人生の最期に聴きたい曲ってなんだろう?

死に直面している人って、自分がどういう人生を生きてきたか隠せないんです――アメリカで認定音楽療法士としてホスピスで活動し、昨年『ラストソング――人生の最期に聴く音楽』(ポプラ社)を上梓した佐藤由美子さんはそう言います。知っているようでぜんぜん知らない音楽療法。 演奏技術はどれだけ必要?  自分のために演奏することもあるの? そして、「佐藤由美子にしか弾けない音楽」ってなんですか?  荒井裕樹さん(障害者文化論)と語り合います。(構成/山本菜々子)

 

 

音楽の根っこ

 

荒井 『ラストソング――人生の最期に聴く音楽』(ポプラ社)の刊行から1年たちますけど、ご好評ですね。実はゲラの段階で読ませてもらっていたので、関係者以外ではぼくが最初の読者なんです(笑)。

 

ずっと佐藤さんとお話ししたいとおもっていて、でも、冷静にお話しするために少し時間が必要でした。ようやくお話できるかな……という気持ちになりました。それくらい力のある本です。

 

佐藤さんは、ずっとアメリカのホスピスで音楽療法士をされていて、今は日本で活動されていらっしゃるようですね。

 

佐藤 そうです。アメリカでは10年仕事をしていて、2013年に日本に帰ってきました。いまは、青森慈恵会病院の緩和ケア病棟で働いています。

 

荒井 この本を読んで面白いとおもったのは、音楽が人の記憶に寄り添っていくところです。死を前にした人たちが、音楽を聴いて人生を振り返りますよね。どんな人だって、自分の人生を振り返るのは大変なエネルギーが必要だとおもいます。その大変な作業を音楽が支えている。

 

やっぱりアメリカでは、信仰や文化に根をはる音楽がありますね。賛美歌だったり、移民の人がそれぞれの家族の中で伝えてきた祖国の民謡だったり。音楽が脈々と受け継がれている様子が本からもうかがえて、興味深かったです。

 

日本だと、そういった音楽って何でしょうね?

 

佐藤 日本でも、戦時中や戦後まもなくは音楽が娯楽として大きなウエイトをしめていて、ラジオから流れてきた音楽を家族みんなで歌ったり、そんな経験があったはずです。

 

荒井 ああ、美空ひばりとか?

 

佐藤 そうそう。みんなで歌って苦しい時代を乗り越えたように、音楽が重要な役割を果たした時代が日本にもあったんですよね。アメリカの場合はビッグバンドの曲を聴きながらみんなでダンスをして、そこで今の旦那さんや奥さんに出会った、ってことが昔は多かったんです。音楽にまつわる思い出もたくさんあったようです。

 

昨日も、藤山一郎の「長崎の鐘」(作詞・サトウハチロー 作曲・古関裕而 1949年)という曲を聴きたいという方がいらっしゃいました。なぜですか?と聞くと、「原爆の歌だから」っておっしゃって、やはりその年代の方にとっては意味深い歌だったりするんですね。

 

ですから、国の違いよりも、もしかしたら年代的なものなのかもしれません。アメリカでも感じていたんですが、私たちの年代が70歳、80歳になったとき、そういう音楽ってまだあるのかなっておもいます。いま流行って聴いていても1年後には誰も聴かない曲ばかりです。

 

荒井 音楽療法というと「音楽を聴いて気持ちよくなること」とおもわれがちですけど、そう単純な話ではないですね。音楽って文化や歴史に深く根を張っていて、それを生活の一部として生きてきた人がいる。

 

佐藤 そうですね。地域性もあります。青森あたりだと「津軽海峡・冬景色」(作詞・阿久悠 作曲・三木たかし 1977年)とか「北国の春」(作詞・いではく 作曲・遠藤実 1977年)とか。そういう歌に響くものがあるようです。

 

荒井 全然知らない曲をリクエストされることもあるわけですよね?

 

佐藤 はい。さっき言った「長崎の鐘」も知りませんでした。でも、知らない曲でも、その人を探るきっかけになるんですよね。なんでこの歌が聴きたいのか。

 

荒井 音楽療法士も人間ですから、得意・不得意とか、好き・嫌いはありますよね?

 

佐藤 そうですね。アメリカで活動していたときは、カントリーのリクエストも多かったんですけど、わたしはちょっと苦手で(笑)。カントリーって演歌と似てるんですよ。ストーリーなんですよね。失恋したり、悲しいことがあったり。歌詞に共感するところがあると、セラピーとしてはいいこともあるんですが。

 

荒井 アメリカだと、ロックン・ロールをリクエストされたりは?

 

佐藤 ありますよ(笑)。ジミ・ヘンドリックが大好きな患者さんがいたんです。その方はALSで、全く動くことができず、話もできなかったのですが、ジミ・ヘンドリックをずっと一日中聴いていて、できることがそれだけだったんです。

 

わたしははじめ、ハープを弾いたんですが、何を弾いても泣くんです。すごく辛かったんでしょうね。ジミ・ヘンドリックが好きだから、わたしも一曲くらいとおもってギターの伴奏で歌いました。わたしがやっても、もちろんジミ・ヘンドリックにはならないですが、彼は笑顔を見せてくれました。

 

音楽療法では必ずしも自分が演奏できないものもあり、その場合は録音したものを一緒に聞いたりしても良いわけです。彼は昔ロックバンドでドラムを弾いていた人だったので、彼の録音したCDを一緒に聴いたこともあります。それだけでも、彼のことを知ることができたし、貴重な経験でした。

 

 

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佐藤由美子さん

 

 

セラピーってなに?

 

荒井 日本では「セラピー」という言葉が少し偏ったイメージをもっていますね。

 

佐藤 どういうイメージなんですか?

 

荒井 「受け身」で考えられているように思います。なにか気持ちの良いことを「してもらえる」「与えてもらえる」というイメージです。

 

ぼくは都内の精神科病院のアトリエをずっと応援していて、そのアトリエが毎年「“癒し”としての自己表現展」というアート展をやっているのですが、以前、来場者から「癒しと聞いて来てみたけど、観てもぜんぜん癒されませんでした」と言う感想が寄せられたそうです。

 

佐藤 ははは(笑)。確かにそういうイメージがあるのかもしれません。

 

でも、本当に苦しい過去があったり、病気があると、本来の意味で回復したり成長したりするためには、ものすごくエネルギーも時間もかかります。よく「音楽療法CD」などを見かけますが、聞くだけで「うつ病が治った」なんてことにはなりません。

 

結局は、本人が「良くなろう」という気持ちを持って、勇気を出して何かをやろうとする必要があります。私たちの仕事はあくまでもその環境をつくることだとおもうんですね。

 

荒井 「セラピー」とか「癒し」って、すごく能動的というか、困難を伴う主体的な行い……ちょっと言い方が固すぎるな。つまり「その人自身がやる」ことの比重が大きいんでしょうね。

 

佐藤 現代社会って、なんでも簡単に治そうとするじゃないですか。薬飲んで終わりとか、これを読めば結婚できるとか、これをやれば解決!みたいな。そういうことに飛びつきますよね。でもそんな簡単な話はないわけですよ。

 

もちろん簡単に治るにこしたことはない。でも、時間も努力も必要っていうのが本当なんです。でも、本当のことは人気がない。みんなお手軽な方にいってしまうんですね。

 

荒井 ちなみに、佐藤さんは現場に勤め始めてからどれくらいで「セラピストとしてやっていける!」って感じましたか?

 

佐藤 まだまだです(笑)。最初のインターンシップのときは、本当に頭がおかしくなっちゃったとおもいました。人が目の前で亡くなったり、今までそんな光景をみたことなかったので、音楽療法以前の問題でしたね。

 

でも、それをグリーフカウンセラーの人にいうと、「大丈夫、ぼくたちもクレイジーだよ」って言われて。それが普通だったんですね。でもすごく衝撃的なことでした。25歳で、そういうところに踏み込んでいくこと自体がすごくショックだったんです。

 

荒井 人が死ぬときって、静かにロウソクが消えるような感じではなくて、その周りでいろんなドラマが起こるじゃないですか。

 

佐藤 死に直面している人って、自分がどういう人生を生きてきたか隠せないんです。本の中では「死は人生を映し出す鏡だ」という言葉を引用しましたが、お金持ちであろうとなかろうと、学歴があろうとなかろうと、みんな同じような状態で死に直面している。もう何もつくろえないんですね。

 

今までどんな人生を歩んだのか、どんな風に愛されて、どんな風に嫌われてきたのか、その人の全てを見てしまうことになります。その場にウェルカムで迎えてもらえたときは、家族の一員としてものすごく貴重な時間を過ごすことになります。責任も感じます。

 

 

JohnB (facebookcover)

ホスピスでの音楽療法の様子

 

 

荒井 それを職業として続けるのは大変ですよね。途中でやめてしまう人もいるでしょう。

 

佐藤 「だいたい3年が平均だね」って教官に言われました。長く続けるのは難しい。今でも、たまに思うんですよね、これって一生できる仕事ではないのかなって。いまは、週に1回ほどしかやっていないんですが、それでもすごく疲れます。

 

荒井 人間関係って「物理的な近さ」とか「会っている回数」とか「血縁関係」とかを越えちゃう部分があるんですよね。

 

佐藤 ええ、そうなんです。不思議ですよね。もちろん長くかかわった人の方が、亡くなった時のグリーフ(悲しみ)は大きいとおもいますが、一回だけでもすごくインパクトがあったりする。

 

つい最近、夫とこんな話をしました。知り合いが自殺したのですが、夫は一回しか会ったことないらしいんですね。でも、「なんでこんなに気になるんだろう」って本人は不思議に思っていて。

 

でもそういうことじゃないんですよね。回数とか、自殺とか自然死のような死に方でもなく、死自体が人に与えるインパクトって大きいんです。

 

荒井 「近しい人の方がより悲しいだろう」とか、「一回しか会ってない人なんだから、亡くなってもそんなに辛くないでしょ」っておもわれがちですよね。

 

佐藤 こういう仕事をしている人は自分で言い聞かせている部分はありますよね。でも、それが積もり積もって疲れちゃって、辞めちゃったりとか、患者さんと距離を置くようになっちゃったりとか。

 

そういう意味では10年間フルタイムでやってきたから、この本を書いている時は休む時期だったのかなっておもいました。【次ページにつづく】

 

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vol.184 特集:ヘイトスピーチ

・吉田悠子「『シリア難民中傷イラスト事件』のあらましと背景」

・松波めぐみ「障害者差別解消法とヘイトスピーチ」

・高史明氏インタビュー「古くて新しい、在日コリアンへのレイシズム」

・明戸隆浩「ヘイトスピーチ法制を考える上での『比較』の意義――10年後のための『イマココ』」