ハートネットTV 戦後70年 障害者と戦争 ナチスから迫害された障害者たち1 2015.12.01


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第2次世界大戦の終結から70年。
ドイツでは道行く人たちに戦争による過ちに向き合ってもらおうとする展示が町のあちらこちらで行われています。
過去に目を閉ざすものは現在にも盲目になる。
歴史を風化させないよう国を挙げて取り組んできました。
この節目の年にドイツを訪れたのは長年日本の障害者施策に提言を続けてきた藤井克徳さんです。
視覚に障害があります。
藤井さんは今年どうしても向き合いたい歴史がありました。
それはつらい過去をあえてさらけ出してきたドイツでも近年まであまり語られてこなかった事です。
戦時中精神障害者や知的障害者などが大量虐殺されていました。
生きる価値がないとされ殺された犠牲者は20万人以上。
殺害には医師たちが自主的に関わっていました。
そしてこれが後にユダヤ人の大虐殺につながった事も分かってきました。
2010年ドイツの精神医学会は障害者の殺害に加担した事を正式に認め謝罪しました。
民衆がヒトラー政権に酔いしれる裏で進められた障害者たちの大量虐殺。
誰も止めようとはしなかったのでしょうか。
「シリーズ障害者と戦争。
ナチスに迫害された障害者たち」。
1回目は20万人の大虐殺がなぜ起きたのかその真実に迫ります。
南ドイツにある…人口およそ2万人の小さな町です。
藤井克徳さんがまず訪ねたのは障害者だった父を殺されたという遺族です。
こんにちは。
よくいらっしゃいました。
父親は脳神経系の難病を患っていました。
子どもの頃に住んでいた家が今もそのままの形で残っています。
(バーデル)シンプルな家ですが1階には大きな部屋があります。
そこは父の作業場でした。
父は靴の修理職人だったんです。
お父さんとこの辺で遊んだんですね?きっと。
はい。
父の作業場に私専用の小さなテーブルがありました。
私はいつもそこに座ってハンマーでくぎを打つまねをしていたんですよ。
1901年に生まれた父マーティン・バーデルさん。
厳しい修業を経て23歳で靴職人となりました。
(バーデル)これは父が修理に使っていた道具です。
仕事に打ち込み始めたやさき手足の震えや神経のまひなどパーキンソン病の症状が出始めます。
この写真を見ると父が既にパーキンソン病であった事が分かります。
体が前に傾いていて片腕を背中の後ろに隠しています。
表情もよくありません。
症状が悪化したのは30代後半。
1938年。
家から遠く離れた大きな州立病院に入院します。
それは医師に半ば強制された入院だったといいます。
有効な治療方法が見つからない中入院は長引きました。
マーティンさんは家族に度々手紙を書き寂しい気持ちをつづっていました。
(バーデル)「親愛なる皆様お手紙が届き重い気持ちで読みました。
私は悲しみに暮れています。
いつ帰る事ができるか分からないからです」。
「いつまでここにいなければならないのでしょう」。
父は常に治療が終われば家に帰って自分の仕事に戻れると思っていました。
この手紙からおよそ半年後。
ドイツ軍はポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まります。
このころ届いた手紙には働けない悔しさがにじんでいました。
「男たちが皆戦争に行きやるべき事が山ほどあるのに私はここでじっとしているしかできない」。
「私が一番心配なのはあなたたちを養えない事。
知り合いに何か仕事がないか聞いてみてもらえませんか」。
しかしこの手紙には医師からの注釈が加えられていました。
「マーティンさんは退院したら働けると思い込んでいるようだがうまくいく訳がない」といった内容でした。
このころヒトラーはドイツ民族を最も優れた人種と位置づける政策を強力に進めていました。
そこで迫害されたのがドイツ民族の血を汚すとされたユダヤ人です。
同時に障害者や遺伝性の病気の人も民族の血を汚し金ばかりかかる価値のない命としその考えを広めていきました。
障害者の歴史に詳しく自らも視覚障害のあるヘルベルト・デムメルさんです。
障害者は生きる権利がないというのがナチスの考え方でした。
個人は常に社会にとって価値があるかないかで判断されていました。
つまり共同体がまず大事で個人は完全にその下だったのです。
ドイツ経済を立て直し国民の熱狂的な支持を集めていたヒトラー。
その人気の裏で障害者にかかる費用を削り殺害計画を進めていきました。
これはヒトラーが側近と自分の主治医に宛てた秘密文書です。
実行にあたり患者を苦悩から解放するという名目で全国から立場ある精神科医や病院長などが集められます。
この極秘計画は後に実行本部が置かれた場所からT4作戦という暗号名が付けられました。
まず全国の病院や施設に患者一人一人についての調査票が送られました。
病名や症状を聞くほか「退院の見込みはあるか」。
「労働者として使えるか」などの質問もありました。
この結果を基に本部の医師たちが生きる価値があるかを判断。
殺してもいいと思った場合は判定欄に+マークを書き込みます。
統合失調症だったこの女性の場合4人全員が殺してよいとしています。
殺害場所には人目につきにくい施設が選ばれました。
その一つが南ドイツにある…更に最も効果的な殺害方法を検討。
一酸化炭素ガスが有効とされると城近くの空き地にガス室が造られました。
このころ何も知らないマーティンさんは家族とのやり取りを続けていました。
「戦争が終わるまで待ちなさいという慰めに同意できません。
それにはあと3年いや5年はかかるかもしれません。
どうしても40歳の誕生日までに帰りたい」。
(バーデル)しかし父は40歳にはなれませんでした。
この3か月後母は父に葉書を出します。
しかしあて先不明で返ってきてしまいます。
そしてその直後入院していたはずの州立病院ではなくグラーフェネックから父の死亡通知が届きました。
死因は脳卒中と書かれていました。
あの日の事はよ〜く覚えています。
急に母の大きな叫び声が聞こえました。
すぐに駆けつけると「お父さんが亡くなった」と知らされたのです。
(バーデル)母は「夫が突然亡くなるのはおかしい」と市長に言いに行きました。
しかし市長は「バーデルさんそんな事を言わないで下さい。
あなたの身が危険にさらされますよ」と言ったのです。
それが父の最期でした。
マーティンさんの死亡通知が届く5か月前からグラーフェネックではガス室を使っての殺害が始まっていました。
鑑定により生きる価値がないとされた人たちは各地の病院や施設から灰色のバスに乗せられて運ばれました。
バスの窓は塗り潰されたりカーテンが掛けられたりしていました。
マーティンさんは運ばれたその日のうちに殺されたと考えられています。
1940年6月14日。
40歳の誕生日まであと5か月でした。
殺害施設ではガス栓を開けた医師のほか看護師や遺体を焼却する人など多い時には100人ほどが関わっていました。
雇われる前に仕事の説明を受けていましたが特に反対する人はいなかったといいます。
率直な今日の印象でしたね。
誰も止めようとする人はいなかったのか。
藤井さんが向かったのはドイツ中西部の町ハダマーです。
交通の要所として古くから栄えていた…グラーフェネックでの殺害開始から1年後町の中心部の高台にあった精神病院の地下にまた新たなガス室が造られました。
町の人たちは気付いていなかったのか。
当時の様子を覚えている人がいると知り会いに行きました。
ハダマーで生まれ育った…殺害が行われていた頃は7〜8歳でした。
精神病院がよく見えたという橋に連れていってくれました。
あちらです。
昔は木がもっと低くて施設がよく見えました。
いつも煙が見えて何だろうとうわさしていました。
とても臭くて嫌な臭いでした。
ドゥフシエーラさんが強烈に覚えている事があります。
それは戦争から帰ってきた兵士が言った言葉でした。
戦場で死体を焼いているにおいと同じだと言ったのです。
それを聞いた大人たちはびっくりしていました。
満席のバスがしょっちゅう上がっていくのですが帰りはいつも空っぽでした。
もう施設の中はいっぱいのはずなのに「おかしい」と大人たちが言っていたのを覚えています。
住民の良心としてそれを止めようというそういう住民のまとまった動きっていうのはやはり難しかったんでしょうか。
もう手遅れでした。
ナチスの監視システムは既に出来上がり徹底していました。
この町の人たちはいつも受け身でどうせどうする事もできないと思っていました。
山の上で何かしてはいるけれども自分たちとは関係ない事だと考えるようになっていったのです。
各地からバスに乗せられてやって来た障害者たちはどのような最期を迎えたのか。
ハダマーの精神病院の地下には今もガス室の跡が残っています。
藤井さんは訪ねる事にしました。
学芸員のレギーネ・ガブリエルさんが犠牲者が通った道順を案内してくれました。
バスから降りるとまずは医務室に連れていかれ医師の診察を受けます。
(ガブリエル)診察といっても実はただの名前の確認です。
そしてこの1回の診察で医師は死因を決めました。
そのために死因として60項目の病名リストがありました。
例えば心臓発作とか肺炎腸炎盲腸などです。
形だけの診察のあと一人一人身長と体重が測られ写真が撮影されました。
その後シャワーを浴びると説明され裸にされて地下に連れていかれます。
この先がガス室です。
12平方メートルほどの空間に一度に50人ずつ押し込まれました。
ああ…。
ここにガスの管がつけられていました。
(藤井)これですか?この穴。
(ガブリエル)はい。
ガス管がつけられていたねじ穴です。
(藤井)多い時には一日どれぐらいの人を殺害したんでしょうか?120人です。
それが毎日です。
ガスが入れられた時間は10分。
その後遺体は滑りやすく加工された通路を引きずられて焼却炉まで運ばれました。
1941年8月までに6つの施設で犠牲になった人の数は7万人を超えていました。
ここでヒトラーは突然T4計画の中止命令を発表。
このころからユダヤ人に対する迫害を更に激化させていきます。
T4の殺害施設で働いていた医師やスタッフはアウシュビッツ強制収容所などでユダヤ人殺害に加担。
T4で培われたガスを使って効率的に殺すという技術が引き継がれたのです。
障害者の安楽死計画はいわばリハーサルだったと言ってもいいでしょう。
つまりこの行為はどこまで有効かそして人々に反対されずにどの程度まで人間を機械的に大量殺害できるかを試したのです。
この事によって大量殺害の歯止めがきかなくなっていったのです。
終戦後もう一つの事実が明らかになりました。
T4作戦中止命令後も障害者の殺害は続いていたのです。
野生化した殺害といわれるこの行為はハダマーだけでなく各地で行われていました。
最終的な犠牲者は全国で20万人以上になっていました。
仮にじゃあ障害者が全てもし消え去った時にどうかっていうと今度は次の社会的に弱い人それは高齢者であったりまたは病気の人女性の病気の人子どもの病気の人絶えず弱者っていう人たちを探し当ててくるというそういう弱者探しの連鎖っていう事…。
これが優生学思想が怖いとこでどんな戦争にもどんな悪行にも必ず最初がある訳ですね。
その段階でやはり気付く力ここがやはり一つ問われてくる。
生きる価値のない人間などなくどんな人間にも尊厳がある。
ハダマーでその事を再確認するもう一つの出会いがありました。
父の妹にあたる叔母がてんかんのため殺されました。
父と一緒に写る叔母ヘルガさんの写真が残っています。
しかしギーゼラさんヘルガさんが殺された事も更に存在していた事さえ最近親戚から聞くまで知りませんでした。
叔母が殺された事は私にとってとても悲しい事です。
でも私に一番重くのしかかっているのは叔母の死ではなく家族がずっと彼女の存在を消してきた事なんです。
それが今でも私はつらくてしかたないのです。
彼らが人間として存在する事がすごく大切です。
犠牲者たちの遺骨が名もなくどこかに捨てられるというのは私には耐えられません。
会った事もない叔母のヘルガさん。
ギーゼラさんは彼女を思って出した新聞広告を見せてくれました。
「ヘルガ・オルトレップ」。
私は叔母の人間としての尊厳を彼女のために取り戻したいのです。
ハダマーの墓地には被害者たちを追悼する記念碑が建てられています。
そこにはこう書かれています。
2015/12/01(火) 20:00〜20:30
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV 戦後70年 障害者と戦争 ナチスから迫害された障害者たち1[解][字]

ナチス政権によるユダヤ人大虐殺。そのいわば“リハーサル”として、20万人以上の障害のあるドイツ人らが殺害されていた。過去の悲劇を繰り返さぬため、いま何が必要か。

詳細情報
番組内容
600万人ものユダヤ人犠牲者を出したといわれる、ナチス政権によるホロコースト。その、いわば“リハーサル”として、20万人以上の障害のあるドイツ人らが殺害されていた。いま、この真実に向き合う動きが始まっている。ドイツ精神医学精神療法神経学会が長年の沈黙を破り、患者を殺害した医師の過ちを謝罪。今秋に報告書がまとめられる。当時のドイツと今のあり方、日本を見つめ、歴史を繰り返さないため何が必要かを考える。
出演者
【出演】日本障害者協議会代表…藤井克徳

ジャンル :
福祉 – 障害者
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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