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水木しげるさん死去 その思いは

12月3日 21時20分

小暮大祐記者

「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」などの作品で知られる漫画家の水木しげるさんが、先月30日、93歳でその生涯を閉じました。 妖怪漫画の第一人者として、水木さんの作品は、漫画だけにとどまらず、何度もアニメや映画になるなど、幅広い世代に愛され続けてきました。
その一方で、水木さんはみずからの戦争体験を漫画に書き続けてきました。漫画を愛し、妖怪を愛し、平和を愛した水木しげるさん。
水木さんの思いについて、科学文化部の小暮大祐記者が取材しました。

漫画家 水木しげるさん

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水木さんは大正11年に大阪で生まれ、鳥取県の境港市で育ちました。
高等小学校を卒業後、新聞配達などをしながらデッサンの勉強を続けていましたが、昭和18年、21歳のときに召集されます。水木さんは、激戦が繰り広げられた太平洋のパプアニューギニアのラバウルへ送られました。
そして、そこでの戦闘で多くの仲間を失い、水木さん自身も左腕を失いました。このとき抱いた平和への強い思いは、生涯、水木さんの記憶から消えることはありませんでした。
復員後、水木さんは、左腕を失ったハンディキャップに負けず、絵の才能を生かして紙芝居の画家になり、昭和32年、漫画家としてデビューします。
独特の迫力あるタッチで描く妖怪漫画は大人気となり、「ゲゲゲの鬼太郎」をはじめ、次々と大ヒットを生み出します。子どもたちの間では妖怪ブームが巻き起こりました。

水木さんと「妖怪」

水木さんの作品に欠かせない「妖怪」。その創作のルーツは、幼少期を過ごした鳥取県にありました。
水木さんが子どもの頃の体験をつづった自伝「のんのんばあとオレ」。

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この中で、「のんのんばあ」と呼んでいたお手伝いのおばあさんに地元の境港市にある正福寺という寺に連れられ、本堂に飾られた極楽と地獄を描いた「六道絵図」を見たときのことが描かれています。ここで、水木さんは「のんのんばあ」から、さまざまな妖怪についての話を聞きました。そして、現実の世界とは違う妖怪の世界に強い関心を抱くようになりました。

異世界への興味は、兵士として戦場に送られてからも変わりませんでした。水木さんは、激戦のジャングルの中で生死の境をさまよっていたときに、目の前に妖怪が現れ、命を救われたと、後に振り返っています。そして、戦後、本格的に創作活動を始めた水木さんが生涯のテーマとしてたどりついたのが、幼い頃におそれを抱いた妖怪たちでした。

水木さんは、全国の言い伝えや資料を集めるとともに、独自の解釈を加え、「悪魔くん」や「ゲゲゲの鬼太郎」など数々の作品を世に送り出します。この中で登場した「ぬりかべ」や「一反もめん」、「砂かけばばあ」など、今となっては日本人にはおなじみの妖怪たち。しかし、それまではその姿形について定まったイメージはありませんでした。

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水木さんが描いたことで、初めて「妖怪」として新たな命が吹き込まれたのです。水木さんの妖怪漫画は日本人の妖怪像に強い影響を及ぼしました。

水木さんの妖怪漫画について、評論家の四方田犬彦さんは「水木さんは、人間社会の端っこでからかわれたり、いじめられたりしていた妖怪を、彼ら独自の社会を持った存在として位置づけ、鬼太郎やねずみ男を通じて、お互いに仲よく平和に暮らすことができることを描いた。水木さんの妖怪漫画は、現代社会の中で、自分たちと違いのある相手にどう向き合うのかという問いかけに答えを与えてくれているのだと思う。これからの日本人こそ水木さんの漫画が必要だ」と評しています。

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水木さんと「戦争」

水木さんが生涯にわたって取り組んだのは、妖怪だけではありませんでした。もう一つのテーマ、それは「戦争」でした。
戦後、人気漫画家になってからも、多くの戦友を失った戦争の体験は忘れることのできないものでした。
南方戦線で死地をさまよった体験をもとに、「敗走記」や「総員玉砕せよ!」など数々の作品を世に送り出したのです。中でも、「総員玉砕せよ!」で、水木さんは、多くの戦友を亡くしたラバウルでの体験を詳しく描いています。

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そこで見たのは、敵に襲われて逃げ惑う兵士や、上官から無謀な突撃を命じられて無残に死んでいく仲間の姿など、人間としての尊厳を持つことすら許されない、極限の世界でした。
「総員玉砕せよ!」のあとがきで、水木さんは「兵隊というのは“人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく“人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う」と記しています。そして、「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきてしかたがない。多分、戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」と締めくくっています。

出征前の水木さんの手記

戦後70年となることし、水木さんが出征する直前の昭和17年の11月前後に書かれた水木さんの手記が見つかりました。

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手記の中で、水木さんは「毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。今は考へる事すらゆるされない時代だ」と書き、自由が抑制されている時代を嘆いています。さらに、「吾は死に面するとも理想を持ちつづけん。吾は如何なる事態となるとも吾であらん事を欲する」と、自分の理想を持ち続けようという強い思いも記されています。そして、「私の心の底には、絵が救ってくれるかもしれないと言ふ心が常にある。私には本当の絶望と言うものはない」と記し、絵が心の支えになっていたことも分かります。
手記を見つけた長女の原口尚子さんは「戦争の時代でも自分は自分であり続けたいと何度も書いていて、それが今に通じる水木の強さなんだと思います」と話していました。

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水木さんと戦後70年

私が水木さんと最後に話したのは、ことし8月中旬。東京・調布市で開かれた、みずからの戦争体験をもとに描いた漫画展の会場でした。
去年12月に心筋梗塞で一時、入院するなど、体調のすぐれない日もあったということですが、体調のいい日を選んで展示会を訪れたのです。
作品をじっくり見て回ったあと、水木さんは「自分は逃げ足が速かったので奇跡的に生きのびましたが、戦友はみな死にました。嫌なことが多すぎて、本当は戦争のことは思い出したくない。戦争は即、死ですよ」と、改めて戦争に対する憤りや恐怖を語っていました。
水木さんの描く妖怪の世界は、独自のルールとしきたりの中で調和が保たれています。
水木さんの目には、妖怪の世界が、戦争の絶えない人間世界に比べてはるかに幸せに映っていたのかもしれません。
思い出したくないほど悲惨な経験をしたにもかかわらず、漫画で戦争を知らない世代にも その体験を伝え続けようとした水木さん。
その思いは作品の中で、これからも生き続けていくに違いありません。


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