タイトルは、丸山眞男が「〔竹内〕好さんとのつきあい」という文章のなかで紹介している内村鑑三の言葉である。
これを丸山は「みごとなコスモポリタニズムだ」と言ってるのだが、私も本当にその通りだと思う。
要するに、日本人はしばしば「島国根性」を発揮して、「人類」というものをどこかよそよそしい、抽象的なものだと考えてしまう。
「人類愛」を唱えるのと同じ人間が、自分の家庭では亭主関白であったりする。
しかし、本来、人類愛というのはそういう「内と外」を区別しない思想であり、別の言い方をすれば「自分がいま立っているここがとりもなおさず世界なんだ」という思想なのだ、と。
これと対極的な、言ってしまえば「島国根性」の典型が↓のような考えだろう。
「リベラルなフェミニスト」というのは、世間一般の風潮に対する態度であり、他人に対する態度である。自分自身のことではない。特に、家庭における自分の個人行動のことではない。「女性一般の権利を尊重する」ということと、「自分の女房の権利を尊重する」ということは、まったく別のことだ。前者はフェミニズムで説明できるが、後者はフェミニズムとは全然関係がない。
ふたたび内村鑑三の言葉を借りるなら、「フェミズムってのは、うちの女房の権利を守ることをいうのだ」と言ったところだろうか。
「女性一般の権利」のなかに、どういうわけか「自分の女房の権利」が含まれない。これはつまり「女性」が単なる観念として、自分の身近な世界の「外」にあるものとして認識されている、ということだ。
↑の増田とは正反対に、自分の女房とか、身近な女性に対して優しい男を「フェミニスト」と呼ぶ人もいる。誤解の方向は逆だが、実はよく似ている。
恋人や女房をそれとして見るのと「同時に」、女性一般としても見るのがフェミニズムなのであって、恋人や夫婦といった内輪の論理だけで互いの関係を図るあいだは、それがどれだけ慈愛に満ちたものであってもフェミニズムではない。
むかしの学生運動家には亭主関白が多かった(女性の仲間にお茶くみをさせて平然としていた)という話を思い出すのだが、
結局のところ、「外」からやってくる権威(たとえばマルクス)に対する弱さと、「外」の権威が及ばない「内」(内輪の論理)の強固さというのは、おそらく関連しているのだろう。
「外」から次々と新しい権威がやってきて、そのつど恐れ入るのだけど、それが「内」に及ぶことはないから、「外」の権威はそのつど取り換えられる。
これは日本人が仏教を受容し、儒教を受容し、マルクス主義を受容し、そして現代にフェミニズムを受容するに至るまで、一貫して続いた思考パターンなのだろうなぁ、と思う。
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