うさぎ追いし かの山 ♪
こぶな釣りし かの川

祭りも近いと汽笛は呼ぶが ♪
      荒いざらしのGパンひとつ
     (五木ひろし)

あーぁ誰でも故郷がある
故郷がある

迷える老羊、メリーさんにも故郷がありました。異国ではありません。日本です。
そこは愛知県海部郡蟹江町という所です。
それでは今から蟹江町をご案内いたします。

蟹江町の南に位置する日光川橋
このすぐ南がメリーさんの出身地

蟹江町の南端 善太川
 その南は弥富市
  

蟹江のキーワード その@  東海の潮来(いたこ)
                               潮来は茨城県潮来市 「潮来花嫁さんは舟で行く」
蟹江は南から北へ善太川、日光川、佐屋川、蟹江川があり3つの川が日光川に注ぎ、伊勢湾へと流れています。その昔これらの川の水路には子舟が行き交っていたといわれています。まさに水郷と謂うべく川、川という風景です。この地を「東海の潮来」と絶賛したのは作家の吉川英冶です。
蟹江町はかって一面が海で数多くの蟹が生息していたところから「蟹江」と名付けられたみたいです。
海抜ゼロメートル地帯で昔から幾多の高潮、洪水にあってきました。これらの川では、うなぎ、鮒、鯉、しじみ、はまぐり、青のりなどが多く取れたようです。
メリーさんが生まれた所は、上の写真の日光川と善太川の合流点に開かれた新田で鍋蓋新田といい、名古屋材木町の兼山屋与一が、享保12年(1727年)に開墾しました。

鍋蓋の地名のいわれ
蟹江町南部にある吉川英冶句碑

佐屋川の土手もみちかし月こよひ

佐屋川のヘラ鮒釣り

蟹江のキーワード そのA  温泉 

水郷という地の利を利用して昭和30年頃蟹江町では温泉開発の機運が高まり、ボーリングが始まりました。その結果、温泉建設地にいで湯を掘削、昭和32年5月温泉旅館・太閤閣が誕生しました。
これが蟹江温泉郷の始まりです。まさにに東海の潮来に沸いた桃源郷の風情です。
その後、昭和38年4月に東海ヘルスセンターがオープンし、今日の温泉の大衆化の先駆けとなりました。現在は尾張温泉東海センター、尾張温泉観光ホテル、松岡豊泉閣、湯元館、湯元別館を有する尾張温泉郷として蟹江町の観光の拠点となっています。地下1200mから湧き出る摂氏55度の単純温泉で源泉100%かけ流しで日本の名湯百選にも選ばれています。また最近では町が「足湯 かにえの郷」をひらきました。

尾張温泉東海センター 湯元館
敷地内に源泉がある
足湯 かにえの郷

蟹江のキーワード そのB  お城

蟹江とお城? 蟹江にお城ってあったっけ? 今はありません。昔はありました。それはいつ頃ですか? どうして蟹江にお城なんですか?誰が築城したんですか?疑問は深まるばかりです。誰かに聞きたいんですがその頃のことを誰も知りません。だから歴史はおもしろいんです。学生時代、日本史の授業を受けましたが蟹江城の話を聞いた記憶は残念ながらありません。メリーさんが通った蟹江小学校学区で城の割(今は城の町)がありますが確かにその地に蟹江城はありました。今は城址碑が残るのみです。

蟹江城址碑 蟹江城本丸 井戸跡
案内板

蟹江城はいつ、誰がという疑問は解けたような気がします。案内板に永享年間(1429〜1440)に北条時任が築城と記載されています。碑文にも「永享年間、北条時行之孫時任、始メテ此に塞ヲ設ク」となっています。
となると・・・北条? あの鎌倉幕府の? 調べると時行は鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男です。そして時行の子供が時満、時満の五男が時任です。こうなると歴史は正にサスペンス、なぜ北条氏が蟹江なのか。そのなぞを解く鍵は北条時行なる人物であるような気がします。時行は1333年、鎌倉幕府滅亡とともに滅亡した北条氏のあと,それに続く後醍醐天皇の建武の新政の転覆を画策し、1335年、幕府復興のため挙兵しました。(中先代の乱) 一時鎌倉を支配しますが足利尊氏に攻められ逃亡し各地に潜伏しました。1352年、足利方に捕らえられ処刑されますが子供が時満で「蟹江町史」によると海東郡蟹江郷に住したと書かれてあります。鎌倉幕府滅亡後、北条一族の残党は各地に散らばりいわゆる落人となりその子孫がこの地、ないし近辺に住みついたみたいです。案内は時任となっていますが時満との説もあります。また蟹江の村人の伝承で「尾張史」には渡辺源十郎と書かれているようです。この蟹江に城が築かれた意味はこの時代近隣の村にはない重要な地点であったと考えられます。後には信長が戦略的に蟹江城を軍事拠点とします。                                     (この項必要に応じ加筆修正します。)                

蟹江のキーワード そのC 信長  ワンステージ

道路に表示  伝信長街道 信長街道ー信長出世街道・清洲攻めの道ー

いよいよここであの織田信長が登場します。信長は蟹江近郊の勝幡(現愛西市勝幡町)で生まれました。18歳の時父信秀の死により家督相続、これから天下統一への道が始まります。上の写真は須成地区にある善敬寺(ぜんきょうじ)というお寺の前の道路とその近くに表示してある案内ですが、ちょっと見づらいですから書きます。「この道はかつて若き織田信長(19歳の頃)が、清洲攻めの時に通った道だと伝えられています。善敬寺から七宝町徳実(とくざね)を通り伊福、桂、大治町西条(にしじょう)を経て、甚目寺、清洲に通じる道で、信長街道と呼ぶようになりました。この道は、蟹江城に通じる重要な道でもあるので、鎧や兜で身を固めた武将や足軽たちが意気揚々と早馬や早足で通過していっただろうと想像されます。昔ながらの道なので、車で通るには狭い道ですが、道沿いには寺社や酒蔵があり、歩くと歴史のロマンを感じることができます。」 と。信長が家督を引き継いだ1551年(天文20)の頃の当地はどのような情勢であったでしょうか?当時、蟹江は前のお城の項に書きました海東郡に属していまして、清須城を本拠とする織田大和守(やまとのかみ)家が支配していました。さかのぼり、信長の生家はこの一族とみられ「清須三奉行」の一角を占め、祖父にあたる信定の代から勝幡城を居城にしていたといわれています。信定は近隣の西尾張一の商業地「津島」を傘下に収め信秀に引継ぎます。信秀はその地盤をより強固にし勢力を拡大していくわけですが、東には駿河の今川、北には美濃の斉藤が対峙していました。それにもまして信秀、信長と引継ぐ中、信長は織田一族の離反に苦しめられ、それが「清洲攻め」となるわけです。  

大治町西条 深田城跡付近 大治町西条 松葉城跡付近 甚目寺 萱津古戦場跡

信長が家督を引継いだ年(1551年)の翌年の戦いで、清洲の織田大和守家の織田彦五郎(信友)一派に対しての抗戦がありました。この戦いは彦五郎の家老、坂井大膳が信長方の深田城、松葉城を攻め、城主を人質にとって占領しました。信長は守山城の叔父信光の加勢を頼み那古野城から両城へ進出しましたが、清洲からも兵が出て、甚目寺、萱津で合戦となりました。この戦いに勝利し、1555年信友を滅ぼすことによって清洲に入り天下統一の手前である尾張統一の足がかりを作りました。この年から蟹江城をめぐる戦いが起こり、1584年の蟹江合戦と展開します。

                信長  ツーステージ

 ここでは1555年以降の蟹江と信長の関わりについて書いていきます。この頃の蟹江は織田領の海東郡(下四郡の一部)ではありましたが、その基盤は強固なものではなく、今川の勢力が及び、今川、織田の攻防ラインでありました。正に今川義元が尾張の織田領へ本格的に侵攻を計る頃です。その前には三国同盟(武田、北条、今川)が成立していまして条件は整っていました。信長が清洲の信友を討死させる4ケ月後、今川が蟹江城を攻めます。信長方の蟹江城は、今川方の岡崎勢(蟹江7本槍)の奮闘で手痛い敗戦を受けますが、その後、両者の必死の攻防が続きます。信長にとってこの蟹江から後の長島攻めとなる長島は、西へ進出する上での重要な通路であり、なんとしても確保したい土地柄でした。
1559年、信長は上四郡を支配していた岩倉城の織田伊勢守家の信安を攻め落とし、蟹江から北の尾張をほぼ平定し、その年、蟹江城を奮回すべく攻撃をしかけます。そしてここが今後、織田軍の重要な軍事拠点となります。信長は蟹江城とおおいに関わりがある滝川一益を城将とします。
この頃、信長を悩ませていたのは、下四郡である海西郡の荷之上(弥富市)の土豪、服部左京進(友定)の存在でした。彼は1560年、桶狭間の戦いでも今川方につき、翌年、長年にわたって信長をてこずらせた長島城の城主となります。左京進は尾張の一角でも信長の支配に反目し、戸田(名古屋市)の石橋、三河の吉良、尾張守護職の斯波が信長を討とうと画策していた時、引きこまれています。そして蟹江城を攻撃しますが滝川一益はこれを撃退します。左京進はまた信長が恐れたこの地の一向宗(浄土真宗の一派)の中心的な人物でした。

                信長   大敵

ここではこの蟹江でも強力に根ずいた一向宗と信長との関わり、そして長島攻めについて書いていきます。天下統一の前に立ちはだかる宗教者との戦いがありました。信長は1571年から74年にかけて3回長島攻めをしています。想像を絶する激戦があり最終的に門徒衆は勿論、男女2万人が焼き殺されたといわれています。第1回で滝川一益は蟹江城にあって長島攻略をしていますが苦戦し兵を引いています。続く2回めでも苦戦し信長みずから命からがら大垣城に逃げ帰ったという経緯があります。これはいわゆる長島一向一揆と呼ばれ、一向一揆とは浄土真宗の門派のひとつである本願寺教団の門徒が主体となった一揆です。浄土真宗は親鸞の教えであり、鎌倉仏教の中で親鸞の師である法然を開祖とする浄土宗を継承する宗派です。
近鉄蟹江駅から南へ行く国道一号線の手前に忠霊塔という所がありますが、そこに「親鸞上人腰掛石」というのがあります。1233年親鸞上人が知多から舟でこの地に上陸され周辺の漁師たちに説法したと伝えられたといわれています。

文化遺産 親鸞上人腰掛石 遺跡 忠霊塔内

親鸞の教えがこの地方に脈々と続き、地元の寺は天台宗から改宗することになり、その弟子、蓮如が布教活動を行うに至ると一向宗は大きな力となり、後々信長がもっとも恐れる全国的な「一向一揆」となり、この地域では輪中の地、長島に展開します。桶狭間後、信長は北伊勢侵攻、そして美濃の斉藤龍興を破り美濃を手中に収めますが龍興始めその残党、家康に攻められた「三河一向一揆」の三河勢、先の戸田の石橋が長島へ落ち延び、すでにあった願証寺を中心にして、長島城の服部左京進のもとに集結します。その後願証寺、長島城は一体となって信長と対決していきます。蟹江から長島にかけての門徒は5万とも8万とも言われています。1567年から1569年にかけて信長は伊勢を攻略し、全域を手中に収めますが、その間、服部党の頭首、左京進が信長の謀略にかかり、員弁郡で包囲され自害します。服部党は左京進亡き後も執拗に信長に対抗し、長島城・願証寺を拠点に門徒とともに立ち向かいます。1570年に至り信長が服部党に対する牙城として築いた小木江城(愛西市森川)が、門徒衆に攻められ信長の弟、信興が自害しています。信長の怒りは頂点に達します。
この年は、浅井・朝倉連合軍との姉川の合戦、本願寺11世、顕如(蓮如の玄孫、証如の子)が率いる大坂石山合戦が勃発しています。その頃、信長と対立する室町幕府15代将軍足利義昭、武田、毛利、上杉、それに浅井、朝倉の所謂「信長包囲網」が形成されており、顕如が仕掛人となり全国の門徒に激しい檄をとばします。
長島願証寺にも檄文が送られ一揆を起こします。そして1571年からの長島攻めが始まります。

弥富荷之上 服部家住宅 現在の願証寺 長島城蹟 長島中部小学校

1574年の第3回長島攻めで信長は前2回の轍を踏まないよう徹底抗戦をします。輪中の地、長島願証寺を壊滅させるため7万の兵を動員、海上からは九鬼嘉隆の水軍を布陣し、兵糧攻めをかけます。それにより長島城は落城し、現在の場所とは別の所にあった願証寺は長良川の水底に沈んだと言われています。
国道一号線から南は海であった蟹江は、蟹江城を軍事拠点として出動しました。1571年の比叡山焼き討ちに続くこの長島の焼き討ちは信長の残虐性が問われますが、いずれも仕掛けたのは相手方であり、宗教者に対しての制裁があったと言われています。  合掌
                   (この項必要に応じ加筆修正します。)


蟹江のキーワードを4つあげましたがこれはほんの序章です。蟹江は歴史・文化がいっぱい詰まった町です。その中心地というべきところに下の「蟹江神明社」があります。この社は蟹江城築城にあたり守護神として建立されましたが蟹江合戦により廃墟に帰しました。その後社殿が再興され祭典が行われました。

例年9月最終土・日曜日に祭礼が行われ、
蟹江本町地区の8つの屋形が集結します。
子供達の華やかな踊りが奉納されます。

ちなみにメリーさんは昭和51年、ここで結婚式を
挙げました。厄年、還暦のお祓いもここでうけました。


蟹江町は主に、南から新蟹江・舟入・蟹江本町・須成地区がありメリーさんの子供の頃は各小学校から一つの中学校へ集まりました。


   蟹江中学校校歌   一、 豊けくみのる  尾張野に   二、 彼方に鈴鹿 多度伊吹 
                    あけぼのの鐘  鳴り渡り      美はしき山  望みつヽ
     作詞・白鳥省吾    木曾の流れも  清らなる      進み行く手の 空晴れて
     作曲・山田耕作     水郷誇る     学び舎の     睦みて学ぶ  良きところ
                    吾等の蟹江    蟹江中学     吾等の蟹江  蟹江中学

この蟹江中学校の校歌もさることながら蟹江小学校の校歌も全国に誇れる校歌ですから紹介させていただきます。
 
   蟹江小学校校歌       一、 雀は屋根から からすは木から
                      毎朝カバンを  ながめてる
     作詞・サトウハチロー    春にはつばめが 秋には百舌(もず)が
     作曲・山田耕作        帽子の徽章を  のぞいてる
                        小鳥よお聞きよ おしえてあげよ

                           あかるい学校   蟹江小学校
  

                     二、 ずらりとならんだ ガラスのお窓
                       中からきこえる もれてくる
                       毎日毎日   可愛い声で
                        いろはにほへとや  アイウエオ
                        誰もが一度は  おぼえる言葉
                         あかるい学校   蟹江小学校

両方とも日本を代表する作詞家、作曲家の手で作られた校歌です。特に山田耕筰(この字が正)先生は蟹江にゆかりがあり、こころよく校歌作曲を引き受けられたみたいです。(蟹江小学校HP・蟹江小校歌誕生秘話より) 山田耕筰先生がこの蟹江小学校へ来校された時、メリーさんは小学生でした。
ちなみに蟹江町の小学校5校(蟹江・新蟹江・舟入・須西・学戸)はすべて同じ歌詞です。(最後はちがうよ) 

昭和35年(蟹江小学校6年)
”山の家”より 同級生です

蟹江小学校HP
「蟹小アルバム」より