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【芸能・社会】

水木しげるさん死去 93歳 愛されたゲゲゲの鬼太郎

2015年12月1日 紙面から

水木しげるさん(左)と妻の武良布枝さん=2010年5月24日、東京都調布市の水木プロダクションで(高嶋ちぐさ撮影)

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 「ゲゲゲの鬼太郎」など独自の妖怪作品などで知られる漫画家の水木しげる(みずき・しげる、本名=むら・しげる)さんが30日午前7時18分、多臓器不全のため東京都三鷹市の杏林大病院でなくなった。93歳だった。鳥取県出身。第2次世界大戦で戦地に赴き、片腕を失うなど過酷な環境から奇跡的に生還。幼少期の体験も生かした数多くの作品で人々を楽しませると同時に人生観、死生観をにじませた内容は、現代人にとって多くの示唆に富んでいた。葬儀は近親者だけで行う予定で、後日お別れ会を開く。喪主は妻の武良布枝(むら・ぬのえ)さん。

 水木さんは11月11日朝、東京都調布市の自宅で起床した際、ベッドから降りる時に転倒。頭を強打して病院に搬送され、硬膜下血腫の緊急手術を受けた。手術は成功して一時回復したが、30日未明に容体が急変、入院先の病院で亡くなった。

 水木さんは昨年12月にも心筋梗塞を発症。入院して手術を受け、その後回復していた。水木さんの長女が代表を務める水木プロダクションによると、「転倒する直前の10日まで事務所にも来ていて元気だった。今回も家族から『快方に向かっている』と聞いていたのですが、なにぶん高齢だったので…」と、突然の訃報に声を落とした。

 10月12日に、アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌を歌っていた俳優の熊倉一雄さんが88歳で亡くなったばかりだった。

 幼いころから絵を描くのが得意だった水木さん。高等小学校時代に先生に勧められ、公民館で個展を開催。夜間中学で学びながら美術教室に通った。

 しかし、太平洋戦争中の1943年に召集されてラバウル(現パプアニューギニア)へ。空爆で左腕を失い、終戦後の46年に復員した。

 その後は紙芝居作家などを経て、58年に貸本漫画家としてデビュー。貸本が下火になると「月刊漫画ガロ」などの漫画雑誌に活躍の舞台を移した。65年に「テレビくん」が講談社児童まんが賞を受賞。貸本時代に描いた「悪魔くん」「ゲゲゲの鬼太郎」「河童の三平」などが週刊少年漫画雑誌に連載されたりテレビアニメ化され、人気に火が付いた。

 特に奇っ怪な妖怪たちが多数登場する代表作「ゲゲゲの鬼太郎」は、繰り返しテレビで放送されて妖怪ブームを巻き起こし、07、08年には実写映画化されるなど世代を超えた人気を誇った。幼少時に妖怪の話を教えてくれた老婦人との交流を描いたエッセー「のんのんばあとオレ」や「水木しげる 妖怪大画報」など、妖怪関連の著作も多い。

 一方で、「総員玉砕せよ!」や「娘に語るお父さんの戦記」など、自らの戦場体験に根差した作品も数多く発表した。

 03年には出身地の鳥取県境港市に「水木しげる記念館」がオープン。作品キャラクター100体以上のブロンズ像を配置した「水木しげるロード」も整備された。10年には同市にある米子空港の愛称が「米子鬼太郎空港」と命名された。

 私生活では妻の布枝さんと61年に結婚。10年には布枝さんが水木さんとの半生をつづったエッセー「ゲゲゲの女房」がNHK朝の連続テレビ小説でドラマ化され、人気を集めた。

 91年には紫綬褒章、96年に日本漫画家協会賞文部大臣賞、03年に旭日小綬章。07年には「のんのんばあ−」が仏漫画の祭典「アングレーム国際漫画祭」で最優秀コミック賞を受賞。10年には文化功労者に選ばれた。

◆鳥取「元気そうだったのに」

 人気漫画家の水木しげるさんの突然の訃報に、「水木しげるロード」などの観光地として知られる出身地の鳥取県境港市でも30日、驚きと、故人を惜しむ声が上がった。

 市内には妖怪像が並ぶ観光名所「水木しげるロード」などがあり、市観光協会の枡田知身会長(74)は「急な訃報に驚いている。100歳まで生きられると思っていた」と落胆した様子。「ロードのリニューアル企画が進んでいた時で、本当に残念。無尽蔵に企画が出せるような、特別な世界観をお持ちの方だった」と惜しんだ。

 境港市で「ゲゲゲの鬼太郎」に関係するお土産の製造販売会社に勤める深沢忠志さん(41)は「ニュースで聞いて、本当にびっくりした。1年ほど前に、市内を歩いている姿を見たときは、まだ元気そうだったのに」と驚いた様子。「境港といえば海産物と妖怪が2本柱。この1本が水木先生の力だった」と市への貢献をたたえた。

◆東京「純粋で素朴な人」

 水木しげるさんの代表作「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪キャラクターのモニュメントも多く並んでいる東京都調布市の関係者らからは「純粋で素朴な人だった」と悼む声が聞かれた。

 この夏、「水木しげるの戦争と新聞報道展」が開催された「調布市文化会館たづくり」。水木さんの死が伝えられた30日午後、報道陣からの問い合わせが相次いだ。担当者の女性は「夏の展示会で会った時は元気が良く見えた。まだ気持ちの整理ができていないが、とてもショックです」と声を落とした。

 水木さんと30年来の交友があった「布多天神社」宮司野沢康次郎さん(58)は「純粋で、ぼくとつとした人。『この神社の境内にも妖怪がいるんだよ』と話してくれたことがあった。本人も気付いたら目の前に立っているような神出鬼没なところがあった。いつまでも調布にまつわる作品を書いてほしかった」。

◆佐野史郎 ツイッターで追悼

 妖怪好きで知られ、映画「妖怪大戦争」(05年公開)で水木しげるさんと共演した俳優の佐野史郎(60)は30日、ツイッターで「水木しげる御大、ご逝去とのこと。合掌。」と追悼した。

 鳥取県出身の水木さんと、島根県出身の佐野は、出身地が近いこともあってプライベートでも親交があったという。

 佐野は、この日東京都内でロケの合間にツイッターを次々更新。「撮影中に届いた水木しげるさんの訃報。なんか、ぽっかり心に穴があいたよう」とショックを受けた様子。「小学生のころから今まで、くよくよした時には必ず救ってくれた水木サンの漫画。鬼太郎はもちろん好きだけど、『河童の三平』や『悪魔くん』に夢中でした」としのんだ。

 さらに「戦争体験も含め、まさに、生きながらあの世とこの世を自由に行き来していた水木しげるさんだもの、これからも行ったり来たりしてくださるだろうし、まだまだいろいろと教えてください!!」と呼び掛け、「今の日本に必要なのは、水木しげるさんの世界から学ぶことだ!! と、感謝をこめて」と記した。

 水木さんの仕事場も訪れたことがある佐野。「机の上に手塚治虫の漫画が読みかけで開いてあったことも忘れられない」とも。ホラー小説で知られる作家の名を挙げ「水木サンの本棚にはラヴクラフトなど僕の好きな幻想怪奇文学がズラリと並び、じっと見ていたら『あんまりああいうものをやると出版社が良く言わんでね…』とも」などと、生前の水木さんとの交流を明かした。

 

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