島②小島 [a landscape]
♪砂山の砂を 指で掘ってたら
真っ赤に錆びた ジャックナイフが出てきたよ
どこのどいつが 埋ずめたか
胸にじんとくる 小島の秋だ
(「錆びたナイフ」詞:萩原四朗、曲:上原賢六、歌:石原裕次郎、昭和32年)
今日は「小島」の話。
といっても「よしお」のことではない。ましてや「正雄」でもない。……知らないか。
戦後になっても「島」は、その本土との“隔たり”ゆえに様々なストーリーを含んだ流行歌に仕立て上げられていった。
戦後間もなくヒットした「島」の出てくる歌といえば昭和21年の「かえり船」(田端義夫)がある。
♪霞む故国よ 小島の沖じゃ 夢もわびしく よみがえる
これは時代が産んだ歌のひとつ。
「かえり船」は当時頻繁に行われ様々なドラマを生んでいたかつての戦場であった外地からの「引揚げ船」をうたったもの。
トピカルなストーリーと哀調を帯びた倉若晴生の曲で、敗戦のダメージさめやらぬ庶民の心に響いたのである。
この「かえり船」では「小島」とうたっている。
もちろんこの歌の場合、島は帰るべきところでもなく、船出した南方の島でもない。たんなる故国の港へ向かう途中にあった“風景”でしかない。ただそれでも、その緑におおわれたその島の姿は南洋の島とは異なり胸に迫る“和風”のたたずまいだったはず。
それはともかく問題は「小島」。
「小島」は地形的にもそれほど大きくない、小さな島という意味もあるが、ちょっとした名の知れない島という意味で「小」という接頭詞をつけることがある。「小粋」とか「小料理」あるいは「小耳」「小腹」などと似たような意味で。
また歌の歌詞としては二音の「島」よりも三音の「小島」のほうがゴロがよく、響きもいいので旋律にのりやすいということがある。
そんなわけで流行歌の中で「小島」はしばしば使われることになる。
同じ田端義夫で昭和28年の「ふるさとの燈台」でも、
♪はるかなる小島よ 灯台のわが家よ
とうたわれている。
その小島をタイトルに冠したのが昭和30年に発売された「小島通いの郵便船」(青木光一)。
♪いとしあの娘も みかんの木かげ 待っているだろ ……小島通いの郵便船
いまでもほとんどの有人の離島では郵便物や新聞・雑誌などは船で運んでいるのだろう。現在はわからないが、以前ならば郵便物も本土よりも配達時間がかかったもの。
伊豆大島をうたった都はるみの「あんこ椿は恋の花」でも
♪三日おくれの便りをのせて 船は行く行く波浮港
とうたわれているように、ラブレターが届くにも気をもんだものだった。
いまじゃ電話やメールでシンクロしちゃいますが。
「小島通いの郵便船」にはそんな不便だがのんびりしていた時代の日常がうたわれている。
昭和30年代前後の人気歌手といえば三橋美智也。彼の歌にも「小島」は出てくる。
♪小島の鴎も 椿の花も 見て見ぬふりした その涙 「かすりの女と背広の男」(昭和34年)
島を出て行く男と残る女の別れと再会がうたわれているが、その歌詞がユニーク(素人の投稿作品かもしれない)。
その少し前の昭和32年には2つの大ヒット曲で「小島」がうたわれている。
はじめが上に歌詞をのせた石原裕次郎の「錆びたナイフ」。
「錆びたナイフ」は前の年「太陽の季節」で鮮烈デビューした石原慎太郎の小説が原作で、翌年日活で映画化された。
もちろん主役は裕次郎だが、小林旭が脇役(重要な)で共演しているというめずらしい映画。裕次郎ブーム真っ只中での公開は大ヒット。監督は「紅の流れ星」の舛田利雄。
そしてもうひとつがやはり映画とともに大ヒットした主題歌「喜びも悲しみも幾歳月」。
♪はなれ小島に 南の風が 吹けば春くる 花の香便り
木下恵介監督が灯台守の夫婦の半生を感動的に描いた。夫婦を佐田啓二と高峰秀子が演じていた。
主題歌は監督の作詞に映画音楽も担当した木下忠司が作曲し、若山彰が朗々とうたいあげている。
この映画は30年後にやはり木下恵介監督でリメイクされた。観てはいないが傑作という評判は聞かない。時代の空気がちがったのかもしれないが、リメイクというのはむずかしい。
最後は「錆びたナイフ」で共演した小林旭の「アキラのダンチョネ節」。
♪逢いはせなんだか 小島の鷗 可愛いあの娘の 泣き顔に
この歌は
♪三浦三崎で ドンと打つ波はね 可愛いお方のさ 度胸だめし ダンチョネ
とうたう神奈川県民謡の「ダンチョネ節」を遠藤実が歌謡曲にアレンジしたもの。またこの民謡は変え歌として軍歌になり、八代亜紀の名曲「舟唄」でも“アンコ”につかわれている。
「ダンチョネ」とは漁師の掛け声とも、「断腸だね」(辛いね)の転訛だともいわれるがはっきりしない。でも、「断腸」は上の民謡の詞からもピンとこないな。
小島があれば大島もあるかな?。もちろんあります。次回は大島へ。
島①島の娘 [a landscape]
♪ハァー 島で育てば
娘十六 恋ごころ
人目しのんで
主と一夜の 仇情け
(「島の娘」詞:長田幹彦、曲:佐々木俊一、歌:小唄勝太郎、昭和8年)
日本が島国であることは現代人であれば常識だが、北海道、本州、四国、九州に住む人の多くは、自分が島人であるという実感がない。多分。
実際国内では「本州島」だとか「四国島」とはいわない。でも「島」なんだな。
「島」とは周囲を海または水域で囲まれ、満潮時に水没しない自然の陸地のこと。だって。
そういうことなら地球上のほとんどの陸地がすべて「島」になってしまう。それでもいいと思うのだが、なぜかユーラシア、アフリカ、オーストラリア、北アメリカ、南アメリカ、南極の6つは「大陸」ということに。
いずれにしても日本は間違いなく島であり、日本列島なわけです。
では日本に島はいくつあるのか。
すべて海洋の中にあるものを島とはいわない。たとえば湘南にある烏帽子岩は岩礁であり島ではない。二見ケ浦の夫婦岩だってそう。
海上保安庁によると周囲が100m以上あるものとされているそうだが、100mとはかなり小さい。日本でいちばん小さい島といわれている長崎県五島市の蕨(わらび)小島でも周囲は1.8キロ。
また最小の無人島は小笠原諸島のさらに南にある沖ノ鳥島だといわれている。
ちなみに沖ノ鳥島は潮の干満で大きさが異なるのか周囲は不明?ただ、満潮時はほとんど海面下に没し、2つの突端が出ているだけとか。その大きさは相撲の土俵より小さいそうだ。
そんなわけ? で島の数も数学的に明らかになっているわけではないらしい。有人島でおよそ3000あまり、無人島もほぼそのぐらいだとか。つまり6000~7000ほどの島からなる国が日本なのだ。
離島での生活は本土に比べてはるかに不便でハンデがある。
物資、水、情報すべてが不足していた時代にくらべると今はかなり便利になってきたというが、それでも多くは雨水に頼る水の確保はいまだに頭を悩ませる問題だとか。また、ひとたび台風などで海が荒れれば、文字どおり絶海の孤島と化してしまう。
本土に住む人間にとって地理的にも距離を隔てる「島」はある種非日常的というか特別なロケーションとなり、古くから小説や映画の舞台にもなってきた。
もちろん流行歌でも。
初めて「島」がうたわれた流行歌は? ということになると私の乏しい知識ではたちうちできないが、
♪磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
という伊豆大島をうたった昭和3年の「波浮の港」(佐藤千夜子)はかなり古いのではないだろうか。
また昭和5年には
♪私のラバさん 酋長の娘
という「酋長の娘」(中村慶子)がある。これは日本が侵略をはじめていた南方の島をうたったもので、歌詞に♪赤道直下 マーシャル群島 と出てくるのが時代をあらわしている。
まぁ、そんな歌もあったが大ヒットした島の歌といえば、上にのせた「島の娘」だろう。
なにしろ蓄音機の普及も十全ではない昭和8年に50万枚売れたというのだから驚異。
その歌詞も、16歳の少女の性体験。いまなら「淫行」だの「援交」だので発禁自粛ものだろう。
作詞の長田幹彦は、芸者ものを得意とした小説家で昭和5年には
♪月はおぼろに 東山
でおなじみ(じゃないか)の「祇園小唄」(葭町二三吉)を書いている。
その葭町(藤本)二三吉もそうだが、昭和初年流行歌の黎明期、そのシンガーたちの出自はというと、方やクラシック街道を逸脱した“不良声楽家”こなた小唄端唄が喉自慢の芸者連というのが常道。
芸者シンガー第一号ともいうべき二三吉姐さんはその名のとおり日本橋は葭町の出。
そして「島の娘」で超特大場外満塁ホームランを放った小唄勝太郎姐さんも同じ葭町の売れっ子。
ほかにも浅草芸者で「ちゃっきり節」や「天竜下れば」をヒットさせた市丸をはじめ、
赤坂小梅「ほんとにそうなら」、新橋喜代三「明治一代女」、新橋みどり「もしも月給があがったら」、豆千代「夕日はおちて」、〆香「流れ三味線」、美ち奴「ああそれなのに」など粋筋のお姐さん方がゾロゾロ。
まあ、当時は歌手の新人発掘オーデションなどもなかったし、芸者も今と違ってブロマイドを出すほど人気だったので、さもありなんですが。
今でいえばキャバ嬢がCDデビューするようなもの? ちょっと違うか。
「島の娘」のヒットはそれ以外にも流行歌にパターンをつくったことでも知られている。
そのひとつが「お色気路線」。
勝太郎のうたう♪ハァー がなんとも色っぽく(そうかなぁ)、「ハァ小唄」といわれ、その「ハァ」しばしば使われるようになったとか。
♪ハァー 天龍下れば ヨサホイノサッサ 「天龍下れば」市丸
♪ハァー ステップも 軽く銀座は 花の道 「銀座ステップ」渡辺光子
♪ハァー 想い出します おけさの唄で 「佐渡小唄」東海林太郎
♪ハァー 咲いた咲いたよ アリャサ 弥生の空に 「さくら音頭」三島一声他
というように。いまの若い人がキレたときにつかう「ハアーッ!?」とは違うから。
ちなみに当時、流行歌は小唄あるいは流行小唄といわれていた。
もうひとつのパターン化は「島」の歌の流行。
「島ちどり」東海林太郎
「島の船唄」 田端義夫
「島の星月夜」 ミス・コロムビア
「島の夕波」 日本橋きみ栄
「島の船出」 岡晴夫
というように。売れたものは即真似ろ、柳の下の泥鰌の二匹三匹当たり前、というのは何も流行歌の世界に限ったことではないのだけど。
そして「島の娘」もそうだが、そのほとんどは不特定の島をうたったもの。
さらにこうした傾向は戦後も続き、「島」は流行歌のなかで重要なロケーションのひとつとして戦後も引き継がれていくことに。
そうそう「島の娘」といえばクレージー・ケンバンドにも同名の歌がある。
旅先の島で出会った娘を帰りの飛行機の中で回想するという男の気持をサンバに乗せて。
こちらは「ハァー」ではなく「ラララ」と陽気にはじまります。
【木の下闇】 [obsolete]
『……自分ひとりで、その木の下闇にはいってゆくことが、恐ろしかったからである。だが、いつかひるま来たときには、園子はその松林がそれほど深いとは思わなかった。すずしい木陰が半町ばかりつづくだけであった。……』
(「まごころ」田宮虎彦、昭和25年)
「木の下闇」konositayami とは読んで字のごとし、樹木の下の陰になっている部分である。ただ昼間はあまり「木の下闇」とは言わない。やはり木陰だろう。「木の下闇」は夕暮れや、夜の木陰のこと。「木の下闇」、何か謎めいていたり、事件が起こりそうな雰囲気があったりしてなかなかいい言葉だと思うのだが、あまり使われなくなった。
大岡昇平の「武蔵野夫人」では、夜、恋人たちが語らう木の下闇の場面が出てくる。付近には街灯があるのだが、恋人たちによって“邪魔者”の電球は割られてしまう。付け替えてもすぐに割られてしまうというようなことが書かれていた。
“引用”は主人公の園子が、夜一人で木の下闇を往く場面である。その闇の中でヒロインは一生忘れられない事件に遭遇する。まさにその直前のシーン。
半町は距離のことで、町が単位。一町が約109メートルなので半丁は50メートルあまり。
総合病院の事務を勤める園子は、陰で“鬼瓦”と言われるほど器量のわるい娘である。本人もそのことを知っている。彼女が無口なのはそのせいである。そんな彼女にも憧れの人がいる。研修医の修一郎で、園子とは遠い親戚にあたる。修一郎は毎年夏になると園子の勤める病院へ実習に来ることになっていた。
ある年の夏、休暇をとった園子は病院の別荘へ出かけた。そこは毎年、従姉の雅江や修一郎のほか数人の若者が集まるのだ。修一郎たちは海で釣りをしたりモーターボートに乗ったり、麻雀に興じたりして休暇をエンジョイする。だが園子は、植木の世話をしたり洗濯をしたりと輪の中へ入っていけない。ある日、修一郎から声をかけられる。なんてことはない挨拶だったが、園子には飛び上がらんばかりにうれしいことだった。
それぞれが明日、病院へ帰るという夜、園子は開放感から海辺を散歩する。その松林の続く木の下闇で突然背後から誰かに抱きしめられる。園子はそれが修一郎だと直感する。そして無抵抗のまま身を委せる。
やがて戦争が激しくなり、修一郎も戦地へ行く。園子は彼に慰問袋を送り続けるはじめは名前を書かなかったが、やがて修一郎の知るところとなった。修一郎からは好意的な返事が来るようになった。しかし、修一郎は戦死してしまう。
戦後、園子の所へ彼の両親がやって来る。そして、息子に慰問袋を送り続けてくれたことへの感謝の言葉を言う。それとともに、修一郎から生きて帰ったら園子と一緒になりたいという便りが来ていたことを知らせる。それを聞いた園子はただ泣き崩れるばかりだった。
30歳近くになってもいまだ独身の園子は、あるとき従姉の雅江を誘って展覧会へ行った。そして、そこでいままで誰にも言わなかった修一郎との一夜の想い出を雅江に聞かせるのだった。それを聞いた雅江は、「本当に最後の夜のこと?」と聞き返した。その夜、雅江と修一郎は他の2人を交えて徹夜で麻雀を打っていたからである。
なんとも微妙な話だ。女性にやさしい作者にしてはいささかヒロインの扱いが非道い。園子の誤解を知った従姉がそのことを言わなかったのは、作者のやさしさだが、知らぬが花なのが本人だけなのだから辛い。園子にとって、これからその幻を上まわるだけの男は現れないだろうと予測できるだけに、美しき誤解だけではすまされないものが残る。ただストーリーとしては面白い。
タイトルの「まごころ」のありかは、はたして何びと、いずくにありや。
服部良一、古賀政男、古関裕而は、戦前からの昭和流行歌3大作曲家だが、鮮度の落ちない点では服部良一がいちばん。社会現象になるほど有名になったこの歌手だが、昭和32年に引退したあとは、俳優ひとすじでステージはもちろんテレビでもいっさい歌をうたわなかった。
【商人宿】 [obsolete]
『行商に出たまま、幾日も神戸の家には帰らないで、さびしい村の商人宿にとまったこともあった。埃っぽい街道から、親子三人の泊まっている、何のかざりもない部屋の、赤茶けた襖や畳に、馬糞くさい砂ぼこりが舞いこんでいた記憶もある。……』
(「波子の幸福」田宮虎彦、昭和26年)
「商人宿」は、行商人や商用で出張してきた会社員が宿泊した宿。いまでいえばビジネスホテルということになるが、この小説の時代、つまり戦前では四畳半、あるいは六畳一間の畳敷きがほとんどだった。「何のかざりもない……」と“引用”にあるように、家具調度などはほとんどなく、押入に布団が入っているだけの部屋で、トイレも風呂も共同というのが一般的。ただ寝るための宿泊施設で木賃宿、安宿と変わらなかった。
もちろんなかには、食事を用意するところもあったが、もちろんその分料金は高くなる。気になるのは宿泊料金。はっきり数字が出ているわけではないが、たとえば昭和15年の地方公務員の初任給が45円、帝国ホテルの一泊料金が10円というところから推理すれば、1円前後だったのではないだろうか。
商用で出てくる人間が最も多いのが東京。それは今も昔もで、そのため「商人宿」も多かった。とりわけ上野あたりは、そうした宿が軒を連ねていたという。現在ではすっかり清潔なビジネスホテルやカプセルホテル、あるいはサウナに押されて姿を消した感があるが、ときおり、連れ込みでもない雰囲気で看板に「○○旅館」と書かれた家が裏町にあったりする。それが「商人宿」の名残りなのだろう。
「波子の幸福」は講和条約が結ばれた翌年、雑誌『小説公園』で発表された短編。
他人からお姫さまみたいだと褒められるほどの可愛い波子はものごころつくと、五十過ぎの行商人の両親に育てられていた。その両親は彼女が十歳のときに相次いで亡くなる。幸いにも父母の客だったキリスト教の婦人伝道師・ようが波子を引き取る。彼女はなんの抵抗もなくようを「お母さん」と呼ぶ。
教会の宿舎から女学校へ通うようになったが、ある日突然ようが教会を出ることになり、波子も女学校をやめた。ふたりはようの実家の信州へ身を寄せる。しかし、ふたりは歓迎されざる“客人”で、やがて波子は東京にあるようの知り合いの大工の棟梁の家へ行くことになる。
職人を何にも使う棟梁は、昔、ように世話になった人間で、娘がいないこともあり波子を歓迎する。そこで再び女学校へ通うようになった波子は何不自由なく暮らす。そして、良縁に恵まれ、まさに結婚というときに棟梁である父親が仕事に失敗し破談となってしまう。それでもやがて波子は、棟梁の遠縁の男と結婚する。幸福な結婚は7年続いたが、不幸は突然やってきた。ある日夫が交通事故で亡くなってしまったのだ。
そのときになって波子は、はじめて自分の幸福だった人生に疑問を抱く。幼い自分を残して相次いで死んでしまった行商人の両親、実家に戻りながら冷遇されていた二番目の母・よう、会社を潰してしまった棟梁、そして交通事故に見舞われた夫。すべて自分のせいではないのか、自分の幸福と引き換えに周囲の人が不幸になっていくのではないのか、そう考えるようになったのである。
30歳になった波子は自立を決意した。亡くなった夫の会社の便宜で満州の工場に就職することになったのだ。そして、満州で3年目に母・ようを呼び寄せた。涙ながらに喜んだようはその3年後に静かに人生を終えた。
そして波子が40歳になったとき、以前から結婚を申し込まれていた工場長と結婚した。戦争が終わり、東京へ戻った波子は夫と幸福な生活を送っていた。そして余裕ができたとき自分の両親のことが気になり、出身地である広島県のある村へ調べに行った。そこで、自分が両親から拾われた捨て子だったことがわかる。
夫をみつめる波子は、また何かの不幸がこの人を見舞わないだろうかと、ときどき不安になるのだった。
幸不幸、運不運というのは不平等に訪れる。「波子の幸福」のヒロインの人生は捨て子という不幸からスタートした。そして“禍福はあざなえる縄の如し”の言葉どおり幸不幸が彼女にやってくる。しかし、まだ道半ばにせよ、誰一人恨むことなく人生を歩んできた波子は題名が示すとおり幸福だったのだろう。
昭和26年、この年流行った歌。
プロ野球はセ・リーグの巨人軍がパ・リーグの覇者南海ホークスを破って日本一になった。
監督は水原茂。巨人の主軸は赤バット・川上哲治。打率3割7分7厘でシーズンの首位打者とMVPを獲得。
風呂屋の下駄箱16番争奪戦が行われたのもこの頃で、今でも使われる(?)「弾丸ライナー」という言葉は川上の矢のような鋭い打球から生まれた。
なんて講釈師のようなことをのたまっております。
【ラバーソール】 [obsolete]
『ふと、背後の足音が耳についた。ひそかな軽い靴音だ。ラバーソールかゴム底の靴音だ。おれとおなじリズムの靴音だ。
おれはぱっとそばの塀に背中をはりつけた。すると足音もピタッとやんだ。横目をつかってふりかえると、二軒おいた家の塀ぎわに駐車中の車があった。おそらく奴はその車の陰だね。』
(「空巣専門」原田康子、昭和39年)
「ラバーソール」Rubber sole ゴム底の靴のこと。もともとは運動、ハイキング用のカジュアルシューズ。「ラバーソール」およびその言葉は戦前からあったようで「浮雲」(林芙美子、昭和26年)にも戦前の場面で『洒落たラバーソールをつっかけて』という記述がある。一般的になったのは戦後で、昭和27年ごろ先の丸いラバーソールが流行った。
ある本には「品のよくない男たちが履いていた」と書かれている。小津安二郎監督の「麦秋」で佐野周二がラバーソールは履いていて、それを品がわるいと批判されたとか。いつの時代でも、スターは監視されている。
また30年代になると、マンボ族、太陽族に愛用され、大きめの上着に細いズボン、そして厚底のラバーソールがロカビリアンの定番スタイルとなった。とにかく活動的オシャレで昭和30年代の若者には欠かせないファッションアイテムだった。おそらく昭和30年前後の風俗映画に出てくる若者の足元を見れば、様々なラバーソールを見ることができるはず。
その後もかたちは変わっても厚底のラバーソールはパンクやロックのミュージシャンに愛用され続けているとか。ミュージシャンだけではなく、そのコンサートに駆けつける少女たち(バンギャルとかバンギャとかいうそうです)の中にも超厚底のラバーソールを履いている者も。なにかにこのラバーソールのことを、“Lover soul” と書いてあった、なんとなく頷けるようでも……。
ちなみに、現在、トレッキングやウォーキングなどで使うシューズもラバーソールという。
「最初(はな)っからやばいとは思ったね」
ではじまる「空巣専門」は、空き巣に入った先で殺人事件と遭遇してしまい、犯人から生命を狙われる羽目になった男の独白小説。
自称バーテンダー、その実体は空き巣狙いの“俺”は、その日仕事をするつもりである家に忍び込んだ。ところが、いきなり拳銃を発射される。白いシーツをかぶったノッペラボーが銃口をかまえていた。4発撃たれたが、1発がラバーソールの踵にあたっただけで“俺”は命からがら逃げ延びた。
翌日新聞を見るとその家の主婦が拳銃の弾2発を打ち込まれた死体でみつかり。元射撃選手の夫が逮捕された記事が出ていた。“俺”は真犯人別にいると思った。なぜなら、あのノッペラボーは元射撃選手にしては腕が下手だったから。
“俺”の推測どおり、真犯人は口封じに出てきた。尾行されて住まいを突き止められたのか、銃口を向けられている気がした。そして、ついに犯人とおぼしきクルマに轢き逃げされた。運良く軽傷ですんだ“俺”は警察(サツ)に泣きついた。もちろん空き巣に入ったことは言わず。しかし、警察は現場に残されたラバーソールの踵の破片から“俺”が現場にいたことをすぐにつきとめた。そして、“俺”を囮にして犯人を捕まえる計画を立てた。
いやならお前を逮捕すると言われ、“俺”はしぶしぶ同意した。そのかわり刑期を軽減してやると刑事は言った。
“俺”はその家へ二度目の“空巣”に入ることになった。しかしドアを開けたとき、その前に若い女が立っていて、その手には拳銃が握られていた。その銃口が火を吹く寸前、別の銃声がして、彼女の拳銃をたたき落とした。
結局犯人は、逮捕された夫の従姉で、横恋慕が動機だった。“俺”はどうやら1年、あるいは半年ぐらいの刑期になりそうだった。そのぐらいだったらいい休養になるからいいかなと思った。
作者にはめずらしいソフトな犯罪推理小説。そのため警察や犯罪者の隠語がふんだんに出てくる。ゴト(仕事=犯行)、ハジキ、ガイシャ、サツ、ホトケ、ホシ、タタキ、マエ(前科)、サス(密告する)、ムショ、ジュク(新宿)、ブクロ(池袋)、アマなどなど。
この年流行った歌。「歌詞がヘン」と話題になった。
その名は●マギー② [the name]
♪750のエンジン 雨のサタディ・ナイト
私の彼氏は荒くれ 街のきらわれもの
だけどブンブン いかすブンブン
私にやさしきゃ 文句はないさ
国道ぞいに西へ行く ずぶぬれ本牧
ヘッドライトの横須賀
走るブンブン 濡れるブンブン
背中のかもめが 私のマーク
(「燃えるブンブン」詞:橋本淳、曲:鈴木邦彦、歌:マギー・ミネンコ、昭和49年)
日本で「マギー」といえば。
「もちろんマギー司郎にマギー審司師弟でしょう」
それはそうだけど、ここでは音楽の話。
彼が「マギー」なのは師匠がマギー信沢だったからだが、では師匠はなぜ男なのに「マギー」だったのか。単純に「MAGIC」からきているのかも。確証はないけど。
いまはそんな話じゃなかった。
あらためて日本のマギーといえば昭和40年代末、日本を一世風靡したかどうかは定かではないが、シンガーでありタレントだったマギー・ミネンコ。
当時人気だったバラエティ番組「うわさのチャンネル」のレギュラーで「乳モメ!」の女の子らしからぬギャグでウケていた。和田アキ子、せんだみつお、ザ・デストロイヤーらが出演していたハチャメチャ番組だった。
当時人気の(今でも?)ハーフタレントというか、いやまったくの外国人だったかもしれない。しかし育ちは日本のようで日本語はほとんど日本人並み。
それでもマギーはいちおう歌手で昭和49年「燃えるブンブン」でデビュー。彼氏が不良という設定(彼女も不良?)のハッピーソング?
この少し前にキャロルがデビューして、若者の一部に“不良歓迎”の気分があったのかも。
そのあと同じ年にリリースしたのが「涙の河」。これはカーペンターズのにおいのする(実際彼女は「イエスタデイ・ワンスモア」をカヴァーしている)名曲。
ところがマギーちゃん、全盛期で突如芸能界を引退。何があったのか。家族が猛反対したという話もあるが、出港してしまった船をそう簡単に止められるのか。まぁ原因か結果かは不明だが所属事務所とひと悶着あったことは推測できる。
当時はカナダへ帰ったという話もあったが、現在はロスで夫や子供たちとくらしているようである。歌はうまかったし、今さらだがスタンダードも聞いてみたいと思う歌手だった。
そのマギーちゃんの本名はやっぱりマーガレット・ミネンコ Margaret Petrovna Minenko。
その少し前の昭和43年、まさにGSの退潮がみられはじめた頃デビューしたのがマーガレット。
アメリカと日本のハーフで本名はマーガレット・リー・パレット。ファッションモデル出身で、寺内タケシのプロデュースにより、彼の曲「バラ色の妖精(フィードバック・ギター)」でデビュー。そのときのキャッチフレーズ(ジャケットに書いてあった)が「青い瞳のマシュマロ」……うーん。GSサウンドということなら、2枚目のシングル「逢えば好き好き」のほう。こちらも作曲はテリー。
当時の雑誌のプロフに「日本語はヘタ」と書いてあったが、歌を聞くかぎりチャキチャキ。反対に英語が苦手だったりして。
マギーの曲は、マギー・ミネンコのアルバムの中に「マギーのテーマ」がある。これは深町純がつくったインスト。
マギー・ミネンコが芸能界から消えてしばらくした昭和53年に出たのが世良公則とツイストの「マギー」。
♪マギー 今夜かぎり終りにしよう
ツイストは昭和52、世界歌謡祭の優勝曲「あんたのバラード」をひっさげてデビュー。その翌年に発売されたファーストアルバム「世良公則&ツイスト」がいきなりオリコン1位に。「マギー」はその中の収録曲。デビュー曲の延長線上にある曲調。
嘘で固めた愛なんかいらない。バイバイしょうぜ。と世良公則が叫んでいる。
なぜか同じ年に出ているもうひとつのマギーの曲が中原理恵の「マギーへの手紙」。
♪マギー 俺は出て行くよ お遊びは終わりさ
という男歌。内容はこちらもアバズレ娘に振り回されてほとほと疲れ果てた男が弱気にも手紙でバイバイする歌。もうちょっと違う別れ方もあると思うけど。
筒美京平、松本隆のコンビ。
マギーがマーガレットで、ボギーがボガート。ならばバギーは?
残念ながらこちらは人の名前ではなくファッション用語[Baggy]で袋状つまりゆったりしたということ。
そういえば腰回りがピッタリしていて足の部分がブカブカの「バギーパンツ」が流行ったのも昭和50年前後だった。
関係ないか。マギー、ボギー、バギーって語呂がよかったもので、つい。
その名は●マギー① [the name]
I wandered today to the hill, Maggie
To watch the scene below
The creek and the rusty old mill, Maggie
Where we sat in the long, long ago.
The green grove is gone from the hill, Maggie
Where first the daisies sprung
The old rusty mill is still, Maggie
Since you and I were young.
([WHEN YOU AND I WERE YOUNG, MAGGIE]lyrics by GEORGE JOHNSON, music by JAMES BUTTERFIELD, 1866)
音楽を聴いてノスタルジーを覚えることはよくある。どんなジャンルであれ。
必ずしも音楽はノスタルジーを感じるためだけの“遊興”とは限らないが、そうした大きな“魔力”を持つことも否定できない。
歳を重ねれば重ねるほどそうした魔力に囚われてしまいがちになるのは仕方のないこと。とはいえノスタルジーというやつは経験者の特権ではない。若い人だって大いに感じているはず。
たとえば進学や就職で地元を離れ都会へ出てきた青年。ある日異郷の街で中学時代の同窓生とバッタリご対面。「よお、しばらく」でしばしの立ち話。そんなときお互いの思考の中には中学時代の日々が巡り、「懐かしいなぁ」が連発されたりして。ほんの数年前のことなんだけどね。それでも気分はノスタルジー。
この場合ノスタルジーへ誘う“媒体”は旧友ということになる。そうした媒体はいくつもある、よくあるのは既知感を伴う「風景」や「状況」など。そして「音楽」またとてもインパクトのある媒体のひとつになる。
わたしが記憶している中でいちばん古いノスタルジー感覚というのは小学校の高学年の頃。
学校への通学路の周囲はほとんど田畑で、下校時よくひとりで田んぼの畦を通ることがあった。天気の良い日など脳内プレイヤーの伴奏でよく口ずさんでいたのが「故郷の空」。♪夕空はれて 秋風吹き というスコットランド民謡。
なぜかその歌と周囲の景色や風がマッチして心地よい不思議な空間に身を置いているような感覚に浸ることができた。
それがノスタルジー感覚だと理解できたのはもう少し大きくなってのことなのだが。
10やそこらの子供が何にノスタルジーを感じたのか。はたまたどこの町あるいは村に郷愁を覚えたのか。
輪廻転生を信じるわけではないが、DNAに付着している「未生の記憶」というのには根拠のない肯定をしてしまう。それを詮索探求していく気持ちもないが、あの時、「故郷の空」が媒体となって未生の世界を垣間見せられたような気がするのだ。
ほかにもたとえば「赤とんぼ」とか「ふるさと」あるいは「冬景色」などの唱歌にノスタルジーを感じる人は少なくない。それは多分に歌詞に触発されるということもあるが、そればかりとはいえない。メロディーもまたそうした“力”をもっている。
純粋にインストつまりヴォーカルなしの演奏だけでノスタルジーを感じたというのは、二十歳をすぎた頃。何もわからないままジャズを貪っていたとき聞こえてきたのが「マギー若き日の歌を」WHEN YOU AND I WERE YOUNG, MAGGIE 。キッド・トーマスKID TOHMAS やジョージ・ルイスGEORGE LEWIS らのデキシーランドでだった。
賑やかなブラスに乗って流れてくる旋律がなんとも懐かしい響きだった。はじめて(多分)なのにどこかで聞いたことのあるようなメロディー。
そのときはこの歌に歌詞があることや、その作られた背景はもちろん知らなかった。
この歌「マギー」(と省略することもある)は、アメリカの民謡とクレジットされていることもあるが実際には作者ははっきりしている。
まずカナダの教師であり詩人だったジョージ・ジョンソンGEORGE WASHINGTON JOHNSON が詩を書いた。
ジョージにはマギーというフィアンセがいて、二人は1864年に結婚した。しかし、その翌年病弱だったマギーは死んでしまう。ジョージはマギーのことが忘れられず二人の思い出を詩に綴った。そしてマギーが亡くなった翌年、友人のアメリカ人作曲家、ジェームズ・バターフィールドJAMES AUSTIN BATTERFIELD によって曲がつけられ、出版されることになったのである。
その後ジャズやカントリー、あるいはポップスに編曲され、アメリカではよく知られた歌なのである。その懐かしい旋律は作曲したジェームズがイングランド出身ということと無関係ではない。
1950年代にはビング・クロスビー親子BING & GARY CROSBYでヒットしている。
実際のマギーの本名はマーガレット・クラークMARGARET CLARK 。
マーガレットといえばジャズというかポップスというかとにかくヴォーカリスト、マーガレット・ホワイティングMARGARET WHITHING がいる。
「煙が目にしみる」SMOKE GET IN YOUR EYES、「ザ・ソング・イズ・ユー」THE SONG IS YOU 、「今宵の君は」THE WAY YOU LOOK TONIGHT などジェローム・カーンJEROM KERN の作品をうたったアルバムやメル・トーメMEL TORMEとのデュエット盤がある。「ヴァーモントの月」MOONLIGHT IN VERMONT もいい。
歌手ではないが1940年代、アメリカ映画の名子役にマーガレット・オブライエンがいた。「若草物語」や「秘密の花園」に出ていた。昭和27年に来日し、「二人の瞳」という映画で美空ひばりと共演して話題になった。
そういえばイギリスの元首相で“鉄の女”といわれたサッチャーも名前はマーガレットだった。
歌ではボブ・ディランBOB DYLAN。
よく知られているのが「マギーズ・ファーム」MAGGIE'S FARM 。恋人マギーの農場ではたらくことになった男の歌。彼女の兄弟や両親に徹底的にこき使われて、「もういやだ!」と脱走直前の心境をうたっている。
また、自分から離れていった酒飲み女のことをうたった「リトル・マギー」LITTLE MAGGIE もある。ブルー・グラスにも同名異曲があった。
さらには「おれの心を奪ったお前と一夜をともにしたい」とうたう「ペギー・デイ」PEGGY DAY もある。
実はのちにふれるように、このPEGGY もMARGARET の変形なのだ。
さらにさらにディランはよほどマギーがお気に入りなのか、かの有名なアルバム[BRINGING IT ALL BACK HOME]の冒頭を飾る「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」SUBTARRENIAN HOMESICK BLUES にも「マギーが足早にやってきた」Maggie comes fleet foot と出てくる。もしかして昔好きだった女の子の名前?
そのほか積極的な女の子にふりまわされながらも離れられないでいる高校生をうたったロッド・スチュアートROD STEWART の「マギー・メイ」MAGGIE MAY も有名。
またジャニス・ジョプリンJANNIS JOPLIN のヒット曲に「ミー・アンド・ボビー・マギー」ME AND BOBBY McGEE があるがこの「マギー」は苗字で、名はボビーというから男性のこと。
クリス・クリストファーソンKRIS KRISTOFFRSON がつくった曲で、元はカントリー・ソング。ジャニスだってもとはもとはカントリーから出発しているのだ。
ところでマーガレットの愛称や変形にはマギーのほかメグMEG、マーゴMARGO、リタRITA、ペギーPEGGY、ペグPEG がある。そういう名の女性シンガーは何人も思いつくはず。
また童話「ヘンゼルとグレーテル」のグレーテルGRETELもマーガレットのドイツ語マルグレーテMARGARETA の愛称だとか。さらにさらにあの往年の大女優グレタ・ガルボGRETA GARBO のグレタもマルグレーテの変形だそうで、こうなるともう何が何だかわからない。マギーらわしい。……座布団もってっていいよ。
その名は●やすこ [the name]
♪華やかに幕が開き 私はただ一人ライトを浴びている
想い出が駆けめぐり 私の人生の幕が開くでしょう
家族たちに看取られながら 死をむかえる人
一人ぽっちで召されて行く そんな人もいるけれど
もしも選べるなら舞台の上で
眩しいライトを浴びて死ねたら本望
生命ある限り歌い続ける それが私の生きた証
(「歌い続けて」MOURIR SUR SCENE 訳詞:矢田部道一、曲:J.BAMEL、歌:大木康子)
数年前、テレビで放映していた「パリ祭」で久しぶりに大木康子を見た。
そのとき、あまりにも細身だったのでびっくりした。もしかして病気で休養していたのかな、と思ったほどだった。
しかし、その後は毎年のように「パリ祭」には出演しているようだったし、コンサート、CDの制作と充実した音楽活動をしているように思えたのだが、今月の2日に亡くなられたとの記事が今日の夕刊に載っていた。
66歳ではやはり死ぬには早すぎる。
東京は日本橋生まれで高校生のときに、シャンソンの先輩の深緑夏代に師事したという。そのときの印象をシャンソンの訳詞で知られる矢田部道一が、彼女のCDの解説で書いている。
「……見事な肢体の女性が“ある恋の物語”でレッスンを受けていた。デビュー前の大木康子との出逢いである。17歳の頃の少女だったが、もう南国の女性を思わせた。将来、スターとして輝くだろうことは門下生の間でも別格として認められていた。……」
その後、「あいつ」や「学生時代」で知られる平岡精二クインテッドの専属シンガーとして活動し、シャンソン歌手の登竜門ともいえるヒルトンホテルでのショーでファンにその名を知らしめした。そして、期待どおり、昭和43年彼女はレコードデビューする。
A面が「野火子」B面が「誰もいない海」。
「誰もいない海」はその後、越路吹雪やトワ・エ・モアがレコーディングして名曲となっていくのだが、初めて吹き込んだのは大木康子である。
シャンソン向き? のあつみのある声は、20代半ばのデビューということもあり、大人の雰囲気に満ちていた。
その後いずみたくの事務所に所属していたようで、そのときは月に一回のペースでコンサートを行っていたとか。
いずみたくとはCMでの“共演”がある。オリジナル曲もあるのかもしれないが、同じシャンソン歌手の岸洋子のようなヒット曲はなかった。
お互いいい思い出がなかったのか、いずみたくの自伝的著書にも大木康子の名前は見当たらない。
レコードデビューした当時、しばしばテレビにも出ていたような記憶がある。もし、ヒット曲に恵まれていれば、ジャズやカンツォーネもこなしたというのだから、シャンソンの枠から飛び出したポップシンガーになっていたかもしれない。
しかし、聞くところによると昨年の11月まで仕事をこなしていたとか。
現役真っ只中に斃れたということは、ある意味本望だったのかもしれない。
近年出した「懐かしい私の恋人たち」の中の「想い出のサントロペ」JE NIRAI PAS A ST. TROPE は好きな歌ということもあって、フェヴァリットソング。アルバム「向日葵」の中では彼女の高音が聴ける「恋人たち」LES AMNTS(シャルル・デュモンとのデュオ)がいい。ポピュラーな「悲しみのソレアード」SOLEADOも。
ほかの「やすこ」さんではポップシンガーの内藤やす子。
昭和50年に「弟よ」でデビュー。翌年には宇崎竜童、阿木燿子の「想い出ぼろぼろ」がヒット。
R&Bのテイストがあると思えば、どこか演歌の匂いもするという独特のシンガー。近年脳溢血で倒れ、現在リハビリ中だとか。
もうひとりはジャズシンガーの阿川泰子。
文学座出身の女優からジャズシンガーに転身。
その美貌で昭和50年代から60年代にかけてジャズシンガーのアイドル的存在に。
いつか聴いた「センチメンタル・ジャーニー」はなかなか聴かせた。
彼女の場合、ほとんど原語でうたうものしか聴いたことないのだが、いちど「スターダスト」などを日本語にのせて聴いてみたい。
“熱狂から離れ”た現在、いまだコンサート、CD制作と多忙な日々が続いているようだ。
「なお、彼女の本名は「康子」だそうだ。
無理かもしれないがどこかで追悼番組(今年のパリ祭での“特集”でもいい)をやってほしいものです。むりだろうなぁ……。
その名は●たかし② [the name]
♪遠い世界に 旅に出ようか
それとも 赤い風船に乗って
雲の上を 歩いてみようか
太陽の光で 虹をつくった
お空の風を もらってかえって
暗い霧を 吹きとばしたい
(「遠い世界に」詞、曲:西岡たかし、歌:五つの赤い風船、昭和44年)
日本人の名前はすべてではないがほぼ漢字である。
しかし、歌手やタレントなどの人気商売では、名前を覚えてもらいやすくするためや柔らかい印象を与えるために平仮名やカタカナにする人がいる。
たとえば氷川きよしがそうだし、浜崎あゆみがそうだし、藤井フミヤがそう。なかにはさだまさしやスガシカオのように「えっフルで?」というシンガーも。
「たかし」もまた平仮名やカタカナで表記する歌手がいる。
まずはポップス系。関西フォークの重鎮、五つの赤い風船のリーダー、西岡たかし。
本名は西岡隆。
音楽との関わりは兄の影響でアメリカのマウンテンミュージックやカントリーからだという。「遠い世界に」で彼が使っているオートハープはまさにその影響。
どんなシンガーやグループに影響されたのかは定かではないが、昭和42年にフォークグループ「五つの赤い風船」を立ち上げる。
レコードデビューはインディーズレーベルの魁ともいえるURC(アングラ・レコード・クラブ)から片面に高田渡を配したLP「高田渡/五つの赤い風船」(CDに復刻されている)で。
そのなかに「遠い世界に」をはじめ「恋は風に乗って」、「血まみれの鳩」、「もしも僕の背中に羽が生えていたら」などの名曲が収められていた。
昭和40年代中盤、つまり1970年代前後というのは、岡林信康や高田渡に代表されるような、あきらかな反体制、プロテストソングが主流で、五つの赤い風船のような反戦、平和をメッセージとするフォークソングは軟弱の誹りもうけたとか。
西岡以外のメンバーの入れ替わりもしばしばあり、一時解散していたが近年また復活、活動を続けている。
西岡がほかのグループに提供した楽曲としてヒットしたのがシモンズの「恋人もいないのに」。
シモンズは45年に結成された田中由美子(現ユミ)と玉井妙子のフォークデュオだが、4年後に解散。平成8年に田中と青木マリ子で再絵結成される。その青木が現在の五つの赤い風船のヴォーカル。
もう少し続けたかったのですが、後がつまっているので。
演歌では細川たかし。本名は貴史。
彼が高校を中退して札幌のキャバレーやクラブでうたっていたところをスカウトされ、妻子を残したまま“勝負を賭けるため”上京したことはよく知られているが、同じ北海道の先輩・三橋美智也に師事していたとは知らなかった。
デビューは昭和50年の「心のこり」。これがいきなり大ヒット。レコード大賞の最優秀新人賞に。この曲の作曲は中村泰士。元ロカビリアンの美川鯛二。当時ヒットしたニール・セダカの「恋の日記」THE DIARY をベースにつくった(本人弁)もの。
その後しばらくヒット曲が絶えたが、57年に「北酒場」が大ヒットみごとレコード大賞を受賞。さらに勢いに乗って翌年競作レースに勝ち抜き「矢切の渡し」でレコード大賞連続受賞の快挙。押しも押されもしない演歌のトップシンガーとなった。
この「矢切の渡し」、7年前にちあきなおみが吹き込んだもの(「酒場川」のB面)で、そのときはまるで評判にならなかった。
それが比較的短い間隔で再リリースされたのは、梅沢富美男がテレビドラマの中で頻繁にうたい、それが評判になったから。梅沢は自身の舞台でも「矢切の渡し」を持ち歌にしていたそうで、細川たかしが紅白歌合戦でうたったとき、そのバックで踊っている。
その後もやはり競作の「浪花節だよ人生は」や「望郷じょんがら」などをヒットさせているが、近年、暴力団との関係をNHKに嫌われてからメディアへの露出が減っている。
その細川たかしの歌に「ひとり旅」がある。ヒット曲ではないがこの歌を作曲したのが三木たかし。
本業はむろん作曲だが、かれも若いころはバンドボーイをしながら歌手を志していたようだ。ただすぐに限界を感じたのか作曲家に方向転換している。その代り彼の妹・黛ジュン(渡辺順子)がヒット歌手になった。
「夕月」をはじめ彼女のヒット曲のいくつかもつくっている。で、自作自演がある(「つぐない」など)。
そんなわけで三木たかしもノドに自慢のうたう作曲家のひとり。本名は渡辺匡。
個人的にも好きな作曲家のひとりで、シロウトがみてもとても器用だなと思う。
「あなたにあげる」(西川峰子)、「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「まわり道」(琴風豪規)、「愛の化石」(浅丘ルリ子)、「思秋期」(岩崎宏美)、「乙女のワルツ」(伊藤咲子)、「もしも、明日が…」(わらべ)、「禁じられた恋」(森山良子)、「若き獅子たち」(西城秀樹)、「愛人」(テレサ・テン)、「想い出迷子」(チョー・ヨンピル)
代表曲のいくつかをあげてみると、演歌ありポップスあり、ムード歌謡風あり、フォークソング風ありとまさに多種多様。「津軽海峡」と「乙女のワルツ」が同じ作曲家の作品だとは思えない。
あまりプライバシーを表に出さない作曲家だが近年咽頭ガンの手術をして後遺症とたたかっているとか、近く引退するというニュースも聞いた。
昭和20年生まれというからまだ60代半ば。中学中退?で弱冠22歳で作曲家デビューするまでには波瀾万丈の青春があったとか。そんな彼の軌跡にも心魅かれるが、そんな中でどんな音楽に触れて来たのかということにも興味がある。
もうひとりいました。昭和30年代後半の青春歌謡あたりで「この街を出ていこう」や「ちぎれ雲」をうたった高木たかし。本名は……知らん。
そのあとエレキブームに乗って「東京・ア・ゴーゴー」をスパイダースとともにうたっていましたがやがて霧の彼方へ。
テレビで見た記憶を頼ると細身で、ほとんど笑わないようなクールな感じ。音源は幾つか残っているけど、映像はないだろうなぁ、紅白も出てないし。まぁ、そういう歌手もいたということで。
再び「遠い世界に」の話。
当時はフォークコンサートのシングアウトにつかわれたり、のちに教科書に載ったりと合唱向きの歌。で、その頃わたしも友だちの所へいってはよく歌っていたもの。ところが、教科書に載るような歌なのでどこか気恥ずかしい歌でもあった。
そこで、2番の
♪……力をあわせて 生きることさえ いまではみんな 忘れてしまった
だけど僕たち 若者がいる
という部分を、♪だけど僕たち 馬鹿者がいる ってうたってたのはわれわれだけじゃないよね?
その名は●たかし① [the name]
♪生きてゆく事って 泣けてくるよね
ともしびの家路に 迷う女には
夢を削られても 明日を夢見る
恋に捨てられても 憎んじゃだめさ
空を見上げて 涙溜めて歩こう
願いが叶う 星がみつかるように
俺は希望商人 希望商人 幸せのひとかけらを
喜劇の街へ 悲劇の街へ 売り歩くのさ
(「希望商人」詞:大津あきら、曲・歌:佐藤隆、昭和55年)
またしても訃報。こればっかりは……
先日フォーリーブスのター坊こと青山孝史さんが亡くなったそうだ。
つい最近テレビでガンを患っているというニュースを聞いたばかりだった。
フォーリーブスはジャニーズ事務所2組目のグループ。昭和40年代から50年代にかけてのアイドルだった。
6、7年前に再結成し、全国各地でコンサートをしていると、知り合いの女性が以前教えてくれた。彼女は20歳そこそこなのにファンクラブに入っているほどのフリークでご贔屓がター坊。コンサートでもいちばん声援が多かったとか。きっと悲嘆にくれていることだろう。
日本語として「?」で、ギャグとしてつかわれることもあった「ブルドッグ」もいまとなっては懐かしい歌。
4つ葉のクローバーが3葉になって、この先どうしていくのか。解散という報道もあるが。
そのつい数日前にはザ・テンプターズのドラムス、大口広司さんの訃報もあった。これからこんなことばかり書いていくのだろう。
訃報に触発されたわけではなく、という言い訳をしつつ今回は「たかし」を。
「たかし」もいろいろな漢字表記があるが、戦前戦後を通して人気だったのが「隆」。とりわけ昭和30年代は人気で31、32年にはナンバーワンになっている。
その「隆」は意外と少なくまず思い浮かぶのが上に詞をのせた佐藤隆。
シンガーソング・ライターで昭和50年代、アダルトポップスというか、どこかエキゾチック(なんていまどき言います?)な曲風が異彩を放っていた。
最大のヒット曲は高橋真梨子に提供した「桃色吐息」。化粧品メーカーのイメージソングとして59年にヒット。
他にも堺正章(「二十三夜」)やジュディ・オング(「ひとひらの雪」)、谷村新司(「12番街のキャロル」)など何人ものシンガーに楽曲を提供している。
自身のヴォーカルでは「マイ・クラシック」がいちばんのヒット曲。
ほかに上にのせた「希望商人」、デビュー曲の「北京で朝食を」、「カルメン」、「君にダブル・パーキング」などいい歌がたくさんある。
私の知り合いでとうに還暦峠を杉林の無名詩人も佐藤隆の大ファン。
ヨーロピアンとオリエンタルが融合したような不思議な曲風だが、当時はヨーロッパへ行ったことがなくイマジネーションで作曲していたというからスゴイ。
異色だがお笑いタレントの藤井隆が。
平成12年に「ナンダカンダ」でCDデビュー。翌年には筒美京平ワールド全開の「絶望グッドバイ」も。また一昨年には松田聖子とのデュオで話題となった「真夏の世の夢」が。
その「絶望グッドバイ」を作詞したのがはっぴいえんどのドラマー松本隆。というより作詞家としての方が有名。
昭和40年代後半から現在まで息の長い作詞家でアイドルを中心に、ニューミュージック、ロックからJ-POPまで幅広いジャンルで詞を書いている。
「隆」の次に多いのが「孝」。
こちらは昭和30年代に活躍したシンガーに多い。
まずいまも現役なのが鹿内孝。
オールドファンには「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」でおなじみ。当時は「たかし」あるいは「タカシ」だった。
昭和36年に「殺さないでくれ」でデビュー。その後はカヴァーポップスブームにのって「霧の中のジョニー」、「ラ・ノビア」、「愛さずにはいられない」、「片目のジャック」などをリリース。
オリジナルでは阿久悠の「本牧メルヘン」が小ヒット。最近はJEROがカヴァーしている。
ニューヨークに留学したり、ジャズやクラシックに取り組むなどの勉強家で、ヴォーカリストとしてだけではなく、テレビ、映画あるいはミュージカルの俳優として幅広く活動している。
ほぼ同じ時期に「ツイスト」男としてブレイクしたのが藤木孝。
「ペパーミント・ツイスト」のカヴァー「ツイスト№1」ほか、「ホワット・アイ・セイ」、「アダムとイブ」、「ツイスト・フラ・ベイビー」、イタリアンポップスの「24000のキッス」などをヒットさせたが、所属プロダクション(鹿内孝と同じ)とトラブル、引退を余儀なくされた。……誰かYOU-TUBEに……。
その後すぐに他のプロダクションからカムバックしたが、再ブレイクはしなかった。とはいえ、その後俳優に転業、テレビ、映画、舞台とこちらも広域で活躍している。NHK大河ドラマの「篤姫」にも出ていたとか。
ただ残念(?)なことに彼の場合「孝」は芸名。本名は遠藤與士彦。なんだ全然……、いや「藤」はあってるか。
昭和をもう少しだけ遡ると中島孝がいる。
中島は戦後、森繁久弥や由利徹が在籍した劇団・新宿ムーランルージュの役者で当時は中島義孝(こちらが本名かも)と名乗った。
その後レコード歌手になり昭和29年に「若者よ、恋をしろ」をヒットさせている。
33年には安田祥子とのデュエットで映画「破れ太鼓」(木下恵介監督)の主題歌をうたっている。いまはどうしているのやら。10代の安田祥子の声と木下(忠司)メロディーを。
反対に先へすすんで昭和44年「白いブランコ」をヒットさせた兄弟デュオ、ビリー・バンバンの兄が菅原孝。
ビリー・バンバンは弟の進が結成したキャンパスフォークのグループで、せんだみつおも在籍したという。デビュー前は浜口庫之助に師事していた。
ほかに「れんげ草」あるいは石坂浩二が作詞したTVドラマの主題歌「さよならをするために」のヒット曲がある。
兄の孝は多才で、現在も役者、ナレーター、司会とマルチに活躍中とか。
「たかし」はそれ以外にも「貴」、「高」、「喬」、「崇」、「卓」、「敬」やそれらに「士」や「史」などをつけた2文字名がある。
そういえば、ついこないだまでテレビに出まくっていた国際弁護士の湯浅さんも卓(たかし)だった。
つまらないギャグがおもしろかったけど、本業が多忙になったのか最近見かけない。どこへ行ってしまったのかな。
その名は●ヨーコ [the name]
♪一寸前なら憶えちゃいるが 一年前だとチト判らねェなあ
髪の長い女だってねェ ここにゃ沢山いるからねェ
ワルイなぁ 他をあたってくれよ
アンタ あの娘の何なのさ
港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ
(「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」詞:阿木燿子、曲:宇崎竜童、歌:ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、昭和50年)
リーゼントにグラサン、つなぎにズックというツッパリスタイルで、宇崎竜童ひきいるダウン・タウン・ブギウギ・バンドのツッパリたちが「スモーキン・ブギ」をひっさげブラウン管(もうすぐなくなる)に登場したのは昭和49年もかなり押し迫った頃。
残念なことにその2年前にキャロルがデビューしていた。
だからダウウ・タウンの印象は黒の革ジャンを白のつなぎに変えただけのロケンロールエピゴーネン。さらにリーダーの宇崎竜童はインテリだと判明。ツッパリはポーズだったと。
それでもキャロルよりダウン・タウンのほうが“長命”だったのは、リーダーの統率力がすぐれていたのと、音楽性がまさっていたから、というよりダウン・タウンのほうがポピュラリティという面で上だったから。
とりわけ宇崎竜童の音楽に対する造詣の深さや作曲センスのよさは、のちの山口百恵(横須賀ストーリー他)をはじめ高田みずえ(硝子坂)、梓みちよ(熱帯夜)、由紀さおり(TOKYOワルツ)、内藤やす子(想い出ぼろぼろ)など何人ものシンガーに提供した楽曲を聴けばわかる。
そのブギウギ・バンドの名声を確かなものにしたのが上にある「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」。
あれだけヒットし話題になったのはノベリティソングの側面があった、ということはあるものの、阿木燿子の歌詞にストーリー性があったこと、それも一因。
この歌のヒロイン「ヨーコ」は当然多分万一、自分の名前から。もっとも彼女の本名は広子なのだが。
カタカナで書かれた「ヨーコ」とはどんな女なんだろう。歌詞から探っていくと。
「髪の長い」「マリのお客をとった」「ハマから流れてきた」「ジルバがうまい」「仔猫を拾った」「横須賀好き」「外人相手(のホステス)」「ウブなネンネ」
これだけのキーワードから考えられるのは、「一見陽気で自由奔放、身勝手で遊び好き。内面はナイーヴでさみしがり屋。細面でまつ毛バッチリ厚化粧。色白なおかつ栄養不良気味、下着なんかもあまり取り換えない」
まあ、後半は妄想ですが。
そんなヨーコはたとえばどんなイメージか。実在の「ようこ」さん達のなかに“港のヨーコ”はいるだろうか。
カタカナで思い浮かぶのがオノ・ヨーコ。
プラスティック・オノ・バンドに「ヨーコの心」がある。
たしかに髪は長い時期もあったけど、薄幸細面って感じじゃないし……。
古いところでは昭和20年代から30年代に洋楽系で活躍した美形シンガー・築地容子。
新宿ムーランルージュ出身(芸名は姫路りえ子)で「セレソ・ローサ」や「ジャニー・ギター」などの音源は残っているし、いまだシャンソンをうたい続けているそうだ。でもこんな美人ってかんじじゃないし。
もうひとり昭和25年に「ベサメ・ムーチョ」で話題になったラテン歌手・黒木曜子。カヴァーだけでなくオリジナルの「嘆きのブルー・ビギン」もあり、将来を期待されたが昭和34年に車に乗っていて電車と接触し娘さんとともに亡くなっている。曜子は芸名で本名はフサ子。顔を見たことがないので何ともいえない。
同じ曜子で前野曜子がいる。
ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカルで、カヴァー曲「別れの朝」は彼女がオリジナル。
その歌がヒットしているときにトラブルでヴォーカルを外され、渡米。その後帰国してソロ活動。松田優作主演の「蘇る金狼」の主題歌をうたって注目されるが、その後は音信不通に。昭和63年、昭和の最後と帳尻を合わせるように病死した。アルコール依存症だったという説も流布しているが詳細は不明。本名は耀子(ようこ)。
無軌道というか破滅的というか謎が多い部分が“港のヨーコ”っぽい(生まれは東京だそうだが)。顔立ちも笑顔が似合わなそうで違和感ないけど、ちょっと暗すぎる。
昭和40年代後半から50年代にかけても何人か。
昭和49年に「逃避行」をヒットさせた麻生よう子、53年に恩師・平尾昌晃とのデュオで「カナダからの手紙」をヒットさせた畑中葉子がいる。
麻生は歌の感じから不幸のにおいはするけど、性格とか行動が“港のヨーコ”ほどクールではなく情がありそう。また畑中はのちに日活ロマンポルノに出演したように奔放なイメージはするけど(「うしろから前から」なんてスゲエ歌もあった)、全体の雰囲気が“ヨーコ”ほどシャープじゃない(勝手なこと言ってます)。
アイドルではスタ誕出身の柴葉子(「白い羽根」)と「ゴーイング・バック・トゥ・チャイナ」の小ヒットがある鹿取容子(現在は洋子)が。
どちらも決して細面じゃないし、健康的だし……。
演歌では長山洋子同様アイドルポップスから転向した真咲よう子。アイドル時代は紅谷洋子で、こちらが本名。毎年のように新曲をリリースしている演歌の中堅で平成11年の「女の港町」は♪ふたりで暮らしたあの部屋は 汽笛が聞こえる坂の町 と昭和歌謡のにおいが漂うような歌。
もうひとり、「涙の太陽」(エミー・ジャクソン)や「あなたが欲しい」(ハプニングス・フォー)など昭和の歌謡ポップスをカヴァーしたり、クレージー・ケン・バンドとの共演で知られる渚ようこも。
厚化粧で、スマートな感じに1970年代の雰囲気は“ヨーコ”っぽいけど、パワフルなところが真反対のような……。渚ゆう子と紛らわしい。
というわけでひと通り探してみましたが、似た娘はいても本人は……。
やっぱり歌にあるように、どんなに探してもみつからないようになっているのでしょうね。ホンモノのヨーコが探されてること聞いたら「アンタ、私の何なのさ!?」なんて言われちゃうかもね。
その名は●洋子 [the name]
♪希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また汽車に乗る
あなたは昔の わたしの思い出 ふるさとの夢 はじめての恋
けれどわたしが 大人になった日に 黙ってどこかへ 立ち去ったあなた
いつかあなたに また逢うまでは わたしの旅は 終わりのない旅
(「希望」詞・藤田敏雄、曲:いずみたく、歌:岸洋子、昭和45年)
昭和40~50年代にかけて人気だった「陽子」だが、実は戦前から人気だったもうひとりの「ようこ」があった。
例の某生保会社の資料によると「洋子」が「人気ベスト10」に入ってきたのが昭和6年。戦争真っ只中の17年にはそれまで15年間ナンバーワンを維持してきた「和子」を抜いて第1位に。以後戦後の25年まで、「和子」「幸子」とともに人気の三大ネームとして支持されることに。
昭和30年代も人気だった洋子(女優に桂木洋子、南田洋子がいた)は、昭和41年でも第5位。その年新たに「陽子」が8位に入って“Wようこ”に。そして46年には「陽子」がナンバーワンになり、「洋子」はベスト10から姿を消すことに。新旧交代?
「洋子」の「洋」はもともと「川」の意味だが、それが転じて「海」とりわけ「大海原」としてつかわれた。またそこから広々とした意味ももつように。もうひとつはやはり海から海外、つまり外国を意味することも。「西洋」、「洋行」などのように。人気になりたての昭和ヒトケタ時代はとてもモダンな名前だったのかもしれない。
ちなみに男でも「洋」(ひろし)、「洋一」というようにつかわれる。しかし男の「洋」の字が人気ベスト10に入ったことはない。
昭和39年、「夜明けのうた」でレコード大賞歌唱賞をとり、紅白歌合戦初出場を果たした岸洋子は昭和10年生まれ。まさに「洋子」の人気が高まってきた時期に誕生している。東京オリンピックの年突然ブレイクした感のある岸洋子だが、それまでに大阪や東京でリサイタルを開くほどでキャリアは十分。
山形県酒田市生まれの彼女は、芸大声楽科を卒業しクラシックの道を目指したが病気で断念。その後ピアフに魅せられて昭和34年ころから銀巴里などでシャンソンを歌いはじめ、35年にはイヴェット・ジローのうたった「たわむれないで」でレコードデビュー。
40年にはエンリコ・マシアスの「恋心」がヒット。続けてやはりマシアスの「想い出のソレンツァーラ」や「わかっているの」もヒットさせ、シャンソン歌手としての知名度を不動のものにした。たくさんのシャンソンやカンツォーネをうたっているが、唯一彼女が自分で訳詞したのがピアフがうたって有名になった「群衆」。金子由香利も“岸洋子ヴァージョン”をうたっている。
「夜明けのうた」は岩谷時子・いずみたく作のジャパニーズポップスだが、そうしたオリジナルもいくつかうたっている。そのなかで大ヒットしたのが昭和45年にリリースした「希望」。この歌で2度目のレコード大賞歌唱賞を獲っている。作曲はやはりいずみたくだが、作詞は藤田敏雄。
藤田敏雄は、いずみたくとともに取り組んでいたミュージカルの演出家で作詞では雪村いづみの「約束」やブロード・サイド・フォーの「若者たち」などがある。岸洋子のリサイタルの構成・演出はもちろんだが、そのほか佐良直美、今陽子、由紀さおりといった“いずみファミリー”はもちろん都はるみのリサイタルなどにも携わった。またテレビ番組の「題名のない音楽会」はスタートから長年にわたって構成を担当していた。
「希望」はフォー・セインツやシャデラックスとの競作だったが、岸洋子盤がいちばん売れた。そういえば「夜明けのうた」ももともとはいずみたくのミュージカルの主演者・坂本九のために書かれたものだったが、こちらも岸洋子ヴァージョンでヒットした。
歌のうまいことはもちろん華やかで存在感のあるシンガーであり、ときには「ラストダンスは私と」を山形弁でうたうなどユニーク面ももっていた岸洋子だが、デビュー前から病気との闘いだったそうだ。晩年は病気と協調しながらの歌手活動だったが平成4年、膠原病のために残念ながら59歳で亡くなっている。
ではそのほかの洋子を。昭和40年代にヒットソングを出した歌手が3人いる。
まずは「白馬のルンナ」の内藤洋子。東宝の看板女優候補だったが、GSグループ、ランチャーズ(「真冬の帰り道」など)の喜多嶋修と結婚、あっさり芸能界を引退。女優の喜多嶋舞は長女。最近は芸能活動もしているらしい。唯一のヒット曲「白馬のルンナ」は作曲が演歌の大御所・船村徹、作詞は演出家の松山善三。
歌謡曲ではいまでもデュエットソングの定番となっている「新宿そだち」を大木英夫とうたった津山洋子。こちらは芸名で本名は高橋浩子。一時、クラブやスナックを経営していたが、いまは夫(高樹一郎)とともに歌手活動をしているとか。ときおりTVの“ナツメロ番組”にも顔を見せる。
昭和47年「四季の歌」をヒットさせたのが芹洋子。作ったのは当時のフォークグループで「目覚めたときには晴れていた」をうたった伝書鳩のメンバー荒木とよひさ。「つぐない」などテレサ・テンの一連の作品や「竹とんぼ」(堀内孝雄)や「心凍らせて」(高山巌)の作詞家。芹洋子はNHKみんなの歌や抒情歌をうたい続け、その後では「坊がつる讃歌」や「おもいでのアルバム」のヒットがある。
代表曲「捨てられて」のある演歌の長山洋子のデビューはアイドルポップス。昭和62年には洋楽カヴァーの「ヴィーナス」をヒットさせている。元々は民謡出身の演歌希望だったようで、平成5年に演歌歌手として再デビュー。それが成功し現在に至っている。
その長山洋子のデビューとほぼ同時期に「ダンシング・ヒーロー」をヒットさせたのが荻野目洋子。ユーロビートブームに乗ってその後も「六本木純情派」などのディスコ・ナンバーをヒットさせた。うたって踊った“荻野目ちゃん”もいまや夫に娘(3人?)という家庭をもつアラフォーだとか。
「洋子」にしろ「陽子」にしろ「ようこ」という響きはどことなく親しみがあり、また奥行きが感じられる名前だ。しかし、表記はこの2つだけではない。「燿子」、「容子」、「葉子」、「遥子」、「曜子」、「ようこ」、「ヨーコ」などまだまだある。次回はそんな「ようこ」の総集編(大袈裟、大風呂敷)を。
その名は●陽子 [the name]
♪忘れられないの あの人のことが 青いシャツ着てさ 海を見てたわ
私ははだしで 小さな貝の舟 浮かべて泣いたの わけもないのに
恋は 私の恋は 空を染めて 燃えたよ
死ぬまで私を ひとりにしないと あの人が言った 恋の季節よ
(「恋の季節」詞:岩谷時子、曲:いずみたく、歌:ピンキーとキラーズ、昭和43年)
今日の午後行われた大阪国際女子マラソンで三井住友海上の渋井陽子がみごと優勝。タイムは2時間23分台でまずまず。それよりも今年の世界選手権出場権を得たいがため、前回惨敗した東京国際女子からわずか2か月のインターバルで出場し、見事権利を獲得してしまったのがスゴイ。
渋井自身も感激して涙をみせていた。オニのいや渋井の目にも涙。 中学時代に渋井と顔も感じもソックリな女の子がいたので、彼女には親近感をおぼえて以前から応援しているんだよね。
そんなわけではないけれど、今日のTHE NAMEは「陽子」を。
陽子といえば昭和43年「恋の季節」でデビューしたピンキーとキラーズのメインヴォーカル、ピンキーが今陽子。この1曲でいわゆる“ピンキラ”は大ブレークしたのだった。
その「陽子」という名前だが、毎度おなじみの某生保会社調べ人気名前ベスト10に入ってきたのが昭和41年。ということは今陽子によって「陽子ブーム」が起きたのではないことがわかる。あたりまえか。
でもたとえば国民的ヒーローやヒロインの名前が子供の命名に影響するということは大いに考えられるが、そういう“キッカケ”が見当たらないにもかかわらず、ある特定の名前の子供が増えてくる(つまりそういう名前をつける親が増える)ということはどういうことなのか。同時代に生きる人間たちは似たようなアイデアを抱くのだろうか。それとも、似たアイデアを抱かせるような“目に見えない”時代の要因があったのだろうか。そうしたアイデアが新聞・雑誌等の情報によってさらに増幅され、「あなたも陽子、わたしも陽子」になってしまうということも考えられなくはない。
とにかく「陽子」は昭和40年代中盤から後半をピークに50年代末まで人気の名前としてかのベスト10にランクインすることとなる。ということは、国民的アイドルに近い存在となったピンキーこと今陽子も、その人気を助長維持するという意味で少なからず影響があったのではと推測される。
ピンキーとキラーズのデビューはかなりセンセーショナルだった。まずは女性のメインヴォーカルにGSスタイルの男4人のバックバンド&コーラスという構成。“ピンキラ”のデビューはGSブームの後期。GSのヴァリエーションだとも考えられる。
ところで、いまにすればGSなどカワイイものだが、当時はその長髪と騒音エレキということで風当たりは強く、NHKでは“出入り禁止”、コンサート会場でもNGのところがあり、一般の大人では蛇蝎のごとく嫌う人間も少なくなかった。
実はピンキーとキラーズの生みの親であるいずみたくも、GSを歓迎しなかったフシがある。つまり“ピンキラ”はGSブームへの“刺客”だったともとれる。
“ピンキラ”はまったくいずみたくのアイデアで生まれたものなのだ。今陽子とキラーズの面々でバンドをつくることになり、それからグループ名が考えられたというのではなく、はじめに「ピンキーとキラーズ」というバンド名があり、それにふさわしいメンバーが集められたということなのだ。 ヴォーカルのピンキーという名前やパンタロン姿、そして全員のダービーハット、キラーズの髭、すべていずみたくのあらかじめのプランだったのだ。
“デカベビー”といわれたほど大柄な16歳の少女はソロ歌手志望で「グループでデビューするのはイヤ」と泣いて抗議したとか。わからないものだ。
有卦に入った“ピンキラ”はその後「涙の季節」、「星空のロマンス」、「七色のしあわせ」とヒットをとばすが、オリコン17週1位というウルトラヒット「恋の季節」ほどではなかった。そしてGS退潮のあとを追うように勢いがなくなり、デビュー4年目でクループは解散、今陽子は念願のソロとして活動していくことになる。ソロとしてヒット曲には恵まれていないが、恩師の遺志を継ぐかのようにミュージカルに新境地を見出している。
ほかではアニソンシンガー新世代の草分け前川陽子。
代表曲は何といっても「ひょっこりひょうたん島」。その後、GS時代のガールポップシンガーとしてイメチェンを図ったがうまくいかなかったようだ。ほかに「リボンの騎士」、「キューティハニー」など。
「ひょっこりひょうたん島」は軽快なサウンドで子供たちに大ウケだったが作曲はテレビ・ラジオの音楽を担当していた宇野誠一郎。「ひょっこり~」の前のNHK人形劇「ちろりん村とくるみの木」あるいは連続ラジオドラマ「一丁目一番地」などの音楽を担当、主題歌を作曲している。
ところでこのノリのいい「ひょっこりひょうたん島」だが、はじめ聴いたときどこかで聞き覚えのあるような……、という思いがあった。これに似ていないでしょうか。もちろんコード進行が似ているだけなのですが、ひょうたん島の歌詞でもけっこううたえたり……。
また昭和末期のアイドルに石野陽子(いしのようこ)と南野陽子がいる。
石野は昭和60年「テディボーイ・ブルース」でデビュー。ビッグヒットはなかったが、バラエティなどによく出ていた。現在は女優としてテレビドラマなどに出演している。石野真子は姉。
もともと女優デビューだったのが「ナンノ」こと南野陽子。「スケバン刑事」や「はいからさんが通る」で人気を得た。歌手デビューはやはり60年で、「話かけたかった」、「吐息でソネット」をはじめヒット曲も多い。今も現役でテレビドラマやバラエティに出演。
平成デビューでは久我陽子。女優が先で平成2年に「好きだから」で歌手デビュー。大手モデル事務所の令嬢で、結婚ご一時芸能界を離れていたが最近、女優、歌ともに活動を再開したとか。
女優でも山本陽子、野際陽子、夏樹陽子がいて、野際はTVドラマ「キイ・ハンター」の主題歌「非情のライセンス」をリリースしているし、夏樹はVシネマの主題歌「ごめんねYuji」を深谷次郎とデュエットしている。
当時「恋の季節」では、♪夜明けのコーヒー 二人でのもうと あの人が言った 恋の季節よ
という歌詞の「夜明けのコーヒー」が洒落た口説き文句として話題となった。好きな相手なら少しはにかんで頷けばOK。好みでない男なら「わたし、コーヒー嗜まないの」で一件落着。どちらにしても粋なやりとり。
あれから40年以上が経ち、今でも通用するかな。無理だろうなぁ。そんなこと言おうものなら、好かれていればいいけれど、もしそうじゃなかったらたちまちセクハラ騒動。粋もかえりもあったもんじゃない。現代の男女間では口は災いのもとだものね。
その名は●コニー [the name]
I got home last night at 10 past 2
My folks turned blue their tempers flew
I got to be in bed at quarter to 10
There go those rules again
Too many rules, too many rules
Folks are just fools making too many rules
I pray the stars above I haven't lost your love
Cozes there are too many rules
…………
([TOO MANY RULES]wards & music by STIRLING/TEMKIN, vocal by CONNIE FRANCIS, 1962)
60歳前後の音楽好きに、「コニーといえば?」と訊けば9割以上はコニー・フランシスCONNIE FRANCIS と答えるのではないだろうか。
1950年代末から60年代前半にかけ、アメリカン・ポップスの女王として君臨したコニーだが、日本でも洋楽ファンのみならず、アーチストとりわけ女性シンガーに与えた影響も大きかった。
コニーはイタリア系のアメリカ人で1938年、ニュージャージー州ニューアーク生まれ。
ローティーンの頃からテレビでうたっていたというから“栴檀は双葉”よりのくち。
しかしメジャーになるまで数年を要したようで、初ヒットは11枚目のシングル「フーズ・ソーリー・ナウ」WHO'S SORRY NOW。これはスタンダードの名曲。17歳のとき。
それからはご存じのとおりヒット曲の連発。
初の全米1位は60年の「エヴリバディ・サムバディ・フール」EVERYBODY SOMEBODY FOOL 。これは本当にいい曲。
日本で最もヒットしたのは「可愛いベイビー」PRETTY LITTLE BABY 、そして「ヴァケーション」VACATION 。それ以外でもいい歌がたくさんあるので、当時好きだった(今でも)極私的ベスト6(中途半端)を順不同で。
「大人になりたい」TOO MANY RULES
「間抜けなキューピット」STUPID CUPID
「ボーイ・ハント」WHERE THE BOYS ARE
「カラーに口紅」LIPSTICK ON YOUR COLLAR
「想い出の冬休み」I'M GONNA BE WARM THIS WINTER
「夢のデイト」SOMEONE ELES'S BOY
66年に初来日したが、ピークは過ぎていたし、ポップスのトレンドも変わっていて再ブレイクとはいかなかった。またのちに不幸な出来事が続いたが、歌手活動はやめなかった。
彼女には当時の多くの白人ポップシンガー同様、カントリーの下地があり、ハンク・スノウHANK SNOWの「ムーヴィン・オン」I'M MOVIN' ON なんかイカしてる。ほかにもラテンからシャンソンからカンツォーネからと、なんでもござれの器用な歌姫。とはいえジャズはあの軽い声なので、どれを聴いてもポップな感じがしてしまう。もっともアップテンポでスウィンギーな「スワニー」SWANEE などはなかなか。いまも?歳で現役。その姿はYOU-TUBEで見ることができるが、「クラス会に行かない」タイプの方にはおすすめできない。
コニーConnie は当時アメリカでもそこそこ人気のある名前だったらしく、そのまま単独の名前というケースもあるが、コンスタンティアConstantia やコンスタンスConstance などの愛称であることが多い。
コニー・フランシスもコニーは愛称で本名はコンチェッタ・ローザ・マリア・フランコネロConcetta Rosa Maria Franconero 。
彼女とほぼ同年代に活躍し、やはり本名がコンチェッタなのがコニー・スティーブンスCONNIE STEVENS 。
歌手としても「シックスティーン・リーズンズ」SIXTEEN REASONS のヒット曲があるが、日本ではテレビドラマ「ハワイアン・アイ」や映画「パームスプリングの週末」など、女優としての知名度のほうが高いかも。とにかく、60年代、まだブロンドに免疫がなかった日本人にはとてもまぶしいアメリカン・ガールだった。
カントリーでは「ワンス・ア・デイ」ONCE A DAY のビッグヒットがあるコニー・スミスCONNIE SMITH。個人的なことだがこの歌はわたしをカントリーの世界へ招待してくれたフェヴァリットソングの一曲。こちらのコニーは60年代のカントリー・チャートを賑わせたシンガー。ほかに「ジャスト・ワン・タイム」JUST ONE TIME や「シンシナティ、オハイオ」CINCINATI, OHIO などのヒットもあるが、ハンク・ウィリアムスHANK WILLIAMS の「アイ・ソー・ザ・ライト」I SAW THE LIGHT あるいはセイクレッドソングの「偉大なるかな神」HOW GREAT THOU ART なども胸に沁みる。本名はコンスタンス・ジューン・メイドウConstance June Meador。
ポップス、カントリーとくれば次はジャズ(いい加減言ってます)。
コニー・ボスウェルCONNEE BOSWELL は1930年代から50年代にかけて活躍したジャズ・ヴォーカリスト。その前身は妹2人とトリオを組んで20年代から30年代に一世を風靡したボスウェル・シスターズBOSWELL SISTERS 。
36年に解散後、ソロで活動するとともに何本かの映画にも出演した。1976年69歳で亡くなっている。
コニーのスペルがCONNEE なので、コンスタンスやコンチェッタの愛称ではなく、本名なのかもしれない。
ジャズではもうひとり、コニー・ラッセルCONNIE RUSSELL がいる。
1959年に2枚のアルバムを出しただけで消えてしまったというB級(CDの解説に書いてあった)ヴォーカリスト。こういうシンガーは星の数ほどいたのかもしれない。
そのうちの1枚「ドント・スモーク・イン・ベッド」DON'T SMOKE IN BED を聴くかぎり艶のあるというのか、女っぽいというのか好きな声。アルバムタイトルも憂いがあっていいし、エリントン・ナンバーで多くのシンガーがうたっている「プレリュード・トゥ・ア・キス」PRELUDE TO A KISS も胸にくる。
マット・デニスMATT DENNIS の「エンジェル・アイズ」ANGEL EYES はコニー・フランシスもうたっているので聴き比べてみると、ハートブレイク・ソングにしては忙しないのがフランシス盤。その演奏に目をつぶってもラッセル盤のほうが断然色っぽい。
コニー・ラッセルはジャケットを見るかぎり、アン・マーグレットANN MARGRET 似の美形。だからホメているわけではないのですよ。
おまけといったら失礼かもしれないが、最後は日本のコニーCONY 。
1981年、某化粧品メーカーのイメージソング「キッスは目にして」をうたったザ・ヴィーナスのヴォーカルがコニー。ポニー・テイルに落下傘スカートと50年代を意識したファッションも受けてヒット。曲は60年代カテリーナ・バレンテCATERINA VALENTEがうたいザ・ピーナッツがカヴァーした「情熱の花」TOUT L'AMOUR(PASSION FLOWER)のリメイク。歌詞は“企業用”に阿木燿子によって作りかえられている。
その「情熱の花」の元歌はベートーヴェンBEETHOVENの「エリーゼのために」。ロックンロールにされて。まさにベートーヴェンはぶっ飛んだ。
おそらくコニーはコニー・フランシスの名前を拝借したものだろう。そのスペルをなぜCONYにしたのかは不明。
ところで、某ウィキペディアを見ていたら、コニー・フランシスの髪型がポニー・テイルというようなことが書かれていた部分があったが、どうもそういうイメージがない。でも逆に見てみたいな、そのコニー・テイルというヤツを。
その名は●ジロー [the name]
♪ごめんねジロー ごめんねジロー
いままで気づかず 愛してたの
ごめんねジロー ごめんねジロー
やっぱりあなたを 愛してたの
夢にみてた 憧れてた
その人こそ あなたなの
ごめんねジロー ごめんねジロー
許してちょうだい わたしのジロー
(「ごめんネ…ジロー」詞:多木比佐夫、曲:津野陽二、歌:奥村チヨ、昭和40年)
「じろう」もオーソドックスな名前。
「次郎」「二郎」「治郎」など。
「郎」は「男」あるいは「夫」の意味で、「良」の借用形。「良」にも同様の意味があるところから。同じ読みで「朗」があるが、これは「男」の意味ではなく「ほがらか」「あきらか」。「郎」と似ているところから「次朗」「二朗」とつけられるようになったのではないだろうか。
「野郎」「下郎」「新郎」などと使う。しかし「女郎」なんていうのもある。ストレートにとれば「オカマ」。ではなく反対で「男勝り」の女ということ。しかし一般的には遊女つまり売春婦の意味。「じょろう」あるいは「じょろ」で、高貴な人の意味の「上臈」からきているという説もある。たしかにある意味高貴な人かもしれない。
反対の「郎女」という言葉もある。今度こそ「オカマ」かというとそうではない。女性を親しみをこめて呼ぶ言葉だとか。「いらつめ」とも読む。
とにかく「郎」は「男」のことで、「雄」「夫」と同じ意味。「牡」も同じ意味で「お」と読むが、こちらは家畜をイメージするためかほとんど使われない。
例の生保会社調べの名前ランキングでみると、昨今というか昭和も10年以降になると、「郎」はベスト10にも入っていない。それでも大正時代はナンバーワンになったこともある「三郎」と「一郎」が人気だった。しかしなぜか「二郎」も「次郎」もない。
常識的に考えると「一郎」があって「三郎」があるのなら「二郎」がないのはおかしい、ということになる。たしかに「一」と「三」は縁起のいい数だからことさら多いとも思えるが、「じろう」が「二郎」と「次郎」に分かれてしまったからではないか、という推測もできる。
で、「じろう」だが、小説家では新田次郎、赤川次郎、浅田次郎、大佛次郎というように「次郎」が目立つのだが、歌手ではほとんどきかない。とくにヒット曲のあるシンガーにはいない。不思議なことにすべて「二郎」なのだ。
まずは演歌。古い順からいくと、
「東京の灯よいつまでも」の新川二郎(今は二朗かも)。
昭和39年、東京オリンピックの年のヒット曲。この歌が懐かしいというのは当時、集団就職や進学で地方から東京へ出てきた人。
続いて「旅の終わりに」の冠二郎。
昭和42年の歌手デビューだが、ひのめをみたのは昭和52年の「旅の終わりに」。これは五木寛之の作詞(立原岬のペンネーム)で、自身の原作のテレビドラマ化「海峡物語」の主題歌。
そしてその翌年には「夢追い酒」の渥美二郎。
東京は北千住出身でどこか下町で“流し”をやっていたところをスカウトされたと。「夢追い酒」は300万枚に迫る大ヒット。ポップスでは「サウスポー」(ピンク・レディー)、「プレイバックpart2」(山口百恵)、「飛んでイスタンブール」(庄野真代)、「勝手にシンドバッド」(サザン・オールスターズ)などがその年に流行った。その後大病から生還したことも話題となった。
ポップスというかフォーク系では杉田二郎がいる。
彼の代表曲といえば北山修・加藤和彦コンビの「戦争を知らない子供たち」。これは彼がジローズ時代からうたっていた曲。ちなみにジローズは杉田と森下次郎の男同士のデュオ。「じろう」が二人でジローズ、なのだが実は森下の本名は悦伸(よしのぶ)で、コンビを組みにあたって無理矢理「次郎」にさせられたとか。
杉田は一時低音を買われてフランク永井の曲をカヴァーしていたが、どうやら歌謡曲・演歌の水が合わなかったようで、現在ではフォーク一本やりでうたっている。
そのほかシンガーではないが、レコードを発売した「じろう」には元コント55号で現在役者のの坂上二郎、昭和30年代大映の看板スターだった田宮二郎がいる。
坂上は「学校の先生」というクリーンヒットがあり、田宮も「青い犬のブルース」など自身の主演した映画主題歌をはじめ何曲かを吹き込んでいる。
「じろう」の歌もいくつかある。
「ごめんねジロー」 奥村チヨ
奥村チヨはCMシンガーから昭和40年、シルヴィー・バルタンSYLVIE VARTAN のカヴァー「私を愛して」CAR TU T'EN VASでレコード・デビュー。「ごめんねジロー」はその年のヒット。自分がジローを愛していることに気づかなかったという類い希なる鈍感な女の歌。エッ? そういう女心がわからない鈍感な野郎はお前だろうって? ごもっとも。アメリカンポップスのテーストが感じられる名曲。
昭和42年にはベンチャーズの「北国の青い空」、43年には井上忠夫の「青い月夜」のヒット。そして44年の「恋の奴隷」、46年の「終着駅」の大ヒットにつながっていく。
それからほぼ20年後の昭和59年のヒットが、
「今さらジロー」小柳ルミ子
こちらは以前捨てられた男がよりを戻そうと言ってきたときの話。タイトルどおり、女は「昔は昔、今は今」と突き放している。こういう気持ちならわかるよね、経験があったりして。もちろん“被害者”で。作詞作曲は近年「吾亦紅」で注目された杉本真人。
カタカナ・ジローはまだある。
「アーメン・ジロー」浅川マキ
船乗りで信仰深いジロー。港の女と結婚して19才で父親に。しかしその半年後船が難破してアーメン。因果も何もなく、ただ不運で救いのない話。それだけにリアリティがあったり。詞はマキ自身、演歌テイストの曲は「かもめ」や「ふしあわせという名の猫」の山本幸三郎。昭和42年の作品。
歌詞に出てくるものでは以前とりあげた平山みきの「ビューティフル・ヨコハマ」。
♪話し上手なジローにジョージ
漢字の「次郎」は2曲。
まずは、「今日子と次郎」大信田礼子。
このペアは知る人ぞ知る劇画「同棲時代」(上村一夫)の主人公。
♪愛のくらしのかなしみが しみて女になりました
由美かおると仲雅美が主演した映画「同棲時代」でも次郎と浮気をするスナックのママ役で出ていた大信田礼子。その主題歌でヒット曲となった「同棲時代」のほか、この「今日子と次郎」と「朝顔日記」の3曲をうたっている。作詞はいずれも上村一夫。
もう1曲は昭和39年からNHKテレビで放映されたドラマ「次郎物語」(原作・下村湖人)の主題歌。
♪ひとりぼっちの次郎はのぼる ゆらゆらゆらゆら かげろうの丘
残念ながら音源はなく、頭の中に録音されている歌。なんかいつも次郎(池田秀一)がいじめられているような暗い話。父親役が久米明(いまでも現役の名ナレーター)で、子供ごころに「親父さんよぉ、なんとかしてやれよ」と思いながら見ていた記憶がある。現大橋巨泉夫人の浅野順子も出演していた。作曲は「惜春鳥」や「水戸黄門」の木下忠司。
主演の池田秀一は「機動戦士ガンダム」のシャアの声優。
以上、忘れられたり、ひじ鉄食ったり、死んじまったり、いじめられたりとなんだか次郎って奴は不幸な巡り合わせばかりのような気がしてくる。大昔、草加次郎なんていう正体不明の爆破魔もいたしって悪い例ばかりあげるのはよくないな。いまさらですが全国のジローさんゴメンね。なんだ前回と同じオチかよ。
その名は●かおるちゃん [the name]
♪かおるちゃん 遅くなってごめんね
かおるちゃん 遅くなってごめんね
花をさがして いたんだよ
君が好きだった クロッカスの花を
僕はさがして いたんだよ
かおるちゃん 遅くなってごめんね
かおるちゃん 遅くなってごめんね
君の好きな花は 花は 花は 遅かった
(「花はおそかった」詞:星野哲郎、曲:米山正夫、歌:美樹克彦、昭和42年)
「かおる」という名も“男女兼用”。
男では築地小劇場をつくった演劇の小山内薫がいるし、明治時代の政治家、井上馨もいる。現代でも自民党代議士に与謝野馨が。プロ野球には往年のホームランキング別当薫がいたし、今の役者では小林薫も。
女ではタレントの兼高かおる、女優の八千草薫、作家の栗本薫などがいた。
みんな“古い人ばかりじゃん”というなかれ。それだけ、「かおる」「薫」という名が廃れてしまったのだ。
昭和初期に書かれた川端康成の「伊豆の踊子」のヒロインが「薫」だった。当時としてはかなりハイカラな名前ではなかっただろうか。
残念ながら「××子」絶対の時代では、いかにベストセラー小説のヒロインの名前だからといって世の親の支持するところとはならなかった。増えたことは確かだろうが。
わたしが小学生だった昭和30年代でも、「かおる」という名前は男女ともあまり聞かなかった。昭和40年代に入って出てきた「由美かおる」の「かおる」はその時代でもなおハイカラな名前という印象があった。
そして上にのせた「花はおそかった」がヒットしたのも昭和40年代に入ってまもなく。
いまから考えるととてもインパクトのある歌だった。
特定の女の子の名前が出てくる歌はなくはなかったが、この歌の場合「かおる」という名前からその女の子がかなり若い、もしかするとティネイジャーかもしれないと想像させる。さらに歌詞から、彼女が不治の病で死にかけていることも。流行歌にしてはスゴイ設定の歌だとあらためて気づく。
実はこの歌にははじめの部分と中間部分さらには最後の部分にセリフが入るのだ。はじめの部分をのせてみると、
こんな悲しい窓の中を 雲は知らないんだ
どんなに空が晴れたって、それが何になるんだ
大嫌いだ、白い雲なんて
そして最後は「バカヤロー」と絶叫する。
この歌が流行った頃、わたしは短い純情時代を終えてひねくれまくっていたので、聴くも言うも恥ずかしくて茶化すしかなかった。“羞恥峠”をはるか以前に越えてしまった今でもこの歌を聴くと胸の奥が痒くなったりして。カラオケなんてとんでもない。セリフなんて口が裂けたって言えない(そのくせ文字にはしている)。
まぁ、それはそれとして。
この歌をうたった美樹克彦のスタートは映画の子役。今年還暦で芸歴55年というから筋金入りの芸能人。はじめは本名の目方誠で活動していた。
レコードデビューは14歳。カヴァーポップス全盛の昭和37年フレディ・キャノンFREDDY CANNON の「トランジスター・シスター」TRANSISTOR SISTERで。その後「マッシュ・ポテト」や「うわさのあの娘」などを出すがブームは終焉に。
しかししぶとかった、その3年後、今度は美樹克彦のステージネームでその頃やはり流行っていたリズム歌謡「俺の涙は俺がふく」で再デビュー。これがヒット。作詞家星野哲郎との出会いでもあった。
その後「6番のロック」、「回転禁止の青春さ」と小ヒットをとばし、昭和42年に「花はおそかった」でホームランを。
しかし、リズム歌謡も短命でいつか第一線から消えることに。
美樹克彦が再び復活したのは作曲家として、小林幸子に書いた「もしかして」のあと今度は彼女と自身のデュエットソング「もしかしてパート2」をリリース。これがヒット。
以後、由紀さおりや八代亜紀に楽曲を提供しながら、シンガーソングライター、プロデューサーとして現役を続けている。
ではシンガーの「かおる」ちゃんを。
まずは先ほど出てきた由美かおる。
TV「水戸黄門」の疾風のお娟(えん)さんといえばわかる人はわかる(ってあたりまえ)。
昭和25年生まれというから再来年には還暦。西野バレエ団出身で本業は女優。
歌ではヒット曲はないが「いたずらっぽい目」は比較的ラジオ、テレビから流れていた。
ちょっと「初恋の人」小川知子(これも知らないか) に似た感じでもあるしGSっぽい部分も。
由美かおるとほぼ同年代の女性シンガーに響かおるがいる。
よくいわれる“一人GS”のひとり。誰がつけたか“一人GS”、垢抜けないネーミングだね、ま、いいか。
テレビのオーディション番組出身というので、歌唱力とパンチはそこそこ。「太陽がこわいの」が代表曲らしいが、♪夕焼け……という「夕陽が泣いている」スパイダース が聞こえてきそうな「涙がにくい」もいい。なかにし礼のチープな詞がいい「恋のアタック」も。
大先輩なら南かおる。昭和35年にデビューしたハワイアン・シンガー。平成2年に30周年記念アルバムを出したがその後の活動は不明。
30年代にはテレビにもしばしば出ていた。最近亡くなった日野てる子とはまた違った艶っぽく奥行きのある声。「マリヒニ・メレ」や「タイニー・バブルス」などハワイアンもいいが、「青い炎」あるいはバーブ佐竹とデュエットした「銀座の恋の十字路」と歌謡曲もうたっている。
また男性シンガーでは遅れてきたロカビリアン倉光薫。昭和20年生まれで37年にデル・シャノンのDEL SHANNON「さらば街角」SO LONG BABYでデビュー。その後もテディ・ランダッツォTEDDY RANDAZZOの「ワンモア・チャンス」ONE MORE CHANCEやジャック・スコットJACK SCOTTの「クライ・クライ・クライ」CRY CRY CRY(B面の「悲しきクラウン」の方が好きだった)などのアメリカンポップスをカヴァー。
40年代に入り、GSブームになるとクーガーズのキーボード兼リーダーとしてヴォーカルを担当。「テクテク天国」で再デビュー。なんといっても、奇をてらいすぎのスカート姿のユニフォームが印象に残っている。
そのほか昭和40年代には「真夜中のギター」のヒットがある千賀かほるがいて、50年代には「あなただけI LOVE YOU」の須藤薫や「鳥の歌」の杉田かおるがいる。また60年代になると「HOLD ON ME」の小比類巻かほるが。そして平成になると「ダイヤモンド」をヒットさせたプリンセス・プリンセスのヴォーカルが奥居香、またジャズシンガーでは仲宗根かほるがいる。
長くなりすぎ、最後は端折り気味というか駆け足になってしまいました。
かおるちゃん、早くなってゴメンネ。
HEY! GOOD LOOKING [story]
『染香姐さんが辞めたってねぇ』
「はあ、驚きましたね、正月そうそう……」
『おとつい「マリアンヌ」へ行ったらそんな話だもの、びっくりキントンよ』
「急でしたからねぇ……」
『マキちゃんにも挨拶なしかい?』
「わたしなんか、別に挨拶されるような立場じゃありませんから……」
『そんなもんかねぇ。このウバ桜小路で働いてりゃ、みな親戚同然てぇ思ってたけどねぇ』
斜向かいの店のホステスの染香さんが去年の暮れ突然辞めた。というか蒸発しちゃった。出入りの激しい商売、めずらしいことじゃないけど、義理堅いので有名だった染香さん。店の売り掛けやら前借りやら、借金を踏み倒していったって、この小路じゃいまいちばんの噂になってる。
この店にも暇になるとよく来てたし、ちょっとワケありの大年増って感じで人気もあったんだけど。なんでも元ダンサーで、そんな華やかな残像があったりしてね。そんな不義理をするような人間には見えなかったんだけどなぁ。
今目の前で、ジンライムをちびちびやってる若旦那こと野中熊男さん。表通りの扇子問屋「稲村」の三代目。47歳で独身、つい先日母親の三周忌を了えたばかり。
この若旦那も染香さんのことけっこう贔屓にしてたから、少なからずショックを受けてるみたい。
『で、やっぱしコレなんかい?』
「グーですか?」
『バカ言ってんじゃないよ。親指立てりゃ、グーってなあ去年限定の話。フツーこうすりゃ野郎のことだろうが』
「はぁ、スイマセン。そんな噂もありますねぇ。なんでも店のお客さんだったとか……」
『なるほどねぇ。染香も染香だけど、あんな賞味期限ギリギリのホステスをかっさらってドロンする客も客だよなぁ』
賞味期限ギリギリってそりゃ、若旦那チョット言い過ぎ。それに呼び捨てかよ。
『で、どんな唐変木なんだい、その人さらい野郎は』
「さぁ、はっきりとは……」
『んなこたぁねえだろう。マリアンヌの女の子に聞いたら、ここでよく密会してたってえじゃない』
「密会なんてものじゃないと思いますけど、そういえば何度か……」
『なんでぇ、隠すなよ。アタシとマキちゃんの仲じゃねえか』
「スイマセン、別に隠すわけじゃないんですけど……」
その染香さんの相手というのは、歳はまぁ見た目40代前半、染香さんと同じぐらいかな。去年の春頃飛び込みで「マリアンヌ」にやって来て、染香さんと意気投合。一時はほとんど毎日のように顔を出してたらしいよね。
なんでも大森の方で自動車の部品工場をやってるとか。二代目らしいけど、はじめの頃は景気も良かったんだよね。けど例のサブプライムローンから始まった“アメリカの風邪”が飛び火してさ、去年の秋頃から急に金回りが……。詳しいことは知らないけど、可哀想だよね。自分の失敗や散財で苦しくなったんじゃないんだから。
師走に入った頃はもうアカン状態だったみたい。染香さんにまで借金させてたものね。いや、それはちょっと違うな。彼女が自分から借りられる金すべてかき集めて男につぎ込んでいたんだと思う。でも、傾いた会社を個人の借金で支えられるはずがないわけで、そう考えるとやっぱり男の方がいけない。
で、とうとう年を越せずに会社は倒産。社長は染香さんともども消えちゃった。なんでも個人的にもかなり借金があったみたいだね。しかしやっぱ逃げちゃまずいよなぁ。
染香さんも魔が差したのかなぁ。それとも心底惚れたのかもね。こういっちゃなんだけどラストチャンスって思ったのかも知れない……。
『……なるほどねえ。まぁめずらしい話じゃないけど、染香も見損なったね、そんな素寒貧野郎にくっついて行くとはね……。40代かぁ、アラフォーってんだろ? でも女房、子供うっちゃってよくやるよなぁ。狂っちまったんだろうな、男も女もさ』
「いえ、その社長って人、バツイチで独身だったらしいですよ。前の奥さんとの間に子供もいなかったって。……染香さんて相手が家庭をもってる男だったらどんなに好みでも靡かない人ですよね。そういうところ堅かったですから」
『まぁな。堅いっちゃ堅いよな。アタシだって独身だけど、誘っても全然のってこなかったものねえ……』
あらあら、若旦那口説いてたんですか……。そうか、結局のところ若旦那その社長に妬いてんだな……。なるほどコワイ雷さんってわけだ。
『で、どんな男なんだいその色男はよ』
「あれ、若旦那、店で一緒になったことないんですか?」
『それが、思い当たらないんだよなぁ。だいたいこちとら酒と女の子とバカ話するのが目的だもの、同じ客それも男の面なんてハナから見ようって気がないもの』
「なんて言うんですかね。ちょっとカゲがあるっていうのか、昔風に言うとニガミ走ったって言うんですか? スーツも似合えばラフな格好もイケるっていう男前で……」
『へぇ、そんないい男かい。さしづめイケメンってヤツだな。こちとらカゲもなければヒゲもないただの40男だもんね……』
その代わりハゲがあったりして。フフフフフ……。
『なにが可笑しいんだよ、マキちゃん』
「いえ、ちょっとこっちのことで……」
『でもよ、昨今のイケメンブーム、ウンザリだよな。そう思わない?』
「まぁ、わたしらには縁のないブームですから……」
『な、こたぁねえよ。昨今のイケメンブームの妙なとこは、イケメンオアナッシングなんだよな。つまりイケメンじゃなければすべてブサイク。中間がねえってヤツ。グレーゾーンもなければ補欠もねえ。白か黒かの丁半ばくち、AかBかの二者択一ってわけ』
「なるほどねえ……」
『だからマキちゃん、自分にゃ縁がないなんて高をくくっちゃいられねえよ。いままでなら見ようによっちゃ二枚目かもとか、惜しいなぁ、もうちょっと鼻が高けりゃ役者になれたのにねぇ、なんて言われたかもしれないけど、当節じゃ完璧Bグループだもん、マキちゃん』
ひでぇ……。そこまでハッキリ言いますか。
『しかし、テレビなんかに出てる若い衆でイケメンって言われてる面々、よくよく見りゃあ両親そろいましたでオヤオヤって感じだもんね。スラッとしてて、髪型が今風で流行りの服着てるだけじゃねぇ。昔で言やあ、そこら辺を徘徊してるアンちゃんよ。まぁ、色男のレベルが下がったってことは、世の男にとっちゃいいことなのかもしれねけどさ。もっとも、その分Bグループにとっちゃ浮かぶ瀬もなくなっちゃたけどね。ハハハハハ……』
「ハハハハハ……」
こうなったらもう笑うしかない。……そこまで言いますか若旦那。
『わりい、わりい。つい笑っちまって』
ってとどめのひと言。こういうところがイヤ味なんだよなぁ……。
『しかしまじめな話、よくないよ。そりゃ、昔から色男とブ男はいたよ。どこの神さんが決めたのかはしらないけどさ。女だって同じよ。ミスユニバースになる女もいりゃ、整形美容院のビフォアにつかわれる女もいるさ。それが世界各国基準の違いはあれ、どこでも見てくれにも“格差”があるってのが人間のいやらしいとこよ』
「お代わりつくりましょうか……」
『いや、いいんだ、ここんとこちょっと減らしてるんで……。それでさ、でもさ、昔はさ、そういうことは人前じゃ大ぴらに言わなかったもんよ。とくにビフォアのほうはな。それが思いやりってもんじゃない。反対にそれを鼻にかけるようなヤツは、男でも女でも嫌われたもんよ』
たしかに煽りすぎだよな、マスコミ。イケメンだのブサイクだのって。お笑いやバラエティで半ば冗談で言ってるつもりなんだろうけど、中にはグサリと心えぐられてるヤツだっているよ、きっと。「男は顔かたちじゃない」って時代じゃないもの。男が化粧品を使い、整形する時代だもの。くだらねえとは思うけどさ。
去年繁華街で「誰でもよかった」って他人を刺しまくった馬鹿野郎、アイツの動機のひとつがそれだったよな。弁護する気はさらさらないけど、あんだけマスコミでイケメンをあおれば「鏡なんか見たくない」って野郎も出てくるさ。そんな野郎が仕事もうまくいかなくなったら絶望的……。
『まぁ、いちばんいけないのは女、女だよ』
「そうですかねぇ」
『そりゃそうよ。誰だって自分の彼氏はイケメンと思いたいわけよ。だから10点満点の5点でも四捨五入して10点、つまりイケメン組にいれちゃうわけよ。カワイイだのイケてるなんてのたまっちゃてね。そう言い続けているうち元々5点の彼氏が10点にしか見えなくなっちゃうから摩訶不思議。錯覚ってやつ。言われた野郎もついついその気になっちゃうから始末におえない』
「まぁ、いわれてみればたしかに……」
『だから、染香も血迷っちまったんだなぁ』
ええっ? 結局そっち……。
『そのうち一緒に逃げたその社長と、2Kかなんかのアパートで二人きりになって「あら、こんな人だったとは……」なんて気づくんだな。開けてビックリ玉手箱、よくよく見ればこはいかにってヤツ。で、やっぱり「あたしの居場所はマリアンヌしかない」なんて思ってさ。で、ママに詫びを入れて戻ってくるんじゃねえのかなぁ。そんな気がするよ』
……なんなんですか、そのあり得ない希望的観測。その底なしの未練……。
その名は●ローズ② [the name]
♪山の娘ロザリア いつもひとり歌うよ
青い牧場日暮れて 星のでるころ
帰れ帰れもう一度 忘れられぬあの日よ
涙ながし別れた 君の姿よ
(「山のロザリア」ロシア民謡、詞:丘灯至夫、歌:スリー・グレイセス)
日本にだってローズはいる。いや、いた。
えっ? ジプシー・ローズかって? そういう人もいたけど。
昭和27年「娘十九はまだ純情よ」でデビューしたコロムビア・ローズ。年代的にジプシー・ローズと変わらないか。
もちろん、芸名。その名からわかるとおりコロムビアレコードの専属。コロムビアレコードと雑誌平凡主宰の歌謡コンテスト第一回の優勝者。なんと“覆面歌手”としてデビュー。覆面といっても鞍馬天狗(知らないか)ばりのヤツではない。いわゆるアイマスク。仮面をつけて素顔を見せないという“売り出し戦略”が当時はあったのです。覆面は月光仮面やレスラーだけではなかったということ。でも、すぐに仮面をはずしましたけど。
そのあと「哀愁日記」「渡り鳥いつ帰る」、「どうせ拾った恋だもの」と連続ヒット。そして昭和32年に「東京のバスガール」のビッグヒット。
一躍トップシンガーに。それはもう超売れっ子。テレビをつければいつでも出ていたというほど。とはいってもわが家にテレビなんかまだなかった頃の話ですけど……。
それが昭和36年、突然の引退。「ふつうの女の子になりたい」とは言わなかったけど、惜しまれつつ。なんでも体調をくずしたとか。なら、休養してカムバックという手もあったのではと思うけど、わからないね、芸能界ってとこは。
ところがところがなんだな。その3年後コロムビア・ローズは詩人・高村光太郎とその妻をモデルにした「智恵子抄」をヒットさせる。と思いきや、それがなんと2代目のコロムビア・ローズ。つまりレコード会社としては、その名を惜しみ2代目を公募したというわけ。そりゃそうだよな、自分の会社を冠にしたシンガーなんだから。
その2代目も間もなく引退。そううまくはいかないと思っていたら雌伏30有余年、なんと3代目が襲名したとか。
3代目コロムビア・ローズは「蒼いバラの伝説」とか「夢のバスガール」をリリース。初代を意識して夢世もう一度を狙っている。いまどき“バスガイド”だろって思うけど。
初代を知っている人間には2代目、3代目がなかなか認められない。
大昔、それこそ拳闘の世界に青木勝利という伝説の天才ボクサーがいた。彼が引退したあと、所属していたジムではその名を惜しんで2代目青木勝利を有望ボクサーに襲名させた。けれど、やっぱりだめ。センスもパンチ力も先代とは雲泥。チャンピオンになれずにそのまま引退。結果、初代の名前を汚すことに。腹立ったよねあれには。ファンは誰も2代目を望んでなかったもの。
まぁ、そんなこともあったということで。
軌道修正。
「ローズ」は英語でドイツ、イタリア、ラテン圏では「ローザ」ROSA 。
その愛称には「ロゼッタ」ROSETTAや「ロジーヌ」ROSINE などがある。
また「ローズマリー」のように「ローザ」に「アン」を組み合わせた「ロザンヌ」ROSANNEや「ロザンナ」ROSANNAもある。
では日本の“薔薇女”まずは「ローザ」。いまでこそモデルやグラビア・アイドル全盛だが、昭和44年、昭和元禄の世に突如現れたマルチメディア・モデルが小川ローザ。そう、あの「モーレツ娘」。
石油元売のテレビCMでブレーク。白いミニスカが風に煽られお約束のパンチラ。そこでローザちゃん、「Oh! モーレツ」とのたまう。考えてみれば今じゃあり得ない絵柄。ということは昔のほうが自由だったのか。
まだ天地真理も山口百恵も存在しなかった時代。アイドル不在の時代。
小川ローザは「モーレツ」一発でアイドルに。で、お決まりのレコーディング。それが「風が落とした涙」。
私はファンというほどではなかったけれど、それでもどこからか手に入れたポスターを部屋に貼っていたっけ。しかしレコードは買わなかった。いくらなんでも……。
レコードデビューしてすぐカーレーサーと結婚。モデルとトップレーサー。絵に描いたような時代の先端を行くカップルだった。しかしその翌年レーサーは事故死。なんだか映画を観ているような不幸な展開だった。そして芸能界も引退。一時、イギリスへ行っているとかインテリアデザイナーになったとか雑誌に書いてあったが、それもずいぶん昔の話。
もうひとりの“薔薇女”は「ロザンナ」。
出門ヒデとデュオを組んでいたイタリア生まれのロザンナ・サンボン。
そのヒデとロザンナが「愛の奇跡」でデビューしたのが昭和43年、つまり小川ローザがブレイクする前の年。そんな(どんな?)気分の昭和40年代、西暦でいえば1960年代末。
その後「粋なうわさ」「愛は傷つきやすく」「愛情物語」などのヒットを続け、昭和50年に結婚。しかし、平成2年ヒデが病死。彼女もまた幸福な薔薇とはならなかった。
最後はロザリアROSALIA。これはラテン語あるいはイタリア語のローザから派生し名前。昭和30年代によくうたわれた「山のロザリア」がある。
♪山の娘ロザリア いつもひとり歌うよ
という歌い出しを覚えている中高年は多いのでは。
本歌は「アレキサンドロフスキー」ALEKSANDROVSKYというロシアの舞踏曲で、「山のロザリア」とは微妙に異なる。まぁ、「コロブチカ」なんかも日本製はだいぶ違うので仕方ないかも。
その舞踏曲に作詞したのが「高校三年生」をつくった丘灯至夫。
「ロザリア」は作詞家の造語。ラテン語と知ってつけたのか、はたまたロシアにもロザリアがいるのか。
いずれにしても昭和31年、「君の名は」や「黒百合の歌」の織井茂子が「牧場のロザリア」という題名でうたった。ところがまったく売れなかった。のちの「山のロザリア」同様ワルツ(本歌がそう)だが、テンポが速くバンジョー(バラライカのつもり)をとりいれなかなかいいと思うのだが。
しかし、なぜか5年後にブレイク。発信地は“歌声喫茶”。「山のロザリア」と“改題”されて、当初は作詞者不詳で流布していたが、織井茂子盤があったのですぐに丘灯至夫と判明。彼が所属するコロムビアレコードが独占発売することになったとか。それがスリー・グレイセス盤と井上ひろし盤。すでに世間に浸透していたおかげでヒット曲となった。
平成の世では昭和レトロを意識した八反安未果がうたっている。
織井茂子、井上ひろしは今は亡いが、スリー・グレイセスは現役で、ときおりテレビでアンドリュース・シスターズANDREWS SISTERSばりのジャズを聞かせてくれている。
ローズにしろローザにしろ、ロージーでもいいけど、やっぱり欧米の名前だがらいいんでしょうね。日本だったら「薔薇子」、とか「ばら代」とか「バラ乃」とかどうもなめらかでない。きっとアタマの「ば」という音がよくないんだろうな。でも「バラミ」はいいかも。「薔薇実」とか「薔薇美」とかね。バラミソーセージってあだ名されるかもしれないけど。
そういえば男だけど「嶽本野ばら」っていう作家がいました。小説は読んだことがないけど「野ばら」はいい名前だな。女のほうがいいかも。やっぱりアタマの「ば」はだめってこと。
えっ? 野ばらだったらすでに有名人でいるって? 誰?
「野原しんのすけ」
【それは「のはら」だろうが。】
という古典的ツッコミでTHE END。
その名は●ローズ① [the name]
Ramblin' rose, ramblin' rose
Why you ramble, no one knows
Wild and wind-blown, that's how you've grown
Who can cling to a ramblin' rose?
…………
Ramblin' rose, ramblin' rose
Why I want you, heaven knows
Though I love you with a love true
Who can cling to a ramblin' rose?
([RAMBLIN' ROSE]words and music by NOEL SHERMAN and JOE SHERMAN, vocal by NAT KING COLE, 1962 )
女性の名前ローズROSE はいうまでもないが花の「薔薇」の意味である。
ただ、その語源をたどっていくと何と「馬」HORSE(古語ではHROSE)になってしまうというのだから不思議。これは音的なことから混同したもので、日本でいえば「鶏頭」と「毛糸」の違いのようなもの(いい加減言ってます)。
しかし女性にとっては自分の名前が、「馬」よりは「薔薇」のほうがいいに決まっている。そんなわけで現代ではROSEちゃんは薔薇ちゃんで一件落着している。
そんな「馬」のイメージがまだ残っているのか、美しく可愛い名前であるにもかかわらず、あまり聞かない。
すぐに思い浮かぶのはカントリーの(いつもそうだね)ローズ・マドックスROSE MADDOX 。
1940年代から50年代にかけて、カントリーの前身ともいえるヒルビリーサウンドのローズとマドックス・ブラザーズMADDOX BROTHERS & ROSE で活躍。その後ソロになり「シング・ア・リトル・ソング・オブ・ハートエイク」SING A LITTLE SONG OF HEARTACHE などのヒットソングをうたった。その後もバック・オウエンスBUCK OWENS と組んだり、ブルーグラスのアルバムを出すなど90年代まで息の長いカントリーシンガーとしてうたい続けた。
もうひとり2002年にアルバム[DAWNRAIDING]でデビューしたシンガーソングライターのローズ・スミスROSE SMITH がいる。
こういうのを環境音楽とか癒しの音楽というのだろうか。
彼女のデビューアルバム[DAWNRAIDING]を聴いてみると、とにかくビートもバックの演奏も、そして何よりも彼女のヴォーカルが控えめというか、押しつけがましくない。10代の頃サイケデリックサウンドに夢中になったそうだが、そんな知識で聴くと、たしかにトリップいやスリープしそうになってくる。よくいえば都会的。でも味気ない。
楽曲では上にのせた「ランブリン・ローズ」が懐かしい。
ナット・キング・コールがうたい1962年に全米2位になっている。
「ローズ、君のさすらいの旅はもう終わった。君を守れるのは僕の愛だけだよ」
というラヴ・ソング。「さすらいのローズ」というタイトルもいい。
カヴァーも多く、曲調がカントリーっぽいためか、ソニ・ジェームスSONNY JAMES、ハンク・スノウHANK SNOW、スリム・ホイットマンSLIM WHITEMAN、レイ・プライスRAY PRICE、エディ・アーノルドEDDY ARNOLDなどのカントリーシンガーがよくうたっている。
日本でも、鹿内タカシや高橋元太郎で聴ける。
また同名異曲の日本版ランブリン・ローズもある。
まずは矢沢永吉の「RAMBLIN’ ROSE」。「ランブリン・ローズ」は、“麻布で№1(いち)の堕天使”。男の気を引くだけ引いて弄ぶ小悪魔のこと。ある意味悪女賛美。
続いて吉川晃司の「ランブリング・ローズ」。俺もお前も“さまよい人”、というわけで彼女はランブリン・ローズ。じゃ、男はランブリン・ギャンブリンマン、でもないか。歌詞の中に英語が混じることは抵抗ないけど、「ハート」を「ハワトゥオ」と発音するのはよしとくれ。
そして詞も曲もこれがいちばん好きなPEARL(田村直美)の「RAMBLIN’ ROSE」。矢沢、吉川の男目線とは違いこれは「ローズ」からの発信。夜遊びと恋の気ままな暮らしを続ける女の子。時には自室で空虚な涙を流すこともあるけど、自分がただ流されているだけって分かっているけど、陽が落ちればまた元気になって夜へ飛び出していく。そんな生活がもう何年も続いている……。向上心のかけらもない。そういう人間もいるというべきか、長い人生そういう時期もあるというべきか。とにかく「ランブリン・ローズ」にはいちばんふさわしい詞の内容。
そういえば10数年前に「ランブリング・ローズ」RAMBLING ROSE という映画があった。「ジュラシック・パーク」に出ていたローラ・ダーンが主役で1930年代のアメリカが舞台。ある家庭にお手伝いとしてやってきたローズと、その家族に起こるエピドードをつづった話でローズが愛すべき色情狂というのがおもしろい設定だった。もちろん時代設定がそうなのだが、ラストは成長したその家の息子がすでに死んでしまったローズを偲ぶというところで終わるノスタルジックでいい映画だったな。
もちろんその時代設定からもわかるとおり、これはヒットソングの映画化でもないしバックにナット・キング・コールの歌が聞こえてくるわけでもない。
ただ、ローラ・ダーン扮するローズは幸せを求めてさまよう娘なわけで、そういう意味では歌と重なる。原作は脚本も担当したカルダー・ウィリンガムの小説ということだが、もしかして彼は、60年代ポップスにインスパイアーされてそのノベルを書き上げたのかもしれない。
ローズの愛称はロージーROSI で、ロージーといえばローズマリー・クルーニーROSEMARY CLOONEY 。
「ローズマリー」はローズROSE とメアリーMARYを組み合わせた名前で、メアリーとリンLYNN を組み合わせて「マリリン」MARILYN になるのもそう。
ロージーは「カモナ・マイ・ハウス」COME ON A MY HOUSE や「マンボ・イタリアーノ」MAMBO ITARIANO、「メロンの心」CORAZON DE MELON(WATERMELON HEART) 、あるいは映画にも出た「ホワイト・クリスマス」WHITE CHRISTMASなど1950年代に多くのヒットを出している。そんな中に「酒とバラの日々」THE DAYS OF WINE AND ROSESも。とくに関係はないけど。
2002年に亡くなっている。映画俳優のジョージ・クルーニーは甥だとか。
ローズは薔薇つまり花で、このように花の名前を女性に命名することがある。リリーLILY(ゆり)がそうだし、ヴァイオレットVIOLET(すみれ)やデイジーDAISY(ひなぎく)、あるいはアイリスIRIS(あやめ)なども。
ではマーガレットMARGARETもそうかな、と思ったらこれが大間違い。欧米にマーガレットという花はないんだそうだ。マーガレットの語源はギリシア語で真珠だそうだ。
まぁどっちにしたって可愛い名前ですけど。
冬歌⑨ブーツ [noisy life]
You keep saying you've got something for me.
something you call love, but confess.
You've been messin' where you shouldn't have been a messin'
and now someone else is gettin' all your best.
These boots are made for walking, and that's just what they'll do
one of these days these boots are gonna walk all over you.
([THESE BOOTS ARE MADE FOR WALKING] lylics and music by LEE HAZLEWOOD, vocal by NANCY SINATRA, 1966)
今年の冬はいつになく女性のブーツが街を縦横無尽に歩き回っています。それもほとんどがロングブーツ。ウエスタン風、ジョッキー風、蛇腹風(クシュクシュというらしい)、ボア付きの“藁靴”風などデザインは様々ですが。
みなさんそれぞれ、世間を踏みつぶすように闊歩されていますが、そんなにエバルことはありません。そもそも日本人が裸足や草履から靴に履き替えてまだ100年ちょっとなんですから。
そもそも靴は足を守るために作られた実用品で、長靴(ブーツ)も乗馬のとき馬の腹に当たるふくらはぎほ保護するために生まれたもの。そういえば、西部劇に出てくるカウボーイたちはブーツを履いていました。
日本で靴が普及しはじめたのは明治は鹿鳴館時代、19世紀後半だといわれています。で、そのときの靴といったら男も女もブーツが主流だったとか。ただブーツといってもロングではなく、くるぶしを隠す程度のサイドゴアーとか編み上げだったようです。
海老茶袴に編み上げブーツなんて、当時の女学生のユニフォームですよね。
その後なぜか庶民はブーツを履かなくなる。
その代わり、ブーツは軍人のシンボルに。軍靴なんていってね。昭和の前半はまさにブーツが日本中を踏みつぶしていった印象があります。
それが戦争に負けてようやくブーツを見ずに済むように。しかしありましたねブーツが。それも庶民のあいだで愛用されてた。そうあのゴム長。雨の日雪の日限定でね。とにかく昔は舗装道路が少なく、泥道ばかりで長靴は必需品でした。
それが晴れた日でも、アスファルトの上でもブーツを履くようになったのは東京オリンピックの後、昭和も40年代に入ってから。それもほとんどは女性。
その直後に大流行したミニスカートにもよく合ってブーツを履く女性がふえました。その後男でも流行りましたねロンドンブーツ。あれは昭和45、6年でしたか、マキシコートにロンドンブーツなんてね。
あの頃から若者がファッションで自己主張をはじめたんでした。まぁ繊維・服飾業界が仕掛けたという裏面はあるにしても。
そのブーツが流行始めた頃、世界的にヒットしたポピュラーソングがナンシー・シナトラNANCY SINATRAの「にくい貴方」THESE BOOTS ARE MADE FOR WALKING 。1961年2月に全米1位、イギリス、ドイツ、オーストラリアをはじめ世界各国で頂点を極めたウルトラポップス。
日本でも大ヒットとはいきませんでしたが、そこそこテレビ、ラジオから流れていました。
この「ブーツは歩くためにある」という全くもってあたりまえのタイトルがなぜ「にくい貴方」になるのか。
歌の内容は浮気で不誠実な彼に対して脅しをかける女。「あんたはヤケドしなくちゃわからない」「あたしマッチ箱をみつけたの」ってコワイ。挙げ句の果てがタイトルの「ブーツは歩くためにあるのよ」「いつかあんたの上をこのブーツが歩くわよ」だって。
歌詞はともかく(じゃないだろう)、ヘイゼルウッドの曲が不思議ですばらしいですね。ノリがよくって、とりわけ最後の半音ずつ下がっていくところがなんとも……。日本では小山ルミがうたっていました。
次はドリー姐さんことDOLLY PARTONの「ダディズ・ワーキング・ブーツ」DADDY'S WORKING BOOTS 。
And Daddy's working boots have taken many steps for us
…………
家族のために一生懸命働いてくれた父さん。そしてその父が愛していたブーツ。くたびれはて擦り切れても愛する家族のために働き死んでいった父さん。
今頃はきっと天国で新品の金のブーツをはいて通りを歩いているだろう。
そんな泣かせる歌。前に「コートはカラフル」COAT OF MANY COLORSで母親への感謝の思いをうたっていたドリー。今度はワーキングブーツに託して父親の想い出をうたっている。ほかにもドリーには父や母をうたった歌が少なくありません。ほんとにいい娘だよなぁ。家族想いでさ。これもきっとドリーの実話なんだろうな。なんとなくそんな気がします。
もう1曲はエリック・アンダーソンERIC ANDERSON の代表曲のひとつ「乾いたブーツ」THIRSTY BOOTS 。
Oh take off your thirsty boots and stay for awhile.
Your feet are hard and weary ........
放浪を続ける友に、「君のブーツは長い間歩き続けてきたため、ヨレヨレになってしまってるぜ。だからブーツを脱いでちょっとの間泊まっていきなよ……」とうたう。
放浪のシンガーらしい歌。やはり孤高のシンガー、フィル・オクスPHILE OCHSやジョン・デンバーJOHN DEMBER もうたっている。
では日本のブーツも。
♪貴方の好きなブーツ 真赤な色は恋をつかむのさ 「真赤なブーツ」木の実ナナ
GS全盛の昭和42年、ちょうど日本でブーツが流行始めた頃のガールポップ。橋本淳、筒美京平のゴールデンコンビ。GS風味というよりはブラスが利いていて、やはり木の実ナナがうたった「サンライト・ツイスト」のようなイタリアンポップス風。
GSといえば、スパイダースの「フリ・フリ」にも、
♪ダークのスーツにブーツをはいて
と出てきましたね。これは多分ロンドンブーツ。かまやつさんのイメージですね。
♪ブーツを脱いで白い部屋へ ブーツを脱いで二人だけの朝食 「ブーツを脱いで朝食を」西城秀樹
男と女の恋のかけひき。なんなんですかね、このめんどくさい心理ゲーム。
そんなのやめてお互い素直になろうよ、とうたっています。ブーツを脱ぐっていうのは、心を開くという意味。でもなんで朝食? 夜明けのコーヒーの変形?
作詞は阿久悠。
昭和50年代には、
♪翼の生えたブーツで I WILL FOLLOW YOU
という松田聖子の「赤いスイトピー」がありました。
もう少しあとになると、
♪しまい込んでた白いブーツ 憶えていますか 「白いブーツ」広瀬香美
冬といえばこの人。あの印象的な高音はいまでも人気なんでしょうね。
若かった頃、幸せだった頃のお気に入りで「似合うよ」って彼が行ってくれたブーツ。そんな時代への、元カレへの、そして自分へのノスタルジアソング。
♪でっかいブーツはブカブカブーツ 「ブカブカブーツ」ハイロウズ
フロイトの心理学によれば靴はペニスの象徴であるとか。それなら靴をコレクションする女性とは……。まぁいいですが。
ブカブカブーツを履きたい男は……。まだ言ってる。“露出教”甲本ヒロトの本音?
ふつう自分の足よりサイズの大きい靴というのはやっぱり履き心地がわるい。でも、小さいサイズよりはまだまし。というか、子供の頃雨の日に履いていた長靴はほとんどブカブカ。あの履き心地はかなり気持ちよかった記憶があるのですが。とくに水溜まりをビシャビシャと入っていく爽快感。
あんまり深いところだと長靴の中に水が入っちゃう。わざとギリギリのところまで行ったりして。たいがいは失敗して足がビショビショ。そうなればもうかまわない。長靴が水没するところまで行っちゃう。これがまた快感。でも、乾きにくいんだよね長靴の中って……。
話が尽きませんのでこの辺で。
みなさん、今年もお世話になりました。
こんな時代ではありますが来年はよいことがありますように。
その名は●アーサ [the name]
Sho-sho-sho-jo-ji
Sho-jo-ji is a raccoon
He is always hungry
So he sings out koi-koi-koi
He will rub his head and tummy
Rub head and rum-tum-tum
Macaroons and macaroni
Jelly beans and pink spumoni
Koi-koi-koi-koi-koi-koi
All he says is koi-koi-koi
([SHO-JO-JI(THE HUNGRY RACCOON)] words and music by BILL WALSH, vocal by EARTHA KITT, 1955)
クリスマスの日、アーサ・キットEARTHA KITTが亡くなった。今日の夕刊に書いてあった。81歳だったそうだ。
昭和20年代後半から30年代のはじめにかけて、日本でも話題になったアメリカのポップシンガーだ。
1928年、サウス・カロライナで生まれたが、幼い頃に母は病死、父は家出という辛い試練に。それでも祖母に育てられ、やがてダンスに夢中になり舞踏団へ。そして彼女が20歳を過ぎた頃、その舞踏団のヨーロッパ公演に同行。
アーサはなぜか、公演が終わってもアメリカへ帰らず、フランスやトルコなどのクラブに歌と踊りで出演するようになる。
52年帰国し、ミュージカルなどで活躍していたアーサは翌年レコーディングしたトルコ民謡を下敷きにした「ウシュカ・ダラ」USKA DARA/A TURKISH TALE とシャンソンの「セ・シ・ボン」C'EST SI BON(IT'S SO GOOD)がヒット。一躍人気となり、歌手をはじめ、ミュージカルだけではなく映画やTVドラマの女優としてもその知名度を高めていくことに。
残念ながらわたしはリアルタイムでアーサ・キットを知っていたわけではないが、昭和30年代の初め頃、「ウシュカ・ダラ」と「ヤンミー・ヤンミー」YOMME, YOMME SONGS OF ARABIAN HAREM をうたう隣のお姉さんの歌声が耳に残っている。
それはおそらく、日本語でカヴァーした江利チエミのレコードをコピーしたものだったのだろうが、そのときは「変な歌……」という感想だったが、その「ウシュカ・ダラ」や「ヤンミー・ヤンミー」をうたっていたのがアーサ・キットだと知るのはずっとあとのこと。
とにかくかたやアラビア風、かたやトルコ風でそのなんとも形容しがたいエキゾチカルなオリエンタルメロディーと不思議な言葉が耳に残ったものだ。
アーサ・キットの名前を知ったのは中学になってから。
友人にえらく洋楽の好きなヤツがいて、そいつがかの♪ショショショジョジ ショジョジの庭は……という「証城寺の狸囃子(ショー・ジョー・ジー)」SHO-JO-JI(THE HUNGRY RACCOON) をうたうアメリカの歌手のことを教えてくれた。それがアーサ・キットだった。
これまた奇妙な歌だった。
で、わたしの中でアーサ・キットとはコミック・ソングのシンガー(では決してないのだが)という印象で定着してしまう。
実際、ほかにも「ウェディングベルが盗まれた」SOMEBODY BAD STOLE DE WEDDING BELLやクリスマスソングの「サンタ・ベイビー」SANTA BABY など素晴らしい曲をいくつもうたっている。
アーサ・キットを語る上で忘れずに付け加えておかなければならないのは、彼女がベトナム戦争に反対し、そのために芸能界から半ばパージを受け、母国アメリカを去らなければならなかったということだろう。
どういう考えあるいは立場でアメリカ政府の政策に異議を唱えたのか、詳細は不明だが、“出国”という結果をみればかなり強行に申し立てたことが推測できる。
さらに推測するならば、彼女の反戦意識には、モハメド・アリと同様、自身が白人ではなかったことも関係しているだろうし、20代前半の多感な頃をフランスをはじめヨーロッパで暮らし、アメリカを外側から見ていたということも影響があったのではないか。
また、彼女のベトナム戦争に対する異議が、もう少し遅れて、国民の中に戦争泥沼化による厭戦気分が高まってきた頃だったなら共感者も少なくなかっただろう。また、彼女がまったくの白人だったらショービズの世界から敬遠されることもなかったのではないか、とさえ考えてしまう。
いずれにせよ、本国にいずらくなったアーサは自由とステージを求めて“第二の故国”フランスへ。
そのうち70年代に入り、ベトナム戦争が終焉するとアメリカは手のひらを返してアーサの当時の“勇気”を称え、肩を抱かんばかりに自国へ迎え入れたとか。
勇敢なる女性シンガーの冥福を祈りたい。
冬歌⑧皮ジャン [noisy life]
En blue jeans et blouson de cuir
Tu vas rejoindre les copains
Si tu ne vas pas, qu'est-ce qu'ils vont dire
Quand tu les verras demain
En blue jeans et blouson de cuir
Tu tu crois en liberté
(ジーパンと皮ジャンパーで 君は、仲間と落ち合いに行く もし君が行かなきゃ 連中はなんて言うだろう 明日君が連中に会った時ジーパンと皮ジャンパーで 君は自由だと信じている) 日本語訳:早川清至
([EN BLUE JEANS ET BLOUSON D'CUIR]ブルージーンと皮ジャンパー written and vocal by ADAMO, 1963)
「皮ジャン」で真っ先に思い浮かぶのがアダモADAMO がうたった「ブルージーンと皮ジャンパー」EN BLUE JEANS ET BLOUSON D'CUIR。彼の日本でのデビュー盤で昭和39年、東京オリンピックの年の発売。
アダモについてはちょうど去年の今頃、冬歌「雪は降る」TOMBE LA NEIGEでふれましたが、イタリアはシシリー島生まれ。シンガーとしてブレイクしたのは移住したベルギーで。その後ヨーロッパ各国で人気となり、とりわけフランスで大成功という経歴。
この「ブルージーンと皮ジャンパー」は日本でも当時話題にはなりましたが、“アダモブーム”が来るのはその数年後、「雪は降る」や「サン・トワ・マミー」SANS TOI MAMIE のヒットによって。この歌日本では長谷川きよしや中村晃子、シャンソニエの野上圭らがうたっています。
その「皮ジャン」というか、そもそも日本に「ジャンパー」なるものが登場したのはいつ頃なんでしょうか。
少なくとも明治大正期にあったとは思えませんし。昭和も戦前からあったのでしょうか。世相や風俗の鏡という一面をもつ流行歌でも戦前、ジャンパーがうたわれたということはついぞ知りません。
ということは戦後? たとえば進駐軍(米軍)の払い下げとか横流しで市場に出回ったり。
アメリカ空軍の軍人などが着ていそうですしね。
たとえば小説では昭和21年、織田作之助が戦後初めて発表した「六白金星」のなかに出てきます。
自分が妾の子供だということを知り、堕落を“志願”する主人公の学生が、洋品店に飛び込み、制服を脱ぎ捨ててジャンパーに着替えるところ。
「……茶色のジャンパーに黒ズボン、両手をズボンに突っ込んでひとかどの不良になったつもりで戎橋の上まで来ると……」
というように。
残念ながら皮ジャンではないようですが。しかしどうやら終戦直後すでにジャンパーは存在し、ジャンパーという言葉もそこそこ浸透していたようです。
それにこの時代、ジャンパーは不良が着るものだったようですね。でも小説にあるように簡単に手に入るぐらい洋品店には置かれていたのでしょうか。
流行歌でもやはり昭和21年の「東京の花売り娘」(岡晴夫)に、
♪粋なジャンバー アメリカ兵の 影を追うよな甘い風
と出てきます。こちらは日本人ではなくアメリカ兵。日本人は“堕落”でもしない限りまだ抵抗があったのかもしれません。それとジャンパーではなくジャンバーってうたってます。そういえば昔のオジさんオバさんは「ジャンバー」って言う人がけっこういました。
こうしてみると、おそらく昭和20年代の早い時期から日本人にジャンパーが広まっていったのでは。
そして30年代になると皮ジャンパーも登場してきます。
♪粋にかぶった鳥打帽子 皮のジャンパーも似合うだろう 「僕は流しの運転手」青木光一 昭和32年
不良やヤクザ者が着るイメージのジャンパーがタクシードライバーに。じゃあ彼らは不良なのか。そんなことはありませんが、たしかに昔は怖いドライバーもいましたが、この頃になるとジャンパーを着用する人が多様化してきたということでしょう。
とりわけタクシー運転手はそのイメージが強いのか(実際はどうだか)、若原一郎の「ハンドル人生」(昭和30年)にも、
♪だけどジャンパーのこの胸にゃ 夢がぽっちりあるんだぜ
というのがあります。皮ジャンかどうかはわかりませんが。いまじゃジャンパーを着たタクシードライバーなどお目にかかれませんけど。
昭和30年代半ばから40年代はじめにかけて最も皮ジャンが似合う男、いや男たちといえば、日活のアクションスター。
なぜかその代表格である石原裕次郎こそピントきませんが、小林旭、赤木圭一郎、二谷英明、さらには渡哲也と皮ジャンスターのカッコよかったこと。
なかでもリアルタイムで見て思わずつられて皮ジャンを買ってしまったというのが渡哲也。「無頼」「前科(まえ)」「大幹部」「関東」の各シリーズそして「東京流れ者」。まぁ我ながらよく飽きずにって思うほど観ました。「東京流れ者」はヤクザ映画にしては一風変わってまして、鈴木清順監督の“遊び”が最高でした。映画館でも笑いが起きるほど。「流れ者には女はいらねえんだ……」なんてね。酒の席でわたしをはじめモテない男どもが負け惜しみでそのセリフをよくつかっていましたっけ。
その「東京流れ者」では哲兄ィ主題歌も。
♪どこで生きても流れ者 どうせさすらい独り身の
ってやつ。これはそこそこ知られていますが、実は渡さんにはもうひとつ歌詞違いの「東京流れ者」があるんです。
♪流れ流れて東京を そぞろ歩きは軟派でも
これは竹越ひろ子ヴァージョン。永井ひろしの作詞でこれがいちばん流行りましたね。でもこれではないんです。
♪黒いジャンパーに赤いバラ きざな服装(なり)してゴロ巻いて
渋谷新宿池袋 風もしみます日暮れには あゝ東京流れ者
ってヤツです。これはもう完全にヤクザ者の歌。哲兄ィもその気になって巻き舌でうたったりして。
なんでひとりのシンガーが歌詞の違う歌をうたったのか。答えは簡単でレコード会社を変わったから。具体的にいいますとはじめのヴァージョンは日本クラウンで、その後テイチクに移籍したため「流れ果てない……」がうたえなくなり、「黒いジャンパー……」をつくったというわけ。
また藤圭子や大信田礼子でも
♪女一匹 皮ジャンに 飾りましょうか白い花
なんてのもありました。
まぁ、「四曲」とも好きなんですけど。もう1曲あります。
これらの「東京流れ者」の作曲者は不詳、あるいは採譜となっています。つまり伝承歌。
戦前から元になる旋律はあったようでクレイジーキャッツの「悲しきわがこころ」が実はその1曲。ちなみにこの「悲しきわがこころ」は近藤房之助と木村充揮がカヴァーしてます。記憶違いかも知れませんが、やはり鈴木清順の映画「けんかえれじい」でバンカラ学生が歌っていたような……。
だいぶ話がそれましたが、要はわたしにとって“最も皮ジャンが似合う男”は若かりし頃の渡哲也、ということなのです。
長くなりましたのであと2曲の「皮ジャンソング」を駆け足で。
渡哲也の本名は渡瀬道彦。でその親戚でも何でもない渡瀬マキがヴォーカルのバンドといえばリンドバークLINDBERG。そのベストヒット曲「今すぐ、Kiss Me」には
♪歩道橋の上から 見かけた革ジャンに
とうたわれています。平成2年の歌。もう20年近くが経ってしまうんですね……、オソロー!
まごまごしてると30年経っちゃうっていうのがこれ。
♪赤い皮ジャン引きよせ 恋のバンダナ渡すよ 「ギンギラギンにさりげなく」近藤真彦
昭和56年のオリコンチャート6週1位で、作詞の伊達歩は作家・伊集院静のペンネームとは知る人ぞ知る。やっぱり筒美京平の曲がポップでいい。
ジャンパー、この響きはあまり聞かれなくなりました。
かつてはロケンローラーの必須アイテムだった皮ジャンも今はどうなんでしょう。あまり見かけません。着ているのはせいぜい「超新塾」ぐらいかも。
でもGジャン、スタジャン、スカジャンと「ジャン」はなんとか生き延びているようです。
「冬歌」も「ジャン」が鳴ってあと1周回。最後のマクリに入ってみたいと思います。
冬歌⑦コート/洋楽編 [noisy life]
A white sports coat and a pink carnation
I'm all dressed up for the dance
A white sports coat and a pink carnation
I'm all alone in romance
Once you told me long ago
To the prom with me you'd go
Now you've changed your mind it seems
Someone else will hold my dreams
([A WHITE SPORT COAT AND A PINK CARNATION] lyrics, music and vocal by MARTY ROBBINS, 1957)
前回のコート/邦楽編で1曲忘れていました(ワザとらしい)。
♪想い出の夜は あのダンスパーティ と小坂一也がうたった「ホワイト・スポーツ・コート」。
これは洋楽のカヴァー曲。本歌はマーティ・ロビンスMARTY ROBBINSがうたったロカビリー・ソング「白いスポーツコート」A WHITE SPORT COAT AND A PINK CARNATION。
白いスポーツコートにピンクのカーネーションを差して。いまでいうところの“勝負服”ですか。これで学祭のダンスパーティへ行くつもりだったのに……。と彼女の恋心じゃなくて変心を嘆くハートブレイクソング。
1957年に全米2位。マーティはその2年後「エル・パソ」EL PASO で全米1位に輝くことに。カントリーから出発して50年代はロカビリアン。そしてロカビリーの波が過ぎると再びカントリーへ戻る。そういうシンガーが多かった。マーティもそのひとり。1983年、57歳で亡くなっています。
スポーツコートってどんな服? グランドコートみたいな? まさか。
多分、普通のカジュアルなジャケット(背広)ではないでしょうか。スーツの上着のこともコートというそうですから。じゃ、なんでスポーツ? さあ……、昔はスポーツシャツなんてものもありましたね。またまた多分ですが、スポーツをするときに着るというよりは、スポーツを観戦するときに着るようなラフな上着ということでは。
ボロのでないうちに次へ。
「コート」でポピュラーな(とりわけジャズファンには)楽曲といえばジョン・コルトレーンJOHN COLTLANEの演奏で知られる「コートにスミレを」VIOLET FOR YOUR FURS。
もともとはトミー・ドーシー楽団TOMMY DORSEY ORCHESTRA の座付き作編曲者だったマット・デニスMATT DENNIS の作品で、ヴォーカルではフランク・シナトラFRANK SINATRA やビリー・ホリデイBILLIE HOLIDAY で聴けます。
スミレの花を買って君の毛皮のコートの襟に飾ったら、季節は冬なのに春みたいな感じがしたね。そう、あの時から僕らは恋に落ちたんだっけね……
という内容。彼女が来ていたのはファーつきの毛皮のコート。
そういえば日本でもみなみらんぼうに「コートにスミレを」があります。
♪まだ肌をさす北風が 君の髪の毛を……
ではじまる叙情的な歌。もちろん洋楽のカヴァーではありません。彼女がスミレの花を一輪自分のコートにさし、肩をすぼめて去っていったというオリジナルソング。ただ、作者がジャズからインスパイアーされてストーリーを作ったことは想像できます。
シナトラの歌う「コートにスミレを」のコートは毛皮の豪華なものでしたが、その反対に
みすぼらしいコートの歌も。
カーター・ファミリーTHE CARTER FAMILY の「色あせし青きコート」FADED COAT OF BLUE。
これは南北戦争で死んだ若者への鎮魂歌。彼がまとっていたのが色あせた青いコート。
彼は戦いで負傷し、手を差しのべるものもなく飢えと寒さで死んでいきました。天国で優しい母や可愛い妹に逢えることを信じて。
元はトラディショナルソングだったものをカーター・ファミリーが、お得意のセイクレッドソングを思わせる懐かしいメロディーにアレンジしています(本歌のほうがメロディーが素朴)。青いコートは南軍兵士の軍服でしょうか。
最後の1曲もカントリー。
my coat of many colors that mama made for me ......
とうたうドリー・パートンの「コートはカラフル」COAT OF MANY COLORS 。
これはサイケデリックなコートを着た女の歌、ではありません。
コートも買えない貧しい少女に母親が様々な色の端布をつなぎ合わせてコートを作ってくれました。そして母親は「きっとこのコートがおまえに幸運をもたらしてくれるよ」と話してくれるのです。それゆえ彼女には自慢のコートなのです。ところが学校へ行くとクラスメートたちはそのつぎはぎだらけのコートを見てあざ笑いバカにします。それでも少女は母親を信じそのカラフルなコートに誇りをもっていました。
やがて大人になり、母親のいったとおり幸せになった少女はいつもあのカラフルなコートとそれを一針一針愛情をこめて縫ってくれた母のことを思い出すのです。
これはドリーの少女時代をうたったもの。テキサス生まれの彼女は12人兄妹で、極貧の少女時代を過ごします。兄妹のなかで唯一ハイスクールに行ったのが彼女で、そのあたりにも努力家という資質が。
「コートはカラフル」は1971年にカントリーチャート4位に。級友の嘲笑にもめげない少女は、その後の明るくてパワフルなカントリーガール、ドリーそのもの。彼女の代表曲のひとつで、エミルー・ハリスEMMYLOU HARRISやシャナイア・トゥエインSHANIA TWAINもレパートリーに加えています。
コートには不思議と縁のないわたしです。
学生時代、洋品店のショーウインドウにあったグレーのバックスキンのコート。なぜか気に入ってしまい、アルバイトをしてようやく買いました。生まれて初めての皮コート経験。
しばらくは着ていたのですが、次の年の冬、友人が北海道へ開拓に行く(いつの時代だ!?)というので選別にとあげてしまいました。
もうひとつは襟にボアのついた茶色のコート。これは気に入ったというわけではないのですが、勢いで買ってしまったもの。職場で仲の良かった同僚が故郷へ帰ることになり、やはりそのコートを。
というといかにもわたしが気前の良い人間のように聞こえるかも知れませんが、実際は彼に少なからず借金があり、“差し押さえ”ということで。
ほかにも買ったはいいが、なぜか一度も着ず(家で試着したらとても外へ着ていけない気持ちになった)にどこかへ消えてしまったトレンチや、友達に貸したままのピーコートとか。とにかくコートには縁がなく、現在着ているコートは他人からの貰い物。自分で買ったものはほとんど着ない。
今日はひとつ思い切ってと、新しいコートに袖を通すのですが、出かける数分前に着慣れたヤツにチェンジ。そんなことをもう何年も続けております。まぁただファッションセンスがない、というだけの話なのですが。
冬歌⑥コート/邦楽編 [noisy life]
♪木枯らし 想い出 グレーのコート
あきらめ 水色 つめたい夜明け
海鳴り 燈台 一羽のかもめ
あの人は 行って行ってしまった
あの人は 行って行ってしまった
もう おしまいね
(「よこはま・たそがれ」詞:山口洋子、曲:平尾昌晃、歌、五木ひろし、昭和46年)
上にのせた「よこはまたそがれ」。昭和46年、五木ひろしの“デビュー曲”。この年の7月にオリコン1位。年末にはレコード大賞の歌唱賞を受賞。華々しい“新人”の登場でした。
しかしすでに周知のごとく、「五木ひろし」は彼にとって4度目の芸名。つまり正確に言えば再々デビューということに。したがってレコード大賞の新人賞には該当しない。
で、松山まさるで歌手デビューし、一条英一、三谷謙を経て五木ひろしはなぜ4度目の正直でメジャーになれたのか。そこまでやっても芽のでない歌手は数多いたでしょうに。
これも有名な話なので「実は……」などと夜郎自大なことを言ってもはじまりませんが。
あえて若い人向けに言うと、五木ひろし自身も認めているように、“それがなければ現在がない”というほど人生の変わる大きな出来事があったのです。
それが日本テレビ系で昭和45年から7年間にわたって放映された歌手のスカウト番組「全日本歌謡選手権」。三谷謙青年はそこで10週勝ち抜き、見事プロ(というより彼はすでにプロだったので新曲レコーディングのチャンスという再デビュー)デビューが約束されたのでした。
五木ひろしの例でもわかるとおり、このスカウト番組の特徴は素人のみならず、プロでもOKというスタンス。これは画期的な企画で視聴者のみならず業界でも話題に。プロにとってはアマに負けるということは“引退勧告”を突きつけられるようなもの。五木ひろしも知り合いのディレクターからすすめられたが当初「もし落ちたら……」と考えたとか。
審査員がスゴかった。淡谷のり子、船村徹、竹中労、鈴木淳、平尾昌晃、山口洋子など。とりわけとりわけはじめの3人は歯に衣着せぬ直言で知られる業界の閻魔たち。
そんななかで三谷謙は10週を勝ち抜き、栄冠を手に。そして五木ひろしという最後の芸名と審査員の山口洋子、平尾昌晃による「よこはまたそがれ」という新曲で華々しくデビュー。あとの昇竜ストーリーは周知のこと。
この番組の優勝者で男の出世頭が五木ひろしならば、女は八代亜紀。
八代亜紀も五木ひろし同様、「全日本歌謡選手権」に出場する前は前座歌手やクラブ歌手だったが、違うのはもともとがクラブ歌手志望だったということ。それでもレコーディングの話があり、のってみたがさっぱり売れない。彼女はみずから勝負に出るべくスカウト番組出場を決めた。
とにかく審査員の船村徹がそのうまさに驚いたというのだからさすが。と思いきやひとりだけダメだしした審査員が。それが淡谷のり子。それは仕方ない。演歌嫌いですから。多分、五木ひろしにも厳しかったんでしょう。
しかし他の審査員の絶賛でみごと10週勝ち抜きで優勝したのは五木ひろしから1年後のこと。
そして彼女は再デビュー2枚目の「なみだ恋」で大ブレイク。数年後には五木ひろし同様演歌の頂点に立つことに。
その他この番組から再起した歌手には、竹中労がえらく買っていた天童よしみも。彼女の芸名および再デビュー曲「風が吹く」の作詞は竹中労。
また、GSから演歌に転向したオックスのヴォーカル野口ヒデトは真木ひでととして。そのほか中条きよし、山本譲二が「全日本歌謡選手権」によって2度目のチャンスをものにしています。
また往年のガールポップシンガー青山ミチのように優勝したにもかかわらず、再起できなかった歌手もいたし、南高節(こうせつ)とかぐや姫のように“売名”目的で出場し、目的を達成したので4週勝ち抜きで棄権したグループもあった。
わたしが記憶しているのはウィリー沖山。「山の人気者」や「スイスの娘」で華麗なるヨーデルを聴かせてくれた日本のカントリーシンガー。何をうたったのかは覚えていないが、正直痛々しかった。
最後はスポンサーの横やりや一部審査員のイカサマなどがあったとかで、竹中労らが番組を降り、番組もマンネリ化したところで幕を下ろすことに。
それでも多くのそれもやがてビッグになる歌手を輩出したのですから、存在意義はあったということ。ただ素人から優勝してメジャーになった歌手がいない(多分)というのはスカウト番組としてはもの足りません。まぁ、「歌手再生番組」だったということなら納得もできますが。
なんかずいぶん長い前置きになりましたが、五木ひろしの「よこはまたそがれ」の中に「グレーのコート」が出てきます。
だいたい冬を舞台にした流行歌の“アイテム”として「コート」はかなり頻度が高いのではないでしょうか。
だいたいは、
♪安奈 寒くはないかい お前をつつむコートはないけど 「安奈」甲斐バンド
のように無色無印のコートが多いのですが、ここでは「グレーのコート」にならって色つきのコートがうたわれている歌をピックアップ。
♪だれを待つやら今宵もたたずむ 黒いコートのあの女 「黒いコート」織井茂子
昭和32年のラテンテーストの歌謡曲。作詞作曲は「別れの一本杉」(春日八郎)のコンビ、高野公男と船村徹。
同じ黒はGSオックスの「スワンの涙」に出てくる。
♪君のすてきな ブラックコート
だいたいがコートを着ているのは女性。ならばやっぱり赤。
♪真っ赤なコートを君に 着せてあげたい君に 「いとしのマックス」荒木一郎
マックスって荒木一郎が飼っていた愛犬のことらしいです。犬にコートか。ペットブームだもの、あると思います。
赤いコートをもうひとつ。
♪赤いコートにブルージンをはいて 君は夜中にうろつき廻れる 「真知子ちゃんに」友部正人
ストレートな恋愛感情とは少し違う、けれどなぜか心魅かれる“不思議少女”の歌。
友部正人には「まるで正直者のように」や「大阪へやって来た」の中でも「コート」が登場します。よほどコートが彼の詩的イメージを喚起するのかも。
最後はおなじみのこれ。
♪街でベージュのコートを見かけると 指にルビーのリングを探すのさ 「ルビーの指輪」寺尾聡
恋人に「気にしないでいいから 行ってくれよ」と別れを気取ってみたけど、2年経ってもまだ忘れられない。街中で、ついつい幸せの頃プレゼントしたルビーの指輪を探してしまう。
オイオイ、指輪かよ。ふつう探すのは顔だろうが。どんだけ自分のあげたものに執着してるんだよ。それにフラれて2年も経ってるんだぜ、嫌いになった男の指輪なんかしてるわけないじゃん。別れたその日に質屋行きだよ。
流行歌だと知りつつ、ツッこんでしまいました。悪意はございません。歌も好きです(苦しい言い訳)。
冬歌⑤マフラー [noisy life]
♪はなやかな 道から道へ
くらい灯の 窓から窓へ
霧とネオンに やさしくぬれて
探すあの娘 赤いマフラー
召しませ ばらを
ああロンドンの 花売り娘
(「ロンドンの街角で」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:小畑実、昭和27年)
手編みということなら手袋よりも「マフラー」のほうが多いかも知れません。なんたって編むのがかんたんですから。
むかしは襟巻きなんて言った。いまはトカゲだってそんな名前は聞かない。襟巻きをマフラー、靴下をソックスって言うのなら手袋だってグローヴスかなんか言えばいいんですけど、そうはなかなか。
マフラーは防寒着で、首が寒ければ布でも巻きたくなるのが人情。そんなわけで江戸時代からある。もっともその頃は“首巻き”といったとか。
明治になり洋装が普及してくると冬の必需品に。衣類というものは実用だけに留まらないのは今も昔も。女学生はもちろん、書生さんにも襟巻きファッションが流行ったことがあったそうだ。
しかしそんな襟巻きが何時の頃からマフラーと呼ばれるようになったのか。
昭和のはじめに女性の間で狐の襟巻きが流行ったそうだが、さすがに狐のマフラーとは言わなかったようです。
スカーフという言葉は大正時代からつかわれていたようですが、マフラーは……。
昭和でも戦前は一般的な名称ではなかったのではないでしょうか。やっぱり襟巻き。
流行歌の題名や歌詞でも聞いた記憶がありません。
昭和も30年代になると間違いなくマフラーはありました。それもかなり普及していて、襟巻きと半々ぐらいだったのでは。
当時の少年向けテレビドラマに漫画が原作の「まぼろし探偵」というのがあって、その主題歌に
♪赤い帽子に黒マスク 黄色いマフラーなびかせて
とあります。ということは子供にもある程度浸透していたことに。
しかし流行歌では昭和24年の「流れの旅路」(津村謙)の中に、
♪紅いマフラーをいつまで振って 名残惜しむかあの娘の馬車は
と出てきます。
ということは敗戦直後、“英語解禁”と同時にマフラーも広まっていったのかもしれません。津村謙には♪赤いマフラーはあの娘の形見 泣いて偲ぼうかあの夜の夢を という「流れの旅路」の続編のような「赤いマフラー」もあります。
また、赤(紅)いマフラーは上に歌詞をのせた「ロンドンの街角で」(小畑実)でも出てきます。いずれも女性がしていたマフラー。やっぱり赤が印象的なのかな。
これが現代になると男も赤いマフラーをする。
♪赤いマフラーを巻いて 歩く僕がガラスに映る 「赤いマフラー」槇原敬之
これには事情がありまして、実はこの赤いマフラー、彼女へのクリスマスプレゼントのつもりで買ったもの。ところがその事情があって彼女とはバイバイ。振られたんですね。で、仕方がないからじゃなくて、まだ彼女への想いがあるからそのマフラーを巻いて街を歩いてみたというわけ。こういう感覚、いまの若者のマジョリティなのか、槇原クン独特のものなのか……。
えっ? 昔にもそういう男がいたって?
♪赤い手ぬぐい マフラーにして 「神田川」かぐや姫
いや、これはマフラー代わりだからマフラーじゃないでしょ。それに、赤い手ぬぐいってほんとは赤いタオルじゃないの? どうでもいいことだけど。
そのほかスピッツの「マフラーマン」でも♪赤いマフラーが 風を受けて 燃えるほどに とやはり色はレッド。
マフラーは赤限定なんですか。イエイエソウデハアリマセン。
♪白いマフラー唇ふれて 心くすぐるような 幸せを感じてる 「白いマフラー」酒井法子
彼と出逢い、恋に落ちて幸せまっただ中の彼女。そんな彼女が選んだのが白いマフラー。彼女の純真さ、一途な想いを象徴しているよう。でも、口紅がついたりしないのかなぁ。そういう汚れない口紅があるの? いや、彼女は口紅をつけていないんだ。ありのままの自分でいたい気分なんだな、きっと。
ほかにも。
♪初雪にざわめく街で 見覚えのある スカイブルーのマフラー 「LOVERS AGAIN」EXILE
別れたけれど忘れられない彼女を街で見かけて胸が熱くなり、おもわず昔へ戻ろうとする男。よくある“松ぼっくい”の歌。
青いマフラーはいいなぁ。赤より白よりいいなぁ。それもスカイブルー。
高校時代、通学のバスの中でよく見かけた女学生がスカイブルーのマフラーをしていました。紺のコートとのコントラストが鮮やかでいつも目がいってしまったものでした。
色の黒い目の大きな、大人しそうな娘でした。
当時わたしには恋い焦がれていた彼女がいたのですが、その青いマフラーがなぜか気になるんですね。帰りのバスで一緒になることもあって、いつも彼女のこと気にしてましたね。あの頃の自分は間引き前の森みたいなもので、「無駄に気が多い」って。いまでもか……。
結局、言葉を交わすこともなく彼女とはそのままだったのですが、一度彼女がバスを降りる時、車掌さん(古い話でしょ)に見せた定期券をチラ見したことがありまして。その定期券に当時人気だったGSのヴォーカルの顔写真が入っていましたっけ。
それ以来、そのバンドの曲聴くたびに、青いマフラーの女学生を思い出したりして。まぁ、それだけの話なんですが。
青いマフラーもいいけど、最近「カッコいい!」と思うのが、オレンジのマフラー。やっぱり紺や黒のダーク系のオーバー(言いませんか?)に鮮やかなオレンジが似合うこと。でも、流行なのかあちこちで見かけますね。
ちなみにわたしもここ数年マフラーをするようになってしまいました。誰も聞いてくれないでしょうから言いますが色はグレー。だっせぇ。
あと何年かして還暦になったら赤いマフラーしてみようかななんて。うっぜぇ。
冬歌④手袋 [noisy life]
♪かあさんは夜なべをして 手袋あんでくれた
木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて
せっせと あんだだよ
ふるさとの便りは届く いろりの においがした
(「かあさんの歌」詞、曲:窪田聡、歌:ダーク・ダックス、昭和33年)
若い頃は真冬になろうが「手袋」なんかしなくても平気だったなぁ。というより、寒さに抗うことで粋がっていたんだな。ときには素足に下駄で町を闊歩してみたり。股引だって(こちらはいまだに粋がってる)はきません。
それがいつの頃からか、手袋は冬の必需品。TPOに合わせていくつも持ってたり。
歳をとったということ。それは必ずしもわるいことではありません。粋がる必要がないと悟り、自然体に近づいたのだから楽チンです。かといって、当時のやせ我慢を若気の至りなんて言うつもりもありませんが。あの時はあの時、今は今。
でも、もっと若い頃、つまりご幼少のみぎり、冬になるとつけていた灰色と青の手袋はいまでも覚えております。同じ色の細いマフラーもありました。母親が編んだものです。2色になったのは母のセンスではなく、毛糸が足りなかったのでしょう、多分。
生意気未満の小学校低学年あたりまでつけていました。
手袋は5本指ではなく、“親指とその他”というキャッチャーミット形。母親が手を抜いた? いいんですよ、いかにも手の袋って感じでね。物をつまむ時はそりゃ不便だけれど、いちいち脱げばいいわけで。落として失くさないように2つを紐で結んでね。
貧しい時代、手編みの手袋なんてあたりまえでした。
仕事をしていた母親が無理に時間をつくって編んでくれたんだなぁ、と気づくのはずっとあとのこと。親不孝ものです。
そんな母親への感謝の気持ちをうたったのが「かあさんの歌」。ダーク・ダックスはじめいろいろな人にうたわれています。抒情歌に入るのでしょうか。たしか学校で習った記憶がありますが。
この歌は昭和33年の作品。
当時共産党の中央合唱団にいて、「歌ごえ運動」によってオルグ活動をしていた窪田聡によってつくられました。その後「歌声喫茶」でもうたわれるようになり、隠れたヒット曲として広まり各レコード会社でレコーディングされることに。
都会と地方がはっきりと識別されていた時代、故郷をあとにした青年たちには、母親への想いとともにノスタルジーを実感できる歌だったのでしょう。いや都会に住む若者だって、この手袋に託された母親の愛情を受けとめる想像力くらいありました。
「かあさんの歌」はそうした普遍的な母親の子供に対する愛情、献身が「手袋」に託されている歌です。そうした母親の想いは都会も地方も、今も昔も変わりがないということでしょうか。
ただ、昭和がふた昔も過去になってしまった平成の世からみると、いささか湿っぽいと感じるのは半世紀という時間の経過によるものでしょう。日本だけでなく日本人の意識もあきらかに変化してきましたし、これからも更に変わっていくのでしょう。果たしてどこへ向かって行くのか、その先に幸せがあるのか、誰にもわかりません。
それでは行き先を見失わないうちに軌道修正。
「手編みの手袋」はドラマの“小道具”としてはありがち。
そこには「かあさんの歌」でみたように愛がこめられているから。ただ、流行歌の場合そのほとんどが編んでくれるのは「母親」ではなく「彼女」。
そして流行歌の多くが失恋ソングや片思いソングなので、その手袋は編みかけで終わってしまったり、完成しても届けられなかったり。
♪編みかけていた手袋と 洗いかけの洗濯物 「サボテンの花」チューリップ
真冬の空の下、突然彼女が出て行ってしまったようです。編みかけの手袋は納得ですが、洗濯中にというのが……。ほんの小さな出来事ではないんじゃないですか。大変なことが起きたような……。まぁいいか。
とにかく編みかけで終わってしまう可哀想な手袋が多いのです。
聴いたことはありませんが、島倉千代子と南沙織に「編みかけの手袋」があるそうです。おそらく別れの歌やトーチソングなんでしょう。
でも、もう少し前向きな手袋の歌もあります。
♪あなたのために編んだ手袋 デコボコしてる デコボコしてる ヘンな手袋 「世界にひとつしかない手袋」岡本真夜
クリスマスに片思いの彼へ渡すため、自称ぶきっちょの彼女が授業中先生の目を盗んで編んだという手袋。歌はクリスマスに間に合って手袋を編み上げたところで終わるので、果たして渡せたのか否かは不明ですが。
昔の彼女を思い出すとき、なぜかそのとき身にまとっていた服や帽子、靴、装飾品などが記憶に焼き付いていることがあります。手袋もそう。
♪窓にゆれた あの子の 白い手袋が やけに目に浮かぶ 「白い手袋」石原裕次郎
裕次郎の初期のレコード「口笛の聞こえる港町」のB面。「俺は待ってるぜ」や「錆びたナイフ」のような日活アクション映画の挿入歌を思わせる旋律。
実際は映画挿入歌ではありませんが、歌がヒットしたため映画化に(当時はこういうケースが多かった)。ただしタイトルは「口笛が~」から「赤い波止場」に変更。
汽車で去っていく彼女の白い手袋がいつまでも忘れられないという、やはり映画のワンシーンを彷彿とさせる歌です。
「白い手袋」の同名異曲は津村謙にもありました。
こんな手袋もあります。
♪片方なくした手袋 ほどけたまんまの靴ひも 「年下の男の子」キャンディーズ
時間にルーズでだらしない、そこがまた母性本能をかきたてられてたまらないという女ごころ。ほんとにそうなのかなぁ。だったらわたしだってもっとモテてもよかったんだけど……。相手によりけり? そりゃそうだ。
たしかに手袋ってよく失くすんだよなぁ。
父親が死んだとき、誰も欲しがらない手袋を形見分けでもらいました。たまたま手袋を新調しようと思っていたところでしたので。
その年の冬はその手袋のお世話になりました。
ところが暖かくなりかけて、そろそろしまおうかなんて思っていた頃、ついうっかりで片方が見あたらない。つけているときは何の事はないただの手袋でしたが、失くしてみるとなにか大事な物のように思えて。あちこち探しましたが結局分からずじまい。
こんなとき、手袋の片割れを売ってくれればいいのですけどアチラも商売、やはり一対でということに。となると、やはり自分の好みの色や素材のものを買ってしまいます。
で、残された形見の手袋は不要品に。ところがこれが捨てがたい。形見ということだけではなく結構気に入っていたのかも。一冬付き合った愛着もあったり。
そんなわけであれから7年、いまだにその手袋を捨てられずにいます。
もし今使っている気に入りの手袋がわたしの不注意で“独身”になるようなことがあったら、その形見の手袋と添わせてあげようかなどと、本気で思っているのですが。
冬歌③停車場 [noisy life]
♪落ち葉の舞い散る停車場は 悲しい女の吹きだまり
だから今日もひとり 明日もひとり 涙を捨てにくる
真冬に裸足は冷たかろう 大きな荷物は重たかろう
なのに今日もひとり 明日もひとり過去から逃げてくる
一度離したら 二度とつかめない
愛という名のあたたかい 心の鍵は
最終列車が着く度に よく似た女が降りてくる
そして今日もひとり 明日もひとり 過去から逃げてくる
(「終着駅」詞:千家和也、曲:浜圭介、歌:奥村チヨ、昭和46年)
冬が別れの季節ならば、その場所はどこ?
いろいろありますね。喫茶店だったり、公園だったり、夜道だったり……。
「駅」あるいは「停車場」なんていうのもまたありそう。
♪白い朝もや流れる 冬の寂しい停車場 「冬の駅」小柳ルミ子
なんだってまた二人は別れることになったんでしょう。「それはリスナーよ、君たちで想像しなさい」ってなもんでしょう。作詞はなかにし礼。
しかし健気な女じゃありませんか。「あなたの無事を祈って」とか、「これが運命」とか「わたし恨んでいないわ」とか。なかにしさん、ちょっと美化しすぎ。野郎どもはホントにこういう可愛い女性がいると思ってしまうもの。いや、いますよ。いましたよ。いたような気がする。いたのかなぁ……。
昭和49年の歌で、オリコン1位。古い歌です。なにしろ「汽車の窓から手をふる」んですから。新幹線じゃできないわな。
駅で見送るのは女、旅立つのは男、とばかりはかぎりません。
♪こな雪舞う停車場で 愛の終わり迎えたのさ 「冬の停車場」布施明
車上の人となるのは彼女。「できるなら時を戻して」と男の方は未練たっぷり。でも彼女は遠い街へ。なぜか涙を流して別れを告げるのです。いつものことではありますが「なんで?」。
男であれ女であれ、駅での別れは演歌、歌謡曲の独壇場。それも、季節は冬がいい。別れの辛さに寒さが輪をかけて、ってまさにマゾヒズムの世界。
♪こな雪舞い散る小樽の駅に あゝひとり残してきたけれど 「小樽のひとよ」鶴岡雅義と東京ロマンチカ
別れても忘れられない相手なんですね。どんな事情があったのでしょうか。それでも「かならずいくよ。待ってておくれ」といってますから、再会の希望はあるでしょう。
たしかに、駅での別れというのは見送り見送られなわけですから、喧嘩別れやどちらかの心が離れてしまったということではなく、ひとすじであれ、希望はあるものなのです。
ところが、冬の駅にはそうした“ふたりの別れ”だけではないのです。
たとえば、なんらかの理由で異性と別れてしまい、その未練ごころを断ち切る意味で、あるいは古い殻を脱ぎ捨て新しい自分を再生するために旅に出る。つまりセンチメンタルジャーニー。そんな思いで降り立つ駅なのです。なにも寒い冬でなくても、おまけに北へ行かずともとは思いますが、再三いうように流行歌にはそうした自虐ソングが多いわけで。
♪待合室のストーブの火が 真赤に燃えてせつない 「女…ひとり旅」田川寿美
そのセンチメンタルジャーニーの典型がこの歌。北の果ての駅にふと降りてみる。それは幸せだった頃彼と2人で「行ってみるか」「行こうよ」と語り合った町。その駅へ別れてひとり旅で来るなんて。歌の中で、「未練心を捨てる季節はずれの旅」って言い訳してるけど、それなら別府とか沖縄なんかへ行けばいいと思うのですが、やっぱり北じゃなくては話がはじまらないのヨ。
♪上野発の夜行列車降りたときから 青森駅は雪の中 「津軽海峡冬景色」石川さゆり
なんてったって冬の青森駅です。そりゃ寒さも尋常じゃない。多分別れた男は東京の人間なんでしょう。そして別れを言い出したのは彼女からのようです。ダメ男だったんでしょうね。人ごとじゃない。
彼女の場合はセンチメンタルジャーニーというより、生まれ故郷の北海道へ帰るのでしょう。ダメな男でも何年か暮らしていれば情も深まるし、ふと良かった頃のワンシーンが思い出されたり。やっぱり未練はあるのかもね。それを断ち切るためにも津軽海峡の寒風に身をさらしているのでしょう。
♪雪が泣く女の未練ねあなた ……朝がせつない いで湯の駅 「女の駅」大月みやこ
これはいささか微妙なシチュエーション。舞台は湯の町の駅。汽車で去るのは男、見送るのは女というパターンは定番。しかし、この二人どうやら恋人同士ではなさそう。かといって行きずりの恋にしては、未練や想いが強すぎ。
たとえば、男は都会の旅行会社の営業マンで、しばしばこの温泉宿に仕事に来る(現実的だなぁ)。
一方女は芸者さん。若い頃は一二を競った器量よしだったけど……っていう年頃。いつからかその営業マンといい仲に。そうだな、もしかしたら男には奥さんがいるかもね。って妄想は果なし。とにかくきわどい歌です。
♪木枯らしは寒く 乗りかえ駅に 行方知らぬ旅が続く 「冬物語」フォー・クローバース
これは男目線で見た乗換駅に降り立つ女たちを歌っています。こんな駅にそぐわない身なりの女がひとり次の汽車を待っている。目的地はどこなのか。うつろな表情が遠くで聞こえた汽笛に少しだけ反応する。そして視線を落としたうつむき加減の顔は、まるで昨日辛い別れをしてきたばかりのようで、どことなく寂し気。
でも、冬が過ぎれば必ず春がやってくる。耳をすませば足音だって聞こえるじゃないかって励ましてあげたい。いや、観察している男だって寂しいのかもしれない。つい最近彼女から別れを切り出されたのかもしれない。だから、「春は近い」というのは自分に対する励ましでもあるのかも。
といくつか冬の駅を舞台にした歌をピックアップしましたが、その中でもいささか異色と思われるのが、冒頭に歌詞の一部を紹介した奥村チヨの「終着駅」。
終着駅に「真冬に裸足」で重たい「大きな荷物」を持った女が降りてくるなんて……。
でも考えようによってはとてもシュールなシーンではありませんか。
もちろんそれは比喩で、汽車から降り立つ女が、それほど寒々しく痛々しくみえるということ。それもひとりやふたりではなく、そんな女がしばしば降りてくるようで。
女たちが破れた恋の亡骸を捨てにくる駅、すなわち終着駅とはうまい発想。いままでみてきたように、ふつうだと駅に降り立ったものの、未練がつのったりなんとか忘れようと努めたりと、恋の残り火はいまだ燃え尽きていないという設定。
ところがこの「終着駅」ではそういった余韻はなく、魂を抜かれたような女たちが導かれるように終着駅にたどり着き、たんたんと列車から降りてくるといったイメージ。もはや未練も再生の希望もなく、女たちはそのまま雪に埋もれてそのままに、と思わせるようなクールな歌。それを奥村チヨが感情抑え気味にうまくうたっています。
やっぱりひとり旅の女性というのは、男にとってどこか気になりますよね。スケベ心からだろうって?まぁ正直そうなんでしょうけど。
それが冬で、コートの襟なんかを合わせて寒そうにしてたら、“惚れてまうがな”までいかずとも、ちょっと声をかけたくなりませんか。
「寒いですねぇ、どちらまで?」
「…………」
「次の列車まで時間がありますから、どうですか、暖かいお茶でも」
「うるさいわね、向こう行っててよ!」
コワイ女。もう少しやさしい人なら、
「すいません、連れを待っているものですので……」
どっちにしても「アッチイッテロ」の意思表示。
経験あるだろうって? …………。そう言うアナタだって……。
冬歌②冬が来る [noisy life]
♪雲が流れる公園の 銀杏は手品師老いたピエロ
口上は云わないけれど なれた手つきで ラララン
ラララン ラララン カードをまくよ
秋が行くんだ 冬が来る
銀杏は手品師 老いたピエロ
(「公園の手品師」詞:宮川哲夫、曲:吉田正、歌:フランク永井、昭和33年)
冬が来るって、もう来てますよね。相変わらずの出遅れで。
今年はそれでなくとも短い秋がことさらだったような。ということは長い冬を迎えるわけでして、もろもろと。まぁ、緑の風が吹く頃まであと4カ月あまり。ひと冬越したあとの
幸福感を味わえると思ってじっと我慢をいたしましょう。冬来たりなば……っていいますから。
やっぱり冬はどうも……。「冬の時代」なんていうと辛い低迷期のことですし。わたしの場合は、冬がいちばん嫌いな季節なのですが、みなさんはどうなんでしょう。で、流行歌ではどううたわれているのでしょうか。
つい最近亡くなったフランク永井の「公園の手品師」。
前にも何度かとりあげましたが、いいですね、ジャパニーズ・シャンソン。
吉田正といえばラテン風味のムード歌謡が看板ですが、こういうのもいいなぁ。
「秋が行くんだ 冬が来る」。“秋が行くんだ”という言葉にわずかながら惜秋の思いが。そしてやがてくる厳しい冬への覚悟も。銀杏を見上げる男はきっと幸せではないはず。少なくとも冬を歓迎してはいません。だから3番で「呼んでおくれよ 幸せを」と。
その詞を書いたのが宮川哲夫。
昭和41年に「霧氷」(橋幸夫)でレコード大賞を獲りましたが、その全盛はやはり昭和30年代。同じビクターレコードの先輩・佐伯孝夫の存在が大きすぎて常にナンバーツーの存在。佐伯孝夫が太陽ならば宮川哲夫は月という対照。
初ヒットは鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」で、そのあと「赤と黒のブルース」、「好きだった」と彼のヒット曲を連作。いずれもほろ苦さがにじむ独特の詞でした。
「ガード下の靴磨き」宮城まり子、「東京ドドンパ娘」(渡辺マリ)、「湖愁」(松島アキラ)、「羽田初7時50分」(フランク永井)、「美しい十代」(三田明)、「雨の中の二人」(橋幸夫)、「アリューシャン小唄」(三沢あけみ)など、いまでもときおりナツメロ番組で聴くことのできるいくつもの歌をつくっています。
元教師で、酒が好きだが社交下手、家庭をこよなく愛したそうです。佐伯孝夫とは酒好きで共通しますが、他では正反対。昭和49年、53歳という若さで亡くなっています。
「秋が行くんだ」と言ってるのでまだ冬ではないのでしょう。
同じ様に晩秋をうたったものに「冬が来る前に」(紙ふうせん)が。
夏の恋が終わり、別れてしまったけれどどうしても忘れられない。秋だからよけいにセンチになって冬が来て心がかじかんでしまう前に、もう一度逢ってやり直したいという女心。
やっぱり冬って心を萎えさせるほど辛い季節なんでしょうか。
最も冬の厳しさがうたわれているのが「公園の手品師」よりも10年先がけて作られた「シベリア・エレジー」(伊藤久男)。
♪春の花さえ凋まぬうちに 風が変われば冬がくる
春が来たと思ったらすぐに冬。これはいささか大げさかも知れませんが、とにかく冬が絶望的に長いシベリア。戦後まもなくそのシベリアへ抑留された日本人をうたったもの。
「湯の町エレジー」(近江俊郎)を大ヒットさせた野村俊夫・古賀政男の作品。昭和23年の発売で、その年には同様の内容の「異国の丘」があります。
これはちょっと古すぎましたね。もう少し新しいところを。
「秋が終われば冬が来る」って「夜が明けたら朝が来た」みたいにあたりまえのことをいってるのが「私がオバさんになっても」(森高千里)。
何歳からオバさんなのかは知りませんが(オジさんは30歳過ぎかなぁ)、これは20代半ばくらいの女性が、季節の巡り方が早く感じるようになっていささか焦りを感じているような歌。歳をとれば冬の寒さも身にしみるようで、せめて彼との仲が冷えないようにってこと。アラサーだのアラフォーだの言ってもやっぱり若さは気になるんでしょうね。アラフィーぐらいになれば、諦めでどっちでもよくなっちゃうけど。
これはどうでしょう。
♪春夏秋と駆け抜け 離れ離れの冬が来る 「スニーカーぶるーす」近藤真彦
ハートブレイクソングで、どうやら彼女から別れを切り出されたようで。彼曰く「青春の手前で裏切りはないぜ」だって。春に出逢って夏が最高だったんだろうなぁ。そしていつの間にやら彼女の方から秋がきて、最悪のシーズン「冬」に至ったというわけ。
まぁ辛抱するしかないでしょう。じき新しい春が来ますから。
本当に冬という季節は恋心さえ凍てつかしてしまうほど厳しい季節なのでしょうか。いやぁ、そんなことはないはず。人を恋うる気持ちは寒かろうが暑かろうが。
♪寒い冬がやってくる 激しく燃える炎は誰にも消せないの 「木枯らしに抱かれて」小泉今日子
そりゃそうだよね。そうでしょうとも。ただ、それが片思いっていうのが悲しい。
こんなのもあります。
♪花は枯れて冬が来ても 素敵な日々は続いていた 「愛のくらし」加藤登登紀子
ほら、寒い季節になっても愛があれば暖かくなれるってね。
でも2番には「花が咲いて春が来ても 素敵な日々は戻ってこない」ってある。て、ことはやっぱり冬に別れたんだろうな。どうしても冬は別れの季節なんだ……。アルフレッド・ハウゼの作品です。
これから冬最大のイヴェント、クリスマスイヴを迎えようと諸々計画しているカップル、多いんでしょうね。でも、まだまだ冬は序盤、これから長~い別れの季節が始まるんですよ。どちらさんも気ィつけなはれや。へへへへへ……。
冬歌①雪椿 [noisy life]
♪やさしさと かいしょのなさが
裏と表についている
そんな男に 惚れたのだから
私がその分がんばりますと
背(せな)をかがめて 微笑み返す
花は越後の 花は越後の 雪椿
(「雪椿」詞:星野哲郎、曲:遠藤実、歌:小林幸子、昭和62年)
また訃報。作曲家の遠藤実。76歳はやっぱりまだまだの感。
「雪椿」は歌詞に越後が出てくるように新潟出身の小林幸子が作詞家の星野哲郎に頼んでつくってもらったという「母の歌」。もちろん、彼女の両親がモデルということではなく、あくまでフィクションなのだが。小林幸子については近々ふれるので、ここではこれ以上掘り下げずに本題へ。
この「雪椿」はまた作曲の遠藤実の歌でもある。
遠藤実は東京生まれだが育ったのは両親の故郷である新潟県。父親が職を転々と変える人で、それゆえの極貧生活は数冊出されている自伝に詳しい。
「あの頃はみんな貧しかった」というけれど、そんな中でも格差はあった。戦前とはいえ町中で夜、電灯の点かない家はそうはなかっただろう。
そんな貧しい生活を送る少年に希望を与えたのが「流行歌」だったという。
戦前戦後を通して歌で日本の若者たちの心をつかんだ岡晴夫に憧れ、気がつくと彼はのど自慢大会の常連になっていたという。そしてその夢はやがて当時の多くの青年たちがそうであったように東京へと向かっていく。それが昭和25年、彼が17歳のとき。
東京で“流し”をしながらレコード会社のいまでいうオーディションを受け続けるが、のど自慢大会で優勝できない者が合格するはずがなかった。
そこで歌手への夢に見切りをつけ、作曲の道へ方向転換することに。これには“流し”を経験したことが役に立ったそうで、毎日客と接していると、彼らがどんな歌を聞きたがっているのかということがわかってくるというのだ。
それから独学で作曲を勉強した彼は、知人の紹介で顔見知りとなった作詞家、松村又一の紹介でマーキュリーレコードの専属作曲家に採用されることに。上京から3年目のことだった。
そしてそれから4年後藤島桓夫の「お月さん今晩は」がヒットする。都会へ出て行った恋人へ想いをはせるという、当時三橋美智也らで主流だった“故郷歌謡”。
マーキュリー時代は“副業”に流しを続けなければならなかったほど収入がなかったが、昭和34年コロムビアレコードへ移籍後、本格的な作曲家の道を歩み始めることに。そのコロムビア時代に数々のヒット曲を世に送り出し、その後昭和40年には自らミノルフォンレコードを立ち上げる。その間、それ以降の華々しい活躍はそのヒット曲を並べてみれば一目瞭然。
彼の自伝やいつかテレビ番組で話していた半生は、その“ドラマ仕立て”が重たくいささか違和感を覚えたものだが、それと作品とは別で、5000曲といわれる作品の中には愛聴歌も愛唱歌もあるし、古賀政男に匹敵するほどの素晴らしい作曲家だったことに異論はない。
では遠藤実作品の「私的ベスト10プラス2」(you-tubeにあるものにしました)を順不同で。
星影のワルツ 千昌夫
すきま風 杉良太郎
くちなしの花 渡哲也
純子 小林旭
学園広場 舟木一夫
若いふたり 北原謙二
青春の城下町 梶光夫
新宿そだち 津山洋子、大木英夫
東京へ戻っておいでよ 守屋浩
ソーラン渡り鳥 こまどり姉妹
哀愁海峡 扇ひろ子
からたち日記 島倉千代子
ご冥福をお祈りします。
BLUE/青い鳥③ [color sensation]
♪僕は青い鳥
今夜もだれか捕まえに来るよ 銀の籠を持ち
僕は青い鳥
だれかの窓辺に歌うよ 銀の籠の中で
幸せを追いかけて 人は変わってゆく
幸せを追いかけて 狩人に変わってく
青い鳥 青い鳥 今夜も迷子
(「僕は青い鳥」詞、曲、歌:中島みゆき、昭和61年)
メーテルリンクの「青い鳥」では、幸福の鳥とは実はハトだった、というある種ガッカリ話のオチ(じゃないよね)がありましたが、フランスにはこんな「青い鳥」の伝説があるそうです。
聖書ではノアの箱船のノアが緑なる大地の存在を信じて船からハトを飛ばし、ハトがオリーブの枝(ピースの絵柄)をくわえて帰ってきたのでそれを確信したという話があります。実はこの話には続編があって、ノアはハトを飛ばしたあと、あまりに戻ってくるのが遅いので、続いて灰色のカワセミを飛ばします。
ところがその直後ハトが戻り、船は無事陸地に着いたので、動物たちと共に上陸したノアは船を壊してしまいます。
可哀想なのはカワセミで、大海の上で船を探しますが見つかりません。大空を彷徨うカワセミのお腹は太陽に焼かれて赤くなり、背中は青空に染まって青くなったとか。
あのトボケた長いくちばしを持ったカワセミが“幸せの鳥”とはまるで思えませんが。
ところで日本には600種類以上の鳥がいるといわれていますが、どうやら「青い鳥」は見あたりませんし、そうした伝説もないようです。それでも明治時代に輸入された“幸せの青い鳥伝説”は定着しているようで、最近の流行歌にもしばしば登場します。昔ながらの青い鳥=幸福というシンプルな歌ばかりでなく曲解、いや新解釈したものも含め現代日本の青い鳥を。
まずはオーソドックスな「青い鳥」の歌。
♪キラキラ降りそそぐ 木漏れ日の隙間に 僕等は青い鳥を見たよ 「青い鳥」藤井フミヤ
幸せを探すカップルのラブソング。青い鳥は消えても二人の愛は永遠にと。
♪いつの日にも明日は来るから 青い鳥はきっとそばにいる 「Bluebird」今井美樹
これもそう。ふとしたことで失くしてしまった“青い鳥”。こういう場合だいたい青い鳥とは愛だの恋だの。とくに女性の場合はね。でもいつか癒されて、また青い鳥を見つけることができる、って自分を励ましている。最近の若い人がよくつかう「頑張れ、自分」ってヤツですか。
♪青い鳥の不満は イカレた森に響く 「青い鳥はいつも不満気」AJICO
長いイントロ、現代のサイケというか前衛音楽風。詞は多分に言葉遊びの感が強いですが、歌の印象は今風カップルの乾いたラブソング。強引に解釈すれば青い鳥は彼らのこと。一見幸福そうなんだけど満たされない。でもたいした問題じゃない、っていうような? UAの声、うたい方は好きだし、こういうのもたまにはいい。でもこればっかだと頭の方がイカレちゃうけど。
♪飛べないブルーバード すべてをゼロに戻して歩いてゆく 「飛べないブルーバード」小比類巻かほり
もはや懐かしの80年代ディスコサウンド。
ブルーバードは自分のこと。なんで自分が幸せの鳥なのか。ただし、“飛べない”って冠がつくので本来幸福な存在なのにいまは不幸、ってことなのかな。“歩いていく”のは飛べないから仕方なく、ってことじゃないよね。
♪儚い命を抱いて カゴを捨てた青い鳥 「アオイトリ」平井堅
この青い鳥は一見自分のこと? つまり貴女のためならば今の幸せを捨ててもいいって。でも後半には♪さまよう二人残して 星に消えた青い鳥 って出てくる。これは二人の幸せや希望が消えたってことで、オーソドックスな青い鳥になってる。まぁ幸福という概念だって自分にとってのだから、自分のことでいいのか。サビの切実感は演歌と通底してます。
「青い鳥」は私。でも人間が自分を青い鳥に例えたのではなく、青い鳥を擬人化した歌が上にのせた中島みゆきの「僕は青い鳥」。その青い鳥が自分を捕まえに来る人間たちを憐れみ悲しんでいる歌。相変わらずドラマチックというか大げさな曲調は彼女の持ち味。スクリーンミュージックのような間奏がいいです。
浜崎あゆみにも「BLUE BIRD」が。しかし、これはラブソングというより“友だちの歌”。タイトルからも「青い鳥」というより「憂いの鳥」かも。
演歌だって。
♪俺の心に春を呼ぶ おまえはしあわせの青い鳥 「しあわせの青い鳥」山本譲二
「浪花節だよ人生は」に代表されるような、長調で調子のいい曲調は演歌の王道ソング。詞がまたしばしば耳にする“女房賛歌”。でもこの種の歌苦手で……。とくにカラオケで聞かされるのは耐えられませんです。
♪泣いたら駄目 死んだら駄目 それなりに青い鳥 「それなりに青い鳥」村上幸子
これまた「辛いおんなの人生航路」と演歌定番ソング。気は持ちようで、男に振られたって辛い出来事があったって、時には小さな喜びがある。それなりに幸せなんだよ、という謳演歌だったり応援歌だったり。
それを“それなりに青い鳥”と気の利いた歌詞にしたのは阿久悠。リズム歌謡は三木たかしの作曲と川口真のアレンジ。
村上幸子は新潟県村上市出身。昭和63年に「不如帰」のヒットがあるが、2年後31歳の若さで病死。幸子の幸は……。
♪男なんて淋しいもんだね どこかの空まで飛んでく青い鳥 「男なんて青い鳥」小林幸子
この青い鳥は幸福よりも自由を求める。たしかに男のある部分はそうかも。でもメーテルリンクの「青い鳥」は自由ではなく幸福の象徴なので、この歌では「青い鳥」を新解釈している。その作詞者はいかにもの荒木とよひさ。いまや演歌界の巨匠。ただこの歌に関しては♪近頃いい男に お目にかかれない とか ♪昔の男たちは 背中がシブかった などとどこかで聴いたことのある歌に似たフレーズ。まぁ、それだけ阿久悠が偉大だったということでしょうか。
メーテルリンクの戯曲「青い鳥」のラストシーンでは、青くなったハトにチルチルとミチルが餌をあげようとしたとき、ハトは大空へ逃げていってしまいます。そしてチルチルが観客に「どなたかあの青い鳥をみつけたら届けてくれませんか。僕たちが幸福になるためにはあの鳥が必要なんです」と語りかけて幕がおります。
えっ? 幸せ探しって最後は人に頼むの? 他力本願……。と思ったけど案外真理かも。