趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門(最終回) 第8回▽最愛の妹への思い〜宮沢賢治×トシ 2015.12.01


ハーモニーが楽しめる一品です。
これは銀河鉄道に乗ったカムパネルラとジョバンニの2人が唐突に別れてしまうシーンです。
「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」などの文学作品を残した宮沢賢治。
その代表作の一つ「銀河鉄道の夜」は賢治の妹宮沢トシが24歳という若さで亡くなった事がきっかけで執筆されたと言われます。
賢治の最大の理解者だった妹・トシ。
銀河鉄道のジョバンニとカムパネルラの別れは賢治とトシの姿に重なります。
トシの残した文字から一体どんな事が読み取れるでしょうか。
すばらしい字ですね確かに。
才気あふれる妹・トシの書が示す賢治との絆の深さとは?賢治といえばこれ。
「雨ニモマケズ」の誕生の秘密も探ります。
宮沢賢治に書から迫ります。
「臨書」とは書をありのままに写し取る事で歴史上の人物に触れる事。
文字の傾きや震えかすれなどから書いた人物の生きざまや息遣いまでも追体験していきます。
講師は…石川さんは長年書とは何か独自の視点で探究。
臨書を通じて多くの人物と向き合ってきました。
私羽田美智子が石川先生と臨書を体験しながら歴史に名を残した人物の生きざまに迫ります
今回私たちが訪れたのは岩手県花巻市。
ここは大正10年に宮沢賢治が教師として赴任した学校です。
その一角にある建物を訪ねました
かわいい家だね。
かわいらしいおうちですね。
ここはかつて宮沢賢治が実際に住んだ家。
現在はこの場所に移築され自由に見学できます
へ〜当時のまま?失礼します。
この家で賢治は地元の農民たちと交流をしていたそうです
何だか「セロ弾きのゴーシュ」の演奏が聞こえてきそうでした
宮沢賢治は明治29年花巻の裕福な家庭に生まれました。
学業は優秀で盛岡の農林学校現在の岩手大学に進学。
宮沢家自慢の長男坊でした。
その一方鉱物を採集したり一晩中天体観測をしたりと一風変わったところのある少年でもありました。
そんな賢治を理解し慕ったのは2歳違いの妹トシでした。
トシもまた小学校から模範生で女学校でも首席卒業式では総代を務める才媛でした。
東京の大学を卒業したトシは花巻の母校で教師となります。
学業優秀ながら独自の空想の世界を生きる兄。
そのよき理解者だった妹。
そんな2人の遺品が宮沢賢治記念館に収められていました
これがトシの使ったバイオリンと賢治のチェロですね。
へえ〜。
東京で西洋の音楽にいち早く触れた妹・トシ。
兄の賢治はその影響を受けてチェロを演奏したりクラシック音楽を聴くようになったそうです
当時珍しい事じゃないんですかね。
そうですね。
音楽を奏でていたきょうだいの姿を思い描くととってもなんかこうジーンとくるような…。
若くして芸術や文芸に秀でた兄と妹。
一体どんな字を書いたのでしょう。
副館長の牛崎さんに見せて頂きました
これは妹・トシさんの…清書をした賢治さんの短歌ですね。
体が弱く病気がちなトシは時間があれば賢治の原稿の清書を手伝ったそうです。
一文字一文字丁寧に書かれ妹の兄を思う気持ちが伝わるものでした
石川先生もトシの字を見るのは初めてです
圧倒的に美しい字ですよ。
これはもうバランスがいいし勉強しているし美しい音楽性もあるし非の打ちどころのない字ですね。
ほんと美しいですね。
すばらしい字ですね。
すばらしい字ですね確かに。
こうして妹が清書した原稿を見ながら賢治は推敲を繰り返し自作の短歌を完成させたといいます
しかし賢治が信頼していた妹・トシは24歳の時吐血。
病の床に伏します。
トシの最期の様子は賢治の「永訣の朝」という詩に残されています。
「けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよみぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ。
あめゆじゅとてちてけんじゃ」?何て…。
この「あめゆじゅ」っていうのは雨雪…みぞれの事なんですけれども。
このとおりを方言風に読むと……っていうような感じかなと思いますけど。
最期を迎えたトシが兄に頼んだのは「みぞれを取ってきてほしい」という事でした。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ。
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだからおまへはわたくしにたのんだのだ」。
トシが最期に残したこの言葉は詩の中で4度繰り返されます。
「悲しい」とかそういう言葉は書いてないけどもこの雨とか雪とかみぞれとかそういう冷たい感じの表現からなんか悲しみが伝わってくる文ですね。
トシは24年の短い生涯を閉じました。
トシを失った賢治はその悲しみを抱きながら北へ北へと旅に出たのです。
「銀河鉄道の夜」が書き始められたと言われてるのはその大正13年のこの本が出たあとの事なんです。
ですから「銀河鉄道の夜」の……っていう事は多くの人が話しておりますね。
賢治はその後創作に没頭します。
賢治の代表作の多くがトシの死後およそ10年間に書かれています。
しかし賢治もまたトシと同じく体が弱く肺の病に侵されていました。
昭和8年9月急性肺炎のため賢治は旅立ちます。
37歳でした。
私たちは賢治を一躍有名にしたあの詩を求めて花巻市内のご遺族を訪ねました
失礼します。
その詩が書かれたのは本当に小さな手帳でした
賢治さんの「雨ニモマケズ」が書かれてあった手帳の複製です。
特別に見せて頂いたのは精密複製という貴重なもの。
賢治が書いた全ページ手帳の傷まで再現されていました
このどこに「雨ニモマケズ」って書かれてるんですか?
(宮沢)間もなくです。
間もなく。
あっこれだ。
「雨ニモマケズ」。
166ページある手帳のちょうど中ほど51ページ目にありました
こういうふうに書かれていたんですね。
「こうありたい」と願う賢治の理想が漢字とカタカナで書き留められています。
この詩が書かれたのは昭和6年。
病に伏し自宅で療養していた11月3日の事でした。
この「雨ニモマケズ」っていう文章は…これは祖父が言ってたんですけどねずっと。
祖父はこれは詩でもないんだと。
まして作品でもないと。
そういうふうに言っていました。
この詩は賢治の名前が広まるきっかけとなり中学の教科書にも載るほどの国民的な詩となっていったのです。
それでは今日の臨書は宮沢賢治。
九楊先生お願いします。
今日はこの「雨ニモマケズ」を臨書します。
これを。
…という事は毛筆ではないですね。
はい。
これは鉛筆書きになりますか?鉛筆書きでやりましょう。
臨書をするのは毛筆だけとは限りません。
今回は鉛筆での臨書に挑戦です。
最初の「雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ」と。
そこまでを。
まずは手本をじっくり観察しどう書いてあるのか読み取る「目習い」です。
書いてあるとおりに一回読んでみる。
「雨ニモマケズ。
風ニモマケズ」。
おかしいでしょ?うん…「モ」が。
おかしいでしょ。
「モ」がえらい小さいですよね。
後から書いたのかなっていうぐらい。
そうです。
意味が…。
じゃあ「モ」は最後に書いたかもしれないんですか?
確かに「モ」は行から外れた脇に小さく書かれていました。
では賢治はこの部分をどのように書いたのでしょう
「雨ニマケズ風ニマケズ」。
…と書いたんです最初は。
この「モ」を入れる事によってこの「雨ニモマケズ」は国民の誰もが知っている詩になったんですね。
「雨ニモマケズ風ニモマケズ」というと七・七になるんですね。
じゃあもしこの「モ」を入れなかったらこの詩はここまでにならなかったかも…。
僕はそう思いますね。
じゃあこの「モ」が非常に重要なんですね。
カタカナがたくさん登場しまるで異国の言葉のような賢治の文章。
違和感を持つ人も多かったはず。
しかしこの詩を七五調にした事でなじみやすいものになったのではないかと九楊先生から教わりました
私は今回賢治になったつもりで手帳についている細い鉛筆を使う事にしました
筆を使う時と同じで鉛筆の先と紙との触れ合いを意識しながら。
少しこう粘って横画少し長めに。
はい。
「雨ニ」のあとは「モ」を入れずに「マケズ」と書きます
問題は「モ」をどのタイミングで書き足すかです
「雪ニモ」このタイミングで冒頭の「モ」を書き足す事は不自然に感じました
どこで「モ」を書き足したのか。
賢治の書く姿を懸命にイメージしました
4行目。
まだ「モ」を足す事ができません
「雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ」。
もう書きたいですね。
その辺ではもう入ってるでしょうね多分。
少なくともその時点では思い直して入れるでしょうね。
「モ」を入れる事を思いついて。
これ1個目の「モ」がきっちり書いてるのと比較して2個目のこれはもうシュシュシュって書いてるんですね。
こっちも流れてるし。
書き進めてこの部分から賢治の文字の書きぶりが何だか少し遅くなったように感じました
なんかこうスッと書くのと違う筆触が分かりましたか?具合悪いですね確かに。
「具合悪い」。
ああ〜そう。
なんか書いててちょっと私も何だかよじれてくる感じの…。
何か特に「丈夫ナカラダヲ」の辺りのゆがみ方が。
ここだけ賢治の文字に粘りがなくなりゆがんだような気がしました
いいじゃないですか。
いいいい。
ほんとですか?
「雨ニモマケズ」書いてみて賢治の叫びが聞こえてくるようでした
ここでなんかすごくゆれる。
体が…やっぱり具合が悪かったのかなっていうぐらい一文字一文字がゆれる感じがあったからなおさら「丈夫ナカラダ」っていうのを書くのをすごいためらいながら…一番の欲求だっていう感じがしました。
調子が悪かったのかなっていう。
調子が悪かったんだね。
すごいじゃないですかそこまで見えたら。
乗り移って。
フフフフッ。
ともに病弱だった賢治とトシ。
「体さえ丈夫ならば」そんな思いが込められているのかもしれません
続いて九楊先生の臨書です。
はっきり書いてくというよりも少し紙の上を筆記具が滑るように。
滑るというのはずっとこう紙にくっついていってスッスッと書くんじゃなしにもう少しこう滑るように。
この時賢治は鉛筆をほとんど紙から離さずに書いたのではないかと九楊先生は推測しました。
では九楊先生はどこで1個目の「モ」を書き足すのでしょう。
先ほどの羽田さん同様4行目の「マケヌ」まで書き進めてから最初の行に戻り「モ」を書き足しました。
賢治の祈りの言葉です。
「臨書ってこうなんだ」。
知っているつもりではなくて感じてみると宮沢賢治という人が私が今まで知っていた人とは違う人になってくるんですね。
その面白さを本当はもっと深く探ってみるべきだっていう事を臨書を通じて本当に深く今日体感できた回でした。
これは鎌倉時代の僧侶親鸞が書いた…「和讃」とは仏や菩薩などを日本語で褒めたたえたもの。
この書にはカタカナが多く書かれています。
カタカナは「仏典を翻訳するために編み出された記号」と言われます。
その多くに左払いがあるのは漢文の間にさし入れる記号だった名残です。
漢文…漢字の固まりがあるところにこの傍らに添えてここを開いてそして日本語にすると。
外来語である経文を読むために作られたため現在でも外来語はカタカナで表されるのです。

(テーマ音楽)2015/12/01(火) 11:30〜11:55
NHKEテレ1大阪
趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門[終] 第8回▽最愛の妹への思い〜宮沢賢治×トシ[解][字]

「銀河鉄道の夜」と宮沢賢治最愛の妹・トシの死とは、どんなの関わりがあるのか?「雨ニモマケズ」はいかに生まれたのか?故郷・花巻への旅、そして賢治の筆跡から探る。

詳細情報
番組内容
岩手県花巻に生まれた宮沢賢治。農業高校に学びながら、鉱物や天体への知識も養い、独特の表現で多くの物語を創作した。そんな賢治の最大の理解者が妹のトシ。24歳の若さでこの世を去ったトシは賢治にとって、どんな存在だったのか。トシの筆跡にも触れ、強い絆で結ばれた兄と妹の関係をひもとく。また「雨ニモマケズ」は、賢治がどんな思いで書いたものなのか、精密に復元された手帳を見ながら、鉛筆を使って臨書に挑戦する。
出演者
【講師】書家・京都精華大学客員教授…石川九楊,【生徒】羽田美智子,【出演】宮沢賢治記念館副館長…牛崎敏哉,宮沢賢治の遺族・「林風舎」代表…宮沢和樹

ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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日本語(解説)
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