明日へ−支えあおう− 証言記録東日本大震災 第47回「宮城県 多賀城駐屯地」 2015.12.01


あの日未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第47回は宮城県多賀城市に位置する陸上自衛隊多賀城駐屯地です。
駐屯地の主力部隊第22普通科連隊です。
隊員およそ900人の多くが地元宮城の出身で「郷土部隊」と呼ばれています。
あの日巨大な津波によって多賀城市をはじめ東北の沿岸部は壊滅的な被害を受けました。
多賀城駐屯地も津波に襲われ22連隊も被災します。
現場に向かった隊員たちは不眠不休で救助活動に当たりました。
そのさなか仙台港のコンビナートが爆発。
それでも隊員たちは活動を続けます。
その一方で隊員たちは被災地に住む自分たちの家族と連絡が取れない事態に陥ります。
隊員たちは任務に追われ家族に会いに行く事はできませんでした。
被災者を一刻も早く助けるために家族のすぐ近くにいながらもその安否が分からず不安を抱えたまま震災に立ち向かった自衛隊員と家族の証言です。
仙台港からおよそ1キロ町の東側にある陸上自衛隊多賀城駐屯地です。
22連隊は宮城県のおよそ8割の地域の防衛と災害派遣を担っています。
900人余りの隊員の多くが家族と共に宮城県内で暮らしています。
3月11日最大震度7を記録した巨大な地震が東北地方を襲います。
駐屯地では隊員たちがすぐさま作戦本部を立ち上げます。
ところが…。
地震発生からおよそ30分後ラジオから10メートルの大津波が宮城県沿岸に迫っているという情報が報じられます。
大津波警報が鳴る中22連隊は災害派遣の準備を進めていました。
その時…。
多賀城の町を4メートルの津波が襲います。
午後3時59分。
毛布や着替えなど災害派遣の物資を準備していた補給陸曹の木下茂之さんは「建物の上へ上がれ」という叫び声を耳にしました。
津波は駐屯地の正門を突き破って侵入しました。
僅か数分で敷地の半分近くをのみ込んでいきます。
建物の一部が床上浸水し車両13台が水につかりました。
隊員たちは足止めを余儀なくされます。
迫る津波を前にして木下さんたちは更に屋上へと上がるように指示を受けます。
隊員たちのほとんどは家族の安全を確認する事ができませんでした。
作戦本部には無線で次々と救助を求める知らせが舞い込みます。
当時連隊長だった國友昭さんは隊員の家族の安否確認より救助活動を優先しなければならないと考えていました。
午後6時半隊員たちは家族の安否が分からないまま被災地に向けて出発します。
多賀城市の救助が担当だった大内貞昭さんです。
浸水が激しい市街地へ向かうため救助用のボートを用意しました。
大内さんはおよそ60人の隊員たちと共に出発します。
大内さんはこの後30人余りを救助していきます。
多くの人が助けを求める中隊員たちは誰を優先するのか決めていかなければなりませんでした。
(大内)判断ですよね。
やっぱ一番大変だったっていうのは。
午後9時25分ごろ仙台港から巨大な炎が上がります。
石油コンビナートが爆発炎上したのです。
火災現場から僅か900メートルの場所にいた大内さん。
このまま救助活動を続けるべきか迷います。
命懸けで救助活動をする中大内さんは家族の安否に強い不安を覚えます。
大内さんは多賀城市の隣にある塩竃市に妻と家族6人で暮らしています。
妻の久美子さんは大内さんが救助活動を続けていた道を使っていつも仕事から帰宅していました。
そのころ久美子さんは運よく津波を避ける事ができ自宅に戻っていました。
家族は全員無事でしたが夫の大内さんにはどうしても連絡が取れませんでした。
どうしているのか分からない夫。
コンビナートの火災を見た久美子さんは居ても立ってもいられない気持ちに襲われました。
震災発生から24時間。
22連隊はおよそ1,500人を救助します。
駐屯地には900人ほどの避難者を受け入れていました。
屋上で家族と連絡が取れなかった木下さんです。
駐屯地内で避難者の受け入れに追われながらも連絡を取り続けました。
木下さんの自宅は駐屯地から北東に50キロ離れた石巻市の沿岸部にあります。
当時石巻市では多くの住民が津波で孤立し救助を求めていました。
自宅の裏にあるホームセンターの屋上に家族8人で避難しましたが津波によって孤立してしまいます。
一緒に避難した中には当時1歳だったおいっ子や息子の凛くんと颯くんもいました。
奈々さんは夫から災害時には救助活動のため家には帰れなくなると言われていました。
ホームセンターの屋上には地元住民などおよそ150人が避難していました。
食料は避難した際に持ち出した僅かな飲み物とお菓子などしかありませんでした。
しかしその我慢を強いられる避難にも限界が訪れます。
おいっ子の羽琉くんが倒れてしまったのです。
そうした過酷な状況の中でも奈々さんの息子たちは父親の話はしませんでした。
長男の凛くんが初めて父親の事を口にしたのはホームセンターに自衛隊のヘリコプターがやって来た時の事でした。
隊員の姿を見て「お父さんの事を聞いて」と奈々さんにお願いしたのです。
震災から2日たった3月13日。
奈々さんと連絡が取れない夫の木下さんに家族を捜す機会が訪れます。
被害状況を確認するための偵察要員の一人として自宅のある石巻市内に向かうよう指示を受けたのです。
ところが自宅へと通じる橋を渡ろうとした時…。
偵察の結果橋を渡る3つのルートはどれも使えなくなっている事が分かりました。
家族の元まではあと5キロ。
木下さんは断念せざるをえませんでした。
自宅の300メートル手前まで行きながら任務を全うするために家族の安否を確認できなかった隊員もいます。
福島さんが最初に救助に入ったのは自宅のある石巻市でした。
町の大部分が水没していた石巻市内。
福島さんたちは津波によって家などに取り残された住民たちの救助活動に当たりました。
活動場所のすぐそばには妻の弘子さんと3歳になる長男の颯空くんがいるはずでした。
福島さんは被害の大きかった石巻港に面した住宅地へと向かわなければなりませんでした。
この地域は5メートル近い津波を受けほとんどの家が流されていました。
その時福島さんは津波に襲われた幼稚園にかろうじて流されず残っていたスクールバスを見つけます。
福島さんは確認作業に戸惑いを感じました。
バスの中には誰も取り残されてはいませんでした。
悲惨な状況を目の前に職務に集中しようとしていた福島さん。
しかし子供を捜す夫婦に出会った事で気持ちが大きく揺らぎます。
その後も福島さんは一度も自宅の様子を見に戻る事なく救助を続けます。
3月14日。
生存率が急激に下がると言われる72時間を迎えてしまいます。
22連隊は4,775人を救助しました。
連隊長の國友さんは一つの判断を下します。
隊員たちを一旦家族の元へ帰す事にしたのです。
國友さんは家族の安否が分かっていない隊員たちに状況を確認次第活動に戻るよう指示しました。
自宅の直前まで行きながら橋を渡れなかった木下さんは別のルートで家にたどりつきました。
ところが家屋は全壊。
家族の姿はありませんでした。
ホームセンターなど町内を捜し回ります。
その時道で偶然妻の奈々さんと再会する事ができました。
木下さんは奈々さんと共に息子たちが避難していた知り合いの家へと急ぎます。
コンビナート火災のすぐ近くで救助活動をしていた大内さんもまだ家族との連絡は一切取れていませんでした。
夜中になって自宅に到着した大内さん。
はやる気持ちを抑えて家の中に入ります。
夫の不在に戸惑うばかりだった妻の久美子さんは憔悴して帰ってきた夫の姿を見てすぐに食事を用意しました。
こうして家族の安否が分からなかった隊員たちは妻や子供たちと再会を果たしていきました。
その後第22普通科連隊は行方不明者の捜索を続けながら被災者への炊き出しや風呂の提供などの民生支援を行います。
そして震災発生から144日目の8月1日。
隊員たちは災害派遣の活動を終えました。
石巻の自宅近くで救助活動を続けていた福島さんも家族との再会を果たしました。
妻の弘子さんと息子の颯空くんは避難所に行ったあと自宅に帰っていました。
しかし福島さんは息子の颯空くんに言われた言葉が忘れられません。
あっすいません。
震災から4年半。
陸上自衛隊では新たな仕組みを作ろうとしています。
隊員の家族の安否を自衛隊のOBなどが確認するというものです。
人々の命とふるさとを守るため。
第22普通科連隊郷土部隊はそれぞれの家族への思いを胸にしまい今日も厳しい訓練に臨んでいます。
すぐ目の前にいながらも家族の安否を確かめられなかった隊員たち。
その懸命の活動によって救われた被災者の数は自衛隊全体が救助したおよそ2万の命の3/3ほどにも上るという事でした。
さて福島の会津地方を舞台にした大河ドラマ「八重の桜」。
その主人公を演じた綾瀬はるかさんが福島各地を訪ねる「ふくしまに恋して」を紹介しましょう。
人々に出会って自然や文化の魅力を訪ねる旅。
今回綾瀬さんは秋深まる会津鉄道に乗ってきました。
会津地方を南北に走る会津鉄道です。
およそ90年前に開通し地元の人たちの大事な足となっています。
過疎化で利用者が減り震災で観光客も落ち込みました。
お客さんの回復を目指してさまざまな取り組みが始まっています。
駅長さんに任命されたのはなんと…。
列車が着くとお出迎えをしてくれる事もあるそうです。
窓がオープンになった観光用のトロッコ列車です。
絶景ポイントでは列車を止めてくれるんです。
さあそしてトンネルの中では?壁に映し出されたのはアニメ。
更に鉄道ファンにたまらないサービスも。
出発進行!
(運転士)じゃあ汽笛ポン。
列車の運転体験です。
線路の脇にある印に列車の先頭をゆっくりと停止させます。
うまく止めるコツは9段階あるブレーキのうち緩やかな1〜3を使う事です。
さてうまく止められるでしょうか?1…1。
綾瀬さん急停車!最も強い9のブレーキにしてしまいました。
さあ挑戦する事6回目。
やった〜!お見事!成功です。
みんなどうだった?「ふくしまに恋して」のホームページでは綾瀬さんの旅の様子を紹介しています。
そちらも併せてご覧になって下さい。
では被災した地域で暮らす方々の今の思い。
岩手県陸前高田市の皆さんです。
私は陸前高田でふるさと復興応援隊をしています。
津波で犠牲となられた皆様の慰霊と町の復興を願ってキャンドルをともす夢あかりや祈りの折り鶴プロジェクトを進めてきました。
心の復興は十人十色です。
私は陸前高田で農業と食品加工をしています。
津波によって家と農地を流されてしまいましたが助かったこの命で何かできないかという事で米作りから手がけた米粉パスタを作り始めました。
食べ物は命です。
次は皆様の命を守るために…陸前高田でジャズ喫茶店をやってます。
40年続いたお店は流されましたがたくさんの応援を頂いて仮設で再開しました。
コーヒーをいれている時が一番落ち着きます。
お客さんのほっとした顔が大好きです。
2015/12/01(火) 02:00〜02:50
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう− 証言記録東日本大震災 第47回「宮城県 多賀城駐屯地」[字][再]

宮城県多賀城市に位置する陸上自衛隊多賀城駐屯地。隊員は家族の安否がわからぬまま、被災地で不眠不休の活動を続けた。震災に立ち向かった自衛隊員とその家族の証言記録。

詳細情報
番組内容
宮城県多賀城市に位置する陸上自衛隊多賀城駐屯地。900人あまりの第22普通科連隊は隊員の多くが宮城県の出身者で占める「郷土部隊」として知られている。隊員は震災発生後、被災地で不眠不休の活動を続けた。自宅のすぐそばまで行きながらも家族の安否を確認することができなかった。一方、家族は津波で孤立し食料のない中、子どもたちを守るため必死に闘っていた。震災に立ち向かった自衛隊員とその家族の思いを証言でつづる
出演者
【キャスター】畠山智之

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
情報/ワイドショー – その他

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