先人たちの底力 知恵泉「家族の命を守れ!〜江戸を救った男 伊奈忠次の防災術」 2015.12.01


きれいな線を描こうと思えばいいんですね。
最初はそこからですね。
さまざまな自然の驚異に見舞われる災害国大国日本。
皆さんは災害への備えちゃんとしていますか?あれあれ?ちょっと油断していませんか?今日は防災の日。
先人の知恵で身を守っちゃいましょう。
う〜ん!大将ごちそうさま!どうもありがとうございました。
今日は早めに帰るわごめんね。
また来て下さいお待ちしてます。
あれ?ちょっと!結構降ってんなおいこれ。
ちょっと待った方がいいんじゃないですか?弱まるまで。
いやちょっと弱まるまでってちょっと困るんだよね。
早く帰りたいのよ。
だってさ嫁も娘も美人だからさ早く会いたいんだよね。
これちょっとこの雨すごいな。
こんな雨の中お客さん?山村さんじゃないですか。
常連さん?防災アドバイザーとして活躍されている山村武彦さんですよ。
山村と申します。
来てそうそう申し訳ない。
帰ろうと思ったんですけど。
いや〜この大雨ですからこういう時はちょっとやり過ごすのが大事ですね。
やり過ごす?災害対策のスペシャリストですから言う事を聞いておいた方がいいですよ。
ねっ山村さんね。
間違いないと思いますね。
雨宿りついでに一杯どうですか?お金ならあるんでちょっと飲んでいきましょうじゃあ。
そうですよ。
山村さんがいらして下さった事ですし今宵は防災の日にぴったりな知恵をお出ししましょう。
世界屈指の巨大都市東京。
かつてこの地はいくつもの川の河口にあたる広大な湿地でした。
しかも一度大雨が降ればすぐに洪水が発生する…そんな場所に幕府を開き江戸という大都市の基を築いたのがあの徳川家康と言われていますが…。
水害が多い地に移る事に当初家臣たちは猛反対。
家康も判断をためらっていました。
そんな中水害対策を請け負い家康の不安を取り除いた男が。
徳川家康家臣伊奈忠次。
実はこの忠次こそ防災を徹底し今日の首都を安心して暮らせる町に整備した立て役者なんです。
人々の暮らしを守るため洪水の原因となっていた利根川の流れを変える一大治水事業を指揮。
更に治水工事でコントロールした水を新田開発に利用。
関東の石高を倍近くに増やしました。
忠次の防災術とは一体どのようなものだったのか?知恵を読み解くのは防災アドバイザーとして活躍する…東日本大震災の被災地などこれまで250か所以上の災害現場を自らの足で調査してきました。
そんな山村さんは…今宵は防災の日特別編。
災害現場を分析するプロ山村さんだからこそ見えてくる伊奈忠次の防災術に迫ります。
今日のメニューはですねこちらです。
「背伸びしない防災術」という事で見ていきます。
伊奈忠次という人物東さんはご存じでした?あえて言いませんけど知らなかったです。
あれ知らなかったですか?そんな有名な人ではないですよね。
いやいや東さん!こんな有名な伊奈忠次をご存じないなんてそれでも下町のプリンスですか?何ですか?圧がすごいですね。
和泉先生です。
高崎経済大学の名誉教授で50年間伊奈忠次の研究をされているんですよ。
えっそうなんですか!これは失礼しました。
とんでもないです。
お掛け下さい先生。
これ置くの忘れました。
ありましたか。
何それ?巻物なんですよ。
和泉先生が持ってきて下さったものでちょっと見てみます?はい。
関東地方東部の地図です。
おおまかな地図なんですけれどもこれで東さん気付く事ありませんか?利根川が真ん中にこう流れてて。
え?あれこれ何ですか?利根川って東京湾流れてましたっけ?そこです!いいところに気付かれました。
実はですね江戸より前の関東東部の地図なんです。
当時今の東京湾に利根川って流れてたんです。
つまり浅草のそばも通っていたかもしれないんですよね。
うちの実家の近くを通ってたという事なんですか?しょっちゅう大水でですね上流で氾濫を起こせばもうすぐ下は低いですからね。
ずっとず〜っとみんな来て江戸なんかすぐ洪水になっちゃった。
だからいわゆるね浅草だとか今下町と言われてる部分はね土地が低いですからね。
そうゼロメートル地帯とかね。
そうなんですよ。
そんな大変な状況でしたからこの利根川について大がかりな工事が行われて今のルートに変わったんです。
この伊奈忠次さんが指揮を執ってやったって事なんですか?そうですね最初の頃は。
何よりも江戸の町を救うという事ですね。
そっかそっか洪水から。
そうした礎を築いた伊奈忠次という人物。
現代人も学ぶ知恵がたくさんありそうですよね。
そうですね。
学ばなければならないと思いますね。
ちなみに今年お嬢さんがお生まれになっておめでとうございます。
ありがとうございますほんとに。
守るべき人が増えました。
という事は身を守るすべ知りたくないですか?もちろんですよね。
みんな安さんの命も娘の命もね全て私がしょっていないといけないわけですから。
そうですよ。
さあ防災の達人伊奈忠次の知恵早速たっぷりと味わっていきたいと思います。
さあどうぞ!戦国時代真っただ中の天文19年。
伊奈忠次は現在の愛知県に松平家家臣の嫡男として生まれました。
防災のプロとしてその名を挙げたのは40歳の頃。
関東を支配していた北条氏を討つべく豊臣秀吉の軍勢に加わっていた時の事です。
東海道を進む一行を遮ったのは雨で荒れる天竜川。
総大将の秀吉は更に増水して渡れなくなる前に強引に進軍しようとします。
その時突如秀吉の前に出たのは忠次。
川を渡るのをしばらく待つよう直言したのです。
当時忠次が訴えた内容が埼玉県にある源長寺に伝えられています。
説得力ある言葉に秀吉も様子を見る事にしました。
すると僅か3日で水は引き流れは穏やかに。
一行は一人の犠牲者も出す事なく無事川を渡りきる事ができました。
しばらく待てば水が引くと分かっていた忠次。
その背景には入念な備えがありました。
実は忠次100人とも言われる部下を先回りさせていたのです。
そこで指示したのが住民たちへの徹底した聞き取り調査でした。
その後徳川家康の下で江戸に入った忠次。
防災のプロとしての手腕が認められ幕府の地方行政を統括する代官頭に登用されます。
後に関東郡代と呼ばれるこの役職は関東一円の治水を担う大役でした。
重責を担った忠次は地元の人の力を生かす手法を更に発展させます。
こちらは江戸の近辺を描いた地図です。
治水にあたり忠次が新たに作ったのは「領」という区割りでした。
各地の村々を河川の流域ごとにグループ分けしたものです。
それまでの治水対策は村ごとに単独で行われていました。
しかしそれでは場当たり的な対応しかできません。
そこで忠次は…河川をよく知る住民同士をつなげる事で効果的な治水をねらったのです。
忠次は領を作った時には人と人のネットワークを作り上げます。
そういう仕組みが領になってます。
そんな領の仕組みが今でも埼玉県に残っています。
慶長9年に忠次が切り開いた水路です。
水路の長さは23キロ。
3つの市にまたがり流域に住むおよそ2千人の農家がいわば領のメンバーです。
領では数人単位でチームを組み定期的に水路を見回るのが任務。
異常を発見すれば…。
ゴミが詰まると下流に迷惑がかかるためすぐに仲間と連絡を取り合います。
情報を共有し対応する事で大きなトラブルを未然に防いでいるのです。
長年の経験から僅かな異変も見逃しません。
水の流れを妨げそうなものを見つけたら大勢の仲間で作業に取りかかります。
上流から下流まで河川をよく知る住民同士が連携する事で災害の芽を摘んでいるのです。
これを…続けたいと思います。
数十キロにもおよぶ長い河川に立ち向かうために考えられた領の仕組み。
忠次の知恵は400年以上たった今も脈々と受け継がれています。
はあ〜すごいですね。
ネットワークを作る。
確かにね地元の人はよく知ってますしね。
だから1つの村でやるよりかはチームになってやった方が確かに対策はとりやすいですよね。
秀吉はやっぱり忠次の優れたこういう才能といいますかねこれを褒めてむしろ忠次を呼んでですね…山村さんはこの知恵についてはどう…。
伊奈忠次さんという人はですね…それすごいですよね。
信じないとねそれできないですよね。
でもその住民たちをそんなすんなりまとめ上げる事ができたんですかね?実はですね忠次自身の意外な過去が関係しているんです。
忠次のふるさと愛知県。
ここに忠次の過去をかいま見られる史料が残されています。
実は忠次は14歳の時主君徳川家康に抵抗する一揆に加担していました。
当時本来は税を免除されている人たちから強制的に米を徴収していた家康。
ルールを破り民衆を顧みない強引なやり方に忠次は反旗を翻したのです。
しかし家康の軍事力の前に民衆側は敗北。
忠次もふるさとを追われました。
放浪の身となった忠次は食いつなぐため各地の地主の下で…農民たちと共に過酷な状況下で働き続けました。
その後罪が許されるまで…はあ〜そう。
農民たちと共に過ごしてたんですねずっと。
人々がどれだけ水であるとか開発とかっていう事で苦労されてるかって事よく自分で見てるわけですよね。
ですからやっぱりそういった人たちの気持ちをくんでじゃあそういう人たちを後でまとめ上げていく時にはどういった事が必要なのか。
気持ちをやっぱり非常によく理解していた時期じゃないかなと思うんですけども。
十何年の間にね苦い思いをして俺が偉くなったらもっとこうしてあげようとかいろいろ思ってたんでしょうね。
そうですね。
和泉先生も50年ですけれども山村さんも防災に携わられて50年。
こっちも50年!こっちも50年こっちも50年。
ものすごい人の間に入ってますね。
100年に挟まれた。
でも山村さんね同じ災害に遭う可能性のある住民たちがネットワークを作って備えるという知恵についてはどのようにご覧になりました?やはり運命共同体なんですね。
同じ時代同じ地域そして同じリスクですよね。
リスクっていうのはですね…同じ危険が迫ってればみんなで助け合わざるをえないわけですから。
例えば広島の土石流がつい昨年発生したんですけれどもその時に大きな被害を出した広島市の八木ヶ丘地区ってあるんですね。
夜中にあちこち電話した人もいるんですよ。
土砂災害が起こりそうだからみんな逃げようとやったんだけど一軒一軒やっていったらものすごい時間かかっちゃうんですね。
逃げ遅れてしまう。
だからみんなにいっぺんに知らせるその仕組みを作ろうという事で町内会が力を合わせてモーターサイレンを作ってなおかつ町内会の役員宅にですね役員の庭先に雨量計を全部つけたんですね。
一定雨量になったらみんなで知らせ合って自主避難をしようと。
役所から避難勧告出なくても自分たちの地域の事は一番自分たちが分かってるから運命共同体というですね「伊奈イズム」じゃないですけれどもそういう地域で同じリスクを背負ってる住民同士が助け合おうというねそういうのは現代にもあるんだなと思いますね。
「伊奈イズム」という言葉がありましたけれども伊奈忠次の知恵すごさっていうのはまだまだこんなものじゃないんです。
今度はですね私自ら足を運びまして知恵を探し出してきましたのでたっぷりとご賞味下さい。
忠次にとって新天地となった江戸では町づくりが急ピッチで進められていました。
しかしすぐさま難題に直面します。
それは雨が降った時に城下を襲う洪水被害。
町づくりは思うように進みませんでした。
水害をなくさなければ新たな都市の発展はない。
忠次は治水工事へと乗り出します。
東京から60キロ余り離れた埼玉県熊谷市。
ここに忠次が江戸を守るため整備したと考えられる堤防があります。
利根川を管理している森田靖則さんに案内して頂きました。
今目の前に見えるのが…高さ5メートルほどの堤防がおよそ4キロにわたって続く中条堤です。
これほぼ壁ですもんね。
ちょっと失礼していいですか?
(森田)お気を付けて上ってみて下さい。
駄目です。
これだけ急で高さのあるものを造ったんですね。
そうですね。
当時の人たちはやっぱり大変だったと思いますよ。
頑丈で水の進入を防ぐのに役立ちそうな中条堤。
実は一般的な堤防とは役割が違います。
どういう事ですか?といいますのはこちら側の方が下流になるんですけどもこちら側の…江戸を守るため必要不可欠だった…しかし当時その全てを整備するのは財政的にも技術的にも困難でした。
そこで目をつけたのが都市部の上流に位置するこの地域。
ここを抑えれば最小限の被害にとどめられると考えたのです。
何も対策をしない場合大雨で増水すると下流はすぐ水浸しになってしまいます。
そこで川沿いから平野部にかけて4キロにわたる中条堤を造ります。
その上で川の一部を工事しあえて幅を狭めます。
大雨が降ると水は狭い部分の上流部にあふれ出し一帯に水がため込まれます。
その結果下流部へ流れ出す水の量が減り洪水による被害は劇的に少なくなりました。
自然にあらがわずうまく水を受け止める中条堤の仕組みで江戸の町を守ったのです。
今でいうと減災みたいな形で少しでも効率的に。
なかなか水害を減らすというのはなくすという事は難しいので…中条堤によって遊水池となった地域。
被害に遭う一方で意外なメリットもありました。
洪水で栄養分を含んだ土が流されてきたため土地が肥沃に。
その結果作物の収量が増えたのです。
しょうがないんだけどもあながち水をかぶるというのも…という事は言えるんじゃないかなと思います。
400年がたった現在でも自然と上手につきあう防災術はその効果を発揮しています。
横浜市にある競技場です。
その地下は駐車場となっており洪水が起きた時8.5メートルまで水をため込めるよう設計されています。
周辺にあるパーキングやグラウンドと一体となって遊水池の機能を果たしているのです。
これは去年10月台風の影響で322ミリの大雨が降った直後の写真。
すぐ脇にある一級河川鶴見川の水を受け止め住宅地への被害を防ぎました。
忠次が整備に尽力した利根川流域。
ここの人々には防災意識がしっかりと受け継がれています。
こちらですか?水塚?水塚というのは?避難場所。
洪水時に浸水しないよう3メートルほどの盛り土の上に建てられた緊急避難小屋水塚。
江戸時代に考えられたもので今もこの地域に300か所以上あります。
中に入ってみると…。
うわ〜結構広さあるんですね。
ありますね。
水塚にはみそやしょうゆ米などが備蓄され避難時の食糧になっていました。
実際にこの水塚も昭和22年のカスリーン台風の時に2週間避難場所として使われたといいます。
心にやっぱりしみるほど感じてますね。
はあ〜なるほどね。
でもね今最後50年100年に一度の災害に備えるっていう。
だからないにこした事はないですもんね。
備えておかないと駄目なんですもんね。
さっき東さんも雨の中飛び出していこうとしたんだけれども…そこで無理しちゃうと何か起きちゃうわけですね。
そのやり方を「伊奈流」っていうんですけどね。
それ先生が勝手に言ってるんじゃなくて?昔から言われてる。
昔から「伊奈流」って?これは要するに治水技術なんですけどね。
当時はなかなか人手不足だし財政もあれだしいわゆる技術的にもですね不足してる。
いわゆるないない尽くしの中で自然をうまく利用しながら何とか対策を立てていこうというやり方ですよね。
ところが江戸時代の中頃になると土地が足んないと。
江戸は人口増えてますよね。
ですからお米を何とか増やそうという事もありましたから余ってる土地をできるだけ減らそうと。
そうすると伊奈流の先ほど申し上げた堤防技術だと余ってる土地多いですよね。
これもったいないと極端に言えば。
そうすると堤防をできるだけ直線的に狭くして水をぱっと落としちゃって空いた土地を田んぼだとか畑だとかあるいは住宅地にしようという考え方が出てきたわけですよね。
いや〜先生もこの忠次の話矢継ぎ早にね。
50年の思いが!吐き出そうとしてる感じですね。
よっぽど愛してるんですね。
そうですねもうほんとね。
一旦は主流じゃなくなったのかもしれないですけれども…ですから災害対策っていうのは1つだけじゃなくていろんな考え方例えば河川の改修だとか流域の対策だとか下水道対策とかそういったものを組み合わせてねできる事は自分たちでもやる。
絶対の安全は確保できないまでも人命だとかそういったものを守るために……と思ったんだろうね。
例えば岩手県宮古市の話がありますけど田老という地区は昔から繰り返し津波に襲われてきた地域なんですね。
特に明治の時には15メーターの津波。
昭和の三陸津波でも10メーターの津波。
じゃどうしようっていった時に堤防を造ったんですよ。
10メーターで造ったんですけどもこの間の東日本大震災のあとたった10メーターだから役に立たなかったとそういう報道もあったんですね。
私はそれは違うなと。
というのは最初からですね堤防を造る時の思想は津波を絶対防ごうという事ではなくて…田老の犠牲者数の推移を見るとですね分かるんですね。
これはもちろん180人もね大変な犠牲者数です。
しかし間違いなく犠牲者数がそれだけ少なかった一つにはその地域の人たちの意識とそして先人が堤防に込めたね心っていうか全ての津波を撃退するためではなくて一番大事なのは…という事を言いたかったんではなかろうかなと思いますね。
なるほどね。
でも何かちょっとぐっとくる話ですね。
まさに自然にあらがわない対策だったというふうに言えるかもしれないですよね。
先人たちの知恵ってやっぱりすごいですね。
そうやって考えるとね。
その先人伊奈忠次…言ってみればソフトとハードでしっかりと対策を行ったんですけれども実はね伊奈忠次の実力知恵はまだまだこんなもんじゃないんです。
まだあるの?還暦を過ぎた忠次はここで人生最後の大仕事に取りかかります。
治水の対象となったのは市の中心部にある湖…ここに大きな排水路はなく水戸の城下は度々水害に襲われていました。
一刻も早い解決を水戸藩から依頼された忠次。
工事の進め方について考え抜いていました。
地元の住民たちを駆り出して行われた当時の河川工事。
重い土のうを運んだり杭を打ったりするのは全てが手作業。
しかも夜を徹してちょうちんの明かりを使った測量も行っていました。
昼夜を問わない過酷な作業。
早く進めるためには住民のやる気が鍵でした。
難工事を成功に導くため忠次がとった秘策とは…。
工事にあたり忠次が目をつけたのは水資源に恵まれていなかった千波湖東部の地域。
忠次は千波湖の排水路を最短距離につなげるのではなくわざわざ遠回りをさせました。
そこに新田を開発する事にしたのです。
忠次が出した開発手形です。
そこには「精を入れて新たに開いた農地の年貢は免除。
特に功績のあった者には無租税地を与える」という事がいつも書かれていました。
災害対策を頑張れば米や土地が手に入る。
まさかの大サービスに住民たちは大喜び。
こぞって工事に協力しました。
自分が農業をやっているから村をやった経験があるから…当時千波湖から引かれた水路が水戸市内に残っています。
伊奈備前守忠次の名にちなみ「備前堀」と呼ばれています。
住民たちのやる気を引き出し全長12キロにわたる工事は僅か1年で完成。
今日に至るまで980ヘクタールの広大な田んぼを潤し続けています。
忠次は防災と新田開発を同時にやってのけたのです。
その当時彼がいなかったらこんなに早くまたこれだけの水田が開けたかどうか。
彼の功績はこれからも残るだろうと。
水戸での成功を見届け忠次は61歳でその生涯に幕を閉じました。
忠次の功績をたたえ死から60年余りあとに建てられた碑です。
そこにはこう記されています。
一時は庶民と同じ過酷な暮らしをしながらも家康の側近にまで上り詰めた忠次。
人の上に立っても暮らしの安全を何より大切にし誰にでもできる防災を実践し続けました。
新田開発までしちゃうってのがねこれがすごいですね。
山村さんからも思わず「すごいねこの人」という言葉が。
すごいですね。
忠次の功績によってどれだけの恩恵があったんですか?関東一円に。
最初にですね家康が入った頃は直轄の蔵入地だけでも約100万石と言われてるんですけどねそれが大体その後50年ぐらいで1.8倍の180万石ぐらいになったと言われてるんですよね。
ですから相当やっぱり開発が進んだという事なんでしょうね。
そんだけ広げたって事ですよね。
人工的にね。
そういう事ですね。
へえ〜。
ふだんから防災防災って意識せずにある意味楽しんで備えるという意味では例えば具体例などはあるんですか?これ実はね「互近助カード」ってあるんですよ。
ちょっと字が違いますね。
お互いに近づく助け合う。
この互近助カードは東京都の昭島市の自治会連合会の人たちがやってるんですけどもこのカードを持っていくと商店街で割引がもらえるんです。
え?防災じゃなくて割引?割引がもらえる。
それで災害があった時にはこれ連番ですからどこの誰が避難したかもすぐ分かる。
いつも肌身離さず持ってますから。
割引してもらえるから。
これはとても役に立つ。
いろんな取り組みがね各地であるもんなんですね。
こういった動きが広がっていくとねまたご近所づきあいが仲良くなってそれがだから防災だけじゃなくて防犯にもつながったりとかね。
相乗効果が期待できますよね。
やっぱり無理なく楽しんでやる。
これ大事なんでしょうね。
また防災って言われてもね「いつ何を」っていうね。
ずっと平和でいると何かこうついつい忘れがちじゃないですか。
やっぱこうやってね時々思い出してちゃんとやっぱ常に日頃から準備をするって事がほんとに大事なんだなっていうね。
東日本大震災の時にあの地域にインタビューに行った時にですね防災関係者すらこう言ってたのはね…皆さんね例えば首都直下地震や南海トラフ巨大地震が起こるだろうと何となくは思ってるんだけどまだ今日は起こらないだろうまだ先だろうと思うんですね。
でももしかしたら今日かもしれない。
だから大切なのは命と時間ですよね。
命っていうのは取り返せないですから。
あと今やらなければ。
今やる事は今やっておかなきゃいけないですね。
これ大事だと思いますね。
なるほどね〜。
重みのある言葉ですね。
いやいやいい話聞いちゃった。
伊奈忠次伊奈流の話をちょっとね帰ったらしたいと思いますよ。
そろそろ雨もねやんだのかもしれないですね。
お先に失礼していいですか?どうぞどうぞ。
ちょっと俺今日気分いいからさ飲んで下さいどんどん。
俺につけておいていいから。
えっ?支払いはまた今度来た時俺が全部しますんで。
好きにやっちゃって下さい。
今日ありがとうございました。
外ね水たまりあるから気を付けて下さい。
大丈夫大丈夫です。
もう雨やんでますから。
じゃちょっと失礼します。
どうも!おやすみなさい。
あ〜!あ〜ちょっと!助けにいきますか?言ったそばからこれね。
ちょっと水たまり!冷静にやらなきゃ。
そうですよね。
大丈夫ですか?駄目だよこれ!タオルタオルはいはいはいはい。
あ〜もう!2015/12/01(火) 22:00〜22:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉「家族の命を守れ!〜江戸を救った男 伊奈忠次の防災術」[解][字]

徳川家康もびっくり?江戸時代初め、現代の最新技術と同じ発想の治水で、関東を守った伊奈忠次。その極意「無理せずみんなでできることを」とは?身近で役立つ防災の知恵。

詳細情報
番組内容
ゲリラ豪雨に要注意!東京と関東各地は江戸のころから、大雨ですぐ洪水が発生した水害地帯。そんな場所を、安心して暮らせる地域に整備した伊奈忠次。その手腕は徳川家康や豊臣秀吉を驚かせ、400年も制度が受け継がれたり、現代の最新技術が同じような発想で治水をしたりするほど。自然に逆らわず、私たちにとって無理せず長続きできる防災術とは?伊奈が手がけた関東各地の治水の足跡を追い、現代でも使える防災の知恵を学ぶ。
出演者
【ゲスト】防災アドバイザ−…山村武彦,高崎経済大学名誉教授…和泉清司,東貴博,【司会】近田雄一

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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