「7つの習慣」の終わりのほうに書いてあった話。舞台「ラマンチャの男」でいまわの際のラマンチャの男セルバンテス、つまりドン・キホーテが、遊女アルドンサを枕元に呼び寄せて歌う「ドルシネアの歌」という歌がある。彼はアルドンサを高貴な姫だと信じていた。
歌い終わえたセルバンテスはアルドンサに告げる。「忘れるな、そなたはドルシネアだ」。これは幻想にとりつかれた狂人の夢にすぎない。しかしセルバンテスの深い愛情はアルドンサのうちに眠る高貴な魂を目覚めさせ、彼女の生き方を変化させた。感動的な場面だ。
「七つの習慣」の著者、スティーブン・R・コヴィーは人を信頼し、ポジティブな夢を持つことの教訓としてこの例を挙げた。結果を出す前から自分を信じてくれる人、箸にも棒にもかからないときでさえ、内なる可能性に眼をとめてくれる人がいることは大きな力になる。
しかしもしもアルドンサが姫君になることをまったく望んでいなかったらどうだっただろう。
親の願いと子供の願い
わたしの母は娘が生まれたとき、理想の乙女を描いてそのものずばりの漢字を使った。たとえるなら麗しい娘になるようにという願いを込めて「麗子」と名づけた。しかし娘は弟と取っ組み合いの喧嘩をし、学校では男の子に混ざって飛び回るようになった。「麗子となづけたのに、ちっとも麗しくない」が母の口癖だった。
ある日、わたしが階段でアスレチックまがいの遊びをしていたとき、母がいつものようにいった。
「麗子と名づけたのに、ちっとも麗しい女の子にならなかった」
すると父がのんびりこういった。
「こいつもそのうち蛹から蝶になる。好きな男のひとりもできれば変わる」
わたしはこの父の言葉がとてもうれしかった。認められた気がした。そうか、いつか自分も「いい女」になれるんだ。「いい女になれよ」は父の口癖だった。
父は酔って帰ってくると、子供の寝顔をひとりひとり見て回る癖があった。夜更けに寝ないで遊んでいると父の足音がする。兄弟たちはすべてを差し置いて急いで寝床へ入る。父は上機嫌でひとりひとりの顔を見ながら何かいう。後年知ったが、かける言葉はそれぞれ違ったらしい。
「いい女になれよ」
これが父のわたしへの決まり文句だった。子供部屋のベッドの中で寝たふりをしながら聞く父のやさしい言葉は温かかった。「いい女」になろう。でも、「いい女」ってどんなものなのだろう?
期待に応えられないときの失望
さて、少し大人になるとわたしに対する母の願いは幼い頃とは真逆の方向へふれた。母はわたしの誕生日に「あなたはわたしの理想の息子です」と書いたカードをよこし、少女らしい趣味を持つことを毛嫌いし、少女漫画を読むことをあからさまに馬鹿にした。男子に仄かな思いを寄せた兆候をみれば目ざとく首を突っ込み、他人の前でその話を持ち出しては笑った。*1
しかしわたしは母の息子にはなれない。粛々と第二次成長期を迎え、体つきも変わった。母は不潔なものを見るような目でわたしを見て、「サイズが合うから」と男物の服やパジャマや靴を買ってきてはわたしに着せようとした。それらはみな丸みを帯びた華奢な少女が着るには無骨すぎた。母の選んだ服を着るわたしはみっともなかった。
一方で父は「おまえは女なんだから」と外出時間や交際範囲に厳しく目を光らせた。進学先に候補に女子高をあげ、母と離婚したあとは両親も兄弟たちも漠然と長女のわたしが母親代わりに家事を引き受けるものだと思っていた。わたし自身もそうすべきだと思った。だからその期待に応えるだけの能力が自分にないことを知ったときはたいへんな失望を味わった。
女なのに。お姉ちゃんなのに。息子にも娘にもなれない。
「やればできるのに、やらないから」
勉強でも習い事でも家のことでもよくそういわれた。自分でもそう思った。やらないから出来ないんだ。本当は出来るはずなのに。だって同じ年の女の子でそれが出来る子はいる。わたしにだって出来るはずだ。同じ年の男の子でもっと上手くやれる子もいる。わたしだってできるはずだ。やればできるはずだ。
でもそうはならなかった。
「男らしさ」「女らしさ」
「男らしさ」や「女らしさ」ってこんな風に背負うものじゃないかと思う。男子に、女子に生まれたからには生来その能力が備わっている。まだ開花していないだけ。時期がくれば、開花のためのしかるべき努力をすれば、自然にできるようになる。だって男なんだから。女なんだから。
それは愛する家族のあたたかい腕の中でなんども語られる。いい子になろうと思うように、「いい男」「いい女」になりたいと思う。それは自然な成り行きだ。それが何かもわからないうちに。
でも期待にこたえられないことがあると「男の子なのに」「女の子でしょ」とため息をつかれる。「男だからそのうちできるよ」「女なんだから大丈夫」と請合ってもらえる。なんだかわからないけれど、期待に応えたいと思う。それは自然なことだ。期待に応えられないときに落胆するのも当然だ。
遊女アルドンサを姫君ドルシネアだと信じたセルバンテスの夢はアルドンサの内奥の夢に働きかけた。それは彼女の内なる願いと一致したのだろう。幸運だった。もしもそうでなかったら、これは呪いになっていただろう。
親の枕元に呼び寄せられて、「あなたならきっとできる。信じている」とこころからの善意で、絶望的に適性のない人生を委ねられたらどんなに辛いだろうと思う。
*1:結婚後まで!