遊星王子の青春歌謡つれづれ

歌謡曲(青春歌謡)がわかり、ついでに文学と思想と歴史もわかってしまう、とてもためになる(?)ブログ。青春歌謡で考える1960年代論。こうなったらもう、目指すは「青春歌謡百科全書」。(ホンキ!?)

2012年10月

 「遊星王子」は遠い星からやってきました。ふだんは東京の街角の靴磨き青年に身をやつしています。アメリカの大都会の新聞記者になりすましているスーパーマンに比べると貧乏くさいけれど、これが日本、これが戦後です。
 宇宙から日本にやって来た正義の味方としては、スーパー・ジャイアンツには遅れましたが、ナショナルキッドよりは先輩です。
(またの名を落日の独り狼・拝牛刀とも申します。牛刀をもって鶏を割くのが仕事の、公儀介錯人ならぬ個人営業の「解釈人」です。)

 「青春歌謡」の定義や時代区分については2011年9月5日&12月31日をお読みください。暫定的な「結論」は2012年3月30日に書きました。
 この時代のレコードの発売月は資料によってすこし異なる場合があることをご承知ください。
 画像も音源もネット上からの無断借用です。upされた方々に多謝。不都合があればすぐ削除しますのでお申し出下さい。
 リンク先が消滅している場合は、ご自分で検索してみてください。youtubeの動画はアカウントを変えて「不死鳥のごとく」(!)よみがえっている場合が多いので。
 お探しの曲名や歌手名・作詞家名があれば、右の「記事検索」でどうぞ。
 なお、以前の記事にも時々加筆修正しています。
 *2015年2月23日
 「人気記事」を表示しました。直近一週間分の集計結果だそうです。なんだかむかしなつかしい人気投票「ベストテン」みたいです(笑)。(一週間じゃなく5日間じゃないのかな?)
 *2015年7月25日
 記事に投稿番号を振ってみました。ブログ開始から3年と11か月。投稿記事数426。一回に数曲取り上げた記事もあるので曲数は500曲ぐらいになるでしょう。我ながら驚きます。

藤純子「緋牡丹博徒」 彼女たちの旅路・番外(1) 付・行動(アクション)するヒロインたちと劇画的リアリズム

吉永小百合が完全に「自立」した「ひとり旅=人生」を歌った「わたしの生きる道」で青春歌謡に訣別したのが昭和43年(1968)4月。その5カ月後、颯爽と、かつ艶(あで)やかに、「ひとり旅」をつづける女性ヒロインが登場しました。藤純子が演じた緋牡丹お竜こと矢野竜子。
緋牡丹博徒1・68 映画「緋牡丹博徒」が公開されたのは昭和43年9月でした。ただちに観客の絶大な支持を受けてシリーズ化されます。
 時は日露戦争前後。矢野竜子は肥後熊本の博徒の娘で小太刀の名手。堅気の男に嫁ぐはずが、父親を闇討ちされた仇を討つため、緋牡丹の刺青を入れて旅に出るのが第一作。見事仇を討って矢野組二代目を襲名しても、彼女の修行の旅は続きます。
 橋幸夫「残侠小唄」の項で書いたように、1960年代半ばから、時代劇の東映は任侠映画の東映へと路線転換します。中村錦之助や大川橋蔵に代わって、高倉健や鶴田浩二が着流しやくざで主役を張ります。
 しかし、時代劇にせよ任侠映画にせよ、活劇(アクション)の中心が人間を殺傷する暴力であることに変わりはありません。女性は暴力をこうむる客体にはなっても、暴力を行使する主体=主役にはなりにくい。だから時代劇では女優は添え物です。東映では丘さとみ、桜町弘子、大川恵子の「東映城の三人娘」が町娘やお姫様を演じました。大映では山本富士子が「人肌孔雀」(昭33)「人肌牡丹」(昭33)などで男装美剣士を主演しましたが、東映では、美空ひばりを別にすれば、大川恵子が「姫君一刀流」(昭34)で主演したぐらいのものでしょう。その「姫君一刀流」も残念ながらモノクロでした。
 60年代初頭までのチャンバラは、アクションというより、まだ日本舞踊的な型=様式のチャンバラでした。つづく集団抗争時代劇はヒーローも消し様式も壊しました。任侠映画は再びヒーローと様式を回復させましたが、それでも時代は60年代後半、立ちまわりでは肉を斬る効果音も使えば血糊もふんだんに使います。リアリズムです。しかもどんなに美しくとも、ヒロインは「姫君」どころか、やくざなアウトロー。彼女が歩くのも無法者らがたむろする裏街道。そういう設定のなかで、あくまで女としての慎みと気品を失わない藤純子の小太刀の舞いは見事でした。
 (「緋牡丹博徒」シリーズの大ヒットにあやかって、大映では江波杏子や安田道代が、日活では扇ひろ子が、女賭博師や女渡世人を演じました。しかし、この気品を出せないために、彼女らの世界はどうしても「汚れ」が目立ちます。なお、日活では松原智恵子主演で「侠花列伝」(昭44)を作ったりしましたが、松原智恵子では無理がありました。)
 では、藤純子が歌う主題歌「緋牡丹博徒」。こちらで聴きながらお読みください。wins2routerさんに感謝しつつ無断リンクします。

藤純子・お竜藤純子「緋牡丹博徒」
  昭和43年発売
  作詞・作曲:渡辺岳夫 編曲:薊けいじ
 一 娘盛りを 渡世にかけて
   張った体に 緋牡丹燃える
   女の 女の 女の意気地
   旅の夜空に 恋も散る
 二 鉄火意気地も 所詮は女
   濡れた黒髪 緋牡丹ゆれる
   女の 女の 女の未練
   更けて夜空に 星も散る
 三 男衣裳に 飾っていても
   さしたかんざし 緋牡丹化粧
   女の 女の 女の運命(さだめ)
   捨てた夜空に 一人行く

 作詞作曲した渡辺岳夫はテレビドラマやテレビアニメ、映画などの音楽や主題歌を多く手掛けました。作詞もしています。
まぼろし探偵・加藤弘・吉永小百合 子供心になつかしいところでは、少女時代の吉永小百合が出演したテレビ「まぼろし探偵」(昭34-4~昭35-3KRTテレビ)の音楽も(途中から)担当しました。(34年2月からはラジオドラマも開始。)右にその画像も入れておきます。まぼろし探偵役の加藤弘と吉野さくら役の吉永小百合です。
 (なお、渡辺岳夫が担当したのは主題歌ではなく、あくまでドラマの音楽担当。「♪赤い帽子に黒マスク」でおなじみの「まぼろし探偵」の主題歌の歌詞は、一般公募で2418通の応募の中から選ばれた「岩手県花巻小学校六年生の照井範夫君」の作詞。山本流行が補作詞しました。その二番、「♪親にしんぱいかけまいと/あっというまの早がわり」。牧歌的な昭和30年代のよい子たちのヒーローでした。作曲したのが渡辺浦人。渡辺浦人は岳夫の父親でした。)
 さて、「緋牡丹博徒」。歌詞は、サビで「女」を繰り返し、女でありながら切った張ったの渡世の道を歩むせつなさを強調します。藤純子の音程は少し不安定ですが、それが聴き手をちょっとハラハラさせて、緋牡丹お竜の危うい道行きを見守るときの心理にも似て、魅力です。
 「一人行く」渡世の旅ですが、彼女は独力で暴力の世界を制圧するわけではありません。それでは「女」でなくなります。いざという時には、必ず、高倉健や菅原文太が、お竜を助けるために登場します。お竜はひそかに彼らに心を寄せ、彼らもまたお竜に心魅かれもします。しかし、お竜が彼らと結ばれることはありません。殴り込みのすさまじい血の嵐のなかで、お竜が心を寄せた男たちは必ず死ななければなりません。死ねなかった男はお竜の分まで殺傷の罪をかぶって獄に入らなければなりません。お竜は性的にも法的にも「汚れ」てはならないからです。しかし、そのために、お竜の「恋」は必ず「散る」のです。それが映画の文法であり、ヒロイン・お竜の「運命(さだめ)」というものです。
 古代ギリシャには、狩猟の女神として弓矢を使う処女神アルテミスがいました。小太刀を使う緋牡丹お竜は、いわばアルテミスのごとき「永遠の処女神」でした。高倉健も菅原文太も鶴田浩二も、さらには不死身の藤松(待田京介)もシルクハットの熊虎親分(若山富三郎)も、男たちはみな、この「永遠の処女神」を守るために命を賭けたのでした。
 坂本九「上を向いて歩こう」の項で、映画「上を向いて歩こう」で混乱したドラマにたった一声で大団円をもたらす吉永小百合は古代ギリシャ劇の「機械仕掛けの神」にも比すべき女神なのだ、と書きました。
 吉永小百合も女神なら、藤純子も女神です。戦後日本映画の女神はこの二人だけです。
 (藤純子は昭和20年12月生まれ。吉永小百合と同年で一学年下。お竜さんがスクリーンに登場した時、藤純子は23歳でした。)
 「緋牡丹博徒」シリーズは藤純子が昭和47年(1972)に引退するまで、全8作が作られました。
 藤純子の引退は、NHK大河ドラマ「源義経」での共演が縁で梨園の御曹司・尾上菊之助と結婚するためです。
 その引退記念映画「関東緋桜一家」は、無声映画時代からの娯楽映画の巨匠、任侠映画でも高倉健主演「昭和残侠伝・死んで貰います」(1970公開)などの名作を撮ったマキノ雅弘がメガホンを取り、高倉健や菅原文太、鶴田浩二はもちろん、御大・片岡千恵蔵まで、オールスター映画として作られました。そのラストシーン、片岡千恵蔵に促された藤純子が「みなさん、お世話になりました」と深々と頭を下げて、高倉健と所帯を持つために立ち去っていきます。もちろん彼女はスクリーンの中の町衆に礼を述べると同時にスクリーンの外の観客にも別れを告げたのです。マキノ雅弘の心にくい演出でした。好きな男と結ばれるとき、「処女神」は消えるのです。
 「関東緋桜一家」で藤純子が引退したのが1972年3月。その5カ月後の1972年8月には、さらに殺伐とした現代に舞台を移して、梶芽衣子主演の「女囚701号さそり」が封切られます。血しぶきの中でも汚れることのない気品を保っていた藤純子の時代は去り、凄まじい修羅の世界を生きる「汚れた」ヒロインの登場です。(梶芽衣子はすでに1970年からチンピラ・アウトローもの「野良猫ロック」シリーズに主演していました。さらに1973年には映画「修羅雪姫」にも主演します。)
 ともあれ、女性の「自立」によって青春歌謡が終わった昭和43年(1968)、暴力の世界を「ひとり」生きるヒロインが誕生したのでした。「彼女たちの旅路」テーマの番外として、「緋牡丹博徒」を取りあげた理由です。
 (ついでに、暴力(アクション)の主体としての強い女たち、ということで付け加えれば、テレビでお色気アクション物「プレイガール」が始まるのは1969年の4月でした。藤純子の慎みと気品などかけらもなく、ミニスカートでパンツをちらつかせるこちらは、女性の「自立」に伴う身体(=性)の解放の延長上に登場したものです。
 さらにもう一つ、1969年には松山容子の映画「めくらのお市」も封切られています。これは、この映画が縁で松山が結婚することになる棚下照生原作の劇画の映画化でした。梶芽衣子の「修羅雪姫」の原作が上村一夫の劇画だったこととも合わせて、劇画的過激描写による新しいリアリズムの時代、つまり劇画的リアリズムの時代の到来を象徴するものです。劇画的リアリズムもまた、舟木一夫「花の応援」の項などで書いたとおり、感覚刺激を増幅しつづける60年代末の身体の解放の現れの一つです。
 リアリズムとは現実そのもののことではありません。現実の再現の仕方、認識の仕方のことです。だからそれは時代によって変わります。一般的には、感覚刺激を強化する方向に変わるのが普通です。
 私は、60年代末のいわゆる新左翼過激派の世界認識を支えた感受性も劇画的リアリズムみたいなものだったと思っています。彼らはバリケードの中で劇画中心になった少年漫画雑誌を回し読みしていたし、とりわけ、1970年3月31日、日本航空機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派メンバーたちは「われわれは明日のジョーである」という子供じみた声明を残していました。もちろん、高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画で「少年マガジン」に連載された「あしたのジョー」(68年連載開始)です。
 それはもう「リアリズム」というより「ロマン主義」です。それも、「革命的ロマン主義」などと御大層な言葉を使うよりは、劇画的想像力とでもいった方が実態に近いようなものだったでしょう。
 (ハイジャック事件発生の翌日4月1日、韓国金浦空港での犯人グループとの交渉が続くさなかに、テレビアニメ「あしたのジョー」の第1回の放送が始まりました。皮肉にも、寺山修司が作詞し尾藤イサオが歌ったその主題歌の最後のフレーズは「あしたはどっちだ」。世界革命戦争という「あした」のための拠点作りを目指したはずの彼ら9人でしたが、結局は「あした」の方角を見失って迷走しただけだったようです。彼らの中には日本人拉致に手を貸した者もいます。北朝鮮の「赤軍化」を掲げながら、北朝鮮体制に取り込まれただけ。矢吹丈のように「燃え尽きる」まで闘ったとは、とても思えません。)

吉永小百合「夕陽のマリア」 彼女たちの旅路(11)・吉永小百合の歩み(4)

青春歌謡の観点から女性の「自立」の軌跡をたどるこのテーマも、本日をもって締めくくります。
 前回の「わたしの生きる道」(昭43-4)は吉永小百合の青春歌謡との決別を告知した作品でした。
 では、吉永小百合の最後の青春歌謡は? それが今日紹介する「夕陽のマリア」(昭43-2)です。
 しかし、あいにく、いまyoutubeにはありません。歌詞だけ紹介します。

吉永小百合・夕陽のマリア吉永小百合「夕陽のマリア」
  昭和43年2月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:大野正雄
 一 アカシアの花散るさいはての道
   さ霧は降る降る夕陽は沈む
   瞼を閉じれば瞼が熱い
   抱いてるギターも悲しく静か
   ああ ああ若き日の 若き日の悩みを唄う
 二 アカシアの花散るそよ風の道
   何にもいらない淋しいけれど
吉永小百合・街のハト (2)   こうしてわたしはおとなしくして
   夕陽の山脈(やまなみ)眺めていたい
   ああ ああ若き日の
   若き日の悩みの旅路
 三 アカシアの花散る十字架の道
   悩みにたえかね幾人(いくたり)来たか
   夕べの祈りのマリアの鐘が
   並木の梢を清らにわたる
   ああ ああ若き日の 若き日の悩みに涙

 「悩み」を抱いた若い女性が「さいはて」の地の教会を訪ねます。「ひとり旅」です。
 彼女の「悩み」に恋愛も含まれるかもしれませんが、恋愛テーマも表には出ません。「若き日の悩み」が恋愛に限定されるはずはないからです。その意味で、「悩み」は「青春の悩み」一般吉永小百合・ギターとして、人生的な広がりへと開かれています。実際、彼女以外にも「幾人」もが「悩み」を抱えてこの教会を訪れたはずなのです。(しかしこの「旅路」が直接に人生アレゴリーを含むわけではないので先日のリストに入れてありません。)
 「さいはて」は北海道でしょう。広大な平原のイメージを喚起するように、かき鳴らす伴奏のギターがちょっと西部劇のテーマ音楽を思わせるリズムを刻みます。冒頭から女声コーラスが「ああ ああ」と彼女の詠嘆を唱和します。
 アカシアの花を散らせ、さ霧を降らせ、夕陽を沈ませ、佐伯孝夫の詞も抒情的な風景を描き出します。その風景の中心に教会があります。
 何度も書いたように、明治日本のロマン主義はキリスト教思想の影響とともに始まり、戦後の大衆的ロマン主義の表現としての青春歌謡もまたキリスト教イメージを多用しました。吉永小百合の最後の青春歌謡が「マリアの鐘」を鳴らしたのは象徴的だったことになります。(「和風」に徹した舟木一夫は、敢えて、「京の恋唄」(昭44-2)で、青春歌謡の時代を弔う仏教寺院の梵鐘を鳴らしましたが。)
 ギターを抱えたひとり旅となれば、小林旭の渡り鳥シリーズを代表する主題歌「ギターを持った渡り鳥」を思い出します。しかし、映画・渡り鳥シリーズは昭和34年(1959)の「ギターをもった渡り鳥」から昭和37年(1962)の「渡り鳥故郷へ帰る」までの全9作。つまり、青春歌謡以前です。
 渡り鳥シリーズの時代にはギターを抱えて旅をするなど、日本中でもスクリーンの中の小林旭ぐらいだったでしょうが(笑)、吉永のこの曲は昭和43年(1968)。青春歌謡も終る60年代末です。若い娘がギターを抱えてひとり旅をしてもさして違和感のない時代が来ていました。ギターはフォーク・ギターでしょう。ユースホステルなどを使った旅だったのかもしれません。(今日の画像には、この時期の、ギターを抱えた吉永小百合の画像を並べてみました。)
 私は特に、二番の「おとなしくして」が好きです。以前にも書いたとおり、こういう、詩語とは思われていなかったありふれた俗語を平然と用いて詩的な効果を挙げるのが佐伯孝夫の才能です。70年代からはフォークソングやニューミュージックによって流行歌の歌詞の世界も口語自由詩(的)になりますが、佐伯孝夫は歌謡曲の枠内で「口語(自由詩)の時代」を先取りした作詞家でした。
 ところで、「ひとり旅」を歌った吉永の歌には、これ以前に「哀愁のアムステルダム/風車のある街」(昭41-6両曲とも佐伯孝夫作詞)があります。これは映画「風車のある街」の主題歌と挿入歌。海外旅行の「哀愁=旅愁」です。
 国内旅行なら、それ以前に、「愛と死のテーマ」(昭39-7)のB面曲「乙女の旅愁」(佐伯孝夫作詞/吉田正作編曲)があります。文字通り、列車で旅する「乙女」の漠然たる「旅の愁い」と漠然たる「あこがれ」の詞でした。その「愁」になんの実質もありません。彼女の「ひとり旅」はまだ無邪気な旅だったのです。
 また、キリスト教テーマでは、もっと早く、同じ佐伯孝夫の詞で、「サンタ・マリアの鐘」(昭37-7佐伯孝夫作詞/吉田正作編曲)という曲もありました。デビュー曲「寒い朝」につづく二枚目のレコード「草を刈る娘」のB面曲です。
 その一番の歌詞は以下のとおりです。
吉永小百合・草を刈る娘  サンタ・マリアの鐘が鳴る
  童貞(おとめ)を守る白百合の
  花の心に生きながら
  ああ、マリアさま マリアさま
  おゆるし下さいあの人の
  ささやくような声をきく
 「学生時代」のペギー葉山は「賛美歌を歌いながら清い死を夢見た」と歌っていましたが、こちらはもっと信仰に徹して、修道院に入った少女のようです。生涯の「童貞」を誓った彼女が「あの人(男)」を好きになってしまい、その罪の苦しさをマリアに告白する、という設定です。
 (処女にして神の子を懐胎したという聖母マリアこそは「童貞女=処女」の守護者です。白百合は、キリスト教ではそのマリアに捧げる花、つまり、女性の純潔のシンボルです。なお、「童貞」は本来、いまだ性交を経験しない童の貞操=純潔、という意味。男女両性に用います。)
  歌手デビュー直後の吉永小百合は、北風の中を歩くデビュー曲「寒い朝」のB面「人の知らない花」では「夢の人」が「摘みにくる=抱いてくれる」のを待つシンデレラ願望を歌い、健康な田舎娘を歌った二枚目シングル「草を刈る娘」のB面では修道女の設定でこんな聖女願望とその苦悩を歌っていたのでした。佐伯孝夫をはじめとする大人たちが、まだこの少女スターの方向性を見定めきっていなかったことの表れでしょう。
 その六年後、佐伯孝夫は、哀愁と抒情を帯びた「ひとり旅」の歌「夕陽のマリア」で、吉永小百合の青春歌謡を締めくくったのでした。事実、これが、佐伯孝夫が吉永小百合のために書いた最後の歌詞になりました。

吉永小百合「わたしの歩く道」 彼女たちの旅路(10)・吉永小百合の歩み(3)

前回リストアップした吉永小百合の「人生=旅路」テーマの曲の中から、今日は「わたしの歩く道」を紹介します。
 こちらで聴きながらお読みください。1950murasakiさんに感謝しつつ無断リンクします。(以下の歌詞は耳で聴いて記したものです。)

吉永小百合・わたしの歩く道吉永小百合「わたしの歩く道」
  昭和43年4月発売
  作詞:なかにし礼 作曲・編曲:鈴木邦彦
 一 どこへ行くのか 知らないけれど
   わたしは歩く 歩く 歩く
   愛の灯(ともしび) 胸にかざして
   道なき道を 歩く 歩く
   道に迷った 旅人が
   山小屋の灯(あか)りを 探すように
吉永小百合・青春の風・チラシ   生きる幸せ 求めながら
   わたしはわたしの 道を歩く
 二 今日も明日(あした)も 険しいけれど
   わたしは歩く 歩く 歩く
   闇に光を 涙に歌を
   嵐に虹を 虹を 虹を
   波に巻かれた 舟人が
   灯台の灯りを 探すように
   生きる喜び 求めながら
   わたしはわたしの 道を歩く

 「道」「旅」「歩く」「生きる」。「人生=旅路」のすべてのキーワードが出そろっています。
 ひたすら「歩く」だけの完全な「ひとり旅」です。
 女性歌謡の「ひとり旅」に付き物の「恋愛」テーマもありません。(恋愛テーマは男性への依存を引きずります。)
 なるほど「愛の灯胸にかざして」と歌いますが、歌詞全体が一般的な「人生」の寓喩で統一されている以上、この「愛の灯」を特定の誰かへの恋心と読むべきではありません。もっと広い意味での「愛」です。
吉永小百合・青春の風2 女性は男性のように「野望(事業)」に生きはしません。女性の旅=人生はあくまで「愛」の旅。たとえどれほど「険しい」旅路であろうと、「闇」や「嵐」や「波」の中の旅路であろうと、彼女の内なる「愛」の能力だけは、彼女の足元を照らしつづけてくれるのです。これは、そういう意味での「愛」です。
 その点で、1年後の「愛ある限り」ともちがいます。「愛ある限りの「ひとり旅」は、切実に、共に生きる男性パートナーの「愛」を求めています。
吉永小百合・青春の風・和泉・山本 また、前回書いた「風の中を行く」「風の中の青春」の吉永の「ひとり旅」は、「あなた(男)の言葉」に導かれての旅路でした。対して、こちらは自分の胸中の「愛の灯」だけが頼りの純然たる「自力」の「ひとり旅」なのです。
 しかも、この曲にはコーラスが伴いません。前回掲げた吉永の「旅=人生」テーマの曲目リストを見直して下さい。彼女がコーラスなしでソロで歌うのはこの曲が初めてなのです。歌唱形式上でも完全に「ひとり立ち」しました。
 これは「鏡の中の私」(なかにし礼作詞/鈴木邦彦作曲/川口真編曲)のB面曲でした。しかし私は、これが吉永小百合の青春歌謡の終りを告知した歌だと思っています。(実質的にも、これ以後、吉永に青春歌謡らしい曲はありません。この半年後に「風の中の青春」(昭43-10)がありますが、これは既述のとおり「風の中を行く」(昭42-11)の詞を一部修正しただけのものです。)
 A面もこのB面も、作詞がなかにし礼、作曲が鈴木邦彦。青春歌謡のスタッフではありません。そのこと自体、吉永小百合の青春歌謡との「訣別」を示すものです。
 そもそも、なかにし礼と鈴木邦彦は、前年から、「恋のハレルヤ」(昭42-2)「乙女の祈り」(昭43-1)と、黛ジュンの「ひとりGS」的な曲を手がけつづけ、さらに、吉永のこの曲の翌月には、この年のレコード大賞を受賞する黛ジュン「天使の誘惑」(昭43-5)を発表することになる二人でした。
 なかにし礼は、プロの作詞家になる以前、ずっとシャンソンの訳詞を手がけていました。そういえば、「愛の灯」「山小屋の灯り」「闇」「光」「嵐」「虹」「波に巻かれた舟人」「灯台の灯り」といったメタファーをふんだんにちりばめながら全体を「人生」の寓意に仕立てるこの詞の手法は、シャンソン風、といえるかもしれません。
 以前、舟木一夫「学園広場」の項に追記した水村美苗『母の遺産――新聞小説』の一節をもう一度引用しておきます。
 今の世の流行り歌は、若者を相手に、ひたすら若者の世界を歌う。流行り歌に瞬時に大群で飛びつく若者こそ、歌という商品の王者だから、当然である。それにひきかえ、一時代昔のシャンソンは、若さに一歩距離を置き、若さとはどういうものか、そして、いくら抗(あらが)おうとその若さがすぐに消えてしまうものであるのを教える。その悲哀こそが人生の妙であると教え、人生を謳いあげる。すでに人生を生きた人のための歌であった。
 シャンソンの代表曲「枯葉」などを思い浮かべれば、水村の言うことはよくわかります。
 もちろん、若い吉永小百合は「すでに人生を生きた」とは言えません。なかにしの詞は、あくまで、人生を手さぐりで進む若い女性のためのものです。
 しかし、純然たる「人生」テーマに徹した時、青春歌謡も終るのです。青春歌謡の詞の生命線は、「いまだ人生を知らない」若者の「夢」と「感傷」の「甘さ」なのですから。
 「勇気あるもの」の項で、吉永小百合と舟木一夫が同学年だったことを記しました。そして、舟木一夫の青春歌謡の終りを告知したのは「残雪」でした。「残雪」は吉永のこの曲の一ヶ月前、昭和43年3月の発売です。女性の青春歌謡を常にリードしてきた吉永小百合と「学園ソング」によって本格的な青春歌謡の時代を到来させた舟木一夫は、期せずして、昭和43年初頭、ほぼ同時に、青春歌謡の終りを告知していたのです。
 (なお、この頃、英語の曲で、日本でも大ヒットした「人生」テーマの曲に「マイ・ウェイ(My Way)」があります。これも元はフランス後の歌(シャンソン)で、日本語に訳せばそれこそ「わたしの歩く道」ですが、フランク・シナトラのレコードが発売されたのは1969年(昭和44年)の初めだそうです。日本語ヴァージョンが広く歌われるようになるのは70年代になってからです。)
 (「わたしの歩く道」のレコードジャケット写真は小さいものしかないし、純然たる「人生」テーマでは花も足りません。そこで、A面の「鏡の中の私」が映画「青春の風」(昭43-3公開)の主題歌として使われたそうなので、映画「青春の風」のチラシ1枚とスチール写真2枚を入れてみました。吉永、和泉雅子、山本陽子の三人は短大の颯爽たるフェンシング部員でした。)

吉永小百合「風の中を行く」&「風の中の青春」 彼女たちの旅路(9)・吉永小百合の歩み(2)

吉永小百合の曲で、「旅(旅路)」「道」「歩く」といった言葉が「人生」や「生きる」の寓喩となっている曲をリストアップしてみます。(*印は歌詞の全体ではなく一部だけに寓喩を含むものです。A、BはA面曲かB面曲かを示します。旅の性質(複数(「みんな」or「ふたり」)か「ひとり旅」か)、コーラス(男声、女声、混声)の有無、も記しておきます。その意味は次回わかります。)

 ★「太陽はいつも」s38-3 B ひとり 男声 
 ★「勇気あるもの」s41-10 A 複数(友) 男声 
 ★「みんなで行こう」s42-3 B 複数(みんな) 男声 
 *「恋の歓び」s42-9 A 複数(二人) 女声
 ★「娘たちはいま」s42-11 A 複数(二人or一緒に) 男声 
 ★「風の中を行く」s42-11 B ひとり 混声
 ★「わたしの歩く道」s43-4 B ひとり ソロ
 ★「風の中の青春」s43-10 A ひとり 混声
 *「愛ある限り」s44-3 A ひとり 男声

 勇気あるもの」を転機に、「人生」テーマが集中的に現れるようになったことが明らかです。
 しかも、「風の中を行く」「わたしの歩く道」「風の中の青春」は、青春歌謡通有の「みんな=友情、連帯」の旅路ではなく、「あなたと二人=恋愛」でもなく、「ひとり」の旅路=人生です。
 初期に「太陽はいつも」が一曲だけ「ひとり」の旅ですが、これは映画主題歌「雨の中に消えて」のB面です。各連「忘れちゃいけない 出発しようよ」と歌い出します。つまり、呼びかけです。自分自身への呼びかけでもありますが、同時に、同世代の「みんな」に向けての呼びかけでもあります。英語の呼びかけ「Let'u」が「Let us」、「us(我々=みんな)」への呼びかけであるのと同じです。だから、「太陽はいつも」も、二番では「いつか出来るよ道連れも」と歌い、三番では「いざ行こう」と再び「いざ」という呼びかけをします。「ひとり」でありながら「みんな=連帯」を潜在させているのです。青春歌謡の基本形です。
 それが、以下に述べるように、「風の中を行く」以後はその呼びかけがなくなって、自立した「ひとり旅=人生」の歌になります。しかも、「風の中の青春」では、この「ひとり旅」が初めてレコードのA面になるのです。   
 「ひとり立ち」した若い女性の「人生」テーマの出現は、戦後大衆文化の女性表現の歴史において、重要な意味を持ちます。もちろん青春歌謡にとっても、青春歌謡が「大人」になった徴です。そして、吉永小百合が「大人」になったとき、「青春歌謡の時代」も終るのです
 (昭和20年3月生まれの吉永小百合は昭和43年に23歳。同年代のほぼ大学卒業年齢に当たります。吉永には大学を卒業する感慨を歌った「さようなら青春」(昭45=1970-7)という曲もあります。実際に吉永が早稲田大学第二文学部西洋史学専攻を正規の四年間で、しかも次席で卒業したのは昭和44年3月のことでした。そして吉永は、1971年には歌手活動からも「卒業」します。)
 今日は、上記リストの中から、「風の中を行く」と「風の中の青春」を取り上げます。
 まず、「風の中を行く」。モノラル録音ですが、こちらで聴きながらお読みください。sweetiwsallychanさんに感謝しつつ無断リンクします。

吉永小百合「風の中を行く」
  昭和42年11月発売
  作詞:なかにし礼 作曲・編曲:吉田正
吉永小百合・娘たちはいま 一 白い風の中で あなたを想う
   あなたの言葉を かみしめる
   強く生きろと あなたは言った
   いつも笑えと 私に言った
   白い吹雪に 消えたまま
   あなたは帰って来ないけど
   あなたの言葉は 生きている
 二 白い風の中を 私は歩く
   あなたの言葉に ついて行く
   前へ進めと あなたは言った
   夢を持てよと 私に言った
   雪の谷間に 消えたまま
   あなたは帰って来ないけど
   あなたの言葉は 生きている
     白い樹氷の 花かげに
     あなたは帰って来ないけど
     あなたの言葉は 生きている
 
 次に、一年後の「風の中の青春」。題名がよく似ていますが、実は、まったく同じ曲です。ただ、歌詞だけが一部異なります。なかにし礼が一部書き換えたのです。このこと自体、とても珍しいケースです。
 こちらで、テレビドラマ「風の中を行く」から録音されたテープ音源で聴くことができます。これもsweetiesallychanさんに感謝しつつ無断リンクします。

吉永小百合「風の中の青春」
  昭和43年10月発売
  作詞:なかにし礼 作曲・編曲:吉田正
吉永小百合・風の中の青春 一 白い風の中を 私は歩く
   ひとりで涙を かみしめる
   強く生きろと あなたは言った
   いつも笑えと 私に言った
   風に吹かれて 今日もまた
   幸せ求めて どこまでも
   いつかは あなたに 逢えるだろう
 二 白い風の中を 私は歩く
   あなたの言葉に ついて行く
   前へ進めと あなたは言った
   夢を持てよと 私に言った
   風に吹かれて 今日もまた
   青空求めて 見上げれば
   あなたの瞳が 呼びかける
     風に吹かれて 歩く道
     この道 いばらの道だけど
     かならず あなたに 逢えるだろう

 「風の中を行く」は以前書いた「娘たちはいま」のB面曲。「風の中の青春」は「恋のサンタモニカ」をB面にしたA面曲です。
 CD全集「吉永小百合ベスト100」の解説者は「風の中を行く」が吉永が独立=「ひとり立ち」して設立した吉永事務所初制作の連続テレビドラマ「風の中を行く」の主題歌だった、と書いていますが、それは間違いです。また、sweetiesallychanさんが、テープ録音曲のタイトルを「風の中を行く」としているのも間違いです。
 sweetiesallychanさんのテープはまぎれもなくドラマ「風の中を行く」からの録音。つまり、ドラマ「風の中を行く」の主題歌は「風の中の青春」だったのです。
 どうもこんがらかってしまいそうですが、整理すればこういうことだろうと推測します。
 まず、「娘たちはいま」のB面曲として「風の中を行く」が発表された。
 その一年後、吉永事務所初制作のテレビドラマのタイトルが「風の中を行く」と決まった。(原作は白川渥の小説「ここは静かなり」だというので、タイトルは吉永とともにスタッフが考えたのでしょう。たしかに、予想される困難や試練の中を進もうとする「独立=ひとり立ち」した吉永の出発にふさわしいタイトルです。)
 しかし、一年前に同名歌謡曲「風の中を行く」がありました。それを承知で決定したドラマタイトルだったはずですが、歌謡曲は「あなた」が雪山で死んだという特殊な設定の歌詞になっていてドラマ内容と食い違うので、そのままでは使えません。そこで、作詞したなかにし礼が一部の詞を書き変えて、ドラマにも使える一般的な青春歌謡に仕立て直した。歌詞が異なるのでタイトルも「風の中の青春」に変更し、ドラマ放映に先立って、今回はA面扱いにして発売し、ドラマの主題歌としても使用した。その結果、この混乱が生じた。
 以上は推測ですが、たぶん当たらずといえども遠からずでしょう。
吉永小百合・風の中を行く・名古屋テレビニュースs44-2 テレビドラマ「風の中を行く」は昭和42年2月から5月まで13回放映。右に、「名古屋テレビニュース」昭和44年2月号の記事を掲げておきます。吉永は学校の新任教師役だったようです。歌詞の中の「あなた」がドラマの人物と関係があるのかどうかはわかりません。
 さて、こんがらかった話はここまでとして、二つの詞を比べてみましょう。
 「白い風」の「白」は、一般的には秋の爽やかに引き締まる風のイメージでしょうか。(中国の陰陽五行説による宇宙論では、四季に色を配当して、秋のことを「白秋」と言います。北原白秋の白秋です。春は「青春」。夏は「朱夏」。冬は「玄冬」(「玄」は黒)。)
 しかし、雪山で死んだ「あなた」を想う「風の中を行く」の設定では、雪(吹雪)の白かもしれません。
 恋人は死んだが、恋人の言葉は彼女の心に生きている。彼女はその言葉をゆるぎない人生の指針として「風=試練、抵抗」にも負けずに歩みつづける、というのです。
 一方、その特殊設定を廃した「風の中の青春」では、あなたのイメージはややあいまいになります。恋人なのか、むしろ、人生の指針を与えてくれた「師」ともいうべき人なのか。そのあたりが定かでなくなり、「強く生きろ」「いつも笑え」の命令形が際立ってきます。対等の恋人というより、上位の先輩や「師」としてのイメージが強くなるのです。
 先日の倍賞千恵子「虹につづく道」は、この「道」は「あの人につづく道」なのだ、と歌っていました。「あの人」は、ドラマの設定に引き寄せれば、ドラマで看護婦という職業の魅力と尊さを教えた先輩看護婦という解釈も可能でした。
 同様に、「風の中の青春」の「あなた」も、ドラマの中で教員になったヒロインにとって、教師の魅力と尊さを教えた文字どおりの「師」である、と考えることも可能になります。「あなたの言葉について行く」、この「道」をすすめば「かならずあなたに逢えるだろう」。要するに、この「道」が「あなたにつづく道」だということを意味しています。
 ともあれ、大事なことは、「あなた」の像が定かでなくなった分、恋愛テーマから解き放たれて、人生テーマが前景化した、ということです。それを象徴するのが、なかにしが最後に書き換えたフレーズ「この道いばらの道だけど」です。この「いばら」は、もちろん、人生に付きまとう苦難・困難です。「ひとり立ち」してまっすぐ歩もうとする若い女性の決意です。(先日言及しておいたとおり、高田美和までが唯一の人生テーマの曲「きみとぼく」(昭43-1)を歌うのも、上記のような背景があるからです。)
 なかにし礼が初めて吉永小百合のために書いた詞でした。(私がこのブログでなかにし礼の詞を取りあげるのも初めてです。)  

吉永小百合「娘たちのこよみ」 彼女たちの旅路(8)・吉永小百合の歩み(1)

女性青春歌謡の歩みはそのまま吉永小百合の歩みです。だから、このテーマの最後は吉永小百合で締めくくります。
 デビュー曲「寒い朝」(昭37-4)で、「北風吹きぬく寒い朝」に「手に手をとって」仲間たちと歩きはじめた彼女は、しかし、そのレコードのB面「人の知らない花」では、「深山のその奥」で「あの人」が「摘みにくる」のを待つ「乙女の花」のシンデレラ願望を歌っていました。
 それを踏まえて、今日はちょっと珍しい歌。「娘たちのこよみ」。つい先日までyoutubeにあったと思うのですが、削除されたようです。(たぶん、新発売のCD全集「吉永小百合ベスト100」にこの曲が初収録されたからでしょうか。みなさんCDを購入しましょう。)

吉永小百合「娘たちのこよみ」
  昭和40年8月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 吉永小百合・娘たちのこよみ一 黒髪さわやか夢見る娘
   仲良しグループ四葉のクローバ
   夢を見るのはたやすいけれど
   育ててゆくのはむずかしい
   ああ 夢だけじゃ生きられないが
   夢こそ幸せ持ってくる
 二 ピカピカ光ったあのビルよりも
   百円銀貨は娘にゃすてきだ
   夢が現(うつつ)に花咲くまでは
   頑張れ働けシンデレラ
   ああ 夢だけじゃ生きられないが
吉永小百合・四つの恋の物語・和泉雅子・十朱幸代・芦川いづみ   夢こそ幸せ持ってくる
 三 若さに輝き夢見る瞳
   たまには悩みの涙に曇れど
   朝の靴下はいてるときの
   娘の暦は晴れやかよ
   ああ 夢だけじゃ生きられないが
   夢こそ幸せ持ってくる

 どうです。一番の三行目以後の詞。ちょっと大げさにいえば、「夢(=理想)」と「現実」との弁証法的認識、あるいは、ともすれば「夢」に現(うつつ)を抜かしがちな青春歌謡への自己批評。
 二番は、同じピカピカ光る「光もの」(笑)でも「あのビル」(実現可能性のほとんどない「シンデレラ」的な空想的な「夢」のシンボル)よりも目の前の「百円銀貨」を選ぶという等身大の現実主義。しかも、「ビル」と「百円銀貨」を比較する共通尺度はどうやら「経済」(経済観念)であるらしい。
 三番では口語調の中に「曇れど」という文語が入ります。このぞんざいさが佐伯孝夫調。けれども、「朝の靴下はいてるとき」という日常細部のリアリティが生きています。
 そして、繰り返される「夢だけじゃ生きられないが、夢こそ幸せ持ってくる」。
 「夢だけでは生きられないが、夢がなくては生きている喜びがない」ということです。
 レーモンド・チャンドラーが創造したハードボイルド探偵フィリップ・マーロウに、「タフでなければ生きて行けないが、やさしくなければ生きている資格がない」という名台詞がありますが、それは対立概念が「タフ(hard)」と「やさしさ(gentle)」の二語に分かれています。こちらは矛盾を「夢」の一語に集約している分、もっと簡潔なアフォリズム(警句)です。
 実におもしろい。たぶん、佐伯孝夫自身が面白がって書いています。
 恋愛テーマはありません。人生テーマだけで書かれています。
 なにより、「頑張れ働けシンデレラ」。秀逸この上ないフレーズです。女性青春歌手がこんなフレーズを歌った例は他にないでしょう。労働ぎらいの、夢見がちな青春歌謡の娘たちに、「頑張れ働け」というのですから。
 しかし、あくまで、「幸せ」の到来する日を夢みているかぎりにおいて、彼女らはみんな「シンデレラ」です。そもそも、青春歌謡のヒロイン(歌手=語り手)は、したたかなリアリストであってはなりません。夢見る「シンデレラ」でなくてはならないのです。
 でも、この「シンデレラ」は、「夢」というものの人生上の意味と現実上の機能を明確に認識しています。彼女は「シンデレラ願望(シンデレラ・コンプレックス)」への醒めた批評意識をもった「シンデレラ」。いわば「自覚したシンデレラ」なのです。たしかに、お伽噺のシンデレラも、「魔法使いのおばあさん」が出現するまでは、いっしょうけんめい家事労働をしていたのでした。
 「寒い朝」で北風の中を歩きはじめた娘も、「人に知られぬ花」のシンデレラ願望をひそめていました。その内なるシンデレラ願望自体が、いま、こうして批評されたのです。ヒット曲とはいえませんが、吉永小百合の(青春歌謡の)「歩み」になくてはならない歌でした。
 (なお、一番の歌詞では「仲良し」四人グループみたいです。何かのドラマの設定なのかと思わせます。しかし、この曲が映画やテレビドラマの主題歌・挿入歌として使われたわけではないようです。吉永には、類似の題名で「美しい暦」という映画があり、その同名主題歌(昭38-10)もありますが、それとももちろんちがいます。今日の画像下は、「四人」にちなんで、この昭和40年年末(12月)封切りの映画「四つの恋の物語」の写真を入れておきました。左から、吉永小百合、芦川いづみ、和泉雅子、十朱幸代。)

ザ・ブロード・サイド・フォー「若者たち」 彼女たちの旅路・補足(4) 付・日本フォークソング小史

補足の4回目です。
 ザ・ブロード・サイド・フォーの「若者たち」。
 いわゆる「青春歌謡」でもないし、女性が歌うわけでもありませんが、60年代の若者の青春の「旅路=人生」というテーマでははずせません。
 こちらで聴きながらお読みください。gsiloveyou2011さんに感謝しつつ無断リンクします。 

ザ・ブロード・サイド・フォー「若者たち」
  昭和41年9月発売
  作詞:藤田敏雄 作曲:佐藤勝
ブロード・サイド・フォー・若者たち 一 君の行く道は
   果てしなく遠い 
   だのになぜ
   歯をくいしばり
   君は行くのか
   そんなにしてまで
 二 君のあの人は
   今はもういない
   だのになぜ
   なにを探して
   君は行くのか
   あてもないのに
 三 君の行く道は
   希望へと続く
   *空にまた
    陽がのぼるとき
    若者はまた
    歩きはじめる*
   *~*くりかえし

 作詞した藤田敏雄は労音ミュージカルの制作を担当した日本の創作ミュージカルの草分け的存在だそうで、1970年に岸洋子が歌って大ヒットした「希望」(♪希望という名のあなたをたずねて/遠い国へとまた汽車にのる)も、元は倍賞千恵子のミュージカルのために藤田が作詞したもの。作曲した佐藤勝は黒澤明の映画音楽(「用心棒」「天国と地獄」「赤ひげ」etc)などを数多く手がけた作曲家。
 歌ったザ・ブロード・サイド・フォーは黒澤久雄が結成したフォークグループ。(黒澤久雄は黒澤明の息子。ジャケット画像右端で腕を組んでいるのが黒澤久雄です。)
 フォークソング(folk song)はもともとは文字通り、素朴な民衆歌謡、つまり民謡のこと。しかし、60年代アメリカ文化の中でのフォークソングは、アコースティックギターで歌うプロテストソング、メッセージソングといった反体制的性格が強く、たとえば日本では雪村いづみが昭和38年(1963)に最初に歌ったという「花はどこへ行った」(または「花はどこへ行ったの」)も反戦ソングでした。昭和40年に「日劇フォークソングフェスティバル」が開催されており、この頃、日本でもフォークソングが定着したとみてよいでしょう。
 定着すればすぐに取り込むのがレコード産業。当然ながら、レコード産業に取り込まれれば「プロテスト」性や「メッセージ」性「反体制」性は消えて無害化されます
 昭和41年にはマイク真木「バラが咲いた」(昭41-4)がヒットします。詞も曲も歌唱もまことに素朴ですが、素朴とは誰にもわかりだれにも歌えるということ。これは才人・浜口庫之助の作詞作曲でした。
 つづいて、これまた見事な才人である俳優・荒木一郎が自作曲「空に星があるように」(昭41-9)で歌手デビューします。荒木はいわゆるシンガー・ソング・ライターの先駆けです。こうして、プロの作詞家・作曲家に頼ることなく、自分で詞を作り自分で曲を作ってアコースティック・ギター一本で歌えるフォークソングは、以後、歌謡曲におけるいわば「素人の時代」を切り開くことになります。(さらに、歌詞の「口語自由詩化」を促進する契機にもなります。)
 さて、「若者たち」。タイトルは「たち」、複数形ですが、詞の内容は「君」のひとり旅。「歯をくいしばり」ながらひとりでたどる「果てしなく遠い」青春の旅路です。
 日本語の「若者」は、単数形なら、通常、青年期の男を指します。複数形になっても、あくまで男中心の集合、男たちの中に女もいるかもしれない、というのが「若者たち」です。
 詞は、「歯をくいしばり」ながら歩く旅路の苦しさを強調し、愛する「あの人」も失われた「あて=目的」もなさを述べますが、最後に「空にまた陽がのぼるとき」と、「希望」と再起への励ましをくりかえして結びます。
 この曲はテレビドラマ「若者たち」の主題歌でした。ドラマのオープニングでは「空にまた陽が昇るとき」というタイトルでクレジットされています。(ドラマのオープニングはこちらで、ドラマの一部はこちらで、観ることができます。どちらも2000koiwaiさんに感謝しつつ無断リンクしておきます。)
 ドラマ「若者たち」はフジテレビ系列で昭和41年2月7日から9月30日まで放送されたもの。劇団「俳優座」主導で映画化もされました。両親を亡くした五人兄弟がさまざまな問題に直面しながら生きていくという設定。朝鮮人兄弟の結婚問題を通じて朝鮮人差別を扱った回が放送中止になり、その後ドラマ自体が打ち切られたというエピソードが象徴するように、社会批判の視点が組み込まれていました。当初は低視聴率に苦しんだが徐々に人気も上がり、主題歌もヒットした、と[wikipedia若者たち]は記しています。
 しかし、ドラマの内容には深入りしません。このブログはあくまで「青春歌謡」ブログです。
 今日注目したいのは、実は、歌詞の内容もさることながら、それ以上に、画像なのです。
 ドラマ「若者たち」の宣伝用写真と、先日の吉永小百合「勇気あるもの」のレコードジャケットを並べてみます。
若者たち・DVD吉永小百合・勇気あるもの
 宣伝用写真は、手前(左)から、佐藤オリエ(長女)、山本圭(三男)、田中邦衛(長男)、橋本功(次男)、松山省二(四男)。若い娘を手前に四人の男たち、総勢五人が遠くに視線を投げているこの構図、左右を反転させれば「勇気あるもの」のジャケットの構図になるのです。
 そしてさらに、上に掲げたザ・ブロード・サイド・フォーのレコード・ジャケット画像を見て下さい。並んだ四人の若者たちのうち、右端のリーダー・黒澤久雄は腕を組んでいます。(「若者たち」の山本圭も腕を組んでいますが画面が暗くて判然としません。)
 「勇気あるもの」は右端手前のリーダー・吉永小百合も含めて全員が腕を組みます。もっとも、女性である吉永は厳密には「組んでいる」のではなく「組んでいる」と見えるように交差させているのですが、それでも、若い女性歌手がジャケット写真でこのポーズを取るのは画期的に大胆なことでした。これが、「自立」した娘のポーズです。
 つまり、「勇気あるもの」のジャケット写真は、ドラマ「若者たち」の宣伝スチールとレコード「若者たち」のジャケット写真とを組み合わせて出来ているのです。
 この素人風な「図像学」的考察が暗示するのは、ジャケット写真だけでなく、「♪この道は長いけど歩きながらゆこう/石っころだらけでも歌いながらゆこう」という歌謡曲「勇気あるもの」自体が、「若者たち」(ドラマおよび主題歌)を踏まえて作られたのではないか、という推測です。
 詞のテーマはもちろん青春の旅路。その長くつらい旅路(人生)にもくじけず歩みつづける「勇気」。「若者たち」そのものです。
 しかし、兄弟五人の力を合わせての「旅路」を描くドラマであるにもかかわらず、「ひとり」を強調するドラマ主題歌「若者たち」の歌詞に対して、「勇気あるもの」とタイトルは単数形(もっとも、日本語は単数複数を明示するわけではありませんが)なのに、詞の中では「友」との連帯を反復強調する歌謡曲「勇気あるもの」。こう対比すると、作詞家・佐伯孝夫が、「若者たち」の世界を女性青春歌手・吉永小百合に歌わせるために施した工夫も浮き彫りになるはずです。
 そしてさらに、コロムビア・ローズ「長い一本道」の項で言及しておいた「銀色の道」が吉永の「勇気あるもの」と同じ昭和41年10月の発売だったことを付け加えれば、この昭和41年秋、立て続けに3曲、「道=人生」のアレゴリーに基づくヒット曲が出現していたのです。(そして、青春の「応援歌」とは言い難いけれども、9月発売の日野てる子「」も加えれば4曲になります。)
 ザ・ブロード・サイド・フォーのレコードは9月発売ですが、主題歌としては2月の放送時から使われていました。つまり、この「道=人生」アレゴリーの原型となったのは「若者たち」だったろう、と思うのです。
 なお推測を加えます。
 私はこのテーマ「彼女たちの旅路」で、歌謡曲における若い女性の「自立」への道をたどっています。その道において、吉永小百合「勇気あるもの」は画期的でした。そして、その背景に、社会(批判)的視点を持ったドラマ「若者たち」があったとすれば、それは、60年代後半における女性の「自立」が、広い意味での社会批判・反体制(プロテスト)運動の流れと連動していたことの、歌謡曲における現れであったでしょう。
 吉永小百合個人についていうなら、彼女の「野麦峠」の項で述べたとおり、独立して事務所を構えた彼女が日本資本主義の下積みとなった紡績女工たちの悲劇を映画化しようとしたことに示されているように、社会批判(プロテスト) の方向を目指していたことにもつながります。少なくとも、ちかぢか書く予定ですが、「勇気あるもの」以後、吉永の歌う歌謡曲に、「道=旅=歩く=人生」というアレゴリーが頻出するようになるのです。
 (以上、「勇気ある者」への前史として、ドラマ「若者たち」とその主題歌の役割を強調しましたが、ほぼ同じ時期のTBSのドラマ「ともだち」(昭41-3~41-6)と鰐淵晴子の歌ったその同名主題歌の意義にも気づきました。この件、11月25日の記事に書きました。)

 ちなみに、この一年前、昭和40年の秋10月に、弘田三枝子が「道」(三浦康照作詞/三枝伸作曲/山屋清編曲)という曲を出しています。 その一番。
  生きていくには 道は険しい
  ほこりだらけの この道だけど
  なみだ捨てて ひとり歩こう
  幸せを 見つけるまで
 シンプルでストレートな「道=人生」アレゴリーの「ひとり旅」です。弘田三枝子が荘重に歌い上げています。
 しかしヒットしたとはいえません。 一年早すぎたのかもしれません。流行歌は流行りもの。流行りものには流行る「時期」というものがあるのです。

中村晃子「虹色の湖」 彼女たちの旅路・補足(3) 付・「ひとりGS」史

もう一曲、補足です。中村晃子「虹色の湖」。
 曲調はほとんどグループ・サウンズ。こういうふうにグループ・サウンズの音でひとりで(特に女性がひとりで)歌う曲を、近ごろでは「ひとりGS」などと呼ぶようです。
 グループ・サウンズのメンバーはほぼ「男の子」たちだけでした。快楽と刺激を解放するエレキは「不良」イメージと結びつき、そのうえ不謹慎な長髪男子の集まりとあっては、「女の子」は参加しにくかった(すくなくとも、レコード会社としては売り出しにくかった)のでしょう。女性ヴォーカルを使った最初のヒット曲は、たぶん、チコとビーグルスの「帰り道は遠かった」でしょうが、ようやく昭和43年12月の発売でした。つづいて、内田裕也がザ・フラワーズというバンドに麻生レミをヴォーカルに加えてヒットさせた「ラスト・チャンス」が44年1月発売です。
 「ひとりGS」には、グループ・サウンズにおける女性ヴォーカル不在を埋め合わせるような効果があったかもしれません。
 ミニスカート姿の黛ジュンが「恋のハレルヤ」でデビューしたのが昭和42年2月。以後、「霧のかなたに」(昭42-7)「乙女の祈り」(昭43-1)と立て続けにヒットを飛ばし、「天使の誘惑」(昭43-5)はレコード大賞を受賞します。
美空ひばり・真赤な太陽 黛ジュンにつづいたのは、意外にも美空ひばり。ブルーコメッツの演奏で歌った「真赤な太陽」は昭和42年6月の発売でした。ここでも美空ひばりは偉大なパイオニアです。
 こちら、k89415さんのチャンネルに、美空ひばりが実際にブルーコメッツの演奏で「真赤な太陽」を歌っている「TBS歌のグランプリ」の映像があります。このとき彼女はミニスカート。美樹克彦「回転禁止の青春さ」の項で書いたとおり、ミニスカートは女性の身体と快楽解放のシンボルなので、30歳の美空ひばりだってエレキバンドで歌うならミニスカートで踊るのです。
 このとき、まさしく彼女は女性ヴォーカルとして若い男たちを「率いて」「従えて」歌っています。さすが「女王」、貫禄です。
 すると、GSサウンドで若い娘が歌う、というスタイルには、大衆文化史における女性の自立プロセスの新段階、という意味もあったように思えてきました。女性の身体・快楽の解放というだけでなく、演奏したりバック・コーラスをしたりする若い男たちを「従えて」歌う、というそのスタイルのことです。
 ちなみに、GSサウンドではありませんが、16歳の大柄な少女・今陽子が年上の男性ヴォーカル4人を「従えて」歌ったピンキーとキラーズ「恋の季節」は、「真赤な太陽」の一年後、昭和43年7月の発売です。今陽子はまだ16歳でしたが、あの大柄な容姿と抜群の声量は「貫録」でした。
 大ヒットしたデビュー曲「恋の季節」(昭43-7)と、次のヒット曲「涙の季節」(昭44-1)のレコードジャケットを並べてみます。(この二曲の間に、「オレと彼女」「ゆびきりげんまん」の二つのテレビ主題歌が発売されています。)「恋の季節」では、ピンキーは大きなキラーズ「お兄さん(?)」二人ずつに左右から挟まれて「小さく」かわいく映っていますが、「涙の季節」では「大きな」ピンキーがキラーズ四人を「従える」形になっています。
ピンキーとキラーズ・恋の季節ピンキーとキラーズ・涙の季節
 さらにここで、先日掲げた吉永小百合「勇気あるもの」(昭41-10)のレコードジャケットを思い出して下さい。吉永が背後の4人の若い男性諸君(トニーズ)とともに腕を組み胸を張って遠くを見つめるあの構図、吉永小百合はたしかにトニーズを「率い」「従えて」いるではありませんか。その意味でも、「勇気あるもの」は歌謡曲史における女性の自立に、重要な足跡を記したのです。(もちろん、今陽子にしても吉永小百合にしても、男たちを「従えて」「率いて」歌ったのか、「共に」「支援されて」歌ったのかは、微妙です。「勇気あるもの」の項で連合赤軍・永田洋子の「無理」と対比して書いたように、微妙だから「無理」がなくてよいのです。)
和泉雅子42-2二人の銀座より・ブルーコメッツ さらにこう書きながら、GS初の女性ヴォーカルは、実は和泉雅子だったのではないか、という突飛な思いも生じます。ベンチャーズ作曲の「二人の銀座」は、上記の曲のどれよりも早く、昭和41年9月の発売でした。もちろん和泉は山内賢とのデュエットでしたし、ベンチャーズが背後で演奏したわけでもありません。しか和泉雅子42-5夕陽が泣いているし、映画では日活ヤングアンドフレッシュのヴォーカル役をつとめています。(和泉が映画「二人の銀座」(昭42-2公開)で日活ヤングアンドフレッシュをバックに歌うスチール写真は「二人の銀座」の項に載せました。ここには、同じ映画でブルーコメッツをバックにした場面(上)と、日活ヤングアンドフレッシュのヴォーカル役の映画「夕陽が泣いている」(昭42-5公開)のスチール写真(下)を載せておきます。)
 (もっとも、こんなことを言い出せば、映画「二人の銀座」より早く、映画「青春ア・ゴーゴー」(昭41-3)で日活ヤングアンドフレッシュのヴォーカルをつとめたのはジュディ・オングでした。ただ、ジュディが「星と恋したい」でデビューするのは昭和41年5月、この映画公開の時点ではまだ歌手ではありませんでした。)
 ともあれ、「ひとりGS」の歴史、黛ジュン「恋のハレルヤ」(昭42-2)、美空ひばり「真赤な太陽」(昭42-6)、それにつづいたヒット曲がこの中村晃子「虹色の湖」(昭42-10)、といってよいでしょう。(奥村チヨ「北国の青い空」(昭42-8)はベンチャーズの作曲でしたが、いわゆるGS調ではありません。)
 さて、ようやくその「虹色の湖」です。
 こちらで聴きながらお読みください。moozzy3さんに感謝しつつ無断リンクします。(なお、レコードジャケットには二種類あるようですが、写真を無断借用させてもらったこちらのブログによると、これが初回発売のジャケットらしいとのことです。また、画像下は自分で考案したミリタリー調の上着にミニ・パンツ姿の中村晃子。こちらから無断借用しました。ミリタリー・ルックも、ビートルズの影響でしょう、当時、ザ・スパイダースやザ・ジャガーズなど、グループサウンズが愛用しました。)

中村晃子「虹色の湖」
  昭和42年10月発売
  作詞:横井弘 作曲:小川寛興 編曲:森岡賢一郎
中村晃子・虹色の湖1 一 幸せが 住むという
   虹色の湖
   幸せに 会いたくて
   旅に出た 私よ
   ふるさとの 村にある
   歓びも 忘れて
   あてもなく 呼びかけた
   虹色の湖
 二 さよならが 言えないで
   うつむいた あの人
中村晃子・ミリタリー・ルック   ふるさとの 星くずも
   濡れていた あの夜
   それなのに ただひとり
   ふりむきも しないで
   あてもなく 呼びかけた
   虹色の湖
 三 虹色の 湖は
   まぼろしの湖
   ふるさとの 思い出を
   かみしめる 私よ
   帰るには おそすぎて
   あの人も 遠くて
   泣きながら 呼んでいる
   まぼろしの湖

 実はグループ・サウンズは青春歌謡を滅ぼした「敵」(笑)なのですが、歌詞でお気づきのとおり、先日の倍賞千恵子「虹につづく道」(昭42-4)との対比で取り上げてみたのです。
 「虹につづく道」は、故郷の呼び声を振り切って出発する女性を歌ったことで画期的でした。
 「虹色の湖」の「私」も故郷を捨て、「あの人」の愛も断ち切って、「ただひとり」で「旅」に出ました。高度成長期、都市が勝利した時代には、どこにもあった出郷のドラマです。
 ここでも「虹」は「幸せ」のシンボルです。しかし、「虹につづく道」を「友達」とともに歩む倍賞千恵子の「私」と逆に、「虹色の湖」の「私」は「幸せ」を見出せず、挫折します。むろん出郷者の挫折もありふれたドラマです。
 挫折して初めて、「ふるさとの村にある歓び」に気づきます。「幸せ」は故郷にあった、幸福の「青い鳥」(メーテルリンク)は故郷にいた、ということです。
 カール・ブッセ「山のあなた」なら「涙さしぐみ」故郷に帰るところですが、もう手遅れ、「帰るにはおそすぎて/あの人も遠くて」彼女は帰ることもできません。絶望と孤独の中で、ただ泣きながら「まぼろしの湖」を呼ぶだけです。詞の内容はひどく絶望的です。
 横井弘は何度か取り上げたとおり、戦後の名作詞家の一人です。通常どおり詞が先に書かれたか曲が先に出来ていたか知りませんが、横井弘は「五五/五四」を三度も繰り返すちょっと珍しいリズムを用いました。「五五」も「五四」もほぼ同じ音数。つまり単純なリズムの反復です。それがドラムとエレキギターに乗って、実にシンプルで力強い効果を発揮しています。詞の内容は絶望的でも、曲としては力強い、中村晃子の歌唱も単純だが力強い。曲全体は絶望していない、ということです。そのあたりが大ヒットの背景かもしれません。

高田美和「夕陽に手を振ろう」&「白樺の丘」 彼女たちの旅路・補足(2)

 さて、今日は高田美和です。
 「夕陽に手を振ろう」と「白樺の丘」。一枚のレコードのA面B面。残念ながらどちらもいまyoutubeにはありません。(なお、CD全集「青春スター~ときめきのヒロイン~」の歌詞カードでは、「白樺の丘」の方が昭和409月発売となっていますが、間違いです。「夕陽に手を振ろう」と同じ昭和413月発売です。)
 まず「夕陽に手を振ろう」から。

高田美和「夕陽に手を振ろう」
  昭和41年3月発売
  作詞:石本美由起 作曲:上原げんと 編曲:市川昭介
 一 はるばると はるばると
高田美和・夕日に手を振ろう・白樺の丘   山のふもとを 行くバスに
   乗せた乙女の 旅ごころ
   君住む町は 夕陽の向こう
   揺れる窓から
   さよならと 手を振ろう
 二 やまびこも やまびこも
   君の声かと 思われて
   こころ残りな 旅の空
   また逢える日を 信じていても
   遠くなるほど
   淋しさに 泣かされる
 三 しあわせの しあわせの
   愛のすずらん かぐわしく
   胸に微笑む 春いずこ
   あしたのさだめ 占う空に
   泣いちゃ駄目だと
   呼びかけて 鐘が鳴る

 恋人の住む町を訪ねたその帰りの「ひとり旅」。昨日の高石かつ枝「高原の人」の続編のような内容です。しかし、どうも幸福な結末とはいえない翳りがあります。
 この別れは一時的なものなのか、決定的なものなのか。「また逢える日を信じていても」の「信」は互いに約束した確信なのかただの願望なのか。ことに三番の「しあわせの愛のすずらん」が「胸に微笑む春いずこ」は、どうも失意傷心に傾いているようです。それでも、「夕陽」「やまびこ」「すずらん」といった景物を取り合わせて、末尾で「鐘」(もちろんキリスト教系のベル)を鳴らすところ、まぎれもない青春歌謡の詞です。
 つづいて「白樺の丘」の詞も紹介します。(画像はちょうどこのレコード発売時期、雑誌「平凡」の昭和41年4月号から。)

高田美和「白樺の丘」
  昭和413月発売
  作詞:石本美由起 作曲:上原げんと 編曲:市川昭介
高田美和41-4平凡 一 山鳩の 丘を越え
   白樺の 森を抜け
   今日も行く今日も行く 高原バスが
   あの人に愛された 幸せは
   春をも知らず 散った花
 二 夕焼けが うつくしい
   湖の 見える丘
   草笛を草笛を 涙で吹けば
   黒髪を撫でて吹く 夕風の
   ささやきさえも 身にしみる
 三 面影が 逢いにくる
   白樺の 旅の宿
   初恋は初恋は 昨日の虹か
   りんどうの押し花に 思い出の
   ページをめくる 日記帳

 「高原の人」と同じく高原バスの「ひとり旅」ですが、設定は「高原の人」とまったく逆に、「あの人」との初恋に敗れた傷心の旅です。もちろん傷心のひとり旅の方が歌謡曲の女性のひとり旅の主流です。
 「夕陽に手を振ろう」と同じ作詞者、作曲者、編曲者で、詞の設定も類似しています。けれども、「夕陽に手を振ろう」ではあいまいに残されていた再会の希望がこちらにはありません。「幸せは春をも知らず散った」のです。
 その絶望を慰めるかのように、「山鳩」「白樺」「高原」「夕焼け」「湖の見える丘」「草笛」「涙」「黒髪」「夕風」「虹」「りんどうの押し花」と、抒情的な景物やイメージが並びます。
 青春歌謡が絶望をむき出しに歌うことはありません。こうした抒情的イメージによって、絶望は感傷に変換されるのです。それが青春歌謡です。舟木一夫「夕月の乙女」「花咲く乙女たち」の項で書いたとおり、感傷とは、意のままにならない世界において無力な自分をいとおしみ慰撫することです。感傷が絶望をやわらげるのです。彼女の旅は、失意の淵から再度立ち上がるために必要な自己慰撫の旅だといってもよいでしょう。
 レコードでは「白樺の丘」がB面扱いですが、上原げんとの曲調はこちらの方が青春歌謡のオーソドックスな曲調になっています。西田佐知子「エリカの花散るとき」や日野てる子「道」の「大人びた」旅に対して、こちらはあくまで「乙女」の感傷の旅なのです。
 「乙女」であれ「大人」であれ、歌謡曲の女性の「ひとり旅」は、たいてい愛の希望や愛の追憶を抱いた旅です。その意味では、愛する男(愛した男)の面影とともに歩む「同行二人」の旅なのだといってもよいかもしれません。
 さらにまた、二人称的関係を脱せない彼女たちにとって、「愛」は唯一の超越の契機でもあります。愛の希望や愛の記憶は、いま・ここにないことによって、超越性の萌芽を含んでいます。その超越性が極まるとき、「エリカの花が散るときは恋にわたしが死ぬときよ」と歌った西田佐知子「エリカの花散るとき」の愛の殉教にもなるでしょう。
 なお、本間千代子「愛しき雲」の末尾に書いておいたとおり、高田美和には「ぼく」という一人称で歌う「きみとぼく」(昭43-1/稲垣潤一郎作詞/宇津木浩作編曲)という曲があります。
 「この道がどこまでもつづいていても/この手をはなさずにどこまでもゆこう」と始まるこの歌は、まぎれもなく「道」が「人生」の寓喩になっています。
 高田美和が男性一人称「ぼく」で歌うめずらしさもあるので、ほんとうはこのテーマで取り上げるべきところでしょうが、しかし、これはヒット曲とはとてもいえず、また、「ぼく」という一人称も詞全体の内容も吉永小百合「勇気あるもの」(昭41-10)の模倣としか思えません。吉永の「友」との旅路を「きみとぼく」の二人旅に変換しただけの「二番煎じ」(失礼ながら)です。 導入部にピアノ音を入れた曲も、明らかに「勇気あるもの」を模倣しています。詞もまったく素朴なので、紹介を省略します。さいわい、こちら、kazuyan679さんのチャンネルで聴くことができます。感謝しつつ無断リンクしておきます。
 ただし、なぜこの時期(昭和43年初頭)、青春女性歌手の中でも女性らしさ(色気)がきわだった高田美和までが一人称「ぼく」で「道=人生」を歌うのか、ということには興味深いものがあります。この件については、後日、この「彼女たちの旅路」テーマを締めくくる際に書くつもりです。

高石かつ枝「高原の人」 彼女たちの旅路・補足(1)

このテーマを締めくくる前に、軽く補っておきましょう。
 まず、前回名前だけ挙げた高石かつ枝と高田美和の「ひとり旅」。「人生」の寓意ではなく現実の「ひとり旅」です。当然恋愛モチーフが入ります。ただ、西田佐知子「エリカの花散るとき」や日野てる子「」は、青春歌謡というには「大人びて」いましたが、この二人は文字通りの青春歌手として歌います。
 今日は高石かつ枝の「高原の人」。「すずらんはあの時の花」のB面です。
 こちらで聴きながらお読みください。masaenkaさんに感謝しながら無断リンクします。(歌詞もmasaenkaさんの画面を参照させてもらいました。なお、画像下は旅のイメージで選びました。ソノシート・ブック「かつ枝のあの頃この頃」中の画像にサインを組み合わせたこの画像は、以前、どなたかのyoutube画面から取り出させてもらったものです。)

高石かつ枝・高原の人・すずらんはあの時の花高石かつ枝「高原の人」
  昭和39年12月発売
  作詞:上尾美代志 作曲:木村孤童
 一 あなたに逢える 嬉しさに
   バスも揺れます 白樺の道
   びっくりさせて あげたくて
   手紙も出さずに きた私
   叱るかしら 笑うかしら
   高原の人
高石かつ枝・ソノシート 二 ともだちだけの 筈なのに
   胸がつまるの あれからずっと
   愛する町を ふるさとを
   大きくしたいと 燃えていた
   あの目が好きよ 泣くほど好きよ
   高原の人
 三 あなたの好きな 水色の
   ネッカチーフに そよ風あまい
   あの日のままの あまのじゃく
   ほんとの気持を こんどこそ
   言えるかしら わかるかしら
   高原の人
   
 まだ「ともだち」だった若者に、恋を打ち明けようと決心して、故郷に帰った若者に逢いにいく、というなかなか新鮮な設定です。失意の中で恋人のふるさとを訪ねる「エリカの花散るとき」とはちょうど逆の設定ですね。歌謡曲の女性の「ひとり旅」は、高峰三枝子の名曲「湖畔の宿」(昭15/佐藤惣之助作詞/服部良一作曲)がそうだったように、たいてい恋の失意傷心の旅なので、めずらしいものです。
 彼女の胸は、不安はあっても期待で嬉しくはずんでいます。相手も自分を好いてくれている、と信じているからです。一途で清純な恋心です。
 素朴な詞ですが、素朴な詞にはかえって型にはまらない設定や細部のリアリティがある、というのが歌謡曲の歌詞の傾向です。(この傾向を一般化すれば、梶光夫「青春の城下町」などの項で書いたとおり、定型詩と自由詩の違い、流行歌の歌詞でいえば60年代までと70年代以後の違い、になります。)
 若者は故郷の町を「大きくしたいと(瞳も)燃えて」帰郷したのでした。彼女もその志を持った彼の姿に強く魅かれて、いま、意を決して、彼の故郷を訪ねます。彼女自身、都会生活を捨てて、彼とともに生きる決意なのでしょう。
 そもそも、こういう若者像が青春歌謡の時代に歌われるのも珍しいことです。
 60年代、青春歌謡の時代は、井沢八郎「ああ上野駅」などが典型的なように、高度経済成長による大量出郷の時代でありました。だから、帰郷はたいがい、都会で夢破れた失意の帰郷でした。また、あえて農山漁村に踏みとどまる若者の胸中には、舟木一夫「浜の若い衆」や「木挽哀歌」のように、取り残された者の「あはれ」が宿っていました。
 その意味で、B面扱いながら、故郷の町の発展に貢献したいというポジティブな夢を抱いて帰郷したこの詞の若者像は貴重なのです。
 二人とも「ほんとの気持」を言えなかった「あまのじゃく」でした。彼女自身もそうでしたが、いま彼女には、若者も「あまのじゃく」だったのだ、という確信があります。二人が「あまのじゃく」をやめさえすれば結ばれるはずなのです。

倍賞千恵子「虹につづく道」 彼女たちの旅路(7)

60年代の娘たちの旅路、吉永小百合に続いて、今日は倍賞千恵子です。
 「虹に続く道」。こちらで聴きながらお読みください。hyuuga141さんに感謝しつつ無断リンクします。 

倍賞千恵子「虹につづく道」
  昭和42年4月発売
  作詞:岩谷時子 作曲・編曲:いずみたく
 一 故郷(ふるさと)の やさしい言葉で
   誰かが呼んでるわ倍賞千恵子・虹につづく道
   でも私は行く
   いつかしら 空に見つけた
   あの虹につづく道を 歩いて行こう
   太陽が背中を 通りすぎないうちに
   友達と歌って 歩いて行こう
 二 故郷(ふるさと)の やさしい音色で
   汽笛がなってるわ
   でも私は行く
   いつかしら 夢うちあけた
   あの人につづく道を 歩いて行こう
   *太陽が背中を 通りすぎないうちに
    友達と歌って 歩いて行こう*
   *~*くりかえし
   *~*くりかえし

 NHKの連続テレビドラマ「素顔の青春」の主題歌でした。
 ドラマは毎週月曜から金曜の夕方6時30分から45分までの15分間の子供向け帯ドラマで昭和42年4月から翌年3月までの一年間。看護学校を舞台にした作品だったそうです。(こちらのページを参照しました。)看護婦への道を歩む少女たちの青春です。倍賞千恵子は出演はしていません。主題歌だけです。
 「虹」はもちろん夢や希望や「しあわせ」のシンボル。その「虹」に向かって「友達」とともに歌いながら歩む青春の旅路。「勇気あるもの」と共通します。
 一人称は「勇気あるもの」の「僕」とちがって「私」。口調も「誰かが呼んでるわ」女性口調です。たしかに娘たちの青春なのです。
 しかし、この歌も倍賞千恵子一人では歌いません。ボニー・ジャックスの「おじさんたち」のコーラスが、背後から支援し、ともに歌います。
 では、この歌の何が新しいか。
 一番二番の冒頭、彼女らは「故郷(ふるさと)」の呼び声を振り切って歩み出す、そこが新しいのです。
 若者の旅立ちはみな、「故郷」からの出発、故郷との決別です。あたりまえのことです。都会育ちだって家族と決別します。「故郷」の呼び声はいつも「やさしい」。しかし、そのやさしさは、いつまでも若者たちを閉じ込めておこうとする甘い罠でもあります。罠を振り切らなければ出発はありません。そのことをこの詞のようにきっぱりと、決意として歌った詞はめずらしい。ことに女性の青春歌謡にはめずらしい。
 「太陽が背中を通りすぎないうちに」も印象的なフレーズ。太陽を正面に見据えて歩み出す、という意味でしょう。「太陽」は夢や希望のシンボルであるとともに、ここでは人生の時刻の比喩でもあるでしょう。太陽がまだ上昇しつつあるうちに、まだ若いうちに、旅に出ようというのです。
 二番は「あの人につづく道」なのだ、と歌います。ドラマのストーリーは知りませんが、看護学校という舞台設定から推測するに、「あの人」は、ヒロインに看護婦という職業の魅力、尊さ、生きがいを教えてくれた人(看護婦)だろうか、と思われます。その人(看護婦)に、自分もあなたを目標として、あなたのような看護婦になりたい、と「夢うちあけた」のでしょう。
 しかしまた、ドラマを離れて独立した青春歌謡として読めば、慕わしい年上の男、対等の恋人というより信頼を寄せる男性、と解釈できないこともありません。
 女性歌手が歌う青春の旅路は、恋愛モチーフなしにはなかなか成立しません。西田佐知子「エリカの花散るとき」も日野てる子「道」も傷心のひとり旅。つまり、愛する男と結ばれるときが旅の理想のゴール(目的地)でした。(他にも、ヒット曲というほどのものでもないのと記事の流れの関係とで取りあげ損ねましたが、高石かつ枝「高原の人」(昭39-12)は故郷に帰った「あの人」を訪ねる旅、高田美和「白樺の丘」(昭40-9)「夕陽に手を振ろう」(昭41-3)はどちらも恋人と別れての傷心の帰路でした。(なお、高石の曲と高田美和の2曲は、思い直して、10月12日10月13日の記事で取り上げました。)
 恋愛モチーフなしに歌った吉永小百合「勇気あるもの」の一人称は「僕」でした。同じく恋愛モチーフのないコロムビア・ローズ「長い一本道」の一人称は「私」ですが、星野哲郎の詞は男女の性別とはむしろまったく関わりなく、曲も子供たちの歌声と分有された一種のホーム・ソングでした。
 だから、はっきりと女性の一人称で歌うこの歌で、岩谷の詞が「あの人」に恋愛モチーフの可能性を微妙に残しておいたのは、歌謡曲の詞としてはうまい配慮なのです。
 青春歌謡の時代、多くの女性歌手たちも輩出しましたが、彼女らはもっぱら初々しい恋愛歌ばかり歌いました。そのなかで、吉永小百合と倍賞千恵子だけが、デビュー曲「寒い朝」(昭37-5)と「下町の太陽」(昭37-11)以来、恋愛テーマに限定されることなく、社会の中ですっくと生きる娘たちの姿を多く歌いました。また、それが似合いました。
 おそらく、吉永と倍賞が映画女優であり、しかも、男にすがる役柄ではなく、人生に正面から立ち向かう役柄を多く演じたからです。彼女らは、映画のヒロインとして同時代の若い娘たちに生き方のモデルを提示するとともに、そのヒロイン像を身に纏って、歌謡曲としても歌うことができたのです。それは他の女性歌手には出来ないことでした。

吉永小百合「勇気あるもの」 彼女たちの旅路(6) 付・連合赤軍・永田洋子の「勇気」

寒い朝」(昭37-4)で17歳の少女・吉永小百合がすっくと立ち上がって北風の中を歩きはじめた時、女性の青春歌謡の時代が始まったのでした。
 50年代の「待つ女」から60年代の「歩く娘」へ、戦後女性の姿勢が変りました。
 しかし、彼女らはまだ、傷心の旅以外ではめったに「ひとり歩き=ひとり旅」をしません。「ひとり歩き=ひとり旅」と見えるものも、実は姿の見えない「みんな」に支えられています。それは言い換えれば、まだ「ひとり立ち」しない、ということです。(男はちがいます。「俺はいつでもひとりだち」と歌ったのは美樹克彦「6番のロック」でした。)
 彼女らがいつ、「待つ女」から真に「ひとり歩き=ひとり立ち」する女になるのか。
 私がこのテーマでたどっているのは、少し大げさにいえば、そういう戦後の若い女性たちの精神史的な「歩み」なのだ、と思ってください。「フェミニズム」などという思想や観念の問題ではなく、生活に密着した実感の問題として、社会的に公認され支持された価値観の問題として考えるのに、歌謡曲という素材は一番ふさわしいように思います。
 さて、ふりかえれば、吉永の「寒い朝」も、マヒナスターズとの共演でした。
 マヒナの「おじさんたち」(笑)が少女を支え、少女を支援していたのです。男声コーラスが女性青春歌手を支えて共に「歩く」青山和子「しあわせの風」(さらには子供たちといっしょに歩くコロムビア・ローズの「長い一本道」)の原型も、「寒い朝」にあったのです。
 今日はその吉永小百合の後期を代表するヒット曲「勇気あるもの」です。
 いまyoutubeには昭和41年の紅白歌合戦で歌う映像しかないようです。これはこれで貴重なものですが、紅組(女性軍)ということで女声コーラスなのが残念です。本当は男声コーラス(トニーズ)がつとめていたものです。それでなくては、「寒い朝」「長い一本道」「しあわせの風」「勇気あるもの」とつづく私のブログの意図が鮮明になりません。
 ともあれこちらで懐かしい紅白歌合戦映像とともにお聴きください。gerogerori31さんに感謝しつつ無断リンクします。

吉永小百合(&トニーズ)「勇気あるもの」
  昭和41年10月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
吉永小百合・勇気あるもの 一 この道は 長いけど
   歩きながら ゆこう
   石っころだらけでも
   歌いながら ゆこう
   ごらん 向日葵(ひまわり)
   空へ 空へ 太陽へ
   友の背中を たたくとき
   友と手と手を 握るとき
   この掌(てのひら)に 勇気が
吉永小百合・勇気あるもの他   湧いてくる 湧いてくる
 二 しあわせは 何処にある
   探しながら ゆこう
   果しない 旅だけど
   笑いながら ゆこう
   ごらん 夕焼けの
   空は 空は 茜色(あかねいろ)
   友とかなしみ 語るとき
   明日のたのしさ 語るとき
   このくちびるに 勇気が
   湧いてくる 湧いてくる
 三 ごらん 進みゆく
   道の 道の 砂ほこり
   友の顔にも ついている
   僕の顔にも ついている
   この靴音に 勇気が
   湧いてくる 湧いてくる
   湧いてくる

 ピアノも使ったちょっと荘重な前奏で始まります。
 なんといってもタイトルがすばらしい。「勇気あるもの」。女性歌手の歌では例を見ません。
 これも「しあわせ」を探しての旅です。「ひとり旅」ではありません。「友」との友情と連帯で結ばれた「みんな」の旅です。「勇気」はその連帯感から生まれます。
 ここには恋愛テーマはありません。あくまでテーマは「人生」としての青春時代です。
 若い男声コーラス(トニーズ)は、最初から最後まで、吉永小百合といっしょに歌詞のすべてを歌います(二番のほんの一部だけハミング)。つまり、若い娘である吉永小百合は、若い男たちといっしょに「この道」を歩いているのです。
 彼女が「ひとり」で歩けないから若い男たちに付き添ってもらっているのではないのです。青年たちはあくまで彼女の旅の同伴者、パートナーです。ここに、若い女性が、共に歩く若い男性を、旅=人生の対等なパートナーとみなす可能性が出現します。60年代青春歌謡が切り開いた重要な可能性です。(ジャケット写真では、吉永がトニーズを率いる形で腕を組み、胸を張って、前方(未来)を見つめています。腕を組んで胸を張ったこのポーズ自体が女性青春歌手のジャケット写真にはめずらしいはずです。しかも、若い男たちとともに、むしろ彼らを率いる形で、ポーズを決めているのです。この構図の意味については、後日、中村晃子「虹色の湖」の項で、またブロード・サイド・フォー「若者たち」の項で、さらに言及します。) 
 なお、三番の一人称は「僕」です。私はこれをほんの少し残念に思います。ほんとうは女性一人称「わたし」であってほしかった。女性が人生の旅を「勇気あるもの」として歩く、はっきりとそういう歌であってほしかった、と思うのです。(佐伯孝夫が「僕」にしたのは、ただ音数のせいだけだったでしょうか。この「勇気」が当時の女性の社会イメージにそぐわない、と感じたからでしょうか。)
 しかし、もちろん、吉永小百合が男として歌っているわけではありません。これは演歌系の「男歌」とは違います。「勇気あるもの」の世界が、男女の性別を超えた「友情=連帯」の世界であることを示すものだ、と受け止めるべきでしょう。
 (だから、本間千代子が「愛しき雲よ」(昭39-2)の三番で「ぼく」と歌ったこととも意味がちがいます。)

 もっとも、歩きはじめた若い娘たちの歌が、みんな、男声コーラスによって支えられていることは、ある観点からすれば、彼女らの「自立」の不十分さ、と見えるかもしれません。それは部分的には当たっているでしょう。60年代の青春歌謡の娘たちは、まだ70年代の山口百恵のように「馬鹿にしないでよ」(「プレイバックPart2」1978)と突っ張ったりは出来ないのです。
 60年代後半、いうまでもなく、社会はあくまで男性中心社会でした。しかし、青春歌謡の娘たちは「反抗」する娘たちではありません。彼女らは、社会の現状と妥協もしながら、無理のないかたちで、「自立」の道を切り開こうとしていたのです。
 「無理のない」というのが大事なところです。現に、彼女らの歩み(歌唱)は、「おじさんたち」(「寒い朝」)とも、子供たち(「長い一本道」)とも、同年代の男たち(「しあわせの風」「勇気あるもの」)とも、共有されました。「みんな」に支えられ、支援され、支持されていたのです。
 「無理」をするとどうなるか。極端な例を挙げておきましょう。
 60年代末、「反抗」する若者たちが出現しました。「政治=革命の季節」の到来です。それが青春歌謡の時代を終焉させた重要要因の一つであることはすでに吉永小百合「野麦峠」の項などで述べました。
 その最前線を走ってグロテスクな悲劇を実演し、「政治=革命の季節」そのものの幕引き役ともなった連合赤軍事件についても、何度か言及しました。
 その連合赤軍中央委員会副委員長だった永田洋子(ひろこ)は昭和20年2月8日生まれ。吉永小百合は昭和20年3月13日生まれ。二人は同年齢同学年でした。
 ちなみに、連合赤軍中央委員会委員長・森恒夫は昭和19年12月6日生まれ。舟木一夫は昭和19年12月12日生まれ。わずか6日ちがいです。
 吉永小百合、舟木一夫、永田洋子、森恒夫は同学年でした
 つまり、青春歌手たちと「革命」を呼号した新左翼過激派とは同年代なのです。
 永田洋子は共立薬科大学に入学し、そこで新左翼組織に加入します。薬科大学を選んだ彼女には、病める人を助けたいという思いがあったでしょう。
 かつて魯迅は、医学は病める身体を治療するが病める心は治療できない、と考えて医学生の道を捨て、貧困と無知の中に放置された中国民衆の心を治療するための方法として文学を選びました。
 薬学生だった永田洋子も魯迅のように考えたのかもしれません。彼女が選んだのは、民衆の精神に働きかける文学ではなく、直接に現実そのものを変革しようとする政治=革命でした。
 それはまた、彼女が選んだ「しあわせ」への道でもあったでしょう。彼女は、宮沢賢治と同じように考えたのかもしれません。
 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
               (宮沢賢治「農民藝術概論綱要」)
 その意味で、「しあわせ」を探す彼女の道も「石っころだらけ」の困難な道でした。その困難の中で、まだ初々しい彼女には、「友と手と手を握るとき」その「掌に勇気が湧いてくる」。そういう連帯感に励まされる体験も幾度かあったでしょう。
 (政治=革命至上主義者たちは、永田洋子を青春歌謡の比喩で語ることを政治=革命運動への侮辱だと思うかもしれません。もちろん私はわざとやっています。彼らの観念がどんなに背伸びしようが、彼らの等身大の身体は青春歌謡と同じ地平を共有しています。その地平を侮蔑するところにこそ彼らの思想の根本的な欠陥があります。実際、永田洋子の手記『十六の墓標』の文章を読めば、永田という女性が、青春歌手と同様、あるいはそれ以上に、「うぶ」な感性と思考の持ち主だったことは瞭然です。)
 その彼女が「闘争」の中で鍛えられ、「革命戦士」となり、追い詰められた組織の「指導者」となり、あげく、あるべき「革命戦士」像を基準にして仲間たちを裁き、リンチして殺します。「友」であるはずの者たちを何人も殺すのです。永山則夫のいう「仲間殺し」です。
 連合赤軍のリンチ殺人の詳細は読むだに息苦しくあまりに陰惨です。そこには永田や森恒夫という「指導者」たちの思想の未熟に加えて、人格的な歪みもあれば、権力意志や保身や嫉妬といった俗なる感情も渦巻いています。
 本項のテーマに関わる部分だけに絞ります。
 永田は、ある女性同志(遠山三枝子)を、彼女が化粧していること、髪を長く伸ばしていることなどを理由に批判し、リンチにかけて殺しました。
 それはしかし、たんなる嫉妬ではありません。彼女が否定しているのは、自分を他者(ことに異性)の目に美しく見せようとする女性性そのものです。
 またわざと古めかしい言葉を引用します。『史記』刺客列伝の豫譲(よじょう)の言葉ですです。
 士は己(おのれ)を知る者の為に死し、女は己を説(よろこ)ぶ者の為に容(かたちづく)
 男は自分の真価を知る者のために命を捨て、女は自分の容色を愛する者のために化粧する、という意味です。
 豫譲の言葉の意味するところをさらに分析・展開すれば、以下のようにいえるでしょう。
 人間の価値は外見とは関わりません。あくまで内的な価値です。それが男の「己」、自己というものです。男には自己があります。また、価値は超越的な価値基準に照らして初めて量られます。男の自己は、その超越性に支えられた自己です。だから、男の自己は、目の前の相手が王侯貴族だろうが市井の貧者だろうが、変りません。
 一方、女には内的な自己がありません。女には外見しかないのです。しかもその外見は相手(男)の好みに合わせた化粧によって変化します。つまり、女の自己は超越性によって媒介されず、地上的な相手との二人称的関係を超えられません。言ってみれば、女に自己というものがあるとすれば、「あなたにとってのあなた」としての自己だということです。
 (なお、二人称的関係における「あなたにとってのあなた」としての自己は、「女」の特性であるだけでなく、一神教の伝統のない日本人の自己の特性でもあります。西洋人が「男」なら、日本人はたいがい「女」です。)
 永田洋子が遠山三枝子を許せなかったのは、遠山が「女」だったからです。彼女が否定したのは遠山の化粧や髪の長さが表象する女性性そのものでした。当然、女性性の否定は自分自身の内なる女性性の否定でもあったはずです。
 (もちろん彼女は、この不合理な世界で女性が抑圧されていることを知っていました。「女性解放」は彼らの革命の重要課題でもあったのです。しかし、「頭=観念」として知っていることと「身体=生活」のなかで「生き方」として知っていることとはまるで違うのです。)
 つまり彼女は「男」になろうとしていたのです。「革命戦士」のモデルが男だったからです。
 革命集団は、戦前の非合法共産党以来、男性中心主義が支配する集団でした。その集団内で「自立」した「戦士」として男たちによって承認されるために、「革命」という超越的理念に忠誠を誓い、さらに、自らも含めた女性性を否定して「男」になろうとすること、それが永田洋子の無残な「自立」でした。
 永田は文字どおりの「僕=男」になって「革命」という「しあわせ」探しの道を歩こうとしたのです。
 もっとも、革命青年たちの一人称についていえば、ここにはさらに問題があって、彼らは「僕」ではなく「我々」と言いました。その一人称において、単数で立つことを忌避し、複数性を、個を抹消した集合性を選ぶのです。個は組織=全体からの逸脱だからです。私は右も左も(保守も「いじめっ子」どもも)「我々」が大っ嫌いです。(私が許容するのは青春歌謡の中の「みんな」だけです。(笑))
 その意味で、学園闘争にわけもわからず参加し、翻弄されて悩むダメな学生を描いた三田誠広の『僕って何』は、そのタイトルにおいて、見事な批評性(滑稽化)をそなえた小説でした。
 さらに、政治の季節に集団の権威=権力と同一化して「男」になろうとする女を描いた傑作に、椎名麟三の『美しい女』(これは戦中軍国主義の時代です)があることも付け加えておきましょう。
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 442 三田明「世界の街で恋をしよう」 国際化(6) 海外旅行への誘い
  • 442 三田明「世界の街で恋をしよう」 国際化(6) 海外旅行への誘い
  • 441 三田明「カリブの花」 国際化(5) カリブ海とメキシコ・オリンピック
  • 441 三田明「カリブの花」 国際化(5) カリブ海とメキシコ・オリンピック
  • 441 三田明「カリブの花」 国際化(5) カリブ海とメキシコ・オリンピック
  • 440 三田明「また逢う日まで」&西尾三枝子タイトル不明 新御三家?(5) 
  • 440 三田明「また逢う日まで」&西尾三枝子タイトル不明 新御三家?(5) 
  • 440 三田明「また逢う日まで」&西尾三枝子タイトル不明 新御三家?(5) 
  • 440 三田明「また逢う日まで」&西尾三枝子タイトル不明 新御三家?(5) 
  • 439 阿木譲「俺の影が泣いている」 遅れてきた青春歌手たち(7) 新御三家?(4) 付・舟木一夫と阿木譲
  • 439 阿木譲「俺の影が泣いている」 遅れてきた青春歌手たち(7) 新御三家?(4) 付・舟木一夫と阿木譲
  • 438 阿木譲「高原の慕情」 遅れてきた青春歌手たち(6) 新御三家?(3) 付・「てなもんや三度笠」の時代
  • 438 阿木譲「高原の慕情」 遅れてきた青春歌手たち(6) 新御三家?(3) 付・「てなもんや三度笠」の時代
  • 438 阿木譲「高原の慕情」 遅れてきた青春歌手たち(6) 新御三家?(3) 付・「てなもんや三度笠」の時代
  • 437 酒井和歌子「花と走ろう/青春通り」 遅れてきた青春歌手たち(5) 付・青春映画の終焉
  • 437 酒井和歌子「花と走ろう/青春通り」 遅れてきた青春歌手たち(5) 付・青春映画の終焉
  • 437 酒井和歌子「花と走ろう/青春通り」 遅れてきた青春歌手たち(5) 付・青春映画の終焉
  • 437 酒井和歌子「花と走ろう/青春通り」 遅れてきた青春歌手たち(5) 付・青春映画の終焉
  • 436 酒井和歌子&江夏圭介「大都会の恋人たち」 遅れてきた青春歌手たち(4)
  • 436 酒井和歌子&江夏圭介「大都会の恋人たち」 遅れてきた青春歌手たち(4)
  • 436 酒井和歌子&江夏圭介「大都会の恋人たち」 遅れてきた青春歌手たち(4)
  • 436 酒井和歌子&江夏圭介「大都会の恋人たち」 遅れてきた青春歌手たち(4)
  • 436 酒井和歌子&江夏圭介「大都会の恋人たち」 遅れてきた青春歌手たち(4)
  • 435 水戸浩二「君を信じて」 遅れてきた青春歌手たち(3) 新御三家?(2) 付・「飢餓海峡」&「黄金バット」の水戸浩二
  • 435 水戸浩二「君を信じて」 遅れてきた青春歌手たち(3) 新御三家?(2) 付・「飢餓海峡」&「黄金バット」の水戸浩二
  • 435 水戸浩二「君を信じて」 遅れてきた青春歌手たち(3) 新御三家?(2) 付・「飢餓海峡」&「黄金バット」の水戸浩二
  • 435 水戸浩二「君を信じて」 遅れてきた青春歌手たち(3) 新御三家?(2) 付・「飢餓海峡」&「黄金バット」の水戸浩二
  • 435 水戸浩二「君を信じて」 遅れてきた青春歌手たち(3) 新御三家?(2) 付・「飢餓海峡」&「黄金バット」の水戸浩二
  • 435 水戸浩二「君を信じて」 遅れてきた青春歌手たち(3) 新御三家?(2) 付・「飢餓海峡」&「黄金バット」の水戸浩二
  • 435 水戸浩二「君を信じて」 遅れてきた青春歌手たち(3) 新御三家?(2) 付・「飢餓海峡」&「黄金バット」の水戸浩二
  • 434 永井秀和「恋人と呼んでみたい」 遅れてきた青春歌手たち(2) 新御三家?
  • 434 永井秀和「恋人と呼んでみたい」 遅れてきた青春歌手たち(2) 新御三家?
  • 434 永井秀和「恋人と呼んでみたい」 遅れてきた青春歌手たち(2) 新御三家?
  • 433 永井秀和「夕陽のチャペル」 遅れてきた青春歌手たち(1)
  • 433 永井秀和「夕陽のチャペル」 遅れてきた青春歌手たち(1)
  • 433 永井秀和「夕陽のチャペル」 遅れてきた青春歌手たち(1)
  • 432 山本リンダ「ミニミニデート」 付・「かわいい」ナルシシズムの出現
  • 432 山本リンダ「ミニミニデート」 付・「かわいい」ナルシシズムの出現
  • 431 由美かおる「みんなあげましょう」 追悼・水島哲(7) 由美かおるの思わせぶりと山口百恵
  • 431 由美かおる「みんなあげましょう」 追悼・水島哲(7) 由美かおるの思わせぶりと山口百恵
  • 431 由美かおる「みんなあげましょう」 追悼・水島哲(7) 由美かおるの思わせぶりと山口百恵
  • 431 由美かおる「みんなあげましょう」 追悼・水島哲(7) 由美かおるの思わせぶりと山口百恵
  • 431 由美かおる「みんなあげましょう」 追悼・水島哲(7) 由美かおるの思わせぶりと山口百恵
  • 431 由美かおる「みんなあげましょう」 追悼・水島哲(7) 由美かおるの思わせぶりと山口百恵
  • 430 由美かおる「レモンとメロン」(&森山加代子「メロンの気持」) 追悼・水島哲(6) 由美かおるの清純派宣言
  • 430 由美かおる「レモンとメロン」(&森山加代子「メロンの気持」) 追悼・水島哲(6) 由美かおるの清純派宣言
  • 430 由美かおる「レモンとメロン」(&森山加代子「メロンの気持」) 追悼・水島哲(6) 由美かおるの清純派宣言
  • 430 由美かおる「レモンとメロン」(&森山加代子「メロンの気持」) 追悼・水島哲(6) 由美かおるの清純派宣言
  • 430 由美かおる「レモンとメロン」(&森山加代子「メロンの気持」) 追悼・水島哲(6) 由美かおるの清純派宣言
  • 429 井上ひろし「煙草が二箱消えちゃった」 付・タバコの歌
  • 429 井上ひろし「煙草が二箱消えちゃった」 付・タバコの歌
  • 428 井上ひろし「地下鉄(メトロ)は今日も終電車」 追悼・水島哲(5)
  • 427 三田明「恋人の泉」 追悼・水島哲(4)
  • 427 三田明「恋人の泉」 追悼・水島哲(4)
  • 426 西郷輝彦「から松林の別れ道」 追悼・水島哲(3) 付・落葉松の詩学
  • 426 西郷輝彦「から松林の別れ道」 追悼・水島哲(3) 付・落葉松の詩学
  • 布施明「銀の涙」 追悼・水島哲(2)
  • 布施明「銀の涙」 追悼・水島哲(2)
  • 布施明「霧の摩周湖」 追悼・水島哲(1) 付・平尾昌章と平尾昌晃
  • 布施明「霧の摩周湖」 追悼・水島哲(1) 付・平尾昌章と平尾昌晃
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ