日本でもっとも表紙を撮り続けた男 篠山紀信

ケトルVol.09は、「雑誌」特集!
僕らが読んで育った雑誌の表紙や巻頭グラビアを、もっとも撮ってきたカ メラマンといえば篠山紀信 !  写真家歴 50年になる篠山さんが「雑誌」のために押してきたシャッターの数はおそらく天文学的な数字のはず。ある意味、日本一「いいね!」ボタンを押してきた篠山紀信が語る「雑誌」とは── 。

「雑誌がなかったら、写真家やってなかったね」

──最初に撮った雑誌は何ですか?

「カメラ毎日」と「アサヒカメラ」「カメラ芸術」といったカメラ雑誌だね。僕がカメラマンになったのは 1961年にライトパブリシテイ(日本で初めての広告制作専門会社) に入社してからなんだけど、 最初は広告写真ばかり撮っていました。でも、広告写真はクライアントのものだから、自分の名前は出ないじゃない? だからカメラ雑誌に自分の作品を持ち込みたいんだけど、 撮影するにもフィルム代やらモデル代などお金がかかる。

で、どうするかというと、広告代理店などから会社を通さずに「ちょっとバイトしない」って声がかかるんです。当時、ライトパブリシテイに所属しながらアルバイトすることを 「サンカク」って言っていました 。「今日の撮影は」「サンカク」みたいに。ライトパブリシテイの会社のロゴが三角形だからなのかな(笑)、みんなやってましたね、コピーライター、デザイナーも。それで、すごいアルバイト代をもらえるわけ。そこで稼いだお金で個人的にモデルを雇ったり、写真撮ってカメラ雑誌に載せてもらったり。そうやって写真を覚えた若いカメラマンが当時はたくさんいた。

──広告写真を撮るのと、雑誌で写真を撮るのとでは何が違う?

撮影者のクレジットが入るってことは、自分で責任をとらなきゃいけない。スリルがある半面、褒められれば直接僕に返ってくるじゃない? ADCのような広告賞をもらっても僕の写真が褒められたのかどうかよくわからない。だからどんどんエディトリアルになっていったんだな。

68年に勤めていたライトパブリシテイを辞めてフリーの写真家としてデビューするんだけど、そのタイミングでやったのが、堀内誠一さんがアートディレクションしていた「血と薔薇」。そして「季刊写真 映像」。こんなふうに、日本の写真家は雑誌で育った人間がほとんどなわけ。もともと僕は広告写真を撮っていたけど、 その広告が載るのも雑誌だったわけだから。

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