的体力が必要不可欠であるから。
旧制七年制の武蔵高等学校は現在で言えば大学教養部に相当し、博士の学位を持ったその道の創造的研究者が12歳の子供に本物の学術創造を教える、1つの「知の楽園」だった。
そこに昭和10年代の軍国主義の影が差したころ、とりもちをもってトンボやカゲロウを追っていた大坪秀二少年は旧七年制の武蔵高等学校に入学、知の創造の愉悦を知るとともに、配属将校に殴られるなど、様々な経験を経て東京帝国大学理学部で物理を学びます。
リベラルな朝永振一郎さんのゼミの空気なども知り、日本全国が食うや食わずという戦後焼け跡闇市の時代に新制武蔵高等学校中学校に奉職、ご本人の理想、さらにはご本人が果たせなかった夢や希望まで含めて、真の理想の学園を築き上げようと、およそあらゆる雑務を厭わず、すべての子供の顔と名を覚え、細大の注意を払いつつ「ほったらかしにする」放し飼い教育が可能な知の放牧場を作られた。
それと同じものを、いきなり「ゆとり」だと宣言だけして「あとは自由にで実現などできてたまるものか!」と、私もこの環境生え抜きの1人ですので、率直に思わないわけにはいきません。
有馬さんも大坪先生も、あるいは現在東京大学総長の重責にある五神真さんも、みな武蔵高等学校から東京大学理学部物理学科に学ばれ、知の最良の創造に大きな貢献をしておられると思います。
その中で、やはり武蔵―理物と進み、現在も大学で責任を持つ一個人として、五神さんに限らず21世紀の高等学術、教育に責任を持つ人、すべてに考えていただきたいのは、有馬さんの「ゆとり」のような「丸投げ無定形」ではなく、大坪先生が人生を賭して取り組まれたような「先生から育てる」「環境から整える」本腰を据えた教育の改善です。
率直に言って、日本社会はこれから10年20年と年月をかけて「ゆとり教育」の失敗を取り戻していかねばなりません。
その具体的な方策を考えるうえで、大坪先生が半世紀以上にわたって継続された取り組み以上に、適切な選考事例が、私の限られた経験の中では思い浮かびません。
大坪秀二先生は「共通一次試験」の持つ本質的な限界に触れ、国会でも参考人として答弁されたそうです。この時、共通一次を推進する側で責任を持っていた丸山工作氏も、実はまた大坪先生と同窓に当たられます。
自身はノーベル賞候補に何度も挙げられた丸山さんですが、高等教育の「制度改革」に当たっては「顔のない統計」偏差値の呪縛にとらわれていたと言わざるを得ません。
それではダメなのです。すべて一人ひとりの生徒には顔があり名前がある。子供を一人ひとりしっかり人間として理解、把握、記憶し、
「1人を育てる」
ことができずして、いったい何の教育か。
今の日本の教育に決定的に欠如している「微笑」ならぬ「微小栄養素」が何であるか、きちんと指摘する必要があると思うのです。
(この項つづく)
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