「日経・FTグループ」という世界最大級の経済メディアはどのようにして生まれたのか。メディア産業史に残る買収劇は3年前、一通の手紙から始まった。
差出人は日経社長(当時、現会長)の喜多恒雄。FTの親会社、ピアソンの首脳に宛てた親書だった。「直ちに(FTを)売却する意図がないと承知していますが、何らかの変化がある場合、広範な協力の可能性についてお話しできます」
日付は2012年12月3日。日経がFT買収の意欲を伝えたのは初めてだったが、意思表示のタイミングはこのときをおいて他になかった。この年の秋、FT売却の観測が広まっていたからだ。
当時のピアソン最高経営責任者(CEO)、マージョリー・スカルディーノはジャーナリスト出身で「私の目の黒いうちはFTを売らない」と公言していた。彼女の退任が決まり、欧米メディアは「ピアソンの主力はあくまで教育サービス。FTの売却は近いのではないか」と色めき立った。
ところが、ピアソンは売却に動かない。スカルディーノの後を継いだCEOのジョン・ファロンは「あらぬ臆測が広がる」と心配してか、喜多との面会をためらった。
日経がFTに接近を図ったのは決して思いつきではない。08年春に社長に就任した喜多は半年後にリーマン・ショックに見舞われたが、最大の心配事は別にあった。
「日本にとどまっていて成長できるのか」。漫然としていれば、少子高齢化の波にのみ込まれる。専務の岡田直敏(当時、現社長)をはじめとする一部の経営陣には「世界に打って出るなら、パートナーが必要だ」と打ち明けていた。
意中の相手がFT。M&A(合併・買収)資金の調達を念頭に、旧知のメガバンク首脳に「いざというときはお願いします」とも声をかけていた。
ピアソンへの親書から3カ月後の13年3月にFTのCEO、ジョン・リディングが来日、日経は編集や英語教育などで包括提携した。「まずピアソンやFTとのパイプを太く育てよう」。狙いはそこにあった。
日経とFTは1世紀を超す経済ジャーナリズムの歴史を持つ。その中を歩んできたトップの2人は、初対面でも打ち解けるのに時間はかからなかった。「私たちは記者出身。経営より記者の仕事の方がいいでしょう」。そんなリディングの言葉に素直に共感できた。
事業面の連携が深まるにつれてFT経営陣は、喜多や岡田に「戦略的パートナーシップの基礎は個人的な信頼関係だ」と漏らすまでになった。
ピアソンがFTの完全売却の方針を固めたのは今年6月。日経はすぐさま買収の意思を示したが、投資銀行の情報では、ピアソンが求める売却額は10億ポンド(約1900億円)とも言われていた。
買い手候補とされていたのはトムソン・ロイターやブルームバーグ、アクセル・シュプリンガーという名だたる米欧メディア。だが、ある日経幹部は手応えを感じていた。7月上旬、FT側との関係者会議で、FTの有力幹部が同僚と「協力関係がある日経がいい」と話していたからだ。
それから約2週間後、トップ会談を避けてきたファロンから連絡が入る。「電話で話す時間をいただけませんか」
電話では相手の本音を探れないし、こちらの真意も伝わらない。喜多はロンドンに飛んだ。
7月20日。駆けつけたロンドンでファロンはストレートな質問を浴びせかけた。「買収後のFTをどう運営するつもりか」。間髪を入れずこう答えた。「当然、編集権の独立は担保する」
1泊3日の駆け足出張から帰って2日後の23日、すべてを決める国際電話会議が始まった。「日経に決めようと思う」と持ちかけるファロン。金額は8億4400万ポンドと当初想定の10億ポンドは下回っているが、巨額投資に変わりはない。
喜多と岡田は電話会議システムを前に、長い時間をかけた議論を反すうしていた。
「二度と売りに出ないかもしれない」「買わないリスクも大きい」「今がラストチャンスだ」
代表権を持つ2人は、7月14日の取締役会で交渉を進めることについて事前了承を得ていた。「やろう」「やりましょう」。答えは一つだった。
買収発表後、日経社内では「公用語が英語になるのかも」といった声も聞かれた。喜多は「互いに心配なことはある。それより、我々以上のアイデアを次の世代の人たちにつくり出してほしい」と語る。
11月30日、テムズ川に臨むFT本社。買収手続きを終えた喜多はリディングと固い握手を交わした。英国に親書を送ってから1000日あまりがたっていた。=敬称略
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