こういった問題になるとまず間違いなく「オタクカルチャーが差別されてるから叩かれている」という言説が飛び出す。
また、例の楽器が男根と言い出した人の例を引くまでもなく、萌えキャラ・アニメキャラを嫌う人というのは存在する。
しかし、そういう人は決して多数派ではない。もしそうだとしたら、各地にいる無数の萌えキャラはすべて大なり小なりの炎上をしているはずだろう。
実際にはそうはなっていないのだから、炎上したキャラには「ほかのキャラにはない(問題)点」が確かにあったと考えるほうが妥当である。
美濃加茂市の『のうりん』良田胡蝶、志摩市の碧志摩メグは共通して、そのイラストの性的アピールが過剰であるという意見が多く見られた。
自治体、それに準じる第三セクター(=ここでは「お役所」とする)の表現にふさわしくない、公共の場に掲示していいものではない、一般人の羞恥を呼び起こすセクハラである。
それらに対する反論も噴出している。
客観的な基準が示せない、個人の「不快である」という感情の言い換えに過ぎない、ファンに向けたイベントなのだから問題ない。
そのどちらも決して間違いとは言い切れない。
理論上は、R-18に相当する表現がなければ、子供が見ようが女性が見ようが問題はないはずだ。
だが実際には女性の乳房や肢体を強調するのは「公共の場にふさわしくない」し「お役所らしくない」。
つまり、我々はいつの間にか、暗黙のうちに、お役所にふさわしい「表現の範囲」を定めていたのだろうか。
それを逸脱したことが今回の問題の核心であり、今後、その「範囲」を明確化して、その中に納まる表現だけが認められるのだろうか?
そもそもお役所がアニメとコラボしたり萌えキャラをつくること自体、今までの「表現の範囲」から脱却しようとする動きではなかったか。
無難で、地味で、つまらないお役所イメージから飛び出そうとするからこそ、オタクカルチャーを取り込もうとしたのではなかったか。
その意味で、じつはこれは「お役所の表現の範囲」のなかにはそもそも収まらない問題なのではないだろうか。
この関連の論争を眺めていると、「じゃあ○○もだめになるな」という言葉が散見される。
家族の楽しげな写真は、ぼっちに配慮がないよ。猫が嫌いだから子猫の写真で精神的苦痛を受けるからやめてほしいんだけど。
それに対し、「それとこれとは違うだろう」と思う向きは多いだろうと思う。
あたりまえのことだ。
単なる個人であったとしても、ブログを書くたび、一言ツイートするたび、一言喋るたび、視線を誰かにぶつけるたび、
もしかしたら誰かを不快にするかもしれないし、「不快になった誰か」が多数になれば叩かれるかもしれない。
今までの「お役所らしさ」は、そのリスクを最小限にしていた。だから「無難」だった。
しかし、いくつかの町が萌えというカンフル剤を手に入れ、そして成功した。
各地が我も我もと続き、ご当地アニメという言葉が生まれ、萌えキャラが量産された。
今やどこでも見るメジャーな戦略になったから、一部のお役所の皆さんは忘れているのではないか、と思う。
「無難」にほんわかしたイラストは、目に留まりにくい代わり、どんな層にも受け入れられやすい。
対して、萌えキャラというのはそもそも、ごく一部のオタクに対してのアピールに特化してできている。
そこには女性に対する性的視線が織り込まれている。既存アニメならば、アニメ視聴者しか知りえない文脈が隠れている。
オタク以外には不快かもしれないし、ついてこれないかもしれない。でも確実に『一部』は喜ぶ。
「無難」ではなく、リスクが高い代わり、リターンが見込めるからやるはずのものなのだ。
そう思ったとき、表現する側に必要なのは「ディレクション」だ。
ターゲットは誰か。ターゲットにリーチするために、どんな方法を取るか。
そして、もちろん、苦情が出ないかどうか。苦情が出るリスクが高い部分は、先んじて対策を取る。
リスクが高くとも、コンセプトとして譲れない部分はどこかを見極める。
「攻めた」表現をする人たち――広告や出版や放送にかかわる人たち――は、当然それを考えて動く。
今回、美濃加茂市の観光協会は、苦情が出たことに「困惑した」という。
「支給された素材を順番に使っただけだ」と。
はっきり言うと、つまり、考えが足りなかったのだ。
苦情を言うほうが悪いのではない。苦情が出ることを想定できないほうが悪い。
そして、苦情に対し「これこれこういう理由でこの表現は適当です」と、きちんと説明できないのが悪い。
萌えおこしに頼らざるをえないような田舎の観光協会に、そんなことを求めるのは酷だろうか。
苦情が出るかもしれない、そのときにはこう対応し、こう説明しよう。それでも、この戦略は間違ってないはずだ。
でも、仕事ってそんなもんではないだろうか?
全体的に「のうりん」ポスターや碧志摩メグを肯定する書き方になったが、
私個人としては、やはりあれは「性的アピールが行きすぎで、TPOを弁えておらず不愉快だ」と感じているし、
いくつかの場でそれを表明してきた。また、そう感じている人が少ないとは思わない。
だがしかし、今回の二つのバッシングに、一切問題がなかったか、と言われると、それも首肯しかねるのは事実だ。
ツイッターで似たような意見をまとめ、センセーショナルな見出しをつける。
同じ意見の人がたくさん見えるから、自分の意見が「常識」「良識」の側であると信じる。
だからそれをかさにきて叩く。
ネットでは非常にありがちな光景だけれど、しかし、これが正しい状態だと私は思わない。
私は「個人の不愉快」を表明することを擁護するし、「常識」が結局は多数決の結果であることを否定しない。
しかし同時に、他者が「多数決」「常識」に従わない自由を、いつも頭の片隅に置かなければならない。
叩きはネットの華だ。きっと今後もなくならない。