いわゆる「イスラム国」がイラクやシリアの古代遺跡や博物館を次々と破壊している。これは理解しがたい蛮行として、世界中の人々にイスラム国の狂信性を強く印象付けている。
しかし、宗教とナショナリズムの関係を巡る社会学的な知見に基づいて分析すると、この蛮行の背後にあるイスラム国の戦略的な意図を見抜くことができる。あれは、単なる狂信的な破壊行為ではない。「イスラム国」という国家を樹立する上で必要な合理的行動なのである。
ナショナリズムとは何か
そのことを明らかにするためには、いささか迂遠ではあるが、まずは「ナショナリズム」とは何かを正確に理解することから始めなければならない。ナショナリズムとは読んで字の如く、「ネイション」に関するイデオロギーである。しかし、「ネイション」とは何かは、それほど自明ではない。
ネイションを人種や民族、言語などの客観的な基準によって定義することは困難である。というのも、人種、民族、言語あるいは宗教が異なる人々であっても、彼らが同じ共同体に帰属しているという意識を共有しているのであれば、彼らは「ネイション」と呼べるからだ。
例えば、スイスやベルギーは複数言語を公用語とし、アメリカ合衆国は多人種・多民族から構成されているが、他方でスイス人、ベルギー人、アメリカ人というアイデンティティも存在するのであり、彼らを「ネイション」と呼んで差し支えない。
むしろ、今日、世界中のほとんどのネイションが、多人種・多民族・多言語・多宗教から構成されているのであり、日本人のように民族的あるいは言語的に同質性が高いネイションの方が珍しい。
したがって、ネイションとナショナリズムを、それぞれ「民族」「民族主義」と訳すのは適切ではない。ネイションには「国民」の訳語を充てるべきであろう。ナショナリズムの訳語もまた「国民主義」であるべきだ。
ネイションとは、心理的な紐帯によって結ばれた人々である。それゆえ、ネイションを特定する上で最終的に問題となるのは、「ネイションとは何か」ではなく、「人々が何をネイションと信じているか」になる。
すなわち、一定の集団の構成員が互いを同じ国民だと思っている限りにおいてのみ、その集団はネイションたり得るのである。逆に、同じ国家に帰属する人民であっても、彼らが互いを同じ国民だと思っていなければ、その国家の人民はネイションとは言えない。
ネイションとは、言わば主観的な存在なのである。とは言うものの、実在のネイションに属する人々は、領土、歴史、文化など、何らかの共通するものをもっている。こうしたことから、アンソニー・スミスは、ネイションを「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通の経済、すべての構成員に対して共通の法的権利義務を共有する特定の人々」と定義している。
ネイションという「想像」
では、この「ネイション」という意識は、どのようにして形成されるのか。これについては研究者の間でも様々な見解が提出されているが、特に有名なのは、アーネスト・ゲルナーとベネディクト・アンダーソンによる解釈である。ゲルナーによれば、ネイションという意識を創造したのは、近代産業社会である。近代産業社会は、前近代社会よりも規模が大きく、変化に富んでいる。近代産業社会の人々は、高い移動性と発達したコミュニケーション能力によって、もはや慣習、地域共同体、伝統的地位といったものに拘束されず、広範囲にわたってお互いに交流するようになっている。
その結果、人々は標準言語と画一的な文化を共有するようになる。近代国家による統一された教育システムもまた、画一的な文化の普及に大きな役割を果たす。この画一的な文化の共有が、人々の間に、階級や民族や宗教の違いを超えて同じネイションに帰属しているという意識をもたらすというわけである。
アンダーソンもまた、資本主義が印刷出版の普及を通じて人々に同じ共同体の構成員であるという意識を芽生えさせるとともに、国家が教育制度や行政規則などを通じて人々にナショナリズムを注入したことで、ネイションという想像が形作られたのだと論じている。ネイションとは「想像の共同体」だというのである。
ゲルナーとアンダーソンは、ネイションの想像を生み出した要因として、近代産業資本主義がもたらす移動性やコミュニケーションの発達を強調したことで知られている。しかし、彼らは同時に、教育制度など、近代国家がネイション形成において果たした役割を重視していることも忘れてはならない。
近代国家とは、明確な境界をもつ領土を基盤とする「領土的国家」である。このため、ネイションの想像が及ぶ範囲は、領土の内部に留まる。アンダーソンが言うように、「ネイションとは、限定されたものとして想像される。何十億という人口を擁するような最大級のネイションすらも、変更し得るとしても有限の境界というものを有するのであり、その境界を越えた向こうに存在するのは他のネイションなのである」。そして、この境界を与えるのが主権国家の「領土」である。したがって、ネイションは、領土をその構成要素の一つとする。
アンダーソンは、ネイションを「想像の共同体」と呼んだが、厳密に言えば、「想像の共同体」はネイションに限られない。比較的大規模な宗教共同体や民族もまた、日々顔を突き合わせることのない人々が同胞意識を共有する集団という意味では、「想像の共同体」の一種ではある。
しかし、宗教や民族といった「想像の共同体」は、国境にとらわれずに存在し得る。これに対して、ネイションという共同体は国家の領土の制約を受ける。この領土性こそが、ネイションを他の「想像の共同体」と分かつ固有の特徴である。スミスによるネイションの定義の中に「歴史的領土」が含まれていたのも、そのためである。
統合の象徴としての古代遺跡
以上のような理解によれば、ネイションとは、基本的には、近代になってから生み出されたものだと言える。にもかかわらず、人々は、自らが属するネイションの歴史は、古く近代以前にさかのぼるものと信じている。このネイションの長い歴史というのも「想像」であり、この「想像」もまた、近代国家が形成したのである。例えばアンダーソンは、東南アジアにおけるネイションの形成において、国家によって整備された博物館が果たした役割に注目している。
東南アジアの旧植民地国家は、独立後、かつての宗主国によって人為的に境界線を引かれた領土の中に様々な民族や宗派を抱えながら、新たにネイションを建設しなければならなかった。
こうした中で、博物館は、民衆の想像を刺激し、民族、言語あるいは宗教の差異を超えて、ネイションという「想像の共同体」を作り出すのに一役買ったというのである。
例えば、インドネシアにおいては、植民地時代に宗主国オランダによってボロブドゥール遺跡が発掘されたが、独立後、ボロブドゥール遺跡の絵図はインドネシア国民史の栄光を視覚的に示すものとして利用され、ナショナル・アイデンティティの象徴となった。同様に、カンボディアにおいても、かつて宗主国フランスによって修復されたアンコールワット遺跡が、独立後にナショナル・シンボルとなった。
中東においても、例えば、かつてイラクのフセイン政権は、古代メソポタミア文明の遺跡の復元事業を熱心に推進した。あるいはシリアのアサド政権は、世界最古のモスクであるウマイヤド・モスクのあるダマスカスを首都としている。フセイン政権もアサド政権も、社会主義を公式のイデオロギーとする世俗的な体制であったが、古代遺跡という過去の栄光の象徴を通じて、人々の想像を刺激し、民族や宗派の相違を超えた共通の歴史を有する一つのネイションへと統合しようとしていたのである。
スミスは、こうしたアンダーソンの洞察を受け入れながらも、さらに踏み込んで、ネイションとは単なる「想像」以上の存在であると主張している。
確かにネイションという共同体は、人々の想像の産物ではある。しかし、それは単なる空想ではなく、社会的な現実である。というのも、ネイションという想像は、人々の集団的意志や集団的感情をも引き起こし、人々を共通の目的を達成するための集団行動へと動員し、現実の社会を動かす。それどころか、人々は、ナショナリズムによって、自らの生命を犠牲にすることすらある。そう考えると、ネイションを単なる「想像」に過ぎないと片づけることはできない。 そこでスミスは、ネイションという共同体が意志や感情をも強く動かすのは、その基礎に宗教的あるいは聖的なものがあるからだという説を提起している。このスミスの理論は、エミール・デュルケイムの宗教社会学の影響を受けている。
FOLLOW US