KINO-PRAVDA

映画記憶喪失学

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『俺物語!!』「俺は…鈴木愛理が…好きだ!」と臆面も無く云えるのは、末期症状による幻覚か、或いは祈りか

      2015/12/02

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『俺物語!!』を偶然とは言え、主演を務める鈴木亮平さんと同じ映画館、同じ時間のスクリーンで鑑賞してしまいまして、いささか恐縮な気分にさいなまれました……し、身長の高い好青年デシタ、鈴木亮平さん。

 

そもそも、ワタシは原作読者ではなくて(不勉強ながら大変評判の良いアニメーションも拝見しておらず)、ほぼ予備知識皆無で本作に臨みました。尚且つ、ワタシは『鈴木先生』の超ファンですから、監督の河合勇人さんには絶大な信頼を寄せていましたし、河合さんの新作を観るという触れ込みで本作も鑑賞に至った次第であります。

 

まず、前以って述べておきましょう。この乱文内では『俺物語!!』に関するヒヒョーもカンソーも書いておりません……ってなんじゃらほい。

 

――『俺物語!!』はいかがでしたか?
わたし「突然に”あ、永野芽郁さんって鈴木愛理さんに似ているな”って思えてしまったんですね。思った瞬間から、もうほんと、大変失礼なんですけれど、最後までもう愛理にしか見えないんですよ。脳内でね、変換されちゃうの。意識的にじゃないですよ、無意識なんですけれど。だからずっと、僕の中では『俺物語!!』のヒロインを鈴木愛理さんとして捉え続けてしまいましたし、ついには鑑賞後の今も、その印象は拭えないんですよ」

公式ファンブック『俺物語を観た俺たち』特別インタヴューより抜粋(大嘘

 

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デヘデヘする永野芽郁さん

 

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フガフガする鈴木愛理さん

 

同列に写真を並べることが極めて不毛であり、野暮な行為であることは重々承知しつつも、その試みをココに決行した次第です。

永野芽郁さんは映像に愛されている女優でして、こうして静止画で拝見するよりも、映像で動いている姿の方が何倍も素敵です。

ハッキリ言って、彼女の形相は鈴木愛理に似ていません。

しかし、もう一つ歴然としている事実は、『俺物語!!』という映画の中で、彼女はハッキリと鈴木愛理に似ていたということです。

 

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もうね、7千回くらい愛理に見えて仕方がない瞬間がありましたよ。さすがに、自分の脳内がオカシクなったと恐怖。右脳と左脳の間で、何やら戦争が起きている。脳がスパークして、永野嬢が愛理嬢として網膜に焼き付けられる。映画ファンとしての自我が、℃-uteファンとしての信仰心に抹殺されてしまったのか。それは、一目惚れをした瞬間と同等の感覚だったのかもしれない。「鈴木愛理に似ている」という概念がスクリーンそのものからインセプションされてしまったが為に、ワタシの全身を強烈な電流が激走しました。そして、脳味噌が電撃を喰らった瞬間から、もうこの錯覚から離脱できないカラダに成り果ててしまっていた……と言うか、ナンデコーナッタ?!

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ここまで述べている”電撃”とは、永田嬢が魅せた笑顔を機に放電されたと記憶しています。キャメラが永田嬢の顔のヨリを捉えた後に、画面は健男の「好きだーーー!!!」という切り替えしになります。が、誠に申し訳ない。もうワタシにとっては、ゴリラのような健男の切り替えしにおいても、永田嬢の残像を見てしまっていました。そして、その残像が次第に鮮明になるに至り、そこに映し出されているのは、もしかすると鈴木愛理なんじゃないかと、臆面も無しに感動を覚えてしまっていたのです。銀河系の℃-ute及び鈴木愛理嬢のファンの皆様、ワタシはサイコパスなのでしょうか。

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だってさー、似てるんだよ、笑ったときの表情が。くしゃくしゃと顔の筋肉がほころんで、唇が変形することにより姿を現す……あの八重歯! YAEBA! こ、こ、これは!す、すっ、鈴木愛理じゃないかッ! そう思わずにはいられませんでした。(別の鈴木の話題ばかりでほんとスミマセン鈴木亮平さん)

まず、定言しておかなくてはならないのは、ワタシは℃-uteにおいて、(5人全員を信仰していますけれど)心が寄り添ってしまっているのはリーダーである矢島舞美さんだということです。いや、アンタの推しメンとかキョーミ無いけど、とかナントカ頭に浮かべたアナタは『スキャナーズ』の如くバコーンと頭が破裂してしまえ(バコーン言いたいだけ)。

つまり、鈴木愛理の熱烈なファンだとは、とても自分のような身分では自称できないのです。

それにも関わらず、何故ワタシは鈴木愛理をスクリーンに降臨させてしまったのでしょうか

 

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鈴木愛理は℃-uteの絶対エースであり、ファンの人気も絶大なものです。グループのリーダーは矢島舞美であっても、その歌唱力や存在感やパフォーマンスの高さから、やはり「中心」としての愛理の印象は強いはずです。

 

いまや「アイドル戦国時代」なんちゅー物騒なネーミングが施され、幾多のアイドルが量産される中においても、愛理の存在は突出した才能だと言っても過言ではありません。

 

しかしながらワタシは、グループ・アイドル全盛期の現在、彼女のような突出した才能と個性は、時にグループを生かすための「中心点」として扱われてしまうのではないかと危惧しているのも確かです。
「中心点」とは、文字通りに円や図形の真ん中のことを指しますが、円や図形を描くための単なる「点」でもあり、コンパスの針が刺される場所でもあります。

 

それはつまり「愛理という絶対的な存在があるから、我々は他のメンバーを応援することができる。愛理がしっかりとしているから、他のメンバーの個性も引き立つ」という恐ろしき思考です。

 

あくまで他のメンバーの個性を引き立てるための「中心」としての鈴木愛理、そんな残酷な捉え方すら為されてしまうこともあるのです。

これは『桐島、部活やめるってよ』における”桐島”にも近いニュアンスでしょう。アレは「中心」の不在により混乱が巻き起こるハナシでしたが、それはひとえに、鈴木愛理にも当てはまることなのです。

しかし、鈴木愛理が持つ「中心」のニュアンスからして、果たしてそれはメリットなのでしょうか。
実のところ、我々は彼女が「中心」であることをフガフガと歓迎し続けるのは、決して許されないことだと思うのです。

 

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もう一つ、歌が「歌唱」ではなく「音色」を提示する時代になったのは、彼女にとって残酷な現実だと言っても過言ではありません。
要するに、歌の「ソング」から「サウンド」への変化のことです。

 

これは、今現在ディーヴァと呼称されるようなソロアーティストが一掃されつつある現状からも明らかなことなのですが、作り手は、歌唱力よりも音色の心地良さを重要視しているワケですね。
もちろん、アイドル界においてもソレは同じこと。

 

ちょち前には、松田聖子成るパーフェクトな歌唱力を持ったアイドルが「ソング」を唄っていました。
しかし、いまやグループ・アイドルたちには「ダンス」をするための「サウンド」がセッティングされているのみ。
21世紀のアイドルは、グループであること、ダンスをすること、そしてサウンドに重きを置くこと、この3点によってほぼ定義づけられています。

 

つまり、「サウンド」は必要とされても「ソング」は必要とされないのです。

 

転じて、ハロープロジェクト屈指の歌い手である鈴木愛理にとっては、不遇の時代と言えてしまいます。

 

幸か不幸か、鈴木愛理は歌手としての並々ならぬ力量を持ってしまいました。つまり「音楽的本質」を持ってしまったのです。

 

ライムスター宇多丸氏曰く「アイドルとは魅力が実力を凌駕している存在」だそうですが、
これをアイドルの定義とするならば、鈴木愛理は「魅力(=形式)と実力(=本質)が同等の力で対立している存在」と表現できます。

実のところ、彼女はアイドルの定義からはみだしてしまう存在なのです。
彼女の魅力と実力は、そのどちらかが一方を凌駕するのではなく、互いに張り合い続けているのですから。

 

不肖映画呪われ人であり、熱心なアイドルファンではないワタシが言うのも恐縮ですが、こんなアイドルは見たことがありません。

 

まさに唯一無二。エースであるからこその、中心であるからこその、凛とした存在。
もしも彼女が、その才能と努力が報われず、他のメンバーの引き立て役なぞで身を据えようものなら、この国はもうアイドルを生み出さない方がいい。

 

「歌手・鈴木愛理」という「本質」をないがしろにし、グループアイドルという「形式」に彼女を沿わせている現状からの脱却を要求する!……ええーと、アップフロントワークスよ!
作り手たちは再度、サウンドからソングへの転換を楽曲的に行うべきではないだろうかと、常々感じています(だからと言って『SHOCK!』をもう一度やれとは言ってないですヨ)。

 

これだけ稀有な才能を持った鈴木愛理が、日本の偉大なアイドル史に名前を刻まれないとしたら、世界は滅んでしまった方が宜しかろう。

同時に、鈴木愛理が「歌手」として崇拝されないような世界も、我々は許してはならないのではないでしょうか。

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鈴木愛理をスクリーン上に降臨させてしまったのは何故か。
それは、鈴木愛理が十二分に歌唱し、尚且つ踊りも魅せる、純粋に「歌手・鈴木愛理」のために捧げられたミュージカル映画を、一瞬だけでも夢想してしまったからかもしれません。

ワタシは見たいのだと思います。
鈴木愛理が「歌手」として存在し続ける、ただそれだけの2時間を。

勿論、℃-uteとしての鈴木愛理の活動は素晴らしいです。
しかし、彼女が「アイドル」としてその肉体を捧げているのであれば、ほんの一瞬だけでいい、「歌手」としての肉体をフィルムに焼き付けてもらいたい。

彼女が「アイドル・鈴木愛理」ではなく「歌手・鈴木愛理」として実存を保てるのは、もはや映画のスクリーンの中だけだと考えてしまうのです。「歌手・鈴木愛理」を救済し、世界に認知させるためには、彼女を銀幕へと誘うしかありません。

もちろん、主演は鈴木愛理でなくてはなりません。演技が宿命である役者ではダメです。「歌手」でなくてはいけない。そうで無ければ「本物」ではない。
ミュージカル映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を思い出してください。
あの映画が今尚語り継がれるのは、ビョークが「本物」の歌手であり、映像の中で歌唱する彼女の歌が「本物」だったからではありませんか

映画は、「歌手・鈴木愛理」を救える。

アイドルファンではない、映画呪われ人としての祈りが、歌も踊りもない、しかし八重歯がきらめいていた『俺物語!!』鑑賞中に誕生しました。
鈴木愛理が「歌う」映画が産声を上げたとき、彼女は改めて「アイドル」として以上に、「歌手」として歴史に身を置くことに成功するはずでしょう。

 

……え? 滑舌が悪くて台詞が分からないだろう?……フガフガの何が悪いんだ! フガフガを聞き取るのが我々の天命だろ!

 

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歌も上手くて踊りも出来て美しくて、何でもこなせるクールな、パーフェクトなカッコいいイメージから一変する、オフの時に見せるあのくしゃくしゃとした笑顔、変なポーズ、超越した変な言動……意味不明、意味不明な美しさこそがフェティズムであり、もう彼女の八重歯に勝る何かが地球上には存在するのだろうかと、一瞬だけでも疑うことのできる女性、それが、ワタシにとっての鈴木愛理です。

 

……と、長々と鈴木愛理論めいた乱文を書き散らしてしまいました……が、そもそもコレは『俺物語!!』に関する記事なのをスッカリ忘れていましたね。やっばい……永野芽郁さん、次回作も観に行きますね。

 

そして、本当に重要なコト。
それはだな……相手役は矢島舞美さんで頼むぜ、ってことだよ! 
やじすずばんざい!

 

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