先人たちの底力 知恵泉 90歳まで元気はつらつ!「スーパー絵師 葛飾北斎」 2015.12.01


気を付けます。
次回は人気の発泡酒が登場。
おいしいおつまみもご紹介します。
「最近どうも疲れが抜けない」とぼやいている皆さん。
今日はとっても元気の出る方が登場します。
YOUさんちょっと聞いてもらえます?
(YOU)大丈夫ですか?来年40になるんですけどほんとに最近疲れやすくて…。
風邪ひきやすい治りにくいっていうのが。
大丈夫ですか?健康診断行ってます?行ってるんですけどね〜。
いつまでこのお店をやっていけるかなと思って。
YOUさんその体力的な心配とかないですか?いやもうあのずっと眠い…。
ずっと眠い大丈夫ですか?ずっと寝てたいんですよほんとは。
よかったら今日休んでいって下さい。
ここでもう飲みながら。
ありがとうございます。
こんばんは。
こんばんは。
山本先生こんばんは。
いらっしゃい。
穏やかな。
お掛け下さい。
癒やされる。
今ちょうどねYOUさんといつまで現役でバリバリ働いていられるかなという話をしてたんですけれども。
YOUさんなんて年取らないんじゃないですか?いやいやもう眠くてしょうがないですよ。
でもその眠気に勝って常に現役バリバリで働けるようなそんな知恵を持っている人物いないですかね?それは飾北斎さんでしょうね。
意外な名前。
ねえ。
浮世絵師の飾北斎。
浮世絵師ですけど90歳まで現役でずっと絵を描き続けたんですよね。
90まで?はい。
すごい。
アメリカの雑誌「LIFE」が企画した「世界の100人」。
過去1,000年で偉大な功績をあげた人物としてシェークスピアガンジーと一緒に唯一日本人で取り上げられた人物がいました。
それが飾北斎。
世界的な傑作を生んだ浮世絵界の巨匠です。
ご存じこちらは「冨嶽三十六景」。
豪快な波の合間に富士山を捉えた名画です。
更に斬新な色彩の赤富士。
これらの絵は幕末に入ってヨーロッパに渡りゴッホやモネなど芸術家たちに強い影響を与えました。
しかし実は北斎の代表作の多くは70歳を過ぎてからのもの。
人生50年と言われた江戸時代に90歳まで活躍。
版画本の挿絵肉筆画など生涯3万点以上の作品を生み出しました。
絵を描くためなら80代半ばになっても旅に出かけ往復500km近くの距離を歩き通す健脚ぶり。
一体なぜ北斎は老いをものともせず一生現役のままで仕事を続ける事ができたのでしょうか?今日は日本史上最も元気な老人飾北斎の仕事の極意に迫ります。
…という人物なんですね。
歩けないですもう既に。
いやいやいやいや今日も歩いてこられたじゃないですか。
局内でやっとですねほんとに。
当時で90歳まで現役というのはどういう感じなんですかね?90まで生きられる人がそうはいないですからね。
そこまでずっと描くっていうのはこれは大変な事だと思いますね。
なぜねそこまで年を重ねても元気なのか。
今最前線でバリバリやってらっしゃる方と一緒に見ていきたいんですけども。
こんばんは。
こんばんは!篠山紀信さんじゃないですか。
YOUさんじゃないですか。
もうほんとに。
お先に失礼します。
いやいや光栄です。
ありがとうございます。
巨匠が来ちゃった。
どうもはじめまして。
写真家・篠山紀信さん74歳。
半世紀にわたって活躍を続ける日本写真界のカリスマです。
いいか元気よくだぞ。
はいせ〜の!大学在学中に広告写真の世界に入り昭和43年28歳の時に斬新なアート写真で鮮烈なデビューを飾ります。
その後70年代に若者向けの雑誌で時代を代表するスターたちの姿に迫り一世を風靡しました。
歌舞伎など伝統芸能から都市を捉えた前衛的な写真まで今も写真表現の可能性を追求しています。
写真界の一線を走り続ける篠山さん。
90歳になるまで現役を貫いた北斎の知恵をどう読むのでしょうか。
私せん越ながら印象的なのは中学の頃に「SantaFe」という写真集を拝見してもう鮮烈な印象が残っているんですけれども。
中学生だった?中学生でした。
常に最前線を走り続けていらっしゃるというのはすごいなと。
何でしょうね。
キャラクターも含めて元気だしパワー感じるし。
今74歳で…あまり言わない方がいいですか?言わない方がいいね。
ごめんなさいすみません。
北斎が90までというのはどういう印象を受けます?要するにねいい絵を描きたいとかさもっといろんな可能性を追求したいとかさそういう事ばっかり思ってる人なんだよね。
あのクオリティーでねあの時代に出ちゃったんだからね。
すばらしい人ですよ。
そのすばらしい人と篠山さんと共通するテーマを掲げようと思うんですけれども。
共通してないんだ。
いやいやいやいやこちら。
「90歳まで現役を貫くには?」というテーマでですね味わっていきたいと思うんですけれどもまずは北斎の生い立ちから皆さんと一緒に見ていきたいと思います。
東京下町の街角に飾られたいくつもの北斎の絵!絵!絵!「北斎通り」と名付けられた通りがある東京・墨田区。
この地で本名・鉄蔵こと飾北斎は鏡職人の家に生まれたと伝えられています。
当時は江戸の大衆文化がまさに花開いた時代。
商業活動が活発化し庶民が自らの楽しみにお金を使い始めました。
それまで白黒だった浮世絵もフルカラーの錦絵に革新。
ちょうど戦後に白黒テレビがカラーになったのにも等しい熱気あふれる時代でした。
そんな影響もあってか既に北斎は6歳の頃には写生に熱中。
10代には貸本屋や木版画の仕事で生計を立てながら独学で絵の勉強を続けた北斎。
そして19歳の時歌舞伎役者の錦絵で有名な勝川春章のもとに弟子入りします。
当時の歌舞伎は唄や踊りがゴージャスになりその主役である役者は江戸の庶民の注目の的でした。
現代でいうアイドルのブロマイド写真のごとく役者絵が飛ぶように売れていたのです。
更にそのころの江戸には海外から最新の西洋画の技法も入っていました。
若き北斎は遠近法にも大きな刺激を受けています。
まさに時代が移り変わる大きな転換点に北斎は生を受け長い絵師人生のスタートを切ったのです。
6歳から描いて。
でもあれだねちょうどそうやって白黒からカラーとかそういうやっぱタイミングにも恵まれてたのかもしれないですね。
錦絵というのは庶民が買うんですよね。
そういうところに色刷りの版画が出るわけですよね。
…で北斎もそれに参入してですね。
要するに大衆向けの商売ができるようになった。
そういう時代の転換点の最先端を走った画家だというふうに考える事できますよね。
篠山さんも写真を撮り始めたというのはちょうど日本の高度経済成長期と重なりますよね。
そうですね。
60年代に学校を卒業して芸術写真家を目指すような作品を撮ってて初めは。
ところがやっぱり70年代になると印刷メディアなんかね雑誌なんかがワーッとこう出てくるわけですよ。
それでもうカメラ業界自身がすごく活性化してくるのね。
だから写真とその表現する場がピタッと合って「よしこれからは雑誌だ」と思うわけよ。
そのころの70年代のアイドルってすごいですよ。
いやすごい今でもやっぱり。
郷ひろみさんからさ天地真理さんからさ南沙織さんからさ。
それはそうです。
山口百恵さんからさ。
いやすごかったですよね昔の雑誌の勢い。
「GORO」なんかもう私こんなでしたけどもう食い入るように見てました。
YOUさんがですか?私ちょうど学生だったんでね「GORO」が出たのがね随分読みましたね。
男の方はすごかったですよ。
やっぱりねあのほんと北斎も要するにそのモノクロのね一色刷りから多色刷りになる。
それをみんながねこう見るっていう雰囲気。
これにねやっぱ合わないとね。
逆に言うと…北斎がこれからいよいよさまざまな作品を生み出していくんですけれどもその知恵をですね早速味わって頂きたいと思います。
幼い頃から絵師を夢みて19歳で「役者絵」の名門プロダクション勝川派に入った若き北斎。
この時師匠からもらった名前は「勝川春朗」でした。
コツコツと役者絵の修業を重ねて16年。
北斎が一人前になり看板絵師として期待され始めていた頃…。
江戸の町では全く新しい文化がはやり始めていました。
それは「狂歌」。
社会の出来事を面白おかしく風刺する短歌の一種で当時町のインテリ町人や武士たちが仮装して狂歌を詠み合う事がはやっていました。
その狂歌に絵をつけた新しい出版物「狂歌絵本」が続々と出版されました。
北斎はこの流行の絵に飛びつきます。
役者絵の名門・勝川派をあっさり離れ35歳で全く違う流派に転身。
名前も「俵屋宗理」と改名するのです。
北斎はスターから庶民に被写体を移し江戸の暮らしぶりを生き生きと描いていきました。
そんな中当時の江戸の出版界で激変が…。
老中・松平定信の寛政の改革が始まり風紀を乱す出版物が禁止されました。
そこで北斎は「狂歌絵本」を捨て47歳の頃またまた改名。
ついに「飾北斎」を名乗り始めます。
この時やった仕事は「南総里見八犬伝」で有名な流行作家・曲亭馬琴の物語に挿絵を描く事。
馬琴の幻想的な物語をそれまでにない大胆な構図で表現しこの「読本」は大ベストセラーに!「北斎の挿絵でなければ本は売れない」とまで言われ大成功を収めた北斎。
「いよいよこの名でずっといくのか」と思いきや絶頂期にあっさりとまた転身。
51歳で今度は「戴斗」という名を名乗り始めます。
この時熱中したのは絵の教科書作り。
それが「北斎漫画」。
虫や魚から想像上の生き物まで3,900種類もの絵が描かれた「手本集」です。
ユニークな人の表情は組み合わせるとまるでアニメのよう!それまでの本の挿絵とは全く違うコミカルな表現を切り開いていきました。
その後も「為一」「画狂老人」など生涯に名乗った名前はなんと30以上!名前を変えるごとにまるで別人のように描く絵のスタイルも変えていったのです。
当時浮世絵師がブランドである名前を変えるのは異例の事…。
これ一つにはやはり…常に新しい名前を名乗って新しいジャンルに飛び込んでいこうという気持ちが強かった。
こだわりのなさは名前だけではありません。
90年の生涯になんと93回の引っ越し。
北斎は…江戸の下町を中心にあちらこちらと引っ越しを続け多い時には一日に3回も引っ越したというエピソードも。
次々と暮らす…まさにそれこそが生涯現役を貫いた北斎の知恵なのです。
一日3回はやりすぎでしょう。
アハハハハ…。
ゴミなんか捨てないのでゴミがたまって汚くなると他の家に引っ越したらしいですよね。
なんか人的にはあんまり嫌かもしれないですね。
すてきとは言い難い感じだったのかしらね。
いろんな側面があったのかもしれないですね。
YOUさんは芸名を変えたり変えたいと思った事ってあります?ないです。
面倒くさ…また出た。
口癖面倒くさい。
ごめんなさい。
篠山さんご覧になっていかがでしたか?これはねやっぱり新しいものに挑戦したいって変えたりなんかするんじゃなくてねやっぱり自分がやってるでしょう。
ある極致までいくでしょう。
そうするともうそれですごい有名になるでしょう。
そうするとお客さんの方がそれをまた期待するわけですよ。
という事は…これはとても嫌なんですよ。
ものをつくる人間にとっては。
こんな僕でもですよ。
こんな僕でも名前変えたいと思った事あるもん。
篠山紀信さんっていうお名前から。
いいよあの漢字のあの名前は。
もういつも電車に乗ると中づりのとこでダーッと出てるしね。
「出てるしね」。
もううっとうしいこの名前は。
それでほんとにね署名入れないでねないしょで出したりする事があるとかね。
そうなんですか。
それからデジタルなんか使った時はね「デジキシン」とかいったりね。
一歩を踏み出す時って逆に素人からするとその自分がこれまで築き上げてきたものにしがみつくというか守りたいんじゃないかなと思ってしまうんですけれどもそういう感覚などはないですか?いやもちろんあるんですよそりゃ。
うん。
それ全部取っ払っちゃうとさ食えなくなっちゃうからね。
仕事としてはそういうんでできますよと。
できますけど私は新規開発こんなジャンルもできますよってなね事で見せるわけだよね。
だから馬琴さんと組んでやるでしょう?あれだってやっぱり売れてる作家と組んでるもんね。
だからそうすると新しいメディアになるわけじゃない?時代に対してそういうこう新しい事を自分が表現してるというのはさやっぱり作家としてはすごく面白い事なんですよ。
でも北斎ってあの挿絵というのは文章の添え物だったんですよね。
それが文章よりも挿絵の方が有名になるっていう感じですよね。
写真も昔は何かの添え物だったような気がするんですけど篠山紀信さんなんか出てくると写真の方が主で雑誌が添え物みたいな感じがするんですね。
表紙の写真によってそれの売れ行きですとか社会のインパクトも変わってくるわけですもんね。
なんかすごく似てる感じがしますね正直。
その北斎のですね2つ目の知恵をこれから味わって頂きます。
…なんてよく言いますよね。
「もう60なんだから」「よくやるよ70にもなって」なんて言われると嫌になりますよね。
しかし北斎は全く逆の捉え方をしていました。
これは晩年の北斎が描いた肉筆画。
そこには雅号と共に「八十五」という数字が書き添えられています。
この魚の絵には「八十七」。
これらは全て絵を描いた時の北斎の年齢。
このころの北斎は自分の年齢を過剰なまでに意識していた事がうかがえます。
年齢へのこだわりを感じさせる北斎の言葉があります。
言ってみれば…既に人気絵師となっていた北斎ですがなお新たな挑戦を続けていました。
そんな中73歳でようやく一つの達成感を得る絵の技法を習得します。
それは鳥や獣そして魚や虫の骨格に注目して描く事。
そうする事でよりリアルに生き物の姿を描写できるようになったのです。
更に北斎は70代である画材に出会います。
それはヨーロッパから輸入された青い絵の具。
日本ではベロ藍と呼ばれた新しい顔料でした。
このベロ藍は絵の具の粒子がとても細かいため溶く水の量に応じてさまざまな濃さの青色が表現できました。
北斎の闘志に火が付きます。
そうして誕生したのが「冨嶽三十六景」。
ベロ藍の青のグラデーションを使った事でうねりながら表情を変える波の様子がリアルに表現されています。
大きな手がかりを得た北斎。
しかしこの時既に残された時間は僅かでした。
江戸時代の平均寿命はおよそ50歳。
北斎は既にこの時75になろうとしていたのです。
年齢との闘いが始まりました。
年齢を締め切りとするかのように高みを目指した北斎。
時間の惜しい北斎は三度の食事も出前のそばなどで済ませました。
着のみ着のまま同じボロボロの服を着てただひたすら絵を描き続けたのです。
これは北斎の絶筆とも言われる肉筆画です。
富士山を越えてその空にたなびく雲のように昇っていく1頭の竜。
この絵を描いた時北斎は90歳になっていました。
生涯に何度も描いた富士山がリアルの壁をこえて幽玄の世界まで昇華を遂げています。
北斎は亡くなる直前にこう言ったといわれています。
北斎にとっての年齢とは途方もない目標にどれだけ近づいているかそれをはかる目安だったのです。
今の絵すてき!初めて見た。
すご〜い!90でこの活躍というのは当時としては…。
自分の家に…その家に生まれたらこういう仕事をしなきゃいけない。
そういうのはせいぜい50ぐらいでやめて自分の好きな事をやろうというそういう話なんですが…篠山さん90で描いた絵どのようにご覧になりました?う〜ん…。
僕は年齢ってほんと意識した事ないの。
昔の写真とか未来の写真ってあんまり関係ないの。
ああ〜!毎日毎日をちゃんと生きた。
それでその継続した結果が90になるっていうのが僕はものをつくる人ものを描く人なんかがほんとの気持ちはそうじゃないかと思うんだよね。
だってこの年になったら来年死ぬかもしれないよほんとに。
あしたかも…。
あしたかもしれないでしょう。
そしたらね…ものをつくるって人はね常に恐怖がないと。
生きてるって事に。
あした死ぬかもしれないし俺の名声ってもうなくなるかもしれないし。
つまりそういう事のね…それが根底にものをつくる人にあると一生懸命ものをつくるんですよ。
あとベルリンブルーベロ藍との出会い新しい技術との出会いで有名な作品が生まれたとありましたけれど篠山さん新しい技術との出会いって…。
ものをつくる人っていうのはね新しい技術ってすごい興味あるんですよ。
写真で言うとねモノクロームがカラーになるとか大型カメラから35mmになるとかいろんな変化があったけどね。
デジカメ。
電気信号だもん。
ガラッと変わる。
撮ったらさみんなやってるじゃない。
「自撮り」とか言ってパッと撮ってさ友達にピュンピュンピュンピュン。
瞬時に世界中に回っちゃうんだよ。
そんな事っていうのは写真という表現の中でなかったですよね。
撮った!選んだ!すぐ印刷メディアを送るあるいは電波で世界中に回るって…だからやっぱり北斎がベロ藍っていってこんなブルーは他のには絶対出ない俺しか出ない。
そりゃあ使いたくなりますよ。
ここで改めてですね北斎の作品をいくつかじっくりと見ていきたいと思いますけれども…。
まずはこちら「冨嶽三十六景」の一つ「凱風快晴」。
富士山赤富士が描かれていますね篠山さんどうですか?ちょっとあんまり北斎ばっかり褒めて負けんのも嫌だから私が撮った富士山出しますね。
私が撮った富士山がこれです。
これさ撮ったのは普通のカラーで撮ったんですけど1974年そのころねサイケデリックというのがはやってそれで富士山は青い空に白い雪があるだけじゃつまんないからっていってこんなのをね自分で勝手に作った。
これもだから時代の要請だよね表現としてね。
(一同)すごい!次はこちらです。
これもあのね有名な…。
それ見せられちゃうとね。
私が撮った波です。
おお!迫力ありますね。
この場合は僕はもう台風という特別な状況の中で捉えたんだけれども…。
これはさ写真機だからやっぱり撮れるんで…。
やっぱり北斎のその波はほんとにすごい。
そんなものがある時代じゃないのに波というものをこういうふうに捉えられるっていうのはすごいですよね。
ありがとうございます。
次はちょっと趣向を変えて…生き物。
このね鯉のうろこの表現がまた緻密というか見事ですよね。
これすごいですよね。
この絵もすごいですよ。
そうすると私の魚はこれです。
金魚。
しかも真正面から。
考えた時魚ってその絵もそうだけど横が多いんですよね。
金魚の真っ正面から来る写真ってあんまり見た事がないんだよ。
それでこれを撮りに行ったんだけどやっぱり金魚は水の中にいてなおかつ水槽の中にいるわけでしょ。
それをものすごい接写をしながら速いスピードで撮るというのはやっぱりデジカメでないと駄目なんですよ。
だから今も…なんて言うかな現代を撮るには現代のテクノロジーで撮るっていうのが僕はいいと思うね。
究極に今後撮りたい目標というのは…?僕は時代が生んだ「人」「もの」「こと」そこによってってその時代を複写してるわけですから僕が全く真っ白いキャンバスの中に絵を描くっていうのとちょっと違って現実が時代が生んでくれるわけですよね。
だからそのなんか僕が…でもさ体力なんてねやっぱり衰えてくるしさ…。
あるある。
その時にずれてきたらね僕は北斎みたいな事言わないよ。
すぐ写真やめちゃうよ。
何すんの?そしたら。
老人だね。
(笑い声)老人まだまだ先ですよ。
北斎ですけれども北斎は絵以外にも実はもう一つ秘密がありましてそれは歩く事。
とにかく80をこえてもかなりの距離を歩いたんですね。
その旅の理由は一体何だったのかというのを特命店員が調べてきてくれました。
主人公ゆかりの地からとっておきのネタをお届けする…こんにちは。
知恵泉特命店員の長野放送局小椿希美です。
今年は長野は数えで7年に一度の善光寺御開帳の年。
そんな事もあって参拝客絶えないんですが私が今日ここを歩いているのは善光寺参りのためではないんです。
なんとここあの飾北斎が晩年にウォーキング何度も歩いて旅をしたという道なんです。
北斎が歩いたというこの道…
中山道から分かれ長野善光寺を抜けて新潟県まで続く街道です
北斎がこの街道を通って目指したのは…
ここ小布施は江戸時代から栗の町として有名なところです。
晩年の北斎も小布施を気に入り何度も旅しました。
しかも…江戸から小布施までの距離はおよそ240km。
平均寿命が50歳の時代に80代の老人が500kmほどの道のりを何度も往復していたというのです。
これは驚きですよね。
地元の美術館には北斎が85歳の時に描いた肉筆画が残っています
ああすごい!
それは祭屋台の天井画
いやこれを小布施まで歩いてきて描くっていう体力に驚きですよね。
屋台の天井板に描かれているのは鳳凰と竜が対になった極彩色の絵
80過ぎてもですね眼鏡一つかける事なく細密画を描くとか平気でやってたようですしそれに脚も達者で体力的にも人並み外れた人だったんではないかと想像されます。
この屋台は町の人に頼まれて北斎自身が手がけたもの
屋台にのる人形も本人自ら構想して作らせた…
でもなぜ北斎はわざわざ小布施まで来て作品を残したのでしょうか?そこには時代の大きな変化がありました。
そのころ江戸では老中・水野忠邦の天保の改革が行われていました。
忠邦は幕府の財政を立て直すためぜいたくを厳しく罰するといういわゆる引き締め政策をとりました
庶民の楽しみだった芝居絵や遊女の絵も禁止され江戸では絵が売れなくなります
北斎は生活に困り…
そこに現れたのが江戸に滞在していた…
絵や学問に通じた鴻山は北斎の絵をわざわざ高値で買ってくれただけでなく小布施に北斎を招いてくれたのです
小布施町には北斎が滞在した鴻山の家が今も残っています
おじゃまします。
ああ…!タイムスリップした気分になりますね。
高井鴻山記念館の館長金田功子さんに話を聞きました
来るとお正月用の凧揚げの凧を描いてくれたり武者絵を描いてくれたりしてそういう点ではみんなと接して和やかだったっていう逸話はたくさん残ってます。
(金田)あの〜多分都会では蛇を庭で飼うなんて事はまずできなかったんだと思うんですよ。
それで庭の薬草園の片隅に蛇を飼っていてそれを飽かず眺めて…写生ですよね。
そういうふうに描いていたというような話が伝わってるんですけど。
北斎が鴻山と交わした手紙も残っていました
これが…
北斎は46歳も年下の鴻山を「旦那様」と呼びました。
これは今で言う「絵文字」!深くおじぎする自分の姿です。
一方鴻山も北斎を「先生」と呼んで手厚くもてなしました。
この北斎の手紙には屋台の上にのる人形が彫り上がった事を祝い小布施の人々と一杯やりたいと書かれています
でもこう「一杯やりませんか」なんて。
いいじゃないですか。
いいですね。
やっぱり親しい間柄だったというか。
…と思います。
北斎は83歳から89歳にかけ小布施へ4回も旅をしたと考えられています
わぁすごい!
町内の寺には北斎が描いた6m四方の巨大な鳳凰の絵も残っています
江戸で絵が描けなくなったら歩いて歩いて絵の描ける場所まで旅をする…
そのウォーキングもまた生涯現役の秘密だったのかもしれません
すごいね。
すごいですよね。
あの…篠山さんも歩かれます?歩かないね。
すごいですよね80こえてあの距離を往復っていうのは。
何であんなに売れてたのにお金何に使ってたの?あのころはね絵がそれほど高くは売れない時代なんですね。
あんな人気作家でも。
ええ。
あんな人気作家でも生活のために肉筆で描いてもそれも二束三文でしか売れない。
それを高井鴻山は結構いい値で買ってくれてうちに是非いろいろと描いてくれというふうに言われて…。
だからまあお互いに心酔したわけですね。
だからそんな距離があるのにわざわざ歩いていったわけですよね。
ず〜っと北斎の見てきてね結局この人何をしたかった。
自由を。
自由。
やっぱり自分の手と心で描く絵が何でもかんでも自由に自分がやりたかった。
そのために権力に擦り寄ってみたり有名になって同じような事を繰り返さなくちゃいけなくなったりってな事を全部捨ててとにかく自由に自由にっていってるわけですよ。
だから今の人が見ると「健康のために歩いてるんじゃないの」って歩いてるんじゃないんだ。
あれは…やっぱりほんとに…北斎を今日知恵を皆さんと共に味わってきましたけれども先生いかがでしたでしょうか?やっぱり時代の最先端を行く芸術家っていうのは似たようなところがあるなと篠山さんの話を聞いて思いました。
YOUさんいかがでしたか?まあだからこう…現世こういう感じですけど…。
こういう魅力的な人だったんだろうなと思いますね。
生まれ変わってきてるんですかね。
何を言ってるんですか。
篠山さんの極意を是非。
僕はもうだから…それしかない。
それが90まで続けばまあいい事でこれがちゃんとできないようだったらもう生きててもしょうがないですよ。
でも日によって体調悪かったりとか「今日モチベーション上がらないな」という日もなくはないですか?うん。
でも今のところはねカメラ持つとカッっとなんかなっちゃうから不思議だよね。
ちょっと疲れ気味だったらカメラ渡せばいいんですよ。
多分。
シュッと。
カメラだけもらったって駄目だよ。
やっぱりカメラの前にYOUちゃんみたいに魅力的な人がいれば治っちゃうんだよ。
そうですよねすばらしい。
2015/12/01(火) 12:00〜12:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉 90歳まで元気はつらつ!「スーパー絵師 葛飾北斎」[解][字][再]

ゴッホなど世界の芸術家に影響を与えた葛飾北斎。実は代表作の多くは70歳を過ぎてからのもの。90歳で死去するまで、なぜ生涯現役でいられたのか?その極意に迫る。

詳細情報
番組内容
ゴッホ、モネなど世界の芸術家に多大な影響を与えた葛飾北斎。実は代表作の多くは70歳を過ぎてからのもの。90歳で死去するまで名作を生み出し続けた。なぜ彼は生涯現役でいられたのか?そこには「定期的に別人になれ!」「年齢を常に意識せよ!」など、若い頃から意識して行っていた「人生設計のプラン」があった。長野小布施には80歳から250キロもウォーキングで通った意外な名所も登場。北斎晩年の壮麗な祭り屋台とは。
出演者
【ゲスト】写真家…篠山紀信,東京大学史料編纂所教授…山本博文,YOU,【司会】近田雄一

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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